食べ物に関する研究・美容・健康

食べ物と性欲の関係

これは本当に驚くべきことだが、性欲は食生活からきている。食べるものを自然食だけにするとほとんどと言っていいくらい性欲がなくなってしまう。

質より量の方が重要ともいわれている。いくら自然食だからといって、食べ過ぎるとまた性欲がふつふつと湧いてくる。

糞便のように、食べ過ぎたものは排泄されるように、過剰分は精液を通して排出されるようになっているのかもしれない。欲心をはじめとする感情も、心の乱れも、負の感情も、食べ過ぎた分だけ外に表れるようである。

心の乱れは全て食べ物から起こっていると、水野南北も言っている。

性欲ほど苦しめられるものはないだろう。人々はみんな性欲に苦しめられている。性犯罪を犯す人は可哀想に思う。これらは食べるものさえ気をつければ起こらなかったと考えられる。

みんな荒れ狂う脳内の電気信号に振り回され、仕方なく痴漢したり盗撮したり、エロサイトを見て有料動画に課金して、なけなしの金で風俗に行き、日中煩悩に苛まれ、仕事にも励めず、夢も追えず、生きる気力とやり場のない怒りを精液にして吐き出すしかない。ただただ時間を無為にするしかなくなる。女の尻ばかり追いかけて出会い系をして、したくもないメッセージを応酬して、平日も休日も失う。

誰だってこんな時間は過ごしたくないけれども、どうしようもなくやるせない性欲に支配されて、こうするしかなくなってしまうのである。ある程度自分を保持できて、プライドが高い人間は、性犯罪を起こさないでいられるが、いくらか弱い人は、ふと流されてしまってもおかしくはない。我々が考えているより、このラインを決して遠く隔たれてはいない。誰だって会社の帰りに性犯罪を起こしたとしても不思議ではないのだ。

この方面で計画性のある努力ができて、無事に女性と付き合うことができる男ならいいが、誰でもできることではない。運もある。うまくできない者からすると、性犯罪を起こすしかなくなるだろう。

そう考えると、オナニーは偉大である。オナニーがなかったら、女性は産まれた日に未来を考慮して殺されているかもしれない。

男はいつだって、誰もが、この性の煩悩に苦しめられている。オナニーによってなんとかやり過ごすことができているに過ぎない人間が、性犯罪を起こした人に対して、「ちんこを切ってしまえ!」とか「同じ男として恥ずかしい!」と言うけれども、彼らだって、そうやって声に出して騒くことで、自分は性犯罪から遠い人間なのだと、自分で自分のことを信じたくて叫んでいるに過ぎないのだ。

彼らも性欲がなくなってしまうことは寂しいとは思っているものの、いざ集中したい時や、こんな時に性欲がなければいいのに……と思うことは日常茶飯事であり、受験という、いちばん大事な時期に、これによって苦しめられ、将来を棒に振ってしまう人も少なくない。

これを意志で乗り越えようと思っている人は多いだろうし、じっさいに、みんな意志で乗り越えている。性犯罪を起こすかどうかは、意志が強いか弱いかでしかないのだ。

そうやって無駄に意志の力を働かせて、それだけで1日が終わってしまうこともあり得る。ちんこを握ったまま一日中歯を食いしばって寝て過ごす人は少なくない。そうすると、俺は一体何なのかということになる。

神は一体何を考えているのか? なぜ俺たちをこんな風に作ったのか? これじゃやりたいこともやれないし、できることもできない。一生ちんこを握りしめたまま歯を食いしばって人生が終わってしまう。じっさいに13歳から45歳くらいまで、多くの男がこうやって大切な時間を無為にしてしまう。

これは、大袈裟な表現ではない。最も有名な自己啓発本である『思考が現実化する』では、成功者に40歳以下の人間がいないのは、性欲のために仕事に集中できないからだと書かれてある。

しかし神はこんなふうに人間を作っていない。我々人間が人間の正しい扱い方をわかっていないためにこんな過ちを繰り返してしまうのである!

救済処置はあるのだ。みんなオナニーしか救済処置はないと思ってるかもしれないが、ちゃんとある。

それは、生玄米である。

生玄米を食べていると、びっくりするくらい性欲がなくなる。性欲どころか、欲という欲がほとんどなくなってしまう。他人と争う気持ちがなくなるし、自分の名利を立てようという気持ちもなくなる。ただ静かで深い呼吸が続くだけである。

加熱した玄米と生玄米とで比べてみたところ、やはり生玄米の方が、この作用は大きく働くようである。

つまり、みんなTwitterで暴れ狂ったり、ネットで暴言を吐いたり、性欲に振り回されたり、物を欲しがったり、何者かになりたがるのは、食事によるところがとてもとても大きいのである。

水野南北は食事さえ気をつければいいとさえ言っている。食事さえ節制すれば、あとのことはすべて何とでもなると言っている。

「私は遊郭に行ってしまうのですが、それはいいのですか? 本当に食事だけ気をつけていればいいのですか?」と相談を受けたときも、「遊郭に行っても構わない。食事だけ気をつけていればいい」と答えている。

