俺は昔はひろゆきが好きで憧れていたが、今は好きではない。
俺は中学生の頃から2ちゃんねるをやっていたし、大学の頃はニコニコ動画にはまっていたし、かれこれ25年くらい前からひろゆきの作ったものに影響されてきた。テレビとは違った面白さ。新しい遊び場、新しいエンターテイメント、彼が新しい時代を築いているように見えた。じっさいに築いただろう。彼こそ現代の坂本龍馬だと思っていた。
しかし、今は尊敬しなくなった。
彼がYouTubeやテレビで著名人や芸人と討論しているところを見てもくだらないと思ってしまう。 何一つ建設的な仕事はなされていない。 論破と言っているが、あれのどこが論破なのだろうといつも思っている。「それってどういうことですか?」と聞いて、 何度も何度も質問していって、相手が言い詰まったら負けということになっている。
終始ひろゆきのペースで、相手のターンがやってこない。敗者の位置に定着させられてしまった人を見ると、彼らは最初に話そうとしていたことを言えないまま終わってしまったという顔をしている。ひろゆきが突っ込んでくる質問に答えるうちに、言葉尻をとられ、論理展開を乱されているうちに終わってしまったという顔だ。ひろゆきの言いがかりに対して、数秒以内に答えなければならず、少し言い淀んだり、まごついてしまったら、旗色が悪くなってくる。考えて発言する時間がないから、反応で返すことになり、その反応を揚げ足取りされて、しゃぞうがどうだとか、「しゃぞうもしらないの? こりゃだめだ」「しゃぞうという普段使われていない言葉を、それなんですかと聞き返してしまったら、僕はダメということになるんですか?」と、本来のテーマと関係ないところに行ってしまうことが目立つ。そのまま帰ってこないこともある。相手だって、こりゃダメだ、なんて言いたくはないのである。ひろゆきが喧嘩腰でくるから、気づいたら感情的になって言ってしまうのである。ただの口喧嘩だ。あれをヒーロー視するのはどうかしている。ただ、ひとつ言うならば、ひろゆきは勝とうとしていない。ただ無邪気に子供のように質問しているだけだ。勝とうとしているのは相手側だ。
とにかくスピードが速すぎる。別に頭の回転が速いと言っているわけではない。むしろ浅いところですぐに切り返してしまうから、お互いに深いところに入っていけてない。最初から全てが失敗している。はいかいいえで答えてくださいと言ったって、グレーでしか言い表せないものもあるし、物事を二極化したところで、 本質に迫っていることとは別だ。むしろ枝葉の部分に迫って行き、その枝を一本折っておしまいという感じだ。プロレスなのにプロレスになってない。いつも論理展開の途中の揚げ足どりで終わっている。ちゃんと相手の言いたいことを全部引き出してからがスタートだ。もし本当に討論する気があるのなら、建設的な話をする気があるならば、そんな緊張感の中では、相手だって思っていることを言えなくなってしまうから、よくよく深く息を下ろして、スローペースで沈黙を交えながら、相手が心の底で考えていることを引き出さなければならない。そうでないと話し合いにならない。
本当の論破というものは、相手の言っていることに心から感銘を受けて、それが自分の理論に新しく定着してしまうこと。まさかそんな考えがあったとは、それこそ本当に違いないと、すっかり思想が置き換わってしまうことを言うと思う。坂本龍馬が勝海舟を暗殺しに行こうとして、逆に弟子入りしてしまったように。
ひろゆきはそう指摘されたところで、これはエンターテイメントでやっていますからと言い逃れそうな気がするが、じっさいそんなふうに、ヘラヘラしてはいけないところでヘラヘラしている部分が目立つ。 彼はよく動画の中で、自分の友人のヒゲ親父氏を、「死んだ魚の目をしているヒゲ親父さんって人がいるんですけど〜」と話すが、 そのヒゲ親父がいる時でも、いない時でも、そうやっていつも揶揄して、たまに俺の見たところ、ヒゲ親父氏が切ない顔をしているところがある。ひろゆきはそれに気づいていないように見える。そういう部分は鈍感で、ホリエモンと仲違いしたのも、ここからきているんじゃないかと思う。ヘラヘラして余計な一言を言って、ホリエモンを怒らせて、真剣に謝らなきゃいけないときでも、ヘラヘラしながら、いつもの調子ですいませーん😂ってやってたから呆れられたんじゃないかと思う。奥さんとはうまくいっているらしいが、ヒゲ親父氏とも仲違いしてしまうんじゃないかなと思うところがある。
