ずーっと、ずーっと、考えている。出会ったときのあの閃光が今もまだきらめき続けているのだ。
まーた、『光』かよ。お前、女見るたびにいつも言ってんじゃねーか、と思うかもしれないけど……。
まぁ、女性などというものは、みんな光を携えているものでね。もともと光量でいえば男より多い。たいていどの女性も光っているものだが……
あの光り方はおかしい……。
なんで、あんなに光っていたのだろう……。
考えるのはそればかりである。あれから三日ほど経つが、仕事をしようにも、執筆をしようにも、何をしていても、彼女のことばかり考えてしまう。イチローが、「朝起きて、その人のことを考えていたら好きということじゃないか」と名言を残していたけれども、野球選手でありながらこのような名言を残すところに、イチローのイチローたる所以があるだろう。
じつは、あれから続きがあった。
図書館の自習室にて、彼女のとなりに座っていたわけだが……。あのあと、そろそろ帰るかと思って立ち上がったところ、なんと、声をかけられた(!)彼女がヒョイっと顔を乗り出してきて、俺に何かを話しかけてきた。その乗り出し方というのが、ヒョイっていう擬音が聞こえてきそうで、他のどんな女性のそれと違っていた。ほとんど頭と机がくっついていた。俺はノイズキャンセリングヘッドホンなどという洒落たものを身につけていたせいか、彼女が何を口にしているのかわからなかった。彼女のジェスチャーを鑑みるに、どうやら俺は立ち上がったときにポケットから100円玉を落としてしまったらしい! 俺が気づいたことがわかると、彼女はニコッと笑った。
その笑顔が咲くようだった。笑顔も他のどんな女性と違っていた。まるで天井が見えなかった。無窮ともいえるような広がりをみせ、"笑い切る”といったらいいだろうか。笑顔が端々まで澄み渡っている気がした。この、”笑い切る”ということができる人間は少ない。ゲーテとドストエフスキーが言っていたが、「その人の知的レベルを推し量ろうとするなら、その人の笑った顔を見さえすればいい」とある。また、「もしその人の笑顔が気持ちのいいものだったら、いい人間だと思って差し支えない」ともある。
この図書館は、入り口に100円玉を入れて使えるコインロッカーがあるのだが、俺はその日、たまたま、そこに荷物を入れようと考えていて、ポケットに100円玉を忍ばせていた。が、ノイズキャンセリングヘッドホンなんて洒落たものを身につけていたせいで、落ちた音に気づかなかった。まったくこんな人騒がせな人間は、耳を切り落とすか、走ってくる車の音にも気づかずに死んでしまえばいい。
歯の矯正をしていて、ワイヤーとブラケットがはっきり見えたが、それがまったく損になっていなかった。じつはなんと、絶賛ぽくちんも現在歯の矯正中(!)で、同じ矯正同士だと思った。彼女の方からしてみても、なんでこの人いい歳して矯正してるんだろう? と思ったに違いないだろう。じっさいそんな顔をしていた。というのも、ぽくちんの方でも、笑顔のお返しというか、その笑顔に触れて、ニコォ……というような、薄気味悪い、女子高生ハンターのような、図書館の女子高生を喰らう大ゲテモノ喰らいみたいな笑顔を返してしまったので、そのときに矯正装置が明るみになってしまったのである。
しかし、ふつう落とし物を伝えるだけでこんなに笑うだろうか? 笑い切るというか、自身の容器いっぱいに笑う。細胞が隅々まで総動員されているようで、またいつもこうした笑い方をしていることが察せられた。最初、目が合った時、目が小さい女かと思っていたら、笑ったときはとても大きかった。笑うと顔が別人のようになる人間はいるけれども、これほど変わる人間を初めてみた。目は大きく、とくに黒目が大きく、クリクリしていて、小動物みたいだった。しかし同時に知性的なものを感じられた。動物的といっても犬や猫ではなく、しいていえばリスかもしれない。動作がゆっくりしていそうだから、スローロリスか。しかし、動物というより花に似ている。まるで咲くようだった。
いちばん初めに見せた、あのダウナー気質のものはなんだったのだろう? しかし、このダウナー気質にある女性にしか、最高の笑顔はあらわれないのかもしれない。光と闇は表裏一体だから、もっとも深い闇があるところにしか、また最高の光も射さないのかもしれない。
