悟れないことが苦しい、という人は本気の求道者なのだと、ある本に書かれていた。
苦しいかと言ったらよくわからない。苦しく感じることもあれば、やっぱり救われているような気がする。こんなふうに書いてばかりいると、真面目な修行者のように思う人もいるかもしれないが、とんでもない。ただ書きやすいから書いているだけだ。受験生が勉強しないでゲームしてしまうように、本来書くべきものを置き去りにして、書きやすい方を選んでいるだけ。気が済むまで書けば、全部リセットされるだろうと、一縷の期待に任せているだけだ。心の中に溜まっている宿便を掃除したいだけだ。やはり、自己療養へのささやかな営みでしかない。さっさと次に行きたいから、これを書いている。
本当に怠けてばかりいる。空海みたいに一日中念仏を唱えるなんてことやできないし、瞑想だって30分が限界で、すぐにタブレットや股間に手を伸ばしてしまう。本当に欲だらけだ。欲の解消に追われ、やるべきことを先延ばしにしてきた。それが今の結果だ。今も絶賛進行中だ。
これは自分なら悟れるという自信の表れでもあると思う。いつもどこかで、ある一瞬にすべてが終わると、ずっとわけのわからない願望ばかりを抱いているから、こういうことになる。思考は現実化するのなら、もう起こってもいいはずだがね。確かに俺は自信があるからやっているんだと思う。今日にでも今にでも、溶けて終わらせられそうな気だけはしているんだから。そうして行為だけが続いて、行為だけを見ていられるようになる。
そんな生活を4年続けて、普通だったら気がおかしくなってしまうかもしれない。もうおかしくなってるのかもしれないが、ある日、読者に、この生活が羨ましいと言われた。確かに羨ましいかもしれない。俺だって自分でこの生活が羨ましくてしょうがない、今、いちばんしたいことを実行している。
本当によくわからない時間だ。この4年間、まったくよくわからなかった。いや、これまでの36年間、まーったくわからなかった。ここで死んだらいよいよわからなくなる。おちおち死んでる暇だってない。しかし、不思議と飽きない、20代半ばからこれをずっとやってきて、もっと集中したいから、仕事を辞め、マンションで一人暮らしして、専業?になって4年間ずっとこれをやってきて、何をしてるの? と聞かれても、答えようがなく、孤独に強いと言ったら孤独に強いかもしれないが、もう板についていてよくわからなくなっている。孤独なら、人里に下りている間の方がよっぽど感じる。人と一緒にいる時の方がよっぽど孤独を感じる。
大抵の人はこんなのはごめんで、気が狂ってしまうのかもしれないが、俺はまぁ、誰にも迷惑をかけずに最低限の金を稼ぎ、その中で節約してなんとかやっていて、セネカのいう間暇、バガヴァッドギーターの指し示す生き方、肥田先生が神を見出すために伊豆の山奥に引きこもってしまったように、俺もその背中を追いかけているつもりではいる。ずっとこれをやっていくことに対して、まったく不都合はない。こんなもんは、俺が良けりゃそれでいいんだ。
何か仕事をしなきゃ、仕事を世の中のために、人のために身を粉をにして働きたいという願望はとてもある。それは昔からずっとずっとある。畑仕事をやってくれと頼まれたら、3人分の働きだってできる自信はある。ドトールの仕事だって一日や二日だったら代わってあげたいけど(もちろん時給はそっちもちでいい)。ただ俺は先にこれを完成させたい。「いつ完成するのか?」「さぁ」「仕事しながらじゃダメなの?」「ダメってこともないと思うけど(笑)」「じゃあ働きながらやればいいじゃん」「別に金に困ってないから、わざわざ働く必要も感じねーんだよ。働いたところで糖尿病を増やすだけだ」
仕事を避け、世俗を避け、時間を避け、自分がやることを避け、欲だけは避けれず、何とも言えないただ静かな時間だけが続く。それでいて仕事がしたい、本当に仕事がしたい、とにかく仕事がしたいという気持ちが抑えきれない。
紙とペンなら目の前にある。時間もある。自分が決めたことくらいはやれっちゅう話だが。
俺はいつだってこういった時間に恵まれてきた。あまり人と遊ぶ機会もなく学校から帰ってもたくさん時間があった。小さい頃からずっとそうだった。土日は全く予定がなく、いつだってこういう時間の中にいた。いつだって何もしないことが中心になっていて、それでも何かしたくて、それが36歳にもなって、まだずっとこの時間の中にいるのだ。これはもうお手上げだね。