親しき仲にも礼儀ありではなく、礼儀ある仲に親しさあり アラン
とアランが言っていたように、俺はこういう考え方をする人間の方が好感が持てる。
仕事の現場に遅れていくだとか、サンダルで行くだとか、喋ってる時にもやたらと体を大きく揺らし、頭の悪い人たちは〜と平気で言い、それこそひろゆきだと、まわりがそれを崇めてしまっていて、反省する機会も訪れないように思われる。
若者や30代40代なんかも、ひろゆきの言ってることがいちばん正しいと思っている人たちは少なくないように思われる。学歴とかは抜きにして、普通にしゃべる上で頭のいい人といえば、ひろゆきが最上位としてきているかもしれない。俺にひろゆきをメンタリズムしてほしいとコメントがくるのもそういうことだろう。別にこんなのはメンタリズムでも何でもないが。しかし知性というものは、徳からくるものである。 最大の知性は最大の徳から生まれる。
若者というものは、組織の中で昇り詰めていった人間よりも、アウトローでチンピラみたいなのに頭はめちゃくちゃ良いみたいなキャラクターの方が好きで、ゴンよりキルアの方が人気のように、漫画でもそういうキャラの方が人気であるように、ニヒルでヒールで、ダラダラしてるけど頭がいい、そんな若者のアンデンティティを生み出している原因にもなっている。ひろゆきがヒーヒー動画にテロップを一生懸命入れながら、編集して動画を出していたら、誰も見なくなるだろう。
成田なんとかとかホリエモンだとかヒロユキだとか、まぁそこらへんに現代の第一線の知性派がいて、その後に続いて雨後の筍のように物申す系のインフルがごちゃごちゃいるけれども、やはり日本全体が彼らの影響を受けて、彼らの真似をして、良くない風潮だと思う。
もっと静かに!
もし彼がゆっくり、友好的に、沈黙を守りながら、相手と討論すれば、よほど建設的になっただろう。そんな討論の動画はいくらでもあるし、そういうことができる人はいくらでもいる。単純に、民衆が馬鹿だから、ひろゆきを持ち上げるのだ。だから悪いのはひろゆきより民衆である。
俺もたぶんひろゆきと討論したら負けると思う。 俺は非常にゆっくりにしか話せないし、何度も停止して、ふわっと直感が光って、その直感以外には言葉を話せないから、番組として成り立たないと思う。
まず、「あなたなんですか?」って言われても、「えーっと、月6万で生活しているミニマリストで……」「神ってなんですか?」と言われて、「えっと、アンマが……」
ふだん、ここでは神だの愛だの言っているけれども、いざ目の前で、小うるさい小物にギャンギャン詰問されると何も言えなくなってしまうのが僕ティンである。そして、「それってあなたの感想ですよね?」と言われたら、「感想です」としか言えない。最初から最後まで自分の感想しか言えない。
聖母アンマは、子供たちに神の所在について質問されたときに、以下のように答えました。
子供「アマチ、それでは神とは、どういう存在ですか?」
アンマ「息子よ、今日の朝、何を食べましたか」
子供「ドサ(インドのパンケーキ)を食べました」
アンマ「その他には何を食べましたか」
子供「チャトネ(果物と酢、スパイスで作るインドの薬味)です」
アンマ「それは何でできていますか」
子供「ココナッツです」
アンマ「そのココナッツはどこで手に入れましたか」
子供「ココナッツの木からです」
アンマ「ココナッツの木はどこから生じましたか」
子供「ココナッツからです」
アンマ「ココナッツとココナッツの木と、どちらが最初に生じたのでしょうか。それがアンマの知りたいことです」
子供「……………………」
