「もういいかげんにしてよ!」
また店長がパートリーダーのおばさんに怒られていた。
「新商品のわらび餅を必ず紹介するようにっていったじゃん! ちゃんとやってよ!」
「ああ、うん」と店長は返事だけ済ませると、逃げるように事務室に入ってしまった。
レジ対応時に春フェアのわらび餅の紹介をしなかったらしい。
パートリーダーのおばさんは、決められたルールだから守らなければならないという思いもあったろうが、それ以上に、本当に客にわらび餅を紹介したかったようだ。自分が発明したわけでもなく、自分の懐に金が入ってくるわけでもないのに、一生懸命に商品を捌こうとする従業員は稀にいる。
店長は、今日も一日、店が爆発することなく普通に終わればいいとしか思っていなかったから、わらび餅のことなんてどうでもよかったのだろう。
店長はパートリーダーのおばさんに一日に5回は怒られている。多いときは10回以上 。客がぜんいん振り向くほどの怒声を浴びせられることもある。
店長の歳はおそらく40代半ば。激しい天パ。牛乳ビンの底のような眼鏡をかけている。のび太をそのまま大きくしたような感じだ。独身だろう。ユニフォームはいつもくちゃくちゃだ。
小生が初めて店長を見たのは2ヶ月前である。ガスのスイッチを切る手順を間違えたのだろう。コーヒーの機械がボン! っと聞いたことのない凄まじい音を立てた。高校生のバイトでもやらかさないミスだ。普通それだけのことをしたら、店内の客に状況説明ぐらいはするものだし、「失礼致しました」ぐらいの声かけはぜったいに必要なのだが、店長はぼやっとした顔をして、そのまま仕事を続けた。発達障害か何かと思った。
「やだー店長! この捨て方やめてよ!」と、パートリーダーのおばさんがゴミ箱を見て、また叫んだ。
変なゴミの捨て方をしたのだろう。ゴミの捨て方で飲食店の向き不向きがわかる。小生もむかし飲食店のバイトで、雑巾を絞ったバケツの水をキッチンに流して、ものすごく怒られたことがある。
店長は2ヶ月もすれば新人に追い抜かれる。トイレ掃除の後に、手の消毒をせずにソフトクリームの補充をしだして、「店長、手洗った方がいいんじゃないですか」と新人にいわれていた。店長は、「あーそうだね」といって笑っていた。
店長は怒られてもいつもヘラヘラしている。頭をかいて笑っている。仕事ができない人間の多くはヘラヘラしていて愛想がいい。仕事のできない落ち度を埋め合わせるには愛想をよくするしかないからである。へこんだり、しょぼくれてる姿は、なんともいえない悲壮感を人に与えてしまい余計に惨めになるから、空元気をする。だから、ハイ! ハイ! と、愛想よく返事をして、怒られたことを気にしてないかのように振舞う。
しかし、あまり単調にハイ! といってるとバカそうに見えるし、ちゃんと話を聞いていないように見えるから、『ハイ』を調整する。ハイの音量や、ハイのイントネーションを上げてみたり下げてみたり、「あー、」を入れてみたり、「あ! ハイ!」といってみたり、様々なハイの返しに気を配るようになる。少しハイをいいすぎたと思うと、あえて黙ってみたり。そんなふうに、いかに適切なハイをいうかに心を奪われているため、肝心の怒られている内容を聞き漏らし、また同じミスをして怒られてしまう。怒られても、『ハイ』のレパートリーが増えていくだけである(店長はハイといわずにうんというが)。
いかに自分は傷ついていないか、動じてないかというポーズをとることに専心し、怒られている話の中身よりも、ヘラヘラすることにエネルギーを割いてしまう。そして、そのままわからないことをわからないままにしてしまい、聞きたくても、一度丁寧に教えてもらったこともあり、もう一度教えてもらうわけにもいかなくなって、もう一度同じミスをして怒られる。
人は仕事をするために生きている。食べるのも寝るのも遊ぶのも仕事をするためである。その仕事ができないとなると、何のために生きてるの? ということになる。我々は社会が回るための部品の役割をそれぞれ担っているから、仕事ができないことほど不名誉なことはない。40代半ばという働き盛りの年齢だと、なおさらである。
