キャッチボールが好きだ。でも、本当はというと、自分のボールの速さを見せつけたいところがある。真っ直ぐにボールが垂れず、どこでも狙ったところに投げられるようになった。ふと、ことあるごとにシャドウピッチングばかりして、地面に石ころがあるとぜんぶ投げ尽くしたくなってしまう。椅子から立ち上がったり、部屋から部屋へ移動する時、いつでもどこでもシャドウピッチングして、バカなんじゃないかと思う。まとまった時間に練習するよりも、ふとした閃きがやってきて、こうやって投げたら良さそうだっていう閃きが湧いて、そのたびに形を取ってみる。そうすると成長が早い気がする。これが……何かの仕事につながっていれば……! 絵なんかも、まとまった時間に、さぁ練習しようというより、ふと、こんな鼻の描き方はどうだろうとかイメージが湧いて、その場ですぐに形をとって実験してみると、成長は早そうだけど、やっぱりピッチングしかやる気にならない。で、その研究の成果を、友達で試してみたくなる。
結局キャッチボールはしなかったんだけど、友達に変わったって言われてしまった。俺から見れば友達もすごい変わってたけど。俺が変わったのか。友達が変わったのか。一年。人が変わるには十分の時間だ。ヘッセがいうように、「神が我々に絶望を送るのは、我々を殺すためではなく、我々の中に新しい生命を呼び覚ますためである」とあるが、俺はそれを信じたい。決してこの痛みは、呪われた産物ではないことを信じたい。俺は悪魔を飼っているのか天使を飼っているのかわからなくなるときがあるが、確かに、強い痛みの後ってのは人間が変わる。脱皮みたいなものだ。今回の変化でいうと、より、一箇所に心と体が固定化されたようで、これがいいことか悪いことかわからない。で、考えている。友達は俺のことを固いと言っていた。確かに、癒着ってのはよくない気がする。静かで落ち着いているけど、静かすぎてしまう。もっと縦横無尽にのびのびと心を動かしたい。
あいつもニートをやっていて、もう2年くらいニートしていたけど、もう限界らしい。働くらしい。やっぱ2年くらいが限界なんだろうか。大体みんな2年で切り上げてしまう。俺は5年だが、全然まだやれてしまう。ブログめんどくせーって思うこともあるが、これがなかったら退屈でどうもやりきれない。朝、タリーズに行って2時間ぐらい座る。窓際の席に座って、大きな公園が見えて、日光が入ってきて、家で書き物していても窮屈な感じがしてくるから。俺は座っているだけでよくて、書く気もないんだけど、ただ座っていると、言葉の方からやってきて、それを紙やパソコンに落とすのが好きだ。そういう時は、生きている気がする。無から生命を創造している気がする。今、それをやっている最中なんだけど、別にただの普通の文章だ。
いくら家でゴロゴロするのが好きっていっても、いや、ゴロゴロするのももう耐えられなくなってきている。いくらニートでも、朝からYouTubeを見て過ごすのはきつい。YouTubeももうあまり見れない。じゃあ何するかっていったら、虚空を見つめながら……、虚空を見つめている……。はぁって感じだけど。他のことがどんどんあまりしたくなくなっていって、どんどん虚空を見つめる時間が増えていっている。かっこつけているわけじゃなくて、これはなんだかやばいんじゃないかと思ってるんだけど。もう、べつにどうでもいいんだよね。楽しいの?って言われても、ねぇ?(笑)しるかって感じだけど。完全にやっていることは詩人のそれだけど、いや、狂人のそれか。本は、どうしても読めないんだな。だからずっと自分の世界だけをぐるぐる回っている。
作ったりすることもなんかできなくて。作るのも面倒くさくて、ずっと虚空から落とし物を拾い集めている感じだ。俺は友達にブログを書いてることを初めて言ってみた。「ブログ? 誰が読むの? 電車の中でYouTube見れない時に、やっと見るかどうかでしょ。誰も読まないでしょっ」て言われて、「誰も読まないよ」と言って笑って返した。「ただの退屈しのぎだよ。まぁ、会話に近いかもしれない。お前が誰かと話すときだって、誰もお前らの話なんて聞かないでしょ? 退屈しのぎで人と話すでしょ。それと同じだよ」と言ったら、「ふーん」と言って、それは納得していた。
