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税務署の女の子に壁ドンしてキスしても問題なかった2〜バルザックの目を見てほしい〜

我々はいつも理想(超現実)と現実の二択に迫られた際、現実の方を取る。99%の人間は、扉を開けてくれて好意を示してくれて、自分に好意があるとわかったら、まずは小さなところから、順に、順に、攻めていこうとする。

あのとき小生は、壁ドンして、キスしたらおかしいしな……。と、「おかしい」「普通ではない」「現実ではない」という思いに負けてしまった。若いとは、そういうことだ、青年は悩ましい生き物だ。誰もが理想を持っているけれども、現実に負けてしまう。

バルザックの目を見てほしい。彼はゲーテの言うロマン主義の第一の遊歩者であり、超現実に恋し恋焦がれている目をしている。

たとえば今だって小生はドトールでこの文章を書いているが、ちょうど今、トイレから戻ってきた隣の席に座っている看護学生の女の子に、「おちっこちった?」と言ってみたい。

女の子は今、ちょうどトイレに行って戻ってきたのだが、今、ふと、超現実的に、小生の頭の中に浮かぶ言葉は「おちっこちった?」である。

別に彼女がおちっこをちったかは本当にどうでもいいのだが、うちの親も猫がおちっこをちった後は「おちっこちった?」と言っているし、それは人間だろうが猫だろうと変わらないと思う。単に響き、口触りの良さから、今いちばん彼女に言ってみたいのはそれである。

しかし、これは自信を持って言えるが、全ての男が、女の子がおちっこをちって戻ってきときは、「おちっこちった?」と言いたいと思っているのである。それは、そんなにすごく言いたいということでもないが。頭の中に確実に一線として浮かぶ。それは小さな声であるから、聞き取るのに才能を要するが、声自体はユングのいう普遍的共通無意識のように誰の男の根底に浮かぶ声である。

こんな風に直線的に脳裏を刺すもの、素直なものを、「普通」という建前に、あるいは「現実」という建前に、「超現実」を隠匿してしまうのが、我々である。

超現実は即ち、その言葉の通り、現実を超えた真の現実なので、いちばん破壊力を持つ。それはピカソの絵や岡本太郎の絵や、小生のおちんちんバスターズの2話が示している。

それゆけ! おちんちんバスターズ! 第2話「森の掟」

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さて、税務署の子だが、小生が扉から外に出て、次の日から、その子はまったく話しかけてきてくれなくなった。こちらの方を見向きもしなくなった。頭のいい女だと、小生の行動がシャイだからということがわかってくれるものだが、シャイとして片付けてもらえなかった。「シカトされた」「無視された」「私に何の気持ちもないのね」と敵意として処理された。

女性は案外、サインを出してくれるものである。サインがあったらすぐに壁ドンしてしまっていい。つまり、初めの初めは女性にあるような気がする。そして、ここのタイミングを逃すと、がっかりされ、ひどいと、恨まれるようになる。なんと、実のところ、ここまでされても、当時の小生は、本気で、善意で、ドアを開けてくれたのかな? と思っていたのだ。我々は行動しなくていい理由を当てはめるために、超現実から目を背けて、現実を見ようとする傾向がある。そして恨まれる。

しかし、その恨みも、女性は新しく好きな人や彼氏ができると、そのほかの男を大根以下にしか思わなくなるから、恨みもすべて払拭されてしまう。彼女の顔から恨みが消えて、「普通」として対応されたら最後、あの普通の顔が、小生はそれがいちばん悲しかった。皆さんだってそうだろう。まだ、恨まれていた方がよかった。

この波動の間にチャンスがあったら、もう飛び込んでしまっていいのだ。みんな飛び込んだこともないし、女も飛び込まれたことがないから、すべては謎のベールに包まれていて、互いに小さくなり、コツコツと会話をして仲良くなっていくのが定石だと思っているが、あれは、飛び込んでしまっていい。つまり、壁ドンしてしまっていい。漫画では、壁ドンのような展開ばかりが描かれるのは、すべての女性がこれを希望しているからである。

問おう。現実が漫画に負ける道理は当然だろうか?

おそらくその後、そっけなくされたり、逃げられるだろうが、それもまた過程として必ず行われていくものである。ぜんぶ、決まり、約束事、段階を一歩一歩超えていくような恋愛しか、私たちはできない。それもそれで女にストレスを与えてしまうものである。しかし、男も女も実際は空想の世界を生きている。

だから、またドトールの看護学生の女の子に戻るが(話があっちこっちいってしまって申し訳ない)、「おちっこちった?」と言われた看護学生の彼女は、その変態的なセリフに気持ち悪さを覚えると言うよりも、あまりにもその言葉が空間とピタリとはまって、まるで言葉が発せられる前に存在したかのような言葉に出会い、超自然的な、超現実感に激しく揺さぶられ、本当はそちらの方の衝撃で心がいっぱいになっているのに、気持ち悪い! という世間的な慣習の方の気持ちに置き換えて、その情報を処理しているのだ。つまり二次的な現実を選択する。

目と目が通じ合って、互いがピンク色の空気でいっぱいになったのなら、小生が保証する。キスをしてもいい。そのときキスをしないと、絶対に後悔することになる。

あんなスカートなどひらひらした物を履いていたら、ガッと股間をもみしだかれて、めちゃくちゃにされてしまいたくなるものだ。それは自分がスカートを履いてみればわかることだ。パンツの上にスカートを履いて、空気や風が太腿を撫でる時、確かに男の荒々しい手で股間をもみしだかれて、それでやっとひらひら感とバランスが取れるというところがある。

そのようにして、女性はすべてみんな、自分を客観視させながら自分を動かしている。すべて予定調和の中に自分を置いておき、恋ですら、その予定調和の中に起こるから、急に扉を閉めて壁ドンをしてキスをして、主体が客観を追い越す必要があるのである。

まあ、ここまで言えばわかるだろうし、これ以上くどくなるから言わないが、つまり「超現実」、「超現実感」をもって恋愛をするということがいちばん大事になってくるのである。それが昔の、19歳の小生には足りなかったのである。

はたしてあのとき、彼女の全存在はなんと言っていたか? 壁ドンしてキスされたがっていたのではないか? それはわからない。しかし女が一歩出て男に対しなんらかの行動に出るとは、それくらいの覚悟やリスクを承知している。小生はその覚悟をふみにじった。だまって部屋の外に出るくらいなら、壁ドンしてキスされた方がよかった。と女は思う。

私の唇を奪った! 許可もなく! 私の唇を……! と大騒ぎするだろうか? そんなことはあってはならない、だって、キスだよ? 壁ドンはともかく、キスってすごいことだよ? それを、あんなに、簡単に、女の子の唇を……、どういうこと? と頭がいっぱいになるだろう。そんな、人の唇を勝手に許可なく奪っていいはずがない……はず……、と怒りにも似た感情すら覚えるかもしれない。しかし、私が先に好意を見せたのだから、これは私の責任になるのかな? でもキスって、いきなりキスって、いいの? この人は誰にでもこうするの? という困惑の方が勝るだろう。

恋愛において、大切なものを、大切な順序で、大切に固めて、大切に進行していくことは、死を意味する。ドキドキは生において現れる。真面目に「ありがとう」と行って扉から出ていって、後日またお礼をいって、LINEを聞いて、話し合って、デートして、キスして、いったいそれに何の意味があるのだろう? そんな少女漫画があるだろうか?

それが初めてだとしても、やはりやらなければならないのである。ゲーテの言う通り、初めてだから健全で快活なのだ。むしろ、女性に失礼だと思う。いきなりキスをしたら失礼だと思うかもしれないが、彼女は家とアルバイトの往復の毎日の中で、いきなりキスをされたというできごとが、どれほど彼女の生活を彩ることになるだろう? キスをして何が減るというのだろう? 彼女を飛び越えて彼女自身を完成させるだろう。何十年後、老人ホームで嬉々として話すだろう。それがファーストキスだとしても、構わないのではないかと思う。

無論、誰にでも構わずキスしたらいいという話ではないが、目と目が通じあって、深い男女の機微らしきものが発覚したときは、その後のことは責任を持たなくていい、相手に彼氏がいようが関係ない(彼女も彼氏がいることを言おうとしない、聞かれたら言うが、だから聞いてはいけない)。ただ、その瞬間に飛び込むのだ! 今、その瞬間に飛び込まないと、かえって女から深く恨まれることになる。その瞬間に飛び込まなかったから、小生はモテなかったのだ。