ある日、パートリーダーのおばさんが若い女性スタッフと話していた。「ねえ、昨日の夜、店長から『あー疲れた』ってLINEが届いたんだけど、これどういう意味だと思う? 『あー疲れた』だけ送られてきたの。まあ無視したけど。何の目的で、何をいいたくて私に送ってきたんだろう?」と女性スタッフに訊ねていた。女性スタッフはしばらく考えてから首をかしげ、「さあ」といった。
『あー疲れた』
これだけのメッセージを送る。自分を毎日怒ってくるパートリーダーのおばさんに、これだけのメッセージを送る。小生はこの意味を一瞬で理解したが、仕事のできる人間には一生わからないだろう。
店長は、自分が仕事をできないということをうやむやにしたかったのだ。店長はこれまでたくさんミスをして、たくさん失望されて、たくさんダメ店長の烙印を押されてしまったが、普通におはようとか、疲れたとか、『あー疲れた』という、普通の感じで、普通のふるまいをすることで、自分を普通の人間として認識させて、ごまかそうとしたのだ。『あー疲れた』というのは、普通に仕事をしている人が、普通の仕事を終えたときに普通に漏らす感想だから、店長は一生懸命考えたあげく、これがいちばん普通っぽいなと思い、このメッセージを選んだのだ。つまり、普通を擬態工作した。
『あー疲れた』と送ることで、向こうからも、『疲れますよねー』とか、『最近店混みますもんね』とか、『深夜スタッフがなかなか集まらないですもんね』などと、普通の返事がくることを期待したのだろう。しかしその試みは失敗し、メッセージは無視され、翌日はスタッフに訝しがられる始末。普通でない人間が普通の世界を演出しようとするとこういうことになる。
仕事ができない人というのは、こういう擬態をする。実世界では、漫画やアニメのように、仕事ができないおっちょこちょいキャラは通用しない。仕事ができないと非常にまわりをイライラさせる。仲のいい同僚がいたとしても、同じ失敗を4回も繰り返せば疎遠となる。逆にあまりコミュニケーションをとらずとも、仕事さえこなせていれば、それなりに優しい言葉をかけてもらえるものである。
特に10代の学生などは、自身のパーソナリティを捨てて漫画のキャラになり切ろうとすることが多い。私は黒ぶちメガネキャラ、俺は硬派ないぶし銀キャラ。僕は進撃の巨人のリヴァイ兵長! 小生が理学療法の専門学校にいた頃は、多くの男がワンピースのゾロを模倣していた。ゾロの見た目だけでなく性格まで真似ていて、「ゾロみたいだね」といってもらうことを夢見ている男が多かった。察知した小生が、「ゾロみたいだね」というと、「そんなことないっすよ」といいながらも、彼らは隠しきれない嬉しそうな顔を見せた。
ゾロのような、一本木で純粋なキャラクター。いじめとか万引きとかはやらねーけど、いざとなったら腹をくくる。仲間のために命をかける。「おはようございます」じゃなくて「うっす」とか「あっす」とかいって、返事は不器用で、教室の隅で寝そべって、「ちょっと男子ちゃんと掃除してよ!」というナミのような口うるさいクラスメイトに「あー?」といいながらも、暴漢が教室に攻めてきたときはモップで一撃のもとに斬り伏せる。彼らはいつもそんな夢想をしていた。しかし仕事でそのキャラクターは許されない。彼らは社会にでると、大人になっていった。
それでもまだ、大人になっても、おっちょこちょいキャラでやり過ごそうとする者はいる。仕事のミスをしても、「すいませーん🙇🙏💦」といって、「まったくカツはしょうがねぇなぁ」「へへ、すいませーん🙇🏻💦」「カツはこういうやつなんですよ」「すいやせん💦」「ったくカツはしょうがねぇなぁ」「カツ、飯食い行くぞ!」「うぃす!😊」という感じでやり過ごし、おっちょこちょいキャラとして生きることに手応えを覚えてしまう人間がいる。しかしこれは絶対にうまくいかない。小生はそういう人間を何人も見てきたが、みんな店長のようになるのが常だった。仕事は一人が失敗すると全員に迷惑が被るし、みんな同じ給料を貰っているし、みんな毎日嫌で嫌でたまらない朝を乗り越えてやってくるのだから。