ダウナー気質の顔、ズン……ときた衝撃、光、頭を乗り出してきたこと、咲くような笑顔、それらが混然一体となって胸に迫ってきて、手に負えなくなっていた。どれか、たった一つだけでも大問題だというのに、それが4つも、5つも、マクドナルドのハッピーセットみたいについてきて、どうしようもなくなってしまっていた。
どこか、神に似ていると思った。あの顔はどこかクリシュナ神に似ている気がする。どうしていつも、シヴァ神といい、クリシュナ神といい、アーナンダイー・マー、アンマ、インドの神、聖女といった人たちの顔は、同時に悪魔的な顔をしているだろうということだ。ヨガナンダ先生などの写真を見ると、とても怖い顔をしているときがある。子供が見たら泣き出すレベルだ。こうした人たちは普通の人よりずっと悪人顔に見えるときがある。マザーテレサも写真によっては悪魔的な顔をしているものだ。笑った顔などはほとんど狂気に近い。ガンジーもそう。それはちょうど一枚板のように、善と悪が表裏一体になっているためだろうか? 善を深く突き詰めていったものは、同時に悪も同じくらいに達していく。いかにもお人好しそうな善一枚岩のような顔をしている者は、大した善も持っていないものだし、それほど人間にとって卑怯なこともない。しかし、この手の人(神?)の方が、見たものの印象を離さないものだし、笑顔だけの人では到底かなわない何かがある。おそらく彼女が善一色の人間だったら、俺はここまで入れ込まなかっただろう。神は善に近いところにいるかもしれないが、善ではない。善と悪を超えている。
※
8/12 火曜日
13時。いつもならカフェに行く時間だったが、俺の身体はいつも右折する信号を通り越して、図書館へ向かっていった。

彼女がいた。最初、まったくどこにいるのかわからなかった。後ろ姿だけ見ると、他の女性たちと見分けがつかず、机の上に置かれた文房具で判断するしかなかった。20cm近くのグレー色のハリネズミのペンケース。あの長い、あの彼女の髪のように嘘のように長いペンケース、おそらく横幅は20cm〜30cm近くある。そのハリネズミのペンケースを机の上に置いて、彼女は勉強していた。おそらく夏休みはこうして毎日勉強しにきているのだろう。殊勝な心がけだ。しかしすでに、相変わらず、こっくりこっくりしていた。時刻は13時をまわったばかり、ちょうど昼食を食べた後で眠たくなっているのだろうか。
この自習室は、右、中央1、中央2、左、の四列に分かれていて、8×8の64席が総数になるが、夏休み中はほとんどの席が埋まっていた。彼女は右前に座っていた。前というほどでもないが、前寄りだ。教室内においてどの位置に座るかで多少なりとも人の性格というものがわかってくるが、彼女はやや前寄りに座ることが多いらしかった(まだ2回しか見たことはないが)。前の席に座りたがるというのは、やはりどこか少し殊勝じみたところがありそうだ。小生は昔から前の席に座りたがる人間とは相容れないことが多いが、それを女性として見たとき、恋愛として見たとき、あんがいここに化学反応があるかもしれないという前触れのようなものを感じ、今回はここに期待することにした。
小生は彼女からふたつ左に離れた席に座った。あいだに男二名の姿があった。この夏休み、学生も社会人もホームレスも集まってくることもあって、彼女からいちばん近い空いている席はそこしかなかったのだ。
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ホ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ 俺 男 男 女 ◯
ホ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ホ ◯ ◯ ホ
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ホ
俺=俺 男=男 女=彼女 ◯=学生・社会人 ホ=ホームレス
↑こんな感じ。
彼女を見るには、あいだにいる男二人を通り越して見なければならなかった。(邪魔だなぁ……)と思いながら、俺は身体を大きくのけぞるようにして、まるで、テニスでいうスライス系カーブのようにグッと身体を大きく捻り曲げながら、彼女の方をチラチラと見るしかなかった。