壁ドンだけでも確かにすごいことなのだが、壁ドンですら99%の男はやらない。嬉しくなってヘラヘラして世間話を初めて、タイミングを見てLINEを聞くだろう。それはやはり予定調和過ぎてしまう。恋愛というものはやはりドキドキすることが至上の急題なのだから。

手マン。手マンもいいかもしれないが、少しロマンチック感に欠けてしまうかもしれない。相手の全存在を見て、手マンもいけると思ったらいってもいいが、キスをして、その場は立ち去り、2回目、密室でばったり合い、彼女は大急ぎで出て行こうするだろう。そのとき腕を捕まえて、ただじっとみつめる。「どうしてキスしたんですか?」と聞いてくるだろう。そのとき「好きだから」と言ってしまえばいい。

好き?

え? だってまだ話したこともないんだよ? 今はじめて話したんだよ? 会話する前にキスがいちばん先で? え? 好き? それは恋愛の好きを言っているんだよね? 

彼女の頭がこんなふうになっているときに、手マンをするのは少し下品すぎるきらいもあるので、ここは「好きだから」と一言だけいっておいて、あとは何もしない。彼女はまたどうしていいかわからなくなって、部屋を飛び出していってしまうだろう。

こうなってくると、もう彼女の方から話しかけてこない。目すら合わせようとしてこなくなる。なぜか、なぜかわからないが、別のよくわからないふざけた肥満のようなデブみたいな男と親しく話し始めたりするようになる。もちろん、こちらを意識させるためだ。

そこで、手マンである。パイ揉みより、手マンでいく。いきなりパンツの中に手を突っ込む。デブと話してばかりいて、まったくこちらとは話さず、あのキスの日から、一週間くらい経ち、あれはなんだったのか、キスは本当にあったのか、私と彼の関係はいったいなんなんだろう? なんだったんだろう? あれで終わりだったのか? そこでまた休憩室で密室で会ったとき、手マンをする。そこではもうキスをしてもあまり効果がない。

漫画などの作品になると、それは現実よりも超現実、つまり理想が描かれるが、これでわかるだろう。我々の前には常に、現実と理想の二択がある。いつも、いつも、いつも、だ! そしてどちらの方が現実かということを! そしてそれを行くには勇気が必要だ。

想像できることは、すべて現実なのだ。ピカソ

男が追っているようで、女が追っている。女が蜘蛛の巣のようにあたりに張り巡らせ、その糸を手繰り寄せるようにして、はじめて男は女を追うことができる。

すべては、あの間に飛び込むかどうかのような気がするのだ。今、思うと、どんなときでも間があった。その瞬間に飛び込む、間だ。確かに、それは、女性から、ふと動物的な目線で、ほんのりピンク色の香る空気で、それはほんのささいなもので、はっきりしないものだったから、こちらもはっきりした態度はとれなかったが、この微妙なニュアンスを嗅ぎ取り、そこで一気に攻めればよかったということだ。それは36歳になった今になってやっと気づいた。

でないと、追おうにも追えるものではない。たとえば、今ドトールに隣に座ってる看護学生の女の子がいるが、彼女に話しかけても、絶対に空を切ることはわかっている。ドトールの店員においても、ほぼ全員お断りという空気がすでにある。しかし、2、3人だけ、ああこれならいけるな、というのもわかる。同い年くらいの、34、5歳くらいの女性だがね。なんとなく、すぐに付き合えてしまいそうな気がする。これは波動の問題だ。

若い頃というのは力がない。容姿は若い頃の方がよくて圧倒的にチャンスは多いのだが、それを活かせる力がない。飛び込む力がないのだ。

小生は、数多くの女に嫌われたものだったが、やっぱり小生が悪かったと思う。彼女たちのサインをすべて無視して通り過ぎてきてしまった。彼女たちはほんとうのところ、小生のことが好きだったのだと思う。好きとまではいかないけど、興味をもってくれていた。小生があのとき飛び込まなかったから、小生のことを恨んでいたのだと思う。

理想が正しい。理想が現実だ。

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