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猫の詩 バガヴァッド・ナーター

午後一時。

午前中に買い物を済ませて、夕食の準備までして、風呂掃除も終えて、ひと段落ついた母は、コタツに潜って、うつ伏せでiPadを触っている。最近はiPadでLINE漫画を読むのにハマっているらしい。我が母ながら、62歳にしてはなかなか近代的な過ごし方である。母は昔は三島由紀夫なんかをよく読んでいたけど、今では本を読む影もなし。マッサージ先の80代のおばあちゃん達も同様で、昔は読書や編み物をして過ごしたというが、今じゃIPhone片手に韓国ドラマを見ている(←本当だよ)

こうして文明は、若者だけでなく、60代も年寄りもダメにしていっている。もうこの世は当分は安泰ではないと思った。

コタツの隣にソファーがある。10万円ぐらいした三人がけ用のソファーなのだが、レオンヌが体を大きく伸ばしてすやすやと寝ている。このように、いつもレオンヌの特等席になっているため、人間はめったに座れない。

母はコタツでうつ伏せになってLINE漫画を読みながら、テレビでYouTubeを流していた。55インチの大型テレビにYOASOBIのライブ映像が繰り返し流れていた。

「YOASOBI好きなの?」

「だって、いいじゃない、この子達」

「あの紅白はすごかったね」

去年の紅白はYOASOBIのものだった。というより去年はYOASOBIのものだった。特に紅白は神がかっていた。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm43244792

この4:08からの顔。霊威が宿っている。女帝のオーラだ。この子がいるなら、J-POPは当分は安泰だろうと思った。

親子で感性が似るんだなと思った(LINE漫画は読まないがね)。しかし、60代でもYOASOBIが好きなのか。これが世の60代に普通に起こっている現象なら、60代も当分は安泰だろうと思った。おばあちゃん達も紅白でYOASOBIを見ているかもしれないから、この世は当分は安泰だろうと思った。

「あ、そうだ」と言って、母はコタツから身を起こし、座り直して、テレビに映っている動画を変え出した。

「レオンちゃんがね、アヒルが好きなのよ。猫ってアヒルが好きなのかしらね?」

「さぁ」

「ほら、レオンちゃん」

ソファで大の字に寝ていたレオンヌが、呼びかけに目を覚まし、テレビ画面に反応した。

レオンヌは確かにテレビに映ったアヒルに目を奪われていた。アヒルがプリケツを動かすたび、レオンヌの顔が連動して動いていた。

「今日はやらないけど、テレビの真下まで行って、アヒルをずっと見ていることがあるのよ」

「へえ(ケツを見てんのか? なんなんだ?)」

「この前なんて、30分ずっと見てたんだから!」

「さ、30分!?」と言って俺は笑った。

「でさ、ちょっとこれも見てよ!」

そういって母は、また別のYouTube映像を流した(どんだけYouTube使いこなしてんだよ……)

「ねぇ、この猫、レオンちゃんに似てると思わない?」

今度は猫のチャンネルだった。外国人YouTuberが、飼い猫の日常動画を投稿しているチャンネルらしい。

「すごいね、めっちゃ似てるじゃん」

本当によく似ていた。

「このチャンネルがあれば、レオンちゃんの動画を撮っておかないでいいねって、お姉ちゃんと話してるの。撮っておいても見ないからねぇ」

「ちょっと、見れないね」と俺は言った。

「ランちゃんとルーちゃんが生きてた頃は、もっと撮っといた方がいいかもって思ったけど、撮らなくて正解だったね。見返さないもん」

「見返さないけど、たまに思い出すよ」と俺は言った。

「私なんてしょっちゅう思い出してるよ」

母は続けて言った。

「写真を見てると悲しくなってくるんだけど、頭の中で思い返している時って、そこまで悲しくならないのよね」

「人間も同じかもね」と俺が言うと、母はフッと小さく笑った。誰を指しているのか、俺と母の間ではすぐにわかることだった。

人間が本当に生きていると言える時間があるとしたら、それは誰かに自分のことを考えてもらっているときじゃないだろうか? 俺たちが考えているとき、ラン吉も、ルルも、生きているような気がするのだ。写真だとやっぱり死んだような気がしてしまう。