あらためて彼女を見ると、嘘のように髪が長かった。ふざけているんじゃないかという長さで、何かのアニメのキャラクターを模しているのか、特別な思想を持っているのか、狙わないとけっしてできない、ここまで髪の長い女性を見るのは初めてだった。座っているので定かでないが、座面に達してもまだ続いていた。長いだけでなく、重そうでもある。よく詰まっていて、ウイッグ以上にウイッグに見える。体重のほとんどを髪に占められていそうなくらいで、髪にちょっとだけ彼女がついているといってもよかった。ここまで長いと生活に支障が出るだろう。昔の宮殿の侍女のようにソロソロと床を引きずって歩くようなことになりはしないか。しかしこの長さで生活をしていくことはとても穏やかな性格になるに違いないとも思った。髪が先か、彼女が先か、どちらが先かはわからないが、彼女が彼女であるためにはこの長さが必要になってくるのだろう。
ファッションの方は、今日も興味深い格好をしていた。一週間前、初めて彼女を見たときは、紺の袖口にフリルが付いた可愛らしいドレス状なるものを着ていたが、今日はベージュを基調にした、またもやフリフリしたワンピースみたいなものを着ていた。やはり清楚系ではあるが、同時に遊び心がある。自分を客観視しておもちゃのように扱っている。普通ここは越えなくていいだろうというところをわざわざ越えて、そこを突き抜けながらも我を忘れずにいる。客観的であり器が大きい女の子だと思った。
さて、俺は読書でもしようと思って一冊の本を取り出したのだが、そんなに雑念いっぱいだと本なんてとても読めたものじゃないだろうと思われるかもしれないが、それがところがどっこい大丈夫の助のすけ(!)不思議なことに彼女が近くにいると、なぜか本がスイスイ読めてしまうのだ。
これは一週間前、初めて彼女のとなりで本を読んでいたときにも感じたことだが、俺は確かに、エックハルトトールの『神の叡智の書』というバカ丸出しみたいなタイトルの本を読んでいたのだが、これが難解で読み進めるのにたいへん時間がかかるものだったが、不思議とスイスイ頭に入ってきたのだった。
なぜこんなにスイスイ頭に入ってくるのだろう? ふつう、となりの人間にこっくりこっくりされていると、気が散るというか、イライラしたり、目障りで、それが他者にも感染するため、一般的にやってはいけない行為とされているが、彼女がこっくりこっくりする分には、イラつくどころか、むしろかえって気力が倍加してくるところがあった。もし彼女がグタァーっと敗者のように机に突っ伏していたらこの限りではなかったかもしれないが、彼女はあくまで睡魔と戦っていたし、それ以上に、とにかく姿勢がよかった。教室の誰よりも綺麗な姿勢で座りながら、こっくりこっくりしているという、世にも珍しい、この静岡では富士山とか家康像とかが地域特産品として珍重されているのかしらないが、これこそ日本遺産に認定されるべきだと思った。遺産っていうか、まぁ生きてるけどな。しかし、さらに珍しいことに、一文いちぶんが頭に入ってくることだった。彼女がこっくりこっくりしている横で本を読んでいると、とても難しい文章が一発で頭に入ってくるのだ。こんな読書体験は初めてだった。
俺は通常であれば一週間かけて読むようなそれをたったの2時間で読了してしまった。これを有効に使わない手はないと思った。明日はマクベスを持ってこようと思った。半年前に挫折した本だ。彼女がいればどんな難しい本でも読めてしまう気がした。自宅の積読になっている本をどんどんここに持ってきて読もうと思った。まるで斧を落とすと出てくる女神の湖に、どんどん本を投げ込んでいるようだ。
※
8/13 水曜日

今日もいるだろうなと思って来てみたら、いなかった。
受験生のくせにどこで油を売ってるんだか。
彼女のいない図書館など、本が置いてない図書館みたいなものだ。
一応来たからには、少しくらいは読書してやろうと思って本を開いてみたが、ぜんぜんダメだった。一向に頭に入ってこない。こりゃあまずいな、彼女ナシじゃもう本を読めない身体になってしまっている。まるでお母さんに絵本を読んでもらう子供だ。
(帰るか)
と思って自習室を後にしようとすると、バベルタワーのように天界エネルギーを受信しているように見える、やたらと姿勢のいい背中があった。もしかしたらと思って、机に置かれてある文房具に目をやると
(ハリネズミの長いペンケース……!)
いったい今日はどうしたことだろう? 背中に『◯◯高校 書道部』と書かれた学校指定の真っ黒のジャージを着ている。
◯◯高校!?
