タリーズ観察記

タリーズの前の外テラスで繋がれている犬の考察 2

今日もまた、タリーズで繋がれている犬を見て考える。

犬ってのは、なんであんなに繋がれていて平気なのか不思議だ。退屈じゃないのか? この退屈に対する強さはなんなんだろう? 飼い主は我関せずといった様子で、コーヒー片手に変なタイトルの本を読んでいる。かれこれ2時間くらいこの調子だ。お前は犬だから大丈夫だろう、という暗黙の了解のもとで、犬はカフェテラスの柵に紐をくくりつけられ、おとなしくずっと座っている。

いったいずっと何してるんだろう、何を考えているんだろう。考えていないのか、感じているのか、だとしたら何を感じているのか? 遠い、遠くを眺めているようで、眺めていない、どこに焦点があってるのかもわからない。瞑想しているようにも見えない。無か。無というほど無でもない、有といっていいほど有でもない。

耳はずっとピクピク動いている。風に反応しているのか。伏せてじっとしているようでいて、全身がわずかに動いている。何も音もしないのに、急に振り向いたり、何も起こっていないのに、何かが起こったように目をぱちぱちさせることもある。

これは俺には耐えられない。しかしどうだろう? 週5で8時間労働することに比べれたら、似たようなもんか? 我々も会社に繋がれているようなもんだからね、似たようなもんか。動物が悪さをしないのは、退屈に強いことも手伝っているだろう。俺は飼っていた犬でさえ、目にしたときに眺めるだけで、一日中ずっと観察をしたことがない。一時間ですらない。しかし、俺に見られていなかった時間にも、続いている時間があったのだ。一人暮らしで飼われている猫なんかも、主人が帰ってくるまでは退屈なのだろうか? よく玄関前で待ってたりするものだが、あれは、あの感情は、人間の持っている寂しさと同じものとしてみなしていいのか? 寂しくて寂しくてどうしようもなくなってしまう、ということはなさそうだ。うちの猫も、母親が買い物に行ってる間は、人間でもここまで慌てないといった様子で、ニャーニャーすごい勢いでずっと鳴いている。だが、その鳴き方も、人間が持つ執着心とは違った感じがする。もっと、現在からきているように思う。

まぁ、こうしてカフェに連れ出してもらえることは恵まれている方かもしれない。鳥が飛んだ。犬の上を鳥が飛んでいった。出口王仁三郎は、まちじゅうを飛んだり、電線に止まっているスズメやカラスといった鳥類を霊だといった。皆さんは、これだけまちじゅうを飛んでいるたくさんの鳥たちの死骸をまちじゅうに見かけないのは変だと思わないだろうか? 彼らの死骸を見かけることはあるだろうか? 確かに、車に轢かれたりして、道路に無惨な姿で横たわっているのを目にしたことはあるかもしれないけれど、自然な亡骸をついぞ目にしたことがないことはおかしなことだと思わないだろうか? 見かけたしても、明らかに数が合ってない。あれだけ、まちじゅうにたくさんの数が飛んでいるのに。人身事故の死体処理班のように、見えざる手が働いているのか? それとも、最後のときがくると、死力を尽くして、山奥の奥の奥の、人間の目が届かない奥まで羽ばたききるのか。だとしたら、山にたくさん鳥の死骸があってもいいものだけど? だとしたら、登山家がもっとそれを口にしてもいいと思うけど? 出口王仁三郎が言うには”霊体”だかららしい。文字通り、消えるのだという。彼らの最後の消息を決定的にするために、首にマイクロカメラをくくりつけたとしても、あら不思議。その場合は、いつもの消息を追わなくなるものだと俺はにらんでいる(笑)つまり、出口王仁三郎の説の方を信じているのだ。

小学校一年、俺が6歳だった頃、犬を飼った。名前をチョコボと言った。俺は小さい頃からゲームしかやっていなかったから、FF(ファイナルファンタジー)にちなんで命名した。

犬を飼う前、『絶対に散歩します』『毎日必ず散歩します』という誓約書をお姉ちゃんと一緒に書かされた。毎日散歩することが条件だった。

犬がきた。いつも退屈そうだった。外で飼っている犬だから、犬小屋の中にずっと入っているだけ。俺にはゲームがあるけど、犬には何もない。あるとすれば、せいぜい一日に二回の散歩だけだ。

チョコボは散歩が大好きな犬だった。すべての電柱におしっこをしていた。一日二回の散歩、30分づつだとしても合わせて1時間。そのあとの23時間は繋がれた生活。ずっと変わらない風景があるだけだ。「年に一回旅行をすれば、一年ずっと幸せでいられる」と言っていた女子に出会ったことがあるが、あれと同じ心境なのだろうか? 一日二回の散歩で、チョコボは一日幸せだったのか?  

チョコボは一日に二回の散歩をわれわれに強要した。散歩の時間になると、激しく吠え立てるので、おばあちゃんは「はいはい」と言って、チョコボを連れ出して行った。すごい嬉しそうに尻尾を振っていた。こんなに嬉しがるってことは、やはり平常とは「差」があることを意味している。その差分を喜んでいる、ということでいいんだろうか? やっぱり嬉しいという感情があるんだ。嬉しいという感情がある生き物が、何もないことに耐えられるのはどういうことだろう? 俺は子供の頃、この問題が恐ろしくて、寝ても覚めてもこのことを考えながら、ゲームをしていた。

ある日、たまたまチョコボの前で痰を吐いたら、チョコボが地面についた痰を嬉しそうに舐めたことにびっくりした。しっぽを振って喜び、10回20回吐いても、おかわりというように、何度も俺の唾をせがんできた。俺はたくさん唾を吐いてやったけど、何度もおかわりしてくるので、制限がないことに恐ろしくなり、(この、気味の悪いクソ犬が……!)と心の中で叫んでその場を後にした。チョコボは傷口も大好きで、俺が怪我している傷口を見せると、それも嬉しそうに舐めた。

俺は学校に行くとき、犬小屋の前に差し掛かると、必ずチョコボの前に「ペッ!」と唾を吐き捨てて登校していた。学校から帰ってくると、また唾を「ペッ!」と吐き捨てて、家に入っていった。

それを見た近所の人が、「しまるこ君がチョコボ君を虐待している」とうちの親に言いつけてきた。

うちの母親は、舞台やミュージカルが大好きで、ベルサイユのばらも全巻持っている。チョコボを飼うとき、ヨーロピアンチックの、パピヨンや、ダルメシアンならいいけど、こんな野良犬みたいな、品のない、雑種みたいな犬を、なんで飼わなきゃいけないの? という疑問がずっとあったようだった。こんな雑種みたいな犬を飼おうものなら、家が貧乏臭くなる。うちは稼ぎがまあまあいい方だから、わざわざこんな雑種みたいな犬を飼う必要なんてない、と口には出さなかったけれど、そういう意思があることは、当時6歳だった小生にも感じ取れた。うちの家はたいそれた家ではなかったけど、家の中に華やかでないもの、小市民の小市民らしい生活を、いやがおうにも感じさせる物を所有することを嫌がる傾向が母にあった。

小生は子供の頃は本当にゲームしかやっていなかった。子供時代の記憶はゲームしかない。親にゲームは一日一時間までと言われても、「ギイイイィィィーーーーーーー!!!!!」と癇癪を起こして泣いて暴れるので、両親といえども止められず、ゲームを与えると泣き止んだ。メンヘラに与える薬のようなものだった。ゲームしかやってなかったので、小学校一年時には、クラスで一番目が悪くなってしまい、黒板の字も見えないので、授業中はずっとゲームのことを考えていた。しかし、授業中も、ゲームがないことがわかると、暴れた。それが今では、こんなに霊的な人間に育ったことに、自分がいちばん驚いている。

犬。それで離婚もありえるか。もし、当時、おばあちゃんが死んだとして、誰もチョコボを散歩に連れていく人がいなくなったら、両親が離婚していたんじゃないか、と思うのだ。もう心配しなくていい恐怖なのに、タリーズに繋がれている犬を見て思い起こされた。

実のところ、小生は誓約書を書いておきながら、チョコボを散歩に連れていかなかったのである。お姉ちゃんも連れていかなかった。もっぱら、おばあちゃんが連れていっていた。

以下、妄想。〜おばあちゃんが死んでしまったとして〜

母親「ねぇ、明日、チョコボを保健所に連れていこうと思う」

父親「なんで?」

母親「だって誰も散歩に連れていかないじゃん。散歩連れてけってすごい吠えるんだもん」

父親「なんで散歩連れていかないの?」

母親「だって、この子達が散歩連れていかないんだもん」

父親「亮一(ワイの本名w)、散歩に連れいけや、誓約書に書いたんだから」

亮一「……(ゲームをしている)」

父親「亮一」

亮一「お姉ちゃんだって、誓約書書いたよ!」

姉「……」

母親「この子たちが散歩に行くわけないじゃない! こうなることがわかってたから、私は飼うことは反対だったの!」

父親「でも、保健所に連れてくのはあんまりだろう」

母親「……」

父親「お前が散歩に行くわけにはいかないの?」

母親「なんで私が連れていかなきゃなんないの!? 私は初めから飼うのは反対だった! 亮一が飼いたいといったから飼ったけど、最初から私はわかってたわよ! こいつが散歩に行かなくなるって!」