「こいつねぇ、本当に食いしん坊で、台所の棚を開くたびに、チュールくれると思って飛んでくるのよ! 本当に、2階から飛んでくるんだから! 気づかれないようそっと開けてるのに、なんでわかるのかしらねぇ?」

「そうなんだ」

「それでね! 聞いてよ! ランちゃんが6kgでルーちゃんが4kgだったでしょ? この子今何キロだと思う?」

「んー? 8kgくらい?」

「11kgあるのよ! この子、ランちゃんとルーちゃんを合わせた分より重いのよ!」

「そう」と言って俺は苦笑した。

「まったくデブちゃんなんだから!」母はソファからレオンヌを抱き上げると「ねー、デブちゃん♪」と言った。

「なー」

「だってデブちゃんじゃーん♪」

「なおおおおお」

「なーなのー」

「なー」

「あー重い! あたたた! 本当に肩外れちゃう!」

母は殊の外嬉しそうに語った。これだけデブなら当分は安泰だろうと、自分と俺たちに信じ込ませるためだ。

「チュールねぇ。キャットフードに比べたらおいしいのかね?」と俺は言った。

俺はリビングに誰もいないとき、キャットフードをポツポツ食べてみたことがあるが、まずいともうまいとも思わなかった。が、こんなものしか食べられない人生なんて酷いもんだなと思った。レオンヌも同じ感想のようで、キャットフードを食べるときは仕方なさそうに食べるが、猫チュールとなると2階から飛んでくるのだ。

何が違うんだろう? 猫チュールには少しは味がついているのか? しかし塩分は限りないほどカットされているはずだ。それでもこれだけ猫を夢中にさせる味とは、いったいどんな味だろう? 健康的かつ美味しいなら申し分ないが。俺は猫チュールが猫の身体にどれくらい適しているのか調べるために食べてみようと思ったが、猫じゃない俺が食べても分かりそうにないからやめた。しかし、猫だって、人間と同じで、できるだけ自然なものを自然な状態で食べる方が身体にいいはずだ。

「やっぱり肉食動物だから、生肉を食べさせるのがいちばんいいのかな? その方が長生きするかな?」と母に言ってみた。母は、一瞬、深く考えた顔をして、「めんどくせ」と言った。

まぁ、今更か。これまで生肉なんて一口もしてこなった生き物が、たとえそれが適正食だったとしても、内臓に負担を強いるだけか。初めから生肉を食べていれば、あるいは。しかし、クマなどをペットにしている家庭は、決して肉を食べさせないらしい。肉を食わせると性格が獰猛になるからだ。

「あんた悪いけど、午後に出かける予定ある? なかったら家にいてくれない? 私これから杉山さんのところに行かなきゃいけないのよ」

「お姉ちゃんがいるじゃん」

夜勤明けで帰ってきた姉が、2階の自室で寝ていた。

「それが問題なんじゃない! レオンちゃん、イビキうるさいでしょ? そのせいでお姉ちゃんが寝れないのよ! この子寂しがり屋だから一人で寝れないでしょ? だからお姉ちゃんの部屋に入っていっちゃうのよ!」

「ドア閉めときゃいいじゃん」

「『開けてくれー!開けてくれー!』って鳴くのよ! ドアもガジガジするし!」

俺は、呑気にソファで寝ているレオンヌの方を見た。誰もいなくなったリビングでも、こうしていつまでも寝ていそうに見えるが。

「だからあんた、ちょっとレオンちゃんがお姉ちゃんの部屋に入らないように見張っててくれる?」

「わかった」

レオンヌは鼻の穴がとても小さいためか、すごい音のイビキをかく。猫とは思えない、人間以上のイビキだ。しかし、人間と違ってイライラさせないからずるいものだ。俺はイビキをかく猫なんて初めて見たからびっくりした。