ちょ……、超頭いいじゃねーか……。
俺は思わずあとずさりしてしまった。昔から高学歴をみると無条件に尻尾を巻いて逃げだしたくなるクセがあるのだ。
これは俺なんかが関わっていい学校のレベルじゃない。県内トップオブトップ。毎年東大が十何人も行く、県内でほとんどいちばん頭のいい学校だ。参考書の類からして、東大か京大か、それに次ぐあたりの国立大学を目指しているのではないかと思っていたが、◯◯高だったのか。
しかも書道部。どおりで姿勢がいいわけだ。ペンの持ち方からして違うと思っていた。指ではなく腕を動かして書いていた。おそらく高校から身についた素養ではないだろう、子供時代からの年季を感じさせる。
(へぇ、お嬢様だぁ……)
俺は物珍しい生き物を見るような目で食い入るように眺めた。嘘みたいに長い髪、そのファッション、超名門高校、美人で、華奢で、髪が超綺麗で、典型的なお嬢様がこうして目の前にあらわれていることに驚きを隠せなかった。いつも見ている深夜アニメのお嬢様キャラがそのまま飛び出してきたように見えた。見た目もそう遠いものではない。たんに高学歴の女性なら山ほどいるが、ここまで髪が長く、品行方正で、姿勢が良くて、書道部はいない。
しかしどうして俺は高学歴の女性と縁があるらしい。俺がたいてい深く仲がよくなる女性といえば高学歴が多い。俺の方は低学歴なのに、なぜか長きにわたって関係が続いたり、ある程度深く心を通わせたり、今でもLINEのやりとりをする女性などは全員きまって高学歴なのだ。全員、国立大学を出て公務員などをやっている女性ばかりだ。そんな女性たちと接していると俺まで国立大学を出た気分になってきてしまう。マッチングアプリで出会った女性においても、多少なりとも心が繋がれたのは、全員きまって高学歴だった。
これに関しては、いつも電話で話している親友も同じ疑問を抱いていたらしく、いつか電話で次のように話してくれたことがある。友人が話してくれたこの話は、終生忘れ得ないものとなった。「なぜか、俺、高学歴の女と気が合うんだよね? 昔からずっとそうなんだよね。たぶんお前もそうだと思うんだけど、マッチングアプリなんかでも、なんかいいなぁっていうか、話が合うなぁって感じる女は、たいてい、いつも、高学歴なんだよね? なんでだろうって考えてみたんだけど、いや、俺は、しってのとおり低学歴なんだけどね? 自分のことはおいといて言わせてもらうんだけど、俺もお前も、なかなかいい縁に恵まれなかったり、運命の相手を探す上で、何かしら手掛かりみたいなものがあったらいいと思ってると思うんだけど、たぶん、俺、それが学歴じゃないかって思うのね? いや、いろいろね、いろいろあると思うんだけど、やっぱり高学歴の女って、俺たちに近い気配を持っていることが多いのよ。いや、俺はしってのとおり、低学歴なんだけど、自分のことはおいといてね? 自分のことはおいといて言わせてもらうんだけど、俺らのような人種は、高学歴の女の方が相性がいいような気がする。だって、ほら、男って、とにかくいろいろな要素があるじゃん? 遺伝子的に、やっぱり、女より、DNA? 染色体コードが複雑で、プロ野球選手だったり、ピアニストだったり、男にはいろんな才能があって、どうやってその力が外にあらわれていくかは、多種多様で、いろんなパターンがあると思うんだけど、女の方でいえば、それが学歴にあらわれると思うんだよ。プロ野球選手がよく女性アナと結婚してるけど、ああやって、男はスポーツとかお笑い芸人とかになって女子アナとかと結婚するけど、女子アナはさぁ、その知的レベルからいって、プロ野球選手相手でいいのかなって思っちゃうじゃんこっちとしては。だいぶ、頭の差がありそうだけどって……。でも、意外とすんなりと結婚しちゃう。まるで自分の知力とその野球選手の体力を等価交換しているような。でも、その逆ってあんまりないでしょ? 逆ってのは、つまり、男の女子アナみたいなのが女のプロ野球選手やアスリートと結婚すること。だって、こっちからしたら、卓球の愛ちゃんだと厳しいでしょ? でも、女の方からすると、高学歴の女タレントや女子アナはプロ野球選手や芸人の男と結婚できちゃう。それは遺伝子的にそうなっている気がするのね? 