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ショーペンハウアーは、「怒りのない人間は、知力もない。知力はある種のとげとげしさ、鋭さをはらみ、そのため毎日、実生活、芸術や文学で無数の事柄にひそかな非難やあざけりをおぼえるが、それこそ愚かな模倣を阻止してくれるものだ」といっている。
店長は決して怒らない。毒がない。恐ろしいほどに。スタッフや客の前でどれだけ強く怒られても、怒り返さない。確かに、毒がある人間ほど仕事ができるかもしれない。
一国一城の主だとしても、おばさんにガミガミ怒られていると、周りのスタッフも舐めてかかるようになる。昨日面接して採用したばかりの人間にも舐められ始める。
といっても、おそらくだが、まわりのスタッフは小生ほどには店長を危険視していない。みんな、当たり前のことを当たり前にやれてしまうから、他人も当たり前にやれると思っている。店長のことも当たり前にやれるだろうと思っている。でも、なんとなく、この人ミス多いなぁ、とは思っている。逆にいえば、それくらいにしか店長のことを思っていないかもしれない。
もし本当に仕事ができないという烙印を押されたら、たとえば発達障害者として正式に書類で証明されたら、まわりの目は変わってくる。それはとても残念な空気が漂うし、普通にコミュニケーションをとって、普通に仕事するというラインから外れてしまう。店長も、期待されているから怒られるのである。怒られているうちはまだいい、というやつか。期待や信用を失うことほど人間に耐え難いものはない。
実のところをいうと、店長はそこまで仕事ができないわけではない。パートリーダーのおばさんが10だとしたら、まわりの平均的なスタッフが7。金髪の大学生が5。店長は4.7ぐらいである。なんとなく目につくミスは多いが、ドトールの運行を妨げるほどではない。普通にコーヒーを注文されてコーヒーを提供することはできている。ここでいう1とは殴ったり蹴ったりする人で、2は仕事をサボって店に来ない人をいうから、⒋7というのはギリギリというか、難しいラインである。
店長という立場の人間は、フロア全体を見ながら仕事をしなければならないが、店長は一度トイレ掃除や床磨きをやり出すと、それに専念してしまう。お客さんが来ても知らん顔して、ひたすら床を磨いている。気が利かない。気づかない。指示する立場なのに指示されている。パートのおばさんにいわれるまで何をしていいかわからず、社会科見学でドトールにやってきた小学生のようにボーッと突っ立ってることがある。これは自分の世界、自分の部屋にいるような感覚に陥ることが癖になっており、時間や空間を周囲と共有するのが不得意なためだと思われる。
「店長、外ゴミ散らかってるから片付けてきて」といわれたときは、珍しくムッとした顔をした。それはお前ら従業員のやる仕事だといいたそうな顔だった。しかし店長は黙ってダウンコートを羽織り、ゴミ袋を持って外へ出ていった。二月の午後の風に吹かれてゴミを拾う店長の姿は寂しげだった。しかし煩わしいものから解放されたというような、気持ちよさそうな顔も同時に浮かべていた。
店長は外から店内をチラチラ見ていた。フロアでパートのおばさん達が束になって話していたからだろう。店長はスタッフが集まって話をしていると、自分の悪口をいわれてるんじゃないかと不安になるらしく、そういうときはよく声が集まる方をキョロキョロ見たり、聞き耳を立てていた。本来は注意しなければいけない立場なのだが、スタッフ達が心のままに雑談するのを許していた。
「なんだい、あんたがゴミ拾ってんのかい、関心だねぇ」というかのように、常連さんに声をかけられているのが見えた。店長は優しい笑顔で返していた。店長は、丁寧に、ゆっくりと、生い茂る街路樹の隙間という隙間までゴミを探していた。ずっとゴミを拾っていたい、といわんばかりだった。こうしている間は怒られなくてすむというように、家庭内暴力に怯える子供が、学校にひと時の安寧を見出すかのように、ゴミを拾っていた。
「店長いつまでやってんの!? もうゴミないじゃん! フロア混んできたから手伝って!」
「あー、うん!」
「ねートイレ掃除やったの店長? ブラシ出しっぱなし!」
「あー、俺だったかなぁ?」
