霊的修行

すべての欲求は死に向かっている

1、食べると腹一杯になってグターッとしてくる。これは死に似ている。

2、射精時のオーガズム。これは死に似ている。

3、寝るとき、これは死に似ている。

あらゆる欲求の中で、人間の三大欲求と言われるものは、特に死に近い。三大欲求の一番大きいとされる睡眠欲は、最も死に似ている。我々にとって、最も幸福は死だろう。

共通することは、真っ白な感覚に見舞われること。これは欲望が消滅している状態を指す。

喜びがやってくる時、喜びが自分の中に埋め尽くされる時、そんな、喜びとの真っただ中にある時、はたしてそこに何があるだろう? 喜びの蓋を開けて、その時間と空間の中身をよくよく観察してみると、何もない。ただ空白だけがある。

つまり、我々が追いかけているのは、いつだって空白である。何もない状態を追いかけているのである。だったら、初めから何もなければ、空白であれば、幸せなのである。その反面、苦しい時、嫌な時というのは、たくさん、心の中に、吹き出物のような、乱雑分、悪い電波が飛び交っている。

何もないところに幸福がのっかるという事はない。ただ消えるだけなのである。幸福というものはどこにもない。ただ想念の消滅があるだけである。ただ、心の中の悪い想念や伝播、不満、退屈が解消されるだけのことが、皆さんの考えている喜びと言われているものの正体である。ディズニーランド、YouTube、食い物、ラーメン、愛。 それらは皆さんの真っ白な心の上に乗っかったり、もののように思えるけれども、違う。ただ退屈が解消されているだけなのである。

この世界では、ゼロからプラスになるという事は起きない。いつも基本的にマイナスの状態で、それがたまにゼロに戻ることが起こるだけだ。このゼロに戻ることを、皆さんは喜びだと思っている。

すべての存在は苦痛に満ちている。彼らは苦痛のなかにいるから、快楽のなかに解放を探している。彼らが想像しうる幸福のすべてとは、繰り返される快楽の保証なのだ。苦痛からの一時的な解放を快楽と呼ぶ。幸福と呼ばれる終わりなき快楽を期待して私達は空中に城を築く。スリ・ユクテスワ

何か物を手に入れたり、物事を達成したりする喜びだって、死と隣り合わせなのである。何か欲しい食べ物、欲しい物、欲しい人、欲しい家、欲しい夢、欲しい資格、欲しい世界、それが手に入ることによって、真っ白になる。その真っ白の状態が、喜びである。つまり、想念が消滅することによって喜びを得られる。ただ欲心を起こす前の元の状態に戻っただけなのだ。眠りは、一際長く、想念の不在をもたらすので、我々は最も眠りを愛するのである。

例えば昨日、カインズホームで出前館用の15ℓの保冷温ケースを買ったのだけれども(1480円)、その際、レジの前で見かけた無添加ポテトチップスなるものが美味しそうに見えた。なんでも、生の国産のじゃがいもを自然塩をかけて作られたものらしい。まぁ2ヶ月くらい、まともにお菓子なんて食べてないから、ちょっとポテトチップスくらい、食ってもいいかな〜? なんて、ちょっと食べたいなぁ? なんて、思ったりしたりしなかったわけで(笑)。1袋ぐらいいいかなぁ?なんて思って買おうと思ったけれども、まぁそのへんは忍耐力が強くなったというか、欲の正体を見極めたというか、少し前の俺だったら買っていたと思うけど、今回は通り過ぎることができた。

そこで翌朝、今、こうしてこの文章を書いている時は、まったく食べたいとも買いたいとも思わない。おそらく昨日、それを買って食べた際、そのポテトチップスの欲は消滅していたはずである。しかし今こうして何も買っていないし、食べてないのに、その欲は消滅している。同じ消滅があるだけである。同じ喜びがあるだけである。

皆さんは、欲というのものは、その欲の対象物を手にしない限り、消えるものではないと考えているが、本当は我々は何も望んでないことがわかる。いつだって、欲の解消、つまり何もない状態を望んでいるからだ。欲の不在、想念の不在が、喜びであり、幸福であるのだ。しかし心というものは、飽き性なのか、あっちこっち、地球上の物質に振り回されて留まることを知らない。皆さんのせいというより、心のせいである。心が悪い。いつも我々は心の暴政に苦しめられている。二木博士がいうには、欲というものは厳密には存在しないらしい。あるのは依存だけだという。ただ静かにしていることができないから、不幸になってしまう。 貧乏というのはお金がないことを指すわけではなく、やたらと何でも欲しがることを言うのだ。すべての人はこの欲望のせいで苦しんでいる。ただ何もない状態であれば幸せなのに、何かを望み、何か物質や人に対して執着を起こし、それが手に入ればいいけれども、手に入らなければ、それが手に入るまでずっとそれについて考え続け、挑み続け、やっと手に入ったところで、ニュートラルの状態に戻る。そしてそのままニュートラルに留まることができればいいけど、また新たな欲望を胸に抱き、それに挑んでいく。それを繰り返し、繰り返し、やっと死ぬ頃になって、はて、自分はいったい何をやってたんだ? と思う。まるで経験者のように語っているが、そう、俺だって前世、前々世で、幾度となくそんな経験をしてきたのだろうから、いい加減、運よく気づけた生に恵まれたのだ。

サットヴァ(浄清)

ラジャス(激情性)

タマス(鈍性)