何もしないことが仕事だといったら変だと思うかもしれないが、これこそが自分の仕事だと思えてならない時がある。日に一時間や二時間で十分じゃない? って思うかもしれないが。事実、それくらいで良いような気がするが。何もしないくせに何かしたくてずっとこんな気持ちでずっと悶えているから、結婚もできないし、恋もできない。そのくせずっと焦りだけが続いていて、はやく何かしなければならないという不思議な焦りに駆られているが、やってるのは、YouTubeの大食い動画を見て食おうかどうしようか迷っているだけだ。二郎系ラーメンはまだ食べ納めしてなかったら食べにいくか。だったら静岡まで出るか。いや、東京の本店でないと本当の本当ではないかもしれない。どうせだったらいちばんの親分を倒して終わりにしないと終わらせられないかもしれない。静岡の二郎ラーメンを食ったあとに後悔が残って、その後東京の二郎ラーメンを食いにいったら二度手間というか、二連敗だ。一敗で済ませてしまった方がいい。じゃあ東京行くのか? マジで? 二郎系ラーメン食うために? 普通の奴でも行かねーぞ。どんだけ食いしん坊なんだ? 初めから東京を仕留めた方がいい。ザーボンやドドリアじゃなくて、フリーザを討て! と、まぁ、さすがに東京には行かないが、毎日頭の中はこんなことの繰り返しで、一向に前に進まない。そのくせ誰かといても、女の子といても、時間がもったいないという気分になってしまい、キャッチボール以外は早々に切り上げてしまう。早く無にならなければと急いで帰ってしまう。
寝ている時が一番幸せだ。全ての精神を置き去りにすることができる。それは一つの短い死だと思う。死は救いだ。明日が来なくてもそれで結構。また朝が来て一日があるのは奇跡だ。人間は複雑にあまりにも色んなことを考えすぎるから、眠りたくなるものだ。漫画家もネームを書いている時がいちばん眠たくなるという。あれは、複雑な情報をひとつの単純な情報をまとめ上げようと脳が急処理するためらしい。確かに眠りから覚めるといつも頭がスッキリする。もし寝ているように生活ができたらとても嬉しい。
何かたったひとつ想念が浮かんで、それと結びついてしまうだけで、今では苦しみを感じる。自分の想念も他人の想念も受け付けられない。プラスだろうが、マイナスだろうが、他人や自分の精神活動が邪魔に感じるのである。しかし、他人からは逃げられても自分からは逃げられない、いくら走っても走ってもずっと付いて回ってくる。
他のことを考えようとしても、自分から迎えに行ったとしても、何をしようとしても、どこからともなく現れて苦しめられる。しかし、これは想念の方がやってくるのではなくて、自分の方から迎えに行っているということに気づいた。想念は勝手に現れて勝手に消えていくだけだ。自分がいつも迎えに行っている。東京の二郎系ラーメン? どこからやってくる? タバコ? どこからやってくる? だが、勝手に消えていく。消えないのは、必死に掴んで離さないようにしている俺のせいだ。欲という欲はない。ただの肉体の信号だ。やはり、脳が悪さしている。
幸福とは、これがないことだと思う。全ての苦しみは想念が生み出している。心が生み出している、これのないところに行きたい。欲は罠。地上は罠だらけ。これを全部潜り抜けられるかどうか試されている気がしてならない。シェイクスピアが言うように、この世が地獄というのは、そういう意味かもしれない。右を見ても左を見ても罠だらけだ。地上は誘惑の星。
もしコンビニだろうが、スーパーのレジだろうが、もし眠ったまま働けることができたらというのは虫がいいような、怠け者の発想に違いないが、友達と剣道やボクシングをする時、体が勝手に動く時、いちばん幸福を感じる。頭だって身体だって自動で動くときがいちばん幸せだ。だから全てを明け渡したい。心も体も全て自動で動くことがある。肉体も心もなければ、ただそれが勝手に動いて、勝手にこの身体と心を操作してくれる気がする。この分量が多ければ多いほど人は幸福になれるのだと思っている。人間は神の道具だ。俺は何度かそれを知っている。少しだけこの喜びを知っている、この前買い物をしていたら、小さな子供がカートを押しながら全力疾走してきて、絶対にぶつかると思った瞬間に、勝手に身体が動いてことなきを得た。俺はそれをただ見ているだけだった。これは剣の奥義に違いないが、人間の奥義でもある。