「やったんだったらちゃんとチェック書いといて!」
店長はフロアに戻るとすぐにトイレに向かった。この件とは関係ないが、店長はトイレに行く回数が非常に多い。おしっこではなく涙を流しているのかもしれない。
「外掃除したあとちゃんと消毒したー?」
「え? 殺虫剤まくの?」
「違う! 手! 手の消毒!」
「うーん、今する!」
※
仕事は何をいうかより誰がいうかの方が重要である。このドトールにおいても、パートリーダーのおばさんが法であり正義となっている。
どの職場にもキーパーソンなる人がいて、その人のパーソナリティがそのまま空気に反映される。集団が空気を作るのではない。たった一人の人間によって作られる。
この人は顔からして既に違う。エネルギーに満ちあふれている。見た目はおかっぱ頭で、田島陽子みたいである。以前、客と話しているときに、もう52になりますよ〜、といっていたので、52歳だろう。52歳とは、余計な雑念や欲もなくなってきて、もっとも純粋な動機のもとに行動できるいちばんいい年齢かもしれない。
彼女は、「大切なお客様がご来店です!」と店内に大きく響き渡る声を出す。初めてこのドトールにやってきた客はみんな(おっ)という顔をする。このおばさんがこの店の中心なんだなと、すぐに察する。
天職だろう。何でも気づき、何でもこなす。千手観音のように自在に千の手を操っているようである。もうこれ以上の成長は望めそうもないのに、改良を怠らない。イチローがバットスイングを確かめるように、常に自分の行動をフィードバックしている。毎晩、分厚いドトールのマニュアル本を家に帰って読んでいそうである。
このパートリーダーのおばさんは毎日出勤している。一日の勤務時間はとても長い。小生が朝に行っても夜に行ってもいる。深夜の時間帯以外はいつでもいるようだ。おそらく10時間以上は働いている。その間、一切疲れた顔を見せない。「大切なお客様がご来店です!」とずっと大きな声を出し続けている。
金もいらない、名誉もいらない。ただ神に捧げものをするかのように身を粉にして働いている。これを格闘技やネットビジネスに費やしていれば今頃億万長者だったかもしれないが、彼女はドトールでその天分が引き出されるように生まれついている。まるでドトールそのものだ。
仕事は、命令されたことをしっかりやれるかに尽きる。逆転シュートや、大穴一発狙いや、マンモスの急所を穿つようなことはどうでもよくて、ミスしないことが重要だ。毎日同じことしかしないので、その役割を滞りなく守ればいい。しっかりしていることだけが大事だ。学校でいえば、テストで高得点を取るより、提出物などを通じて内申点を確保し、推薦入試を勝ち取る人間がいい。学級委員長タイプがいちばん社会で重宝される。
飲食店の仕事は主婦向けに作られており、明らかに男より女の方が適している。いってしまえば家事の延長である。家でなしていることが仕事でも続いているようなもので、主婦歴30年の知恵がここぞとばかりに活かされる。家事、育児、仕事の三神経が互いに結びつき合い、大きな神経叢となって脊髄を通って大脳で光輝する。才能に加えて圧倒的な経験が手伝うのだ。
パートリーダーのおばさんは、客とすれ違うと、一度立ち止まって、ゆっくりお辞儀をする。そのまま客が通り過ぎるまで一歩も動かずに微笑んでいる。ドトールか高級キャバクラかわかったもんじゃない。店長にその優しさを少し分けてあげてほしい。しかし、こんな動作が自然に身につくはずがない。よほど意志の力を使って、照れとの戦いを勝ち抜かねばできない芸当である。一種の信仰心のようなものが必要となる。店長はすれ違っても、そのまま速度を落とさずトイレに行く。
スタッフのほとんどが女性なのだが、すべてのスタッフを下の名前にちゃん付けして呼んでいる。南ちゃんとか香織ちゃん、というように。40代や50代の女性スタッフもいるが、その人達にさえ、澄子(すみこ)ちゃんとか、光沙枝(みさえ)ちゃんというふうに呼んでいる。この辺りも彼女の哲学なのだろう。照れや臆病風を乗り越える強さを持っている。
