しまるこ「やっぱり、タリーズで話している人たちを見ていると、みんな概念を話しているね。みんな、記憶、思考、経験、過去からきているものを話している。概念を話すときは概念と一つになっている。あれは人間というより概念だね。概念を付け加えて話しているんじゃなくて、概念そのものになってる」
友達「そうじゃなきゃ話しようがなくない?」
しまるこ「そうなんだけどさ」
友達「今お前が話してるのだって概念じゃん。過去からきてるじゃん。過去に、少し前に考えたんでしょ? それを。それを今話してるじゃん」
しまるこ「そうなんだけどね。ただ、旗振りのおじいちゃんとか、銭湯で老人が話しているときとか、概念と深い結びつきにある人ほど、話し方が一方通行的というか、概念に吸い込まれちゃってるというか、人間より概念の方が大きくなっちゃってる。おいしいものを食べた時おいしいって喜んでいる人は味覚そのものになっているし、怒っている人は、その人が怒っているというより、怒りになってる。なんらかの要素と一つ結びつくと自分を失う。というより、俺たちはFF10のエボン=ジュのように何かに取り憑いていないと存在できないみたいだよね。職場でもよくいるじゃん、コロナについてやたら詳しいの。医療従事者でもないのに、昨日は感染者何人だとか言って速報代わりになって毎朝騒いでるの」
友達「そんなに概念持ってちゃいけないの?」
しまるこ「言葉も記号もシンボルも、それらは自然に存在するものじゃなくて、実在を伝達するために作られた人工物だよね。あくまで二次的なものに過ぎないのに、それに終始することは、一次的な実在との間になんらかの軋轢が生まれてもしかたないと思えるんだよ。じっさい軋轢ばかりじゃない。この世界に精神病じゃない人がいる? 自分の中にたくさんの傷口を飼っていて、その傷口が外部に反応して生きてるんだよ。生きてるんじゃなくて反応してるだけ。実在は実在としてあるのに、それ以外の部分がいちいち反応して、それが一日の、人生の、集大成になってる」
友達「じゃあ、若い人ほどいいの?」
しまるこ「タリーズで中高生の会話を聞いていると、概念と結びつきが強いよ。若いと若いで、キャッキャと強い好奇心によって概念に結びついてる」
友達「みんなそうでしょ。じゃあどうすんの?」
しまるこ「朝起きて概念を考えて、人と会えば概念を交換して、あれこれ考えることが頭のいいことだと思っていて、そしてそれをもっとアップデートしようとして、YouTube見たり、本読んだり、概念、概念、概念のアップデートに余念がない。一日中概念と取っ組み合いして、でも、そもそも概念自体がまがいものだから、それをいくら育てようとしても、本来の自分から遠のくばかりで。人と人とが出会えば、すぐに概念が飛び出す。一人でいたって飛び出す。これは恐ろしいことだよ、これは病気だよ。そうやって地上は精神病院になってる。なにが恐ろしいって、お前だってニートしているとはいえ、家族と会うわけじゃない? そこでお前はお母さんをお母さんとして見ていない。概念を通して見ている。いや、概念を見ている。お前の作ったお母さんだよ。同じ屋根の下に暮らしていながら、お前は一緒に住んでいる人の本当の姿を見ていないんだ。いつも出会っているのは概念だけ。あらゆる概念を取り除いたら、そこにいるのは一体誰なんだってね」
友達「うーん、まあ」
しまるこ「本当のお母さんを見てあげてよ」
友達「どうすればいいの?」
しまるこ「なんの概念も想念もなく、ただ見ているだけでいいんだ」
友達「でも、うちの母親が勝手に動いて、勝手に概念を持ち出して生きてるから、それが俺に入ってきちゃうじゃん。俺が母親を過去からの累積物として見ているのはそうかもしんないけど、向こうも概念を被って生きてるんだから、それが入ってきちゃうじゃん」
しまるこ「ふむ」
友達「それで何かあるの?」
しまるこ「人は概念でいっぱいだけど、他人に概念で見られるのは嫌なんだ。それがいい概念だとしても、それがいい印象だとしても、やっぱり概念は概念だから、ダメらしいんだよね」
友達「ダメらしいって、なんで?」
しまるこ「いい印象で見られたいとも思ってないみたいなんだよね。やっぱりそれだって、フィルターで、色眼鏡で、お世辞やおべっかと一緒で、いっしゅん嬉しくはなるけど、やっぱり本体を見てもらったわけじゃないから、悲しくなってしまうみたいなんだよね。世の中に一人くらい、本体を見てくれる人がいてくれてほしいと思ってるみたいなんだよね」
友達「それは誰の話?」
しまるこ「誰ってこともないけど。全員だよ」
友達「ふーん」
