タリーズ観察記

タリーズの前の外テラスで繋がれている犬の考察

俺がよく行ってるタリーズには外テラスがあって、そのエリアはペットとの同伴が許可されている。

毎朝必ず、ペットと共にコーヒーを飲みにやってくる人たちがいて、ちょうど俺が座っている席から、繋がれている犬達が見えるのだ。今も、その犬を見ながらこの記事を書いている。

小型犬の方が、人間の顔をよく見るようで、小型犬とはよく目が合う。大きい犬はほとんど目が合わない。

同伴エリアはちょうど店の入り口にあるから、さまざまな客が出入りする際に犬に手を振っていく。話しかけたり、微笑んだりして、きゃーかわいい! と言って頭を撫でたりすることもある。しかし、みんな、犬にだけ手を振って、飼い主には一瞥さえくれない。

俺はいつも思うのだが、そんな失礼なことをするくらいだったら初めから犬にも関与してはならないと思う。犬には興味があるがお前にはまったく興味ないと言っているのと同じである。こういう時、飼い主は顔には出さないが、やっぱり私より犬の方に興味があるんだ……と、当たり前の事実を当たり前に突きつけられ、少なからず落胆しているものである。わかっていることだし、覚悟もしているし、もう慣れているとはいえ、負わなくていい傷を負わせてしまうことになるのだ。

飼い主だって、自分よりも自分の犬の方が可愛いことはわかっている。そりゃ、あたしよりこの子の方が可愛いよね、手を振りたくなるわよね、はぁ〜あ……と、大人だから微笑んで返してはいるものの、一抹の、もっていきようのない感情を残してしまっている。だからといって、犬じゃなくて飼い主に手を振ろうものなら、「あんたなんなのよ! バカにしてんの!?」と椅子を立って、キィーーーっと顔面のしわというしわを中心に集めて螺旋丸のような顔にならなくもないから、なかなか難しい問題である。

まぁ、別に難しい問題ではないが、このことに気づく人間は少ない。それは悲しいことである。

ペットに手を振ってもらえることで与えられる喜びよりも、自分に手を振ってくれないことで起こる悲しみの方が、プラマイとしては大きいのではないかと考えられるが、こんな簡単な計算ができない人が多いことは悲しいことである。

なぜ、こんなに細かさが足りないんだろう? 繊細さが足りないんだろう? こんなことは人に言われなきゃ気がつかないものだろうか? これがいわゆる悪人だったらいいかもしれないが、善良そうな、手を繋いでいるカップル、真面目に働き、仕事休憩にタリーズにやってくるOL、いわゆる健全な人間が、健全なことをしているというふうに、愛すべく一隅、美談として貫かれているからタチが悪い。自分の行為を善と信じきっていて、そこに反省が入る隙間がどこにもない、これには末恐ろしさを感じてしまう。この、健全な文化を被った毒は、これまでも、これからも、ずっと、健全な文化として約束されていきそうなことが余計に腹が立つ。

別にこれは犬に対してだけ言っているわけではない。みんな、子供や赤ちゃんには手を振るけど、飼い主側には一瞥もくれない。若い人ほどこのミスを犯す。酸いも甘いも舐め尽くした老夫婦などは、人間様にそんな罰当たりなことはあってはならんというふうに、すばらしい一期一会をありがとうございましたというふうに、飼い主にも深いお辞儀を残して去って行く。まるでこの世とお別れするかのように。順番が逆になってしまったことに対する後ろめたさを含んでいる場合もある。

俺はデート中に、もし女が犬に手を振って飼い主に手を振らなかったら(飼い主に対して、ぺこりとお辞儀をしなかったら)、飼い主の前で女をボコボコにして、飼い主の仇を討ってやりたくなってしまう。犬のようにひれ伏せさせて、申し訳ありませんでした、と謝らせたい衝動に駆られることがある。

こんなことを言うと、「あーーーーん? どーせ、テメェがタリーズでコーヒーを飲んでても、女子高生たちが犬そっちのけで、テメェに手を振らねーから拗ねてるだけだろーが? あーーん!? 殺すぞ!!!」と言うかもしれないが、その通りである。その通り過ぎてぐうの音もでない。

なんてのは、冗談で、やっぱりこれは自憤ではなく公憤なのである。世界平和にあってならないことだと思う。精神的な環境破壊。精神的なゴミを振り撒いているのと同じだ。

富の分配が正しくされれば、世界経済は正しく回るというふうに、愛の分配も正しくされれば、愛もまた正しく回るだろう。愛もまた資本主義になっているのである。タリーズに繋がれている犬こそ、愛の資本主義の王である。

俺は37年間生きてきて、一度も犬に手を振ったことがないのは上記の理由によるものだが、たまに犬に手を振りたくなってしまうこともある。そういうときは、この愛の分配の法則について考える。くたびれたサラリーマンや、ハゲ散らかしたサリーマン、枯れ木のようなサラリーマンには手を振らないくせに、犬に手を振るなんてことがあってもいいのか?

今日はタリーズ前の公園でイベントをやっているため、駐車場に車がいっぱいで、警備員のジジイが、「満車」という紙を頭上に掲げて、かれこれ2、3時間も棒立ちになっていた。みんな、このおじいちゃんに、大変ですね、がんばってますね、ありがとうございますという気持ちはもっているが、なかなか言えたものではない。何かのきっかけで話し込む機会が訪れ、世間話を挟んだ後でないと、「大変ですね、がんばってますね」と言えないのである。水面下では、こうした感情が、みんなの心の中にあるのである。タイミングの問題と言える。

人は、自分が面倒にならない範囲内で、無条件で愛を振り撒きたいと思っている。が、愛を負いたくはないと思っている。そういう意味では、犬や猫や赤ん坊は愛を振り撒くのに都合がよく、そうやって愛しやすい方へ流れていっているように思える。これは、リンガーハットや、ジャンクフードばかりに手を染めやすく、玄米や自然食品を後回しにしてしまうのと似ているかもしれない。しかし、不断の勉強と努力によって、リンガーハットを乗り越えて玄米に変えることができるように、意思によって乗り越えられる問題だと思う。日本人は優しすぎるほど優しい人種であり、外国人よりよっぽど優しいかもしれない。外国人は単純にフットワークが軽いだけだという説もありそうだ。

誰も助けてとは言わないし、助けてくれたとしても、ううん大丈夫だよと気丈に振る舞う。そうしてやっぱり自分のことは自分でなんとかしなきゃねと言って、自分の心の中の実家に帰郷していく。これが、自立というものか。人間は物語性がある生き物だから、ストーリーが始まってしまう。サラリーマンに手を振れば、「先ほど、私に手を振ってくれたのは、どういう意味ですかな?」「お嬢さん、今しがた、私に手を振りましたかな? あれはいったいどういう意味ですかな?」とやってきて、問題を複雑化してしまう。意味、概念、邪魔な概念だ。そう考えると、犬は傷つかないから、やっぱり犬は偉大だと思う。鈍感で、気にせず、別に愛してくれなくてもいいワンって言ってる方が愛されてしまっているのだワン🐶

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