彼女の、「大切なお客様がご来店です!」という声につられて、幾人かの若いスタッフも、小声ではあるが、「大切なお客様がご来店です……」と一緒になっていっている。高校を卒業したばかりの19歳かそこらは、いちばん洗脳されやすい年頃だから無理もないだろう(店長はこの台詞はいわない)。足の悪いおばあちゃんがそれを見て、うんうん、結構やねぇというふうにうなづいている。
※
店長は出勤時、すべてのエネルギーを使い果たしたような顔でやってくる。本当に仕事に行くのが嫌で嫌で、鞭打って出勤し、出勤することにすべてのエネルギーを使い果たしてしまったようで、朝の8時なのに、もうグッタリしている。「大切な店長がご来店です!」とはいわれない。それどころか、昨日やり残した仕事があるまま帰ったことを怒られるところから、店長の一日は始まる。
働く時間は長い。一日のほとんどが仕事の時間である。とすると、人生のほとんどが仕事の時間である。とすると、仕事が人生である。
とすると、仕事ができない人生なら終わりにしてしまえという論が成り立ってもおかしくはない。高校生の小僧や小娘ができるような仕事が、なぜ俺にはできないのかと思って、自分には社会でやっていく力がないと思って、すべての可能性を閉ざしてしまう。命を絶つには十分な理由である。さいきん店長の背中に死相が見える。自殺する人は、仕事がつらいから自殺するのではなくて、将来の可能性が閉ざされていると思うから自殺するのである。ヘラヘラしているから大丈夫だろうと思っていると、次の日に自殺したりしているものである。
人はその環境にいると、その環境の中でしかものを考えられなくなる。平和は戦争を狂気と思い、戦争は平和を狂気と思うように。
ドトールの店長になろうとする中年は、一般企業での戦いの果てに敗れ去って流れ着いてくる者が多い。残りの人生は、若いバイトとヘラヘラしながら適当にコーヒー作って定年までやり過ごそう、という気でいる。だからもう、負けはたくさんなのだ。なのに、ここでも負けを味わされる。しかし店長は、店長の人生に負けたわけではない。行き過ぎたサービス戦争に負けたのだ。
小生はそれなりにトイレを綺麗にしてくれて、アイスコーヒーを普通に作ってくれればそれ以上のものは求めない。スタッフがフロアでくっちゃべっていたっていいし、スマホを弄っていてもいい。やることさえやってくれればいい。それぐらいフラットな国であってほしい。目の前で店長を怒ったあとに、優しい笑顔で、「アイスコーヒーお待たせしました!」といわれても、怖いだけである。わらび餅の紹介をされてもうるさいだけだ。さっさとアイスコーヒーだけよこせと思う。なんならセルフでも構わない。レシートを手渡しされても、目の前で捨てるのに気が引けるだけである。
もう少し、我々は、自分を責めず、他人を責めず、自由に呼吸して仕事をしてもいい。みんな、ぜいぜいはあはあしながら働いているのは、他ならぬ、自分で自分の首を絞めているからだ。
そういう意味でいえば店長は、部下を自殺させる心配はなさそうである。怒られるつらさをしっている分、誰かを怒るということはなさそうである。怒らないのか怒れないのかはしらないが、小生だったらパートリーダーのおばさんより、店長の下で働きたい。
どんなに仕事ができたとしても、たった一人の人間を、明日仕事に行きたくないという気持ちにさせてしまっている時点で、仕事ができるとはいえない。本当に仕事ができるというのは、すべての従業員に光を与えることである。働く活力を! ナポレオン軍が行進する際、兵士たちは一種の光芒の中に包まれているようだったとマルモン元師が回想したように!
カンボジアの郵便局の職員は、客に呼ばれるまで平気でスマホを弄っているという。店長もヘラヘラしているといっても、最低限ドトールをドトールとして存命させ、次のシフトの交代まで繋いでいるから、カンボジアだったらエリート店長だろう。
※
店長はまたパートリーダーのおばさんに怒られている。今度は何をしたのか。うん、うん、と返事はしているけど、頭に何も入っていないのは見てとれる。見聞色の覇気の使い手でなくとも、遠くない先の未来が見てとれる。
小生はそんな店長を見ながら、カンボジアにドトールの支店ができて、そこに店長が飛ばされないかなぁと思いながら、コーヒーを口に含むのである。