ラジャスの人たちは、夢中になること、物事に熱中することをいちばん幸福なことに考えるが、昨今のインフルエンサーや、やたらと何者かになれ、何かを手に入れろとやかましくいうが、その文化は、親ラジャスによる子ラジャスの洗脳である。サットヴァの人たちになると、ただ神だけを求めなさいと言う。俺がラジャスの人たちのように、何かに熱中したり金稼ぎに奔走することを少しアホらしく思ってしまったり、3ヶ月もブログ更新をサボってしまうことは、怠惰が60%、神を意識しているのが40%のためだろう。サットヴァの特性が40%入っているから、この特性のおかげで、つまらないことに時間や金をかけずにいられているわけだ。この地上のものが一切手に入らなくても、神だけ手に入りさえすればいい、自分はそのためにこの地上にやってきたのだから、という思いが、この地上における悲苦から救い出してくれる。欲しいものの対象が、神なのであれば、それだけで、これらの地獄から抜けられる。なぜなら神を追いかけている間は、これらを追いかけようとは思わないからだ。

何か物事を達成した時、または深い喜びや、長年の想いが報われた時、乃木坂46人全員と性交できた時、「あー、もう死んでもいい」と我々は言うが、「あー、もう死んでもいい」というのは、この空白を指すことに他ならない。

何か欲しいものがあって、それを手にしようとするとき、執着が生まれる。それを手に入れたとき、その執着が消える。喜びや幸福の正体はすべてこれだ。だから、みんな、喜びや幸せが一生涯続かない。その点、眠りの幸福の長いこと、長いこと。死の幸福の長いこと、長いこと。

やれスキーに行ったり、スキューバダイビングなんかしてみても、そんな一日より、何もストレスがなかった一日の方がかけがえのない幸福になる。何もないこと、何もない日々、何もない、死、こそ、幸福である。

じっさい、喜んでいる時というのは、執着が消えた時なのだ。

幸福とは、体験ではなくて、状態であり、本質なのだ。

幸福とは想念の不在であり、何も考えていない時、我々は幸福なのである。しかし、つい物質界の欲にかどわかされて、幸福の椅子から立ち上がっていってしまう。

神以外のものは地獄で、神以外のすべては神に向かわせるためにある。地上における一切は、そういうゲームなのである。神ではないもの、地上におけるすべての物質は、我々を苦しめる。一時的に快楽を与えるが、後になって苦しめるものだとわかる。飴一つとってみてもそうだろう。確かに、飴一つとってみても、快を武装した不快に過ぎない。ショーペンハウアーは幸せとは積極的なものではなく消極的なものと言った。快を追うべきでなく不快を避けるべきだと言った。なぜなら快と言われる地球上の全ては、不快を擬態してやってきているに過ぎないからだ。それがわかった者たちから、この地上を卒業していく、そういうゲームだ。この世は地獄以上に地獄的なものだと言ったのは芥川だったか。彼は途中で離席したが、また再び戻ってこなくてはならないらしい。

ずっと、唯一の答えである神に達するために、こんなふざけたゲームを、何度も何度もやらされている。どんなに善人でも、どんなに優しく、たとえば訪問マッサージのおばあちゃんたちでさえ、彼女たちはとても優しいけれど、無知だから、また再びこの地上に転生させられて、今回よりいいスタートを切って、また始まるのだろう。彼女たちは善人だが、彼女たちが紫色の気球になって天に還っていかないことはわかる。ただ優しいだけじゃ不十分のようだ。

この地球は、一歩一歩、歩くごとに、 よくよく注意して、一歩たりとも気をつけて歩かねば、すぐに車に轢かれてしまう。なんと注意力を働かせて歩かねばならない場所か! 白砂糖を食べると病気になる。玄関を勢いよく飛び出したら車に轢かれる。言葉を一つ間違えれば友を失う。試験用紙に名前を書き忘れば落第する。まったく気をつけなければならないことばかりで、注意を一つ欠いたら大事故に遭ってしまう。その点、死は気楽だ、だからシェークスピアは「人間は泣きながらこの世に生まれてくる。阿呆ばかりの世に生まれたことを悲しんでな」と言ったのだろう。

「これでわかっただろう。この世は地獄で、”私”以外のものを求めようとするとそうなるのだ」と言われている気がする。この声が聞こえる内はまだいいのだ。この声が聞こえなくなってしまった者、初めから聞こえない者、耳を澄まそうという気持ちが起こらない者。直感が起こらない者。それが無知なのだ。バガヴァッドギーターにも、「この悲苦に満ちた地上で、ただ”私”だけを頼って生きなさい」「すべての悪業法から”私”が君を救い出す」と書いてある。欲望という、恐ろしい刃をつきつきられて、生きていかねばならない私たちは、昔に悟った人たちよりも、今、悟る人の方が偉い。

このように、我々を苦しめているのは欲望であり、欲望しかないのだから。現代はとにかく欲望に火をつけさえすればいいという雑で安易な考えが蔓延し、どこの企業、ネット、個人、国ですら、我々を傷つけている。人は欲の不在でしか幸福になれない。我々は欲こそ幸せになれるものだと思って欲を追いかけているが、欲の不在でしか幸せになれないのである。想念の不在でしか幸せになれないのである。何も考えないこと。赤ちゃんや動物や睡眠時を考えてみれば、すぐにわかることだろう。もし一日に、想念を一つも起こさずに送れたら、その人は完全な人である。幸福な人である。これらの迷妄を拓き、知恵と勇気を持って邁進できる人間など、本当にごくごく僅かだろう。悪いのは、騙される人よりも騙す方である。がしかし、騙す方も、よくわかっていないのである。我々に欲望を焚きつけて、その欲望を回収しようとしている者たちもまた、無知がゆえなのである。すべては無知なので、ソクラテスやイエスは、しにゆくとき、「主人よ! 彼らをお許しください! 彼らはただ無知なだけなのです!」と言った。すべては無知なだけなのだ。

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