「この前、15歳になったんだもんね」

「なー」

「なーなのー。この子、えらいよね、本当に何でも返事するんだから」

さっきから、ふざけて「なあああ」と書いているが、この猫のいちばん特殊な部分はここである。「おい」と言って声をかけると「なあ」と鳴く。もう一度、「おい」と言うと、また「なあ」と鳴く。三回目となると、もう言ってくれなくなる。

これは何なんだろうといつも思う。他の二匹の猫にはこんなことはなかった。彼流の挨拶なのか? 別に声をかけなくても、近づいていって、目線を合わせていくと、「なあ」と鳴く。「おはよう」と言っているのか、「おはよう」や「こんにちは」といった、挨拶になる前のものを指しているような気がするが。朝がいちばん大きい声でやってくれる。夜になるにつれてだんだんとやってくれなくなる。存在と存在を確認し合う時間のような、ちょっと人間同士の挨拶とはまた違うんだな。

「たぶん人間の話す言葉もわかってるのよ」

母は本当にレオンヌが人間の言葉をわかっていると信じている。しかし一方では、猫って視界がモノクロに見えてるんでしょ? とか言うから、どこまで差別をして差別をしていないのかわからない。

「ランちゃんは13歳と4ヶ月で死んで、ルーちゃんは15歳と2ヶ月だったでしょ? もうルーちゃんが死んだ年になっちゃったね」

本当に女というのは、こういった数字をちゃんと覚えてる。結婚記念日とか、親父とのアレはいつだったとか、俺が何年の何月に麻疹にかかったとか、初めておたふくになったのはとか、ぜんぶ記憶している。親父は一つも覚えちゃいなかった。脳の問題? 気持ちの問題? それは得意だから? 関心があるから? 俺もランとルーを愛していたと思うが、親父と一緒で記憶が曖昧だ。でも姉ちゃんも何も覚えてないから、ここに性差はないかもしれない。

「もうあと、1、2年かもしれないから、覚悟を決めておかないとねって、お姉ちゃんと話してるの」

「うん」

母も大概だが、姉も大概だ。姉は昔、大学時代、ラン吉(さっきからランちゃんと言われている猫、チンチラシルバー、オス)と別れるのが辛いと言って、一人暮らしをやめてしまったほどだ。俺も、上京する時にそれがいちばん辛かったから、気持ちはよくわかった。

ラン吉が死んだ時、恐ろしいほど家の中が暗い空気で蔓延していたらしい。らしいというのは、その時は俺は埼玉の大学で一人暮らししていたから知らなかった。その時、ルル(チンチラシルバー、メス)は生きてたんだけど、ちょっと役不足だった。メスっていうのがちょっとね。女中心の家庭は、メス猫じゃどうしても力及ばないところがある。でも、やっぱり、もう一度飼った猫はチンチラだった。

今度はチンチラゴールデンだったが、レオンヌがやってきたことで、我が家は明るい光を取り戻した。親父もよく、レオが来てくれたおかげで家の中が明るくなってよかったと言っていた。ルルでも及ばず、一家の大黒柱でも力及ばず、俺が帰ったところでも同じだったろう。その光は今も続いていて、最近は、実家に帰ると、家の中のどこを歩いても、(あと、レオンちゃんとどれくらい一緒にいられるだろう)という空気にあふれている。本当は、この問題を、もっと深刻に受け止めるならば、ずっとレオンヌを抱っこして、ずっと顔を見合わせて、「なああ」と言って、「なーなのー」ってやっていればいい。でも、それができないことが重しをかけている。物質界の”グナ”の習性にしたがって、我々は、 プラーラブタカルマによって定められた肉体が通り抜ける間隔によって、する行為を決められていて、行為をしないということができないのだ!