しまるこ「剣を持つものは剣によって滅びる、というように、概念を持つものは概念によって滅びる。僕たちは気づかないうちに勝手に拵えた概念によって、その人のあるがままの存在をいちじるしく歪んだ形で見てしまっているんだね。毎瞬、毎瞬、お前はお母さんを殺しているんだ。お前は37年間、一度もお母さんに出会ったことはなかった」
友達「うーん、言ってることはわからなくもないけど、どうやって見ればいいの?」
しまるこ「そんなの方法もクソもないよ。ただ概念をなくして、ありのままに見るしかないよ」
友達「だからそれをどうやんの?」
しまるこ「(笑)だーか〜ら! そうやって概念に育てられて概念にすがってばっかりして生きてるから、概念なしに何も見れなくなっちまうんだよ(笑)自分の母親も概念なしに見れねーのかよ(笑)」
友達「『自分の母親』も概念なんでしょ!? おばさん? 女? 人間? 誰?」
しまるこ「台所で調理をしている。肉が動いている。心も動いている。トイレに行く。何かを思い出したように、二階へ上がっていく。二階で掃除機をかける。動いている。動いている。止まった。止まったと思ったら、ソファに座ってTVを見ている」
友達「まぁ、そんな感じだよ、本当に」
しまるこ「しかし、お前のお母さんは優しい、そして賢い。ニートになって一年のお前に、一言も『働かないの?』と言わないんだから」
友達「その優しさも概念ってことになるんでしょ?」
しまるこ「まあね。だけど、こうしていくら見てもお母さんが誰なのかわからないように、僕たちも僕たちで自分が誰なのかわかっていない。自分でもそうなんだよ。お前が思っている自分すら、過去のイメージでもって自分を見ている。それを取り外して見たら、いったい誰がいるのか」
友達「まあ」
しまるこ「みんな自分が私が僕がって言うけど、それは一体誰なんだ? 何をもって自分を指しているのか、主体を指しているけど、その主体は、どこを根拠にして主体を指しているのか。自己感覚? 意識? そこまで信頼していいほどに立脚できる主体はどこにあるんだろう? そう、主体も概念なんだね。自分も概念だ。自分が自分だと思っているイメージを生きているだけだ、自分が自分に騙されているんだね」
友達「まあ」
しまるこ「何者かに変えさせようとしてくるこの社会の中で、僕達は自分であることをただ必要とされる。自分以外の何かになろうとするから苦しみが起こる。そう、自分を離してしまうのは概念だ。そう思うと、たった一つでも概念って持つ必要がないって思うよね? 一つでも概念を持つと、一つ間違っていってしまう。自分の波動を上げよう、いつもポジティブでいよう、しかしそれらも概念だ。概念があるところは二元性がある。二元性はサンサーラ、二元性があるところには相対的な努力がある。しかし相対的な努力は概念を膨らませるだけだ。そういう意味じゃ、道徳はやはり二元性の相対的な世界でしかない。そこが宗教と道徳の違いで、鈴木大拙は、道徳は宗教の代わりにならないと言ったけど、宗教は道徳に変わりになると言っていたのは、こういう意味なんだね。道徳じゃダメなんだ。どんなにいいメガネをかけたとしても、やはりメガネはメガネで。ありとあらゆるものをあるがままに見て、自分もあるがままにならなければならない。あるがままが神で、無概念が神で、一元性が神で、唯一の実在が神で、だから神を崇めるのも間違っているね。無概念が最大の帰依となる」
友達「ふ〜ん」
しまるこ「自分すらわかってないのに、お母さんのことすらわかってないのに、何もわかってないのに、『自分は〜』とか『僕が〜』とか、『お母さんが〜』と言ってるのはバカらしくない?」
友達「まあ」
しまるこ「定義するということは限定することだよ。お母さんからもう新しい情報を得ることはないと思ってたでしょ? もう見飽きたと思ってたんじゃない? でも、限定を外して、ありのままのお母さんを見たら、とてつもない広がりを持ったお母さんが見れるかもしれないよ? どう? ワクワクしてこない?」
友達「たぶん俺が働いた方が喜ぶと思うけど(笑)」
しまるこ「お母さんを見てあげてよ」
友達「どうやって見ればいいの?」
しまるこ「今日初めて会ったかのようにお母さんを見なくてはならない。人間は決して過去の堆積物の詰め合わせパッケージではない。なんでも方法論が先行して、即席で効果があるコミュニケーション術などがもてはやされているけど、誰もその人をあるがままに見ろとは言わない。ボディランゲージだとか、表情とか、それもこれも実在の上に汚れた概念をのせて見ているだけだから」
友達「だからどうやって見るの?」
しまるこ「ピカソの目がね、なんかそういう目をしているような気がするんだけど。ピカソの顔送るから見てみてよ。この目。ピカソがやたらとモテて、ピカソの愛人たちが、ピカソが死んだ後、みんな後を追っているのがわかるね。他に自分のありのままを見てくれる人がいなかったんだろうね」
友達「(笑)」