アンマ「息子よ、どうして黙っているのですか? さぁ、あなたはここでココナッツとココナッツの木を超えた何らかの力が存在することを認めなければならなくなりました。その力はすべてのものの土台です。それが神です。それは言葉では表現することができない唯一の力です。それが神なのです。あらゆるものの第一の原因(源)が神として知られています。建物やココナッツの木といった存在について議論しているときは、それらが確かに存在している事は簡単に信じられます。でも私たちが目に見えない何かを信じるなら大変難しいことです」
素晴らしい返しである。俺だったらとてもこんな返答はできない。俺の代わりにアンマがひろゆきと討論して倒して欲しいくらいである。この時、ひろゆきはどう答えるのだろうか? メンタリズムするどころか、俺はどちらかというと、ひろゆきの返答の方が気になってしまうくらいだ。
そう、討論なんてものはくだらない。ココナッツやココナッツの木について議論している世の中だが、ココナッツが生まれることになった第一原因こそ、我々が考えなければならないテーマだからだ。だから、ココナッツやココナッツの木のことをペラペラ話してばかりいるひろゆきには興味がない。
しかし、ベーシックインカムを進めていく上では、ひろゆきのような人間がいちばん適切だと思う。今彼にもっとも必要とされている仕事はそれだと思う。若者の知性派リーダーだからだ。ただし、ベーシックインカムといっても、肥田先生が言っているように、誠実の魂なきところに真の人類愛はありえないと考える。
共産主義理論は欠陥があるが、真ならざるものではない。但しその欠陥を補足しない限り、人類の真の幸福は得られない。欠陥というのは、物質を認めた丈で、生命精神の独自性と、科学的理法的神の実在を知らぬことである。誠実の魂なき処に真の人類愛はあり得ない。
肥田春充. 機関誌 聖中心道: 真平和運動(健康と真幸福の道) . Kindle 版.
政策論(2) 第三次大戦は起らぬか?
(原水爆の長足の進歩によって、若し第三次大戦が起れば、米ソ両陣営共致命的破壊をうけるから、第三次大戦は絶対に起らない、という見方が今日可なり支配的となり、更にサンデー毎日の正月号の冒頭にはこの論説を強調した記事が載せられた。それに対する会長の論評を御紹介します。)
肥田春充:米ソ両国の原水爆の発達によって、第三次大戦は起らぬという見解は、一寸考えれば理屈に合うようだが、世の中のことは、理屈通りには行かない。人はお互に喧嘩などすべきでない、強盗殺人をやれば、自分も監獄へぶち込まれるか、若くは死刑になる。馬鹿げたことは分って居る。けれども、やっぱり喧嘩もすれば強盗殺人も行われる。戦争をやればお互に損だということは解っていても、時の勢いで、勃発する。文化が進みながら歴史の足は戦争の規模を拡大せしめつつある。 特に米ソ両国の原水爆の戦力が、匹敵しているとしても、ソ連では専制政治形体であるから、恰もナポレオンが三日の野戦で三倍の墺太利軍を撃破つたような、電光石火の作戦をとり得るに反して、アメリカは議会政治で、ぬたくたやっている間に、一挙に壊滅的の打撃を受ける危険が充分にある。 ソ連としてはどういう作戦をとるかといえば、電光石火に、米国の主要都市に向って、壊滅的の水爆攻撃を行い、それと同時に、日本に対しては北海道と、東京と、九州に三つの小さな原爆を落とし、北海道と、九州とに各約二ケ師団を上陸せしめる。日本の政治機構はこれだけで一遍に麻痺してしまい、この二正面作戦で、日本は一ヶ月でソ連の手中に入るであろう。米国と、日本を手に入れる丈けで、世界の大勢は一挙にソ連に占められてしまう。西欧には一発の原水爆も落とす必要はない。無霊無神の共産主義原理に立脚してやるならば、真珠湾式の開戦でなく、大義名分さえ立つ口実が見つかれば、今でもやるね。若し私が無霊無神の人間で、ソ連の指導者であったとすれば、必ずやる。 だから如何に原水爆が発達しても、第三次大戦回避の根本的解決策が、ちっとも見出されていない以上、その危険は更に除去されては居ない。だから第三次大戦回避の道は、一に真宗教原理を確立して、共産主義者と雖も神を畏れ、人類相愛の信念に導くことが、根本的な必要事項となる訳である。 〔聖中心社の最終の使命はこの一点にある。〕
肥田春充. 機関誌 聖中心道: 真平和運動(健康と真幸福の道) . Kindle 版.