俺自身は身土不二というか、日本はもう一度鎖国するべきだと思っていて、まぁ、鎖国主義者ではあるのだけど、正直、日本の猫はそれほど可愛いとは思わない。いや可愛いのだけど、血統書付きの、西洋の猫の方が可愛いと思ってしまう。そこらの野良猫を見ても、運がなさそうな顔してるなぁと思ってしまったり。みんなが、もちまる、もちまる、と言って、もちまるをもてはやすのも、そんなところだろう。野良猫ともちまるでは、顔に表れている運がまるで違う。

でも、日本はやっぱり暑いかね。おまけに静岡といったら、ねぇ? みかんを食べるわけでも、お茶を飲むわけでもないし。年々暑くなる夏は、お前の長すぎる毛並みにとっては地獄だろう。夏は、玄関のタイルがいちばん冷たいからか、いつもそこで寝てるしなぁ。そこはいつも申し訳なかったと思うけど、優しいね、お前は、一つも文句言わないんだから。

「地震の時とかに、ペットを置いて行けないって、そこから逃げない人がいるっていうけど、その気持ちもわかるよね。悪いけど、私もこの子と死のうと思う」

「うん」

俺はろくに想像もせずに返事をした。

そうかい、俺と姉ちゃんより大事かい。 まぁそれはいいんだけどさ。ただ凄いと思うのが、国も、性別も、生物も、ぜんぶ違うのに、そして、あと1、2年で死んじゃうってわかってるのに。

すげぇなぁ。こんなに愛されて。なーんにもしてないのに、なんにもしてないからか? 人間よりよっぽど愛されてる。人間よりよっぽど愛してないのに。

ひとつの美徳がある。私が非常に愛している唯一の美徳である。その名を「わがまま」という。私たちが書物で読んだり、先生のお説教のなかで聞かされたりするあの非常にたくさんの美徳の中で、わがままほど私が高く評価できるものはほかにない。けれどそれでも人類が考え出した数多くの美徳のすべてを、ただひとつの名前で総括することができよう。すなわち「服従」である。

問題はただ、誰に服従するかにある。つまり「わがまま」も服従である。けれどもわがまま以外のすべての、非常に愛され、賞賛されている美徳は、人間によってつくられた法律への服従である。唯一わがままだけが、これら人間のつくった法律を無視するのである。

わがままな者は、人間のつくったものではない法律に、唯一の、無条件に神聖な法律に、自分自身の中にある法律に、「我」の「心」のままに従うのである。わがままが、さほど愛されていないのは残念なことである!――ヘルマン・ヘッセ『わがままこそ最高の美徳』より

この主題、すなわち自己信頼に関していえば、自然は子供や赤ん坊、ときには獣の顔や態度を通じて、なんと素晴らしい神託を与えてくれていることだろう! 幼な子や動物には、あの分裂した反逆精神は見られない。自分の感情を疑い、損得だけを考えて、目的とかけはなれた力や手段を選ぶこともない。彼らには完全な精神と、まだ何者にもとらわれていない目が備わっている。その顔をのぞき込めば、思わずこちらが狼狽してしまうほどだ。幼児は誰にも従わない。世界が幼児に従うのだ。それが証拠に、赤ん坊がひとりいれば、その周囲では四、五人の大人たちが片言でその子に語りかけ、あやそうとしている。――エマソン『自己信頼』より

わがままだけが好かれるんだ。家も仕事も恋愛も、わがまま者に服従される。わがままってのは我がまま、自分のままってことだ。この何者かに変えようとしてくる社会で、ただ自分であり続けること、それだけが我々の成すべき偉業で、そのことを、この体重11kgの物体が教えてくれている。レオンヌはたった一度も何者かに変えられた事はなかった。猫なら誰でもできるってわけじゃない。猫でも、外郎売りみたいな、人間の下品を被ったような猫もいて、人間みたいな媚びを売るような猫もいて、やたらと人の顔色を窺って、やたらと甘ったるい声で鳴いたり、一種の粘性を持った猫がいるものだ。