友達は金は有り余っている。でも、見たい映画も見尽くして、働かなきゃいけない気がするから働くんだという。やっぱり、何もないのは退屈すぎるんだろうなと思った。だからみんな働くんだろうなと思った。「俺も、そんな感じでね。あー、わけがわからんけど、朝起きたら、なんかタリーズ行くかぁって、生活のいちばん最初にタリーズに行く。で、よくわからないものを書く。大して誰も読まないのにね。いったいなんで俺はそれができてしまえるのか。自分でもわからない。本当に俺はずっとずっと、なんでこれをやっているのかわからない。この選択肢がたくさんある中で」
これは、確かに、誰が読むんだろう? これはいったい何? ん? ? 虚無。本当に謎だ。「でもさぁ、自分の全部を消してみて、虚無に近づけて、虚無に動いてもらおうと思ったら、こうなってくるんじゃない? それが人間の生き方だってような気がするんだけど」って言うと、「……」やっぱり話が通じなくなる。これはちょっと言い方が悪かった。だから、これまで、ブログやYouTubeやってることは言えなかった。本当になんのために、誰のために、まったく理解されない。俺もこれ以上のことは言えないのだ。だけど、友達が普段どんな生活を送ってるのか気になって、色々聞き出そうとして、俺の方は何も話さないなんてことはしたくないから、話した。
「不安にならないの?」って言われたが、どっちかっていうと不安を消すために近い。これがなくなってしまったら、俺は多分すぐにでも不安で働くことになると思う。座って、全部から離れて、虚無と見つめあって、文字を落としていくのが、俺の仕事なんだけど、でも、やっぱりこうやっていると、ここからきている部分でしか話さないから、友達に喋り方がおかしいと注意された。「俺はまだお前寄りの部分があるけど、お前、社会だとそれは厳しいぜ」ですって。ニートに言われた。同じニートなのに、どうしてこの差が出てしまうんだろう?
「部屋で落ち着いて、自分のいちばん静かな部分から話そうとするとそうならない?」
「うーん」
「普通に生きてたら、一人でいる時間がいちばん多くて、これと携わっている時間がいちばん多いと、ここからくる部分以外のことを話すのが億劫になる。俺はそっちの方が本当に難しいんだけど」
「俺は会話になるけど、他の人と会話にならないよ」
俺「かなぁ? 今なってんじゃん。今みたいに、会話の仕方について深く切り込んで会話しようとしなければ、成り立つでしょ。まぁ、やっぱりなんか、おかしいのかな? 俺のブログでもさ、変な奴らしかいなくて、いつもその人たちと文字のやり取りしかしていないし、まぁ、みんな、俺の文章読み慣れていることもあって、なんかもう場が出来上がってる」
友達「それはなぁ」
俺「どこでも会話なんてさ、ニコニコ笑顔でさ、もうほとんど笑顔で会話しているようなもんだよ。それでさ、相槌のタイミングさえ間違えなければ、大体どうにかなるでしょ」
友達「まあ」
俺「でもさぁ、やっぱりお前と話したくてね。本当に、この1年間、ほとんど誰とも話さなかった(笑)おばあちゃんたちと話してたけど、まぁ、あれは、声を出しているだけの会話だった。それが救いだったんだけど」
友達「会話と創作が一つになっちゃってるじゃん。それをさ、やるのはいいんだけど、やられる側として、普通の会話ができないっていうか。なんかこっちが持ち出す「有」の話題を全否定されてるような気分になる」
俺「ねぇ」
友達「うん」
俺「まぁ、ちゃんと気使うさ」
友達「うん」
俺「やっぱ、なんか、違うなぁ」
友達「ん?」
俺「固い気がする。これじゃダメな気がする。もっと、自由に、のびのびと、新鮮で、生まれたてのエネルギーみたいのがある気がする」
友達「しるか(笑)」
俺「そこに行きたいんだよなぁ。でも、なんか、今はどうも硬いんだよ。で、お前に会いにきたの」