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人はいつでも幸福になれるのだからならなくてはいけないことは確かだ

人はいつでもこの瞬間に幸福になれるものだろうか? それはできると言われてるし、できる気はしている。姿勢をまっすぐにして、下腹部の中心点に気を集約させる、肉体と心の重心、中心点、本体の本体、本当の本当、そこにピントを合わせて緊張を入れてやれば、自分というものに気を入れてあげてやれる感じだ。

中心にいると、中心以外の部分は余計だなと感じる。雑念はどうしても浮かび続ける。浮かんでは消えるの繰り返しで、せいぜい消えていくしか役目がないこの一つと一つになってしまうことばかり。

この雑念。これによって一つなってしまう。これによって、何の意味があるのかはわからない。ずっと心の中心に固定していたからといって、心の動きを硬くするだけで、伸びやかさを失い、心を中心に置くことも、それもまた一つの執着だ。けどこれも数分が限界だ。またすぐに何かとくっついてしまう。で、また中心に戻す。

また書くこともなくなる、中心において書けば中心については書けるけれども、中心以外のことは何も書けない。ああこれは中心ではない、中心ではない、と、全て消えていくと、無しかなくなる。無しかないと、何も書くことがない。

結局慌ただしく感情の奴隷となり、心に一番強く現在に差し迫っている事項を書くのが一番書きやすい。感情を書くことがいちばんペンがよく走る、静かな心のいちばん静かな部分に迫ろうとすると、本当に書くことがなくなってしまう。毎回、毎回、同じこと、ずっと年金生活しているジジイみたいな文章しか書けない。

心を見つめすぎると、それもそれで心に操られるようで何も書けなくなる。だが、ずっと中心を見るようにして、姿勢と心をまっすぐにして、なるべくずっとこの下腹部の中心に光だけを見据えていたら、これ以外の部分を悪く見なすようになってしまった。で、このうるさい感情や欲情を肯定したり、この中を好き好んで泳ごうとすると、それでいいのか。また逆戻りだ。堂々巡り。

中心。ふわふわ点在する何かと結びついても楽しいもんでもないし、楽しくても後で不快になるだけである。かといって、中心には何もないので、それはそれで書くことがない、べつに無理して書かなくてもいいのだが。

だから、つまらないことを誰々がムカついたとか、これが嫌い、あれが好き、あれが興奮した楽しかったとか、動物的な感情も体験を書こうと思えば書けなくもないし、4年くらいそうやって書いてきたもんだが、こんなことをこれからも続けたとしても、くだらない思いしかない。

思ったことをそのまま書けば、それでいいものかもしれないし、書いてみたら案外書き始めるものより良かったりすることもある。やっぱりなんでもやって見るのがいちばんだ。それしかない。頭に浮かんだものをパッパッと形にしていくのがいちばんか。書いたってやっぱり人は何を書いたとしてもその中心にはその人の本前の気質というものがあらわれるものだから、何を書いても結局一緒かもしれない。

一つ言えることは、楽しくない、何を書いてもまったく楽しくないということだ。こんなことを続けて何人になるのか、書いたってつまらないし、書かなくてもつまらない。何をしてもつまらん。退屈だ。中心に結びつこうが中心以外のものに結びつこうがどちらもつまらない。つまらない? つまらないと思うことがつまらない。つまらないつまらないと言って世の中をつまらなくしている自分がいちばん好きじゃない。つまらないつまらなって、それだけは絶対に許さない。俺は今この場でこの全てを解決できるはずだ。

中心の光を味わっていても、1時間が限界、昼のと通りや夜の公園で森の中で静かに中心に聖進めてたっていると1時間か2時間ぐらいずっと立っていられたりするか、部屋で座禅をするより気持ちいいのはなぜだろう。

虚しいと言えば虚しい、こんなことはずっと毎日やるのだったら死んだ方がましである。かといってYouTubeを見るのもゲームをやるのも苦しい苦しいことばっかりだ、楽しいと思えば楽しいし苦しいと思えば苦しい。

パーーーーーーーーと生命を燃やしたいけど、やり方が分からない。文章を書くなど縮こまったことをするよりもまだスポーツの方がいい。ずっと一日中生命を燃やし続けることなんて無理なのだろうか。なぜ岡本太郎はそんなことができるのか、俺にはわからない、書くことも息することも、この狭い部屋にいることも苦しいだけだ、心を中心に置いたとしても、生命を爆発させるような何かがなければつまらないだけだ。感動、歓喜。

ただ今日一日を思いっきり完全燃焼させたいだけなのだ、そうしなければ嘘だ。生命への大罪。思いっきり外で大声を出せばいいのだろうか、それは難しいから、車の中でやってみた、けっこう気が晴れた。毎日やってみるのもいいかもしれない。だから、発狂者やキチガイはああやって叫んでいるのか? 肥田式強健術は、腹に力を込めてデカい声を出すし、やはり人間は道場か何かで木刀を振りながらデカい声を出す必要があるのかもな。そうしないと気が鈍る。本当に昔の時代は学問も体育も理にかなっている。自分のことなのに自分の活かし方がわからない、何かやりそうな気がするが、こんなことを書いていてもつまらないなんでもやりたいことをやって、即座に思ったことは行動して、素直にYouTube見て笑って、食いたいもの食って、寝て、恋もして、髪を切って、少し気持ちがさっぱりして冷たいものを飲んで、スイカを食べて、そんなささやかなもの、そんなちょっとしたことで幸福を感じるが、しかしそれもね。それよりも全身全霊の気。それをいっぱいにして気持ちよくなりたい。それは今できるはずだ。もっと下腹部に気合を入れて

てやーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

てやーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!! つあああああああああーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!! もっとだ!!!!!!!!!!!!!!!! もっと!!!!!!!!!!!!

 つあああああああああああああああああああああああああああああ!!!! てやああああああーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!! これだ!!!!!!!!!!!! これしかない!!!!!!!!!!!! もっとだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

つああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!

日光を浴びながらスイカを食べたとしても、悪くはないけど、結局、おまけみたいなもんだ。人生のおまけをポツポツと食い繋いでいるだけだ。おまけじゃない本然のもので食い繋ぎたい。感動。歓喜。大事なのは感動すること、爆発。歓喜。こうして自分の生命を爆発させることができないから、心の中にガスが溜まるのだろう。

ただただ思いっきり自分を燃焼できればいいのだが、今自分にできることをこなすほかないか。自分を過大評価しているからこうなるんだな。しょせん、できることしかできないか。結局いろいろグルグルまわっても、ここに辿り着く。なんでも思ったことをやってみろって、それも大事だが、できること以外はなかなかできない。もともと、自分の中に必要なものはすべて用意されていて、あとはそれをどう使うかだけか。

べつにもっと自分をいじめ抜いたっていい、食わず寝ず、奴隷のように働き倒したって構わないが、やってることは正反対だ。一日中寝てる。何もやりたいことも、できることも、何一つないから、寝てしまう。

中心を練っても、気力が充実して気をいっぱい腹にぶち込んでも、それをぶちまける対象がないから、ただ不発弾として終わる。不発弾。書くことも、なんだかね。全く気がのらない。気、気、気。気を持って書きたくても、書けたら楽しいんだけど、気、気、気、この気をもって爆発させたい。本当にただそれだけだ。それは、今、できるはずだ!!!! 全然気がのらない。もっとだ!!! もっと!!!!

つあーーーーーーーーーーーーー!!!! ぬわーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!

 どうだーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!! これで気が乗ったかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!! どうだーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!! くらえええーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!

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