父親「でもなぁ、一度飼ったものだぞ」

母親「じゃああんたが散歩に連れってよ」

父親「俺が? こっちは仕事があるんだから、それはそっちでやってくれないと」

母親「私だってパートがあるわよ! 家事だってやらなきゃいけないし!」

父親「でも、だからといって保育所に連れていくのは」

母親「私だって考えたわよ! でも、仕方ないじゃない!」

父親「亮一、瑞穂、保健所に行ったらチョコボとお別れになっちゃうんだぞ? それでもいいのか?」

亮一「チョコボとお別れなんてやだよ!!」

父親「じゃあ、チョコボの散歩に連れていってあげなさい」

亮一「うん!!!」

母親「この子が散歩に行くわけないじゃない! こうなることがわかってたから、私は飼うことは反対だったの! もう、散歩の時間になるとうるさくてうるさくて仕方ない! あんたは会社にいるからわからないかもしれないけど、すっごい吠えるのよ! いいわよね、あんたはずっと会社にいるんだから! 誰も散歩しないんじゃこうするしかないでしょ!?」

父親「わかったよ、じゃあ俺が散歩に行くよ」

親父は責任感が強い性格だから、本当にそう言ったと思う。しかし、親父は忙しかった。本当によく働く人だった。朝の7時に家を出て、日を跨いで1時頃にならないと帰ってこなかった。俺はその時間までゲームをしていたのでよく覚えている。

親父は、当時まだ珍しかったパソコンの開発に携わる仕事をしていて(俺のゲーム好きは父親譲りでもあるのだ)、好きな仕事だからそれほど苦ではないと言っていたが、あまりにも帰ってくる時間が遅かった。そして、いつもクタクタだった。 だから、どう考えても、散歩はできなかったかもしれない。もし本当にこの状況に陥ったら、親父は、朝6時に起きて、仕事前にチョコボの散歩に行ったのか? でも、かならず根をあげたと思う。最初からすべてが破綻していたと思う。そして、俺は、仕事前にチョコボの散歩をしにいく親父の後ろ姿を見ても、ゲームをやっていたと思う。画面越しのチョコボの方を走らせていたと思う。

これは離婚になりかねないと思う。飼い犬を保健所に連れていって殺したという事実は、家庭の不和としてずっと残る。ご近所さん達にも、あそこの家は、 散歩に行くのがめんどくさいから、チョコボ君を殺した、と噂される。もう一緒に暮らしていけないかもしれない。互いに犬殺しの汚名を被りながら、TVを見て笑えるというのか。

しかし、離婚したなら、チョコボはどうなるのか? 離婚したら、チョコボは救われるのか? 離婚したとして、誰が散歩に連れて行ってくれるのか?

親父が再婚して、新しい奥さんがチョコボの散歩をしてくれるという保証がどこにあるのか? 離婚したら、離婚したで、それこそ親父は犬に構っていられる時間など余計になくなってしまい、 チョコボは一体どこでどうすればいいのか? しかし、それでもチョコボは鳴くだろう。散歩の時間になると、うるさく吠えたてるだろう。

実家に帰って、夜、チョコボがいた頃の犬小屋の前でバットを振った。

犬小屋はすでにない。すでに母のガーデニング場となっている。犬小屋の跡地には、バラやカーネーション、色とりどりの美しい花々が咲いている。血の川のほとりに咲いた花園である。

犬小屋があった場所の前で、夜中にバットを振っていると、チョコボがいてくれたらな、と思う。今じゃあ、実家に帰っても、一人で振っているだけだから寂しい。チョコボの前でバットを振れたらどれだけ最高だろう。チョコボもきっと嬉しいだろう。素振りの合間にペッと唾を吐いてやってもいい。今は、バットを振るのが楽しい。1月の、夜の、真っ只中であっても、上半身裸でバットを振っている。コントーラーじゃなくてバットを持つようになった。チョコボは褒めてくれるだろうか? 1時間くらいバットを振った。1時間、まあまあ充実した1時間だった。しかし、1時間なんてものは、一日の夜の、夜が過ぎるまでのまだほんのわずかな時間で……。チョコボは……。

俺は現在、仕事の都合で、月に2回実家に帰省しているが、毎日一緒に暮らしていたあの頃に比べて、いまの方がチョコボの相手をしてやれると思った。もし、今、チョコボがいたら、月に2回帰るだけだから、散歩は毎日行ってあげることはできないけど、一緒にバットを振ってあげられる。今、チョコボを飼いたいなぁと、実家でバットを振るたびに考える。

© 2024 しまるこブログ Powered by AFFINGER5