運がいいねぇ。こんなに愛されて、こんなに大事にされて、一緒に死ぬって言われて、仕事もしなくて、いつも、家のいちばんいいソファを独り占めして、仕事もしなくてさ。まぁ、去勢されてセックスはできなかったが。今回の人生はどうだった? 楽しかったか? 俺たちの家に来れてよかったか? お前、お母さんと本当のお母さんとどっちが好きだ? 死んだ後はさぁ、半霊体として地上に残るらしいけど、お前は家の外に出ると、すぐに家の中に戻ってきちゃう、一歩も外に出れない猫だったから、30日間この家の中に残るんだろうなぁ。たぶん半霊体になって、どこでも行けるようになってもさ、それこそ、自分が生まれた土地に戻れるかもしれないけど、それでもお前は、30日間、ここでお母さんと一緒にいるんだろうなぁ。このソファでさ。俺の修行がもう少し進んでいれば、半霊体のお前の姿を見えたかもしれないけど、悪いな、ちょっと間に合いそうにはない。

不思議とそれはわかるようで、ラン吉が死んで、30日ぐらい経ったとき、母親が、「何かランちゃんの気配を感じなくなったのよねぇ?」と言っていた。俺にはわからなかったけど、そういうことがあるのだ。母親の方が悟りは近いかもしれない。

でも、母親は、「レオンちゃんがいちばん可愛い」と言う。

一つだけわかったことがある。前の猫が死んで、2ヶ月もしないうちにお前がやってきて、なんて淡白なんだろうってご近所さんたちの目も憚れたが、無理だったんだ。エーリックフロムがいうように、必要だから愛しているんじゃなくて、愛するために必要なんだ。愛する喜びを覚えちゃったからね。仕方のないことなんだ。そう考えると、本当のところは、レオンヌを愛しているというよりも、愛することを愛しているからと言った方が正しいような気がするが? いや、ルルでは無理だったことを考えると、それは虫が良すぎるか(笑) ……。それを、人じゃなくて猫から教えてもらうってのは、運がいいのは、俺たちの方かねぇ? 

良い猫だった。悪い事はしないし、良い猫だったから、来世は良いスタートを切るだろう。次は人間になれるかねぇ? もう一度猫やってもしょうがないしな。とある宗教によると、人の出会いっていうのは、前世で縁あったもの同士が、またもう一度、舞台を変えて現世で出会うらしいよ。前世、前前世から、そんな、君の名はみたいなことをやっていて、ずっと同じ人間同士が出会っているだけらしいぜ。俺たちはまた出会うだろうか? 俺は出会うと思ってる。

「レオちゃーーん!」

「レオちゃーーーーん!!!」

「レオちゃーーーーーーーーーーーーん!!!」

「お仕事の時間よーーーーー!」

だっだっだっとレオンヌが二階から降りてくる。

「ほら、お仕事、お仕事」

「なー」

「お兄ちゃんにいってらっしゃいする時間でしょ」

俺がニートマンションに帰る時、母は必ずレオンヌを抱っこしながら見送ってくれる。レオンヌの手をとってバイバイと手を振るのだ。

毎回、朝だろうと夜だろうと、姉ちゃんが出勤する時にもやっている。結婚生活を夢見る男女ってのは、案外これがやりたくてやられたいから結婚するんじゃないかってやつだ。

車に乗り込んで、発進するとき、また振ってくれる。

「なー」

良い気なもんだ。こっちは、お前がちゃんとデブでいてくれるか、気が気じゃないんだぜ? そして、いつか、遠くない未来には、今度は抱っこしている方の人がどうなってしまうのかという、もっと大きな問題が待ち受けているんだから。

実家に帰って、いちばん嬉しくて、いちばん悲しい時間だ。たぶん、姉ちゃんも、バックミラー越しに見ながら、同じ気持ちを抱いている。

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