これはさすがに小生も言いすぎではないか?とは思っていたが、やはり自分の体で試したところ、本当にそのように思う。食事を気をつけていれば、他の、煩わされていた全てのことから解放される。だから食事だけを気をつけていればいいのだ。

しかし、節制者がみんな人格者というと、案外そうでもない。彼らは、肉や魚を食べる人間を出し抜いたつもりでいることが多く、自分だけが得しているような顔をする。だから、嫌われるのだろう。

しかしそれも初級者の驕りというものであり、生菜食を発見した喜びが、まだ胸の中に広がっている中途であり、5年も10年もしてくれば落ち着いてくるだろう。

性犯罪を起こしてしまった彼らが、自然な菜食だけを取っていたら、こうなることはなかった。そればかりでなく、日々をハツラツに生きることができで、心の底から、セックスなんて別にしなくていいやと、強がることもなく言えて、自然の楽しみを十分に味わって生きることができた。周りから変態だと揶揄されて、同情の欠片も与えられず、しょうがないとすら思ってももらえず、道半ばで人生を棒に振ってしまうことはなかった。

そう思うと、彼らは被害者である。彼らを性犯罪者にしておきながら、裁いているのは、むろん社会である。社会がこうした非人道的なことをやっているのは遊びだからではない。社会もまた無知ゆえである。何も知らない者同士が、欲を追求していった為に起こってしまった悲劇である。

確かに瞑想やら座禅やらスポーツやら紙に気持ちを書きまくるとか、朝の光を浴びるとか、色々あるけれども、小生が試した限りでは、食生活以上に心をコントロールするすべはない。

「サードヴィック(純粋)な食べ物を食べることが、あなたの自己を完成させる上で最も一番いい方法だろう」とラマナ・マハリシは言っていたが、水野南北も、スリ・ユクテスワも言っていたが、これは本当に間違いないだろう。

加熱した玄米よりも、生玄米の方が心を安定するのは、加熱するとつい食べ過ぎてしまうことも原因のひとつだろう。食べすぎた分だけ、エロくなるとみて、まず間違いはない。

生の食べ物だけだと、ちょうど自分に必要な分量だけ食べたいと思い、それ以上を食べたいとは思わなくなる。おいしくないからである。

性欲、性欲ほど、面倒で、やっかいなものはあるだろうか?

このために、男は金を稼ぎ、時間を消費し、日々精神を摩耗し、理性を狂わせられ、犯罪に手を染め、欲しいものすらよくわからなくなる。結婚も恋も、じっさいのところはよくわかっていないのだ。好きでもない相手を一生懸命追いかけ、好きでもない相手に乱心して飛びかかって逮捕されてしまうのだ。

好きという感情も、食べ物が作り出している紛い物に過ぎないかもしれない。単に性線が暴走して事故を起こしているだけ。純粋に誰かを愛するという感情さえ、食べ物によって狂わさせられている。

人は思っているほど自分が自分ではなく、食べ物によって作られた心を自分自身だと思っている。

なぜこんなに頭がはっきりしないのか、なぜこんなに心がはっきりしないのか、なぜこんなにイライラするのか、なぜ自分はこんなにエロいのか、もう、よくわからないだろう。

しかしそれはあなたではない。肉な魚や化学調味料が作り出した、あなたとは遠い何かである。

激昂したり、他人を苦しめたり、自分を苦しめたり、エッチな妄想に日々苛まれるのは、すべて食べ物のせいである。

食欲、性欲、睡眠欲、本当に好きという気持ちも、愛も、恋も、ちゃんと人を愛すということさえ、食べ物にかかっているのだ。

生玄米だけを食べていると、まるでエッチなことを考えない。欲しいものも欲しくなくなる。欲心という欲心がすべてなくなっていく。そうやってなくなっていって、最後に残ったものだけを大切にできるようになるだろう。小生はまだ、たまに変なものを食べて、マックに行って、フライドポテトのLを二個食べてしまうことがあるので、まだこの域には達していないけれども、道だけは見えている。

母に長生きしてもらいたくて、自然菜食を勧めてみたが、60になる母ですら、菜食生活をしていると、生きる喜びがなくなってしまうと言った。

そうは言っても母は普段からかなり少食で、せいぜいお椀一杯と適当なおかずを食べるのみであり、間食はほとんどしない、肉や魚もあまり食べない。

そんな母ですら、菜食生活をすると生きる喜びを見出せなくなるという。確かにその通り、生玄米だけを食べていると、生活そのものの喜びがなくなってしまう。今まで楽しいと思っていたものとすべてお別れしなければならない。どうせ金持ちになったとしたって、生玄米生活が続くだけなので、別に金持ちになろうとも思わなくなる。

そこから、また別の楽しみを、本然の楽しみを感じ取れるようになっていけばいいのだが、それはまた別の機会に話そう。


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