霊的修行

気は下へ下へ流れさせる

我々は、ポジティブシンキングやら気持ちを楽しませ、ワクワクドキドキさせたり、精神を高揚させたがり、それを人間の本然の喜びと思っているようだ。

しかし白隠禅師のいうところでは、気は下に下に、下にいくほど良いと言っている。荘子もまた、聖人は踵から呼吸すると言っている。

つまり、日常至る所で気を下に流すようにすることが肝要らしい。

確かに気が上空にあるときは物事を失敗しやすいし、他人を非難したり攻撃してる時はいつだって必ず気が上空にあり、頭に血が上っているところであり、「腹が立つ」とはその言葉の通り、腹が上に向かっていると考えられる。

こうして記事を書く上でも、気が上にある時と下にあるかで大きく質が異なってくるところである。

今、自分の気が上か下かに流れているかどうかで、それが自分の在り方として正しいか悪いかというリトマス紙に似た役割を果たすと考えられる。

それはたとえ口先から出た言葉が正しい響きを伴っていたとしても、それが気の上空から出たという時点で間違った言葉になるかもしれない。

言葉や行動よりも、気の位置によって、正しさの判別を行なうことがいいように最近は思っている。

また気が下流に流れており、それを維持することさえできれば腹も立たないし、吐く言葉も間違えず、下に下に行けば行くほどそれは顕著になるように思われる。

さて、肝心なのはどうやったら気が下に行くかというところだが、これは『夜船閑話』に書かれた白隠禅師の言葉をヒントにして考えてみた。

人間の本体はみんな心臓や脳だと思っているらしいが、聖人はみんな気海丹田にあると考えている。

これを力いっぱい活動させる。よく膨らませたり凹ませたりしてあげる。なるべく大きな可動域を与えてあげる。まあつまり腹式呼吸ではある

そのためには姿勢が大事である。体が曲がっていると正しく腹部は運動できない。

そしてこれを考えたり、試してみたところ、自分の意思で呼吸をして凹ましたり膨らませたりしていると、それはそれで面倒くさくなって疲れてしまうし、やめてしまう。日常の生活の中に溶け込ませることが難しい。

だから、ただ観察する。能動的ではなく受動的に行う。何もしなければ勝手に呼吸が行われ、勝手に運動だけが行われていくのがわかる。自分で呼吸をしようとすると自然な呼吸の運行を妨げてしまって、タイミングやリズムを無理やり作ってしまうことになる。

姿勢だけ調えて、十分に可動域を広げたら、あとは力を抜いて、勝手に腹部の呼吸が行われているのを観察するだけである。呼吸に自分を合わせていくようにする。だんだんと自分がそこに溶け込んで一つになっていくのがわかる。

頭脳を自分の本体として見立てていると、間違いを起こしてしまうが、この腹部が膨らんだり凹んだりしているものを自分の本体と思うと、なかなか自分というものから外れなくなる。イライラもしない。食欲を抑える働きもあるようだ。

朝の体操のように、さぁ深呼吸しましょう〜ではなくて、受動的に呼吸に入って行く方がいいように思われる。静かに膨らんだり凹んだりしているのを観察するだけがいいようである。まあ、この辺りは専門家の言っていることの方が正しいかもしれない。2週間やそこら、自分で研究してみて、この方がやりやすいし、生活に応用しやすいと思った次第である。

この膨らんだり凹んだりしているものだけが、いわゆる自分の本体であり、それ以外は余計だと思われる。他に何もない。これが本体だと思われる。それ以外に発生するものはすべて必要のない雑念と考えて問題ないと思われる。

食欲も負の感情も、この腹部の呼吸を眺めていればすべて収まると白隠禅師も言っている。

心臓はどんなに忙しく動いたとしても、腹はいつもゆっくり動いている。

腹で話し、腹で聴き、腹で日常を送ることに楽しみを覚え、今一番気になっているところではある。

確かにいいアイデアも、頭を一生懸命働かせている時よりも、ふと立ち上がったり、ふと歩いてる時に下層部から湧いてくるものである。

いずれはこの腹の中にすべてが吸い込まれるようなところまで持っていきたいものである。

仕事を失敗した朝も、同僚の噂をしたくなる昼も、食べたくて仕方がない夕方も、死にたくて仕方がない夜も、腹はそうは言ってはいない。

腹以外に何もない。

常に気を下流に流しておけば、もちろんそれにこしたことはないが、それも難しいかもしれない。

道に迷ったり、不安に駆られ、気がおかしくなったときはこれを採用して、この、腹部の運動が行われているだけの状態が正常な状態だということを知っておくだけで、頼りとなる指針にありつけるだろう。

ここのリズムに合わせておけば、簡単に謝ったり、簡単に非難したりすることもなくなるだろう。

自己啓発系のツイート文章を頼りにするよりは、人間の本然の生命の流れを組んでいると思われるこちらの方が説得力はあるように思われる。小生は実のところあまりよくはわかっていないが、白隠禅師がそういってるのだから、間違いないだろう。

思考の追いかけっこをして解決を試みるよりも、一気に思考そのものを断ち切ってやることだ。

案外、友達と電話しているときに、この気を下流に流し、呼吸だけに集中して話していれば、もしかしたらいつもより面白く話せるかもしれない。今度友達と話すときに試してみようとは思っている。

宮本武蔵も戦闘中はつい浮き足だってしまいがちなものであり、跳ねるように歩いてしまうものだけど、これに十分に注意して、地を一歩一歩踏みしめるようにしなければならないと五輪書に書いてある。

そうでなくとも我々は、誰かと接したり話したりするときに、ついついピアノの音階でいう、高い音や高い心を出してしまいがちである。そして、相手が話している最中だというのに割り込んだり、言わなくていいことを言ってしまったり、相手が話し終わるまでゆっくり待てないことがしばしばである。

確かに人間は寝息を立てているときのように、下に気が流れているのが自然で、そこに我が入ることで上空に舞い上がっていってしまう。脳を正しく使おうとして、気を上空に運ばせるが、気が下にある時の方が脳を処理能力が上がり、十分に能力を引き出せるようになるというのは、よく言われているところである。

まだ理論だけが先行してはいるが、自動的に行われる腹式のリズムが人間の本来のリズムで、そこから外れた分だけ不協和音として自分に返ってくるのではないかと仮定しながら研究を進めている。

ここから喜びを見出し、他のさまざまな娯楽よりも、この呼吸と一つになってる時が一番楽しいという状況にまで持って行けたら、人間これ以上の幸せはないだろう。

ここに、自身を投影し、埋没させる。変に厭世的だったり、ひどく落ち着きすぎていたりするのも、それはそれで人をイライラさせてしまうところではあるが、それも腹の底からの笑みを出すことができれば、すべて一掃されるだろう。

そう考えると、やはり腹の底がすべてに繋がっているようである。自身の考えや感情よりも、やはりこの腹の底から湧き出てくるものに耳を傾けたいものである。

記事や動画を次の段階に進めるためには、この修練にかかっているようである。やることと言えば、食生活と中心力の練磨だけなので、ずいぶんシンプルなものだ。

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