男のムチャクチャな部分、染色体コード的にムチャクチャな性を、染色体コード的にちゃんとしている方の性が補佐するというか、つまりメチャクチャな経営をしている社長を、優秀な社長秘書が支えるっていうか、染色体コードからいって、男女間の関係はこの関係が正しい気がするのね? 生物学的に。女は男より染色体コードが単純だから、もともと持っている能力が、勉強という普通に生活している上で普通に入ってくるものに対応しやすいっていうか、勉強にだけ反映されやすくて、男はもっと幅広になる。だから、片方はプロ野球選手、片方は女子アナっていう、学力でいえば天地の差があるんだけど、もともと根底では同じくらいの力を持っていたわけで、その力が違ったかたちであらわれているだけで、もともとの能力値でいえばそんなに差はなかったかもしれないっていう話で、まぁ、もともと何にも持ってないヤツは何にもないんだろうけどね。ある程度、人間として才能がある男女に限った話ね? マッチングアプリで高学歴の女と会ってると、それをヒシヒシと感じるんだよ。まぁ、恥ずかしいから、誰にも言わないでよ? この話は」
「わかった」と俺は言ったが、ここに思い切り書いてしまった。
「それをぜひ高学歴の女性の前で言ってもらいたいよ」と、そのとき俺は言って、電話を切った。
高学歴か。
まぁ、申し分ないな。〇〇高校なら。(何が申し分ないんだか)
なまじ友達からこんな話を聞いてしまった後だから、自分の中では高学歴との折り合いはついてしまっているものの、はたして高学歴からしてみたらどうだろう? 出前館ヒキニートというのは。
彼女といえば、いつも居眠りばかりこいているし、いつも度が過ぎたオシャレなファッションをしてくるわで、少し舐めてしまっていたところがあるが、聞きました? 奥さん、◯◯高校ですって!
奥さん「……」
俺は彼女のジャージ姿を見ながら、読書を進めた。やはり内容がスイスイ頭に入ってくる。これで3回中3回。100%の確率で起こるのだろう。
ちなみに今日の席。
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ホ
女 ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ホ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ホ
◯ ◯ ◯ 俺 ◯ ◯ ◯ ホ
こうした、3、4列後方の離れた場所においても効果を実感できる。となりにいる時の方が効果は絶大だが。
しかし、ここで問題がひとつ立ちはだかった。例のごとく俺は2時間ほど読書に集中していたのだが、だんだん座っていられなくなってしまった。俺はふだんスタンディングデスクなどという洒落たものを使って立ち読書をしているので、自習室の貧乏くさい安物の椅子ではすぐにケツが悲鳴をあげてしまうのだ。年若い子供たちが涙ぐましい努力を重ねているというのになんとも情けない話だ。また、彼女にしてみても、なんと、彼女は、この2時間、まったく姿勢が崩れないでいた(!)女性はみんな誰もが少なからず姿勢に気をつけているとは思うが、ここまで保持できるというのは珍しい。身体は華奢だから体幹は強そうには見えないが、それでも2時間保っていられるのはインナーマッスルが優れているためか、強張って屹立しているというより、もっと柔らかく、やはり咲いているようだった。
俺はふと、このとき、彼女を見るのはこれで最後にしようと思った。
彼女を見ているのは楽しいけど、同時に切なくなってくる。だんだんと見ている楽しさより苦しさの方が上回るようになってきた。俺は本気で家の積読になっている本をここに持ってきて読破してやるつもりでいたが、それも早々とやめることにした。もう一生あれらの本が紐解かれることはないだろう。
とにかく、立ちたい。立てるという喜び。俺はクララのようにただ立つことを求めた。
そうだ、本館の書架台を立ち机代わりにしようと思った。そう思いつくや否や、俺は荷物をまとめ出した。
俺は教室を出る前に、彼女の背中を一瞥した。
(これで見納めだ)
ありがとう。今日で終わりにするよ。さようなら。受験、がんばってな。受かるといいな。たぶん、受かるよ。だって、君に不合格は似合わないもの。
俺は彼女の背中にそう言い残すