午後13時。いつも通りタリーズでぼーっとしていると、隣の席から凄まじい緊張感が感じ取れた。
このタリーズという場所は、非常に緊張感のない場所である。あたりを見回してみれば、 老若男女、客はみんな自分の部屋のように利用している。勉強しにやってくる女子高生たちは会話らしい会話をせずに勉強に没頭し、大人は大人で気心の知れた同僚とくだけた会話をし、おじいちゃんおばあちゃんはのんびり茶を飲んでいる。タリーズといえばそんなのんびり屋の寄せ集めなのだが、あきらかに、隣の席からだけ、針の先のような異様な緊張感を醸し出している。それが隣でぼーっとしている小生に突き刺さってきた。
男も女も28歳くらい。二人ともきつめの香水をつけていた。どれだけ個として美しい香りを発したとしても、入り混じると耐え難いほどの臭気を放つ、これでは元も子もないではないか。他人のデートを見ることはあまりないが、男も香水をつけるものなのか。
28歳が出会い系をするときはこんなファッションになるだろうというのを絵に描いたような二人だった。男は春らしい薄手のジャケットを腕まくりして、申し訳程度に腕時計をつけていた。サイドヘアを刈り上げて、いい具合に日焼けをして、筋骨たくましかった。
女も小ぎれいな格好していて、こちらも春らしい、白の薄めのニットに、グレーのミニスカートを履いていた。装飾品をつけて、香水をつけて、コスメティックで、湘南美容外科クリックの受付の女性っぽさがあった。何重にも織られたブラジャーみたいなマスクをしていた。
なぜタリーズなんだろう? まぁ俺もよく出会い系でコメダを利用していたからわからないでもないが。彼らは常識的でしっかりしていそうだし、お金もありそうだし、こんなに香水を振り撒き、空間的な努力をしている男女が、なぜタリーズなんだと不思議に思った。
女「昨日、私ずっと魔界村やってたんですよ」
男「魔界村?」
女「魔界村しりませんか?」
男「魔界村ってなんですか?」
女「ゲームです(笑)」
男「ゲームはわかんないですね。すごい昔にドンキーコングならやったことありますよ」
小生はさっそくコーヒーを吹き出しそうになってしまった。まさか魔界村を知らない男がいるとは。これは女の子からしたらガッカリだろう。まず手始めに、ちょっと恥ずかしい部分、インドアな部分を晒して、砕けた空気を作っていこうとした瞬間に、出鼻を挫かれてしまった。
男「ゲーム好きなんですか?」
女「そうですね、switchのスプラトゥーンで、よくネット対戦をやってますよ!」
乃木坂の女の子たちも、仕事がない時は何してる? とインタビューを受けると、彼女たちはこぞってゲームをしていると答えている。トップアイドルですらゲームをやっているのだ。賀喜遥香は今最も日本で忙しい女性に違いないが、そんな彼女でも、寝る暇も惜しんでゲームをしているという。もし小生がこの男の立場だったら、「日本で最も忙しい女性と同じ趣味を持っているんだね」と言ってやったかもしれないが、出会い系に「賀喜遥香」ほど邪魔なワードはない、か。
「無料で爪のカウンセリングしてあげますよ〜」
と言って、女は男の手を取って何かやっていた。ネイルサロンだか化粧品メーカーだかわからないが、美容系の仕事をやっているようだった。彼女はカバンからタブレットを取り出し、それから二人で顔を近づけてタブレットを覗き込んでいた。しかし、タブレットの画面がフリーズして動かなくなってしまったようだった。
「あ、あれ? 点かない、なんでだろう?」
「疲れてるんですよ。もう仕事したくないって言っているんですよ」と男は笑いながら言った。
女は「フフフ」と笑って前屈みになって、さらに頭を男の方へ乗り出した。
頭がこっつんこしそうなぐらい距離が近くなっていた。この女性は笑う時に前屈みになる癖があるようで、それが癖なのか意図的なのかはわからないが、春らしい、モグラが洞穴から出てきたような新鮮な空気があった。
男「さいきん花粉症やばくないですか?」
女「ごめんなさーい! わたし花粉症になったことないんですよー!」
男「え? 一度もないんですか!?」
女「気持ちわかってあげられなくてごめんなさ〜い!」
ふむ。反応が既知に富んでいる。一つひとつのリアクションが丁寧で、可愛らしい。「気持ちわかってあげられなくてごめんなさ〜い!」なんて、三次元からだけ女性性を学んでいたら出てこないセンスである。ゲームから学んでいるのだろう。ゲームもまた婚活なのである。
男「自分は学生時代から野球しかやってこなかったんで」
女「野球? じゃあデブ活だ」
男「デブ活? え?」
女「だって大谷翔平とか1日7食でめちゃめちゃ食べるっていうじゃないですか」
男「やっぱり筋トレしたらたくさん食わなきゃダメっすね」
女「筋肉大事ですよ〜! 全身が垂れてきますから」
男「え? そんなに垂れてるようには見えないけど?」
女「だんだん垂れてくるんですよー(笑)」
女はそう言うと、むぅっと胸を張るような仕草をした。
男「え? そんなことなさそうだけどな? え?」
男は女の身体をマジマジと見ていい許しを得たと思ったのか、女の身体をマジマジと見た。小生もマジマジと見た。
女「友達とジム登録したんだけど、ほとんど行ってないです(笑) 最初はめちゃめちゃ張り切ってたんですけど、幽霊会員で、お金だけ取られてる始末で……(笑)」
男「自分も、家に懸垂バーをつけてあるんだけど、一回もやってないよ(笑) 部屋に入るたびに、バーが頭に当たってうっとおしいだけ(笑)」
彼女はよく「めちゃめちゃ」と言った。会話のほとんどに「めちゃめちゃ」をいれる。女性が陥りがちな一つの落とし穴である。これはおそらく仕事でもやっているんじゃないかと思うが、彼女の根本にある誠実さから見逃してもらえるのだろう。「うめぇ!」とか「やべぇ!」とか言う女性がたまにいるが、そういう乱暴な表現を口にする時、彼女たちは、私は、いいんだろうか? と、自問する様子がうかがえる。少なからずゼロコンマ、いっしゅん彼女の時間が止まる。これは、誰に向けてやっているかというと、仲間うちの女性らしい女性に向けてやっているように見える。いかにも完璧で大和撫子みたいな女性を前にすると、ふーんだ、私だってと言って、「外し」をいれてみたくなるのだと思われる。少しくらい女性も自由な方がいいんでないの? と、完全な女性に対するアンチテーゼとしてやっているように見える。つまりヤケクソになっているのである。女性は生まれつき女性なのではなく女性になるのである。すべての女性が手探りで女性を追っている。彼女が「めちゃめちゃ」と言う時、全女性の全運命を背負って進んでいるのである。
女「野球で鍛えてきた人が花粉症になり、ゲーマーがならないのは謎ですよね(笑)」
男「確かに(笑)」
女はとても綺麗な姿勢で座っていた。やはり、姿勢や見た目が綺麗で、そんな品行方正なお姉さんが、たまに俗語を言ったり、頭をこっつんこしたりするギャップが、一種の萌え作用を発生させることをわかっているようだ。しかしそれだって興味がない相手にはやらないだろう。それに比べると、男は足を組んで、風俗の待合席のソファのように大きくもたれかかってデーンと座っていた。あとは嬢がやってきてチンポを咥えてくれるだけだと言わんばかりだった。姿勢が会話より大きな効果を生むということを知らないようだ。
男「……」
女「……」
女「酵素風呂とか行ったことあります?」
だいたい会話が途切れると、女から切り込んでいた。
男「あるよ。痩せるかもしれないけど、匂いがめっちゃやばいよ」
女「匂いやばいですよねー! お兄ちゃんが酵素風呂でバイトしてたんですけど、すごい匂いで、帰ってくると近づかないで!って言ってました(笑)」
男「俺もタオルとか服とか捨ててたよ」
女「えー! もったいない! でも捨てたくなりますよね〜」
小生は、てめーらの匂いも大概なもんだけどなと思いながら聞いていた。
男「……」
女「……」
だんだんと会話の間隔が広がっていっていた。静けさに追いつかれないようにして、二人は、なんとか次のキャッチーらしい話題を見つけようとしているようだった。
女「オカマバー行ったことあります?」
男「え? ないよ(笑) あるの?」
女「さいきん友達とオカマバーに行ったんですけど、あ、でも、本当に興味本位というか、興味も別になかったんですけど、友達に誘われて、うーん、どんなもんかなーと思って、それで行ってみたんですけど」
男「うん」
今度はオカマバーか。見ず知らずの人間が顔を合わせると、キャッチーな話でないと間が持たないらしい。興味を惹きつけられそうな話題、キャッチーなワード、フレーズ、そういったものを切り出しては、去っていき、静けさが訪れる。
彼女はオカマバーの話をするのをどうしようか躊躇っている様子ではあった。下品だし、オカマバーを今さらクセのある娯楽として興奮して話しようものなら、感性を疑われてしまうところがある。それでも発進したのは、自分は女性だからいいだろうというヤケクソな気持ちがあったのかもしれない。「めちゃめちゃ」とよく言う女性は、初対面の男相手にオカマバーの話をしてしまうところがある。しかし、思いのほか、オカマバーの話は盛り上がらず、すぐに終わってしまった。
女「……」
男「……」
しばらく沈黙が続いた。沈黙が訪れると、二人してソワソワして、何か話さなきゃ、話さなきゃと、あたふたする。なまじ、しっかり者の二人だから、社会人として、大人として、初対面として、価値のある時間を提供しようとして、同じ波動がぶつかり合ってしまっているようでもあった。
女「子供って、小さくても、ちゃんと男の子は男の子で、女の子は女の子なんですよね」
男「そうだね」
女「今、適当にそうだねって言いませんでした?(笑)」
男「言ってないよ! 本当にそう思ってるよー!(笑)」
女「兄が子供をよく連れてくるんですけど、見ていると楽しいですよ。男の子と女の子と二人連れてくるんですけど。この前、男の子の方が着替えしていて、『はやくしないと幼稚園遅刻しちゃうよ! はやく! はやく!』って急かしていたら、途中まで脱ぎかかっていたパンツをそのまま履こうとして、『ちがーう! それ今履いてたやつでしょー!』って、家族みんなでめちゃめちゃ笑いました(笑) もーそれがめちゃめちゃ面白くて(笑) 女の子はそういうことないんですよね〜!」
男「ガハハハハハ!!!!!!!!!」
男は「ガハハハ!!!」と魔王のようにデカい声をあげて爆笑した。女もとっておきの必殺技のように話し、彼ならこの面白さをわかってくれるはずと、想定内のうちに話したようだったから、安心したようだった。小生はまったく面白いと思わなかったので、こんなに息ぴったりに爆笑されたら、とても敵わないと思った。どれだけ小生が人工的な優しさでもって、あるいは無概念にて彼女の実在を見るように努めたとしても、『パンツ履き戻し』の概念でこんなに爆笑されたら、概念に勝てるはずもないと思ってしまった。彼らの、このとき一緒に爆笑していた姿は、彼らの将来が約束されているように見えた。他人の子供でこれならば、履き戻したのが彼らの子供だったら、どうなってしまうのかと思った。
しかし、最初からずっと思っていたが、どうも下ネタが多い。「魔界村」「めちゃめちゃ」「スプラトゥーン」「あつ森」「頭こっつんこ」「デブ活」「 全身が垂れる」『酵素風呂」「オカマバー」「パンツ履き戻し」およそ小一時間の間で、下ネタが5件も含まれている。下ネタまでいかない下ネタ、行きすぎたら引いてしまうから、ちょうどギリギリの際どいラインを攻めようとしているのがうかがえる。すべてがおもてなしだと思うと、真面目な下ネタである。
女「……」
男「……」
また静まり返ってしまった。
パンツ履き戻しであれほど爆笑したというのに、もうその効果はお役御免といった感じで、血も涙もなく去っていってしまった。これは、あと、2、3度、『パンツ履き戻し』と同じレベルの爆笑が生まれたとしても、またここに戻ってくることを意味している。
女「……」
男「……」
静まり返っていた。否。静かではない。心の中では、何か話そう、何かキャッチーな話題をと、彼らもパンツを履き戻しかねないほど慌てていた。
どうしてこんなに静かになってしまうのだろう。小生は疑問に思った。静けさは、その必要性から、彼らを追いかけているのではないだろうか? そして、静けさが追いついたとき、彼らの方から離れようとする。もし、静けさの中にとどまり、静けさの中で通うことができたら。マッチングアプリも瞑想と一緒である。いっそ、静けさに委ねてしまえばいいのに、と小生は思っていた。
いい大人がこういうときどうしていいかわからない。1回目だし、様子見として十分なのか。こんなところで万々歳か。二人は十分にやったのか? 彼らは似ている。彼らはいい人だ。いい人といい人が出会ったのに、なぜこんなことになってしまうのか? 二人はすべてに気づいているのに、この状況を打破できずにいる。アプリが悪いのか、アプリの不自然な出会いが、不自然な会話を強制するのか。もし彼らが仕事の都合で出会ったとして、共通の課題に取り組み、ふとした休憩時に、ふとした話題を話して、少しづつ関係を構築していたら違った結果になったのか。
女「……」
男「……」
まだ、帰りたくないようではある。話は途切れ途切れだし、沈黙は追いかけてくる、が、まだ一緒にいたい気がするようではある。好き……なのか? あるいは不安……なのか? 選ばれたい、安心したい、生涯をかけて幸せにしたい異性という称号が欲しい。とりあえず一回安心させてほしい。私の存在が間違っていなかったと安心させてほしい。でないと、また家に帰って自己内省することになる。またダメだった。また僕はダメだった、自分はまた異性に存在を認めてもらえなかった。さて、また、自分を満たす生活へと移ろう。明日もまた仕事だ。
(私のことどう思っていますか?)
(僕のことどう思っているの?)
彼らの心の声が、店内BGMより多く聞こえてきた。
窓の外を眺めると、春、地球上の性が目覚めている。あんなに頭をこっつんこしたのに、パンツ履き戻しで爆笑したのに、選ばれし二人でないとダメなのか? 今、ここで二人の魂👬が解放することはできないのか?
霊的真理から考えてみる。二人が今日出会うことは決まっていた。彼らはアプリを開いて会員登録して数多の異性の中から数人を選びメッセージを重ね、今日というこの日に顔を合わせだが、 すべて必然だったのである。いったい何のために、何の理由があって彼らが今日出会ったかはわからないが、何らかの必要性があったのであり、あまりにもたくさんの偶然の皮の前に見失いがちになってしまうが、彼らがこの真実を知る日はこないだろう。
もしこの真実を受け入れたならばーーーーー。固有の物質が通り抜ける軌道<グナ>は、人間の心の潜在的傾向<ヴァーサナ>とは無関係に働き、じっさいの生活のすべては<グナ>が支配している。人が何を考えようと、決心しようと、出会う人に会い、オカマバーだの酵素風呂だの、言うべきことは言わされ、言いたいことを言えず、会いたい人にも会えないし、結婚したい人とも結婚できない。<ヴァーサナ>はことごとく無視され、<グナ>によって結婚すべき人と結婚させられる。小生は、彼らが今夜ぐっすり眠れるように、この概念を彼らに伝えたかったが、それも叶わなかった。小生もまた一歩も動けなかったのである。小生の<ヴァーサナ>もまた<グナ>に支配されていたからである。
「じゃあ、そろそろ」と彼の方から切り出した。
彼女は、「あ、はい」と言った。
「じゃあそろそろ」と言われたら、そりゃあ帰るほかない。彼女は名残惜しい態度をおくびも見せることなく、タブレットをカバンにしまった。
これは恐ろしいことだが、彼は「じゃあ、そろそろ」とは言いたくなかったのである。なんと、あろうことか、「じゃあそろそろ」と言った彼の方がガッカリした顔をしていた。いったいなぜ? これはどういうことだ? 何が彼に、「じゃあ、そろそろ」と言わせたのか?
小生は、とある聖者の言葉を思い出した。
「あなたが決定をするということはない。ただそうすると思っているだけだ。何か他のものがあなたに物事をなすように駆り立てている。ただそれに気づいていないだけなのだ。思考過程に忙しくしている間は、それに気づくこともないだろう。想念も想像も努力もない場所を見出さなければならない。それを見出しなさい。そうすればもう戻ってくることはないだろう。それは即座に起こる。だが、あなたが考えている限り、あるいは考えないようにしようと努力している限り、それが起こることはない。考えることも理解することもなしに、その無想の場所を見出しなさい。そしてそこにとどまるのだ」
彼も自分でなぜ「じゃあ、そろそろ」と言ったのかわかっていないのだ。それどころか、一緒にいたいと思っていたのだ。しかし、彼女は嫌われたと思っただろう。下ネタを言いすぎて嫌われたと思ったかもしれない。きっと今夜は眠れないだろう。しかし彼もまた眠れないのである。
愛は、愛自体が咲くに任せるほかない。二人が愛のために行動するのではなく、愛が彼らを行動させる。愛が一つの頂点に達した時、愛は彼にプロポーズをさせ、彼女に「はい」と言わせる。そういうふうにして、人は結婚する相手と結婚する。たとえプロポーズするつもりで彼女に会いに行ったつもりではないのに、彼はプロポーズをし、彼女も心の準備ができていなかったのに「はい」と答えてしまう。愛において個人は存在していないのである。じっさいは、高次の存在がすべての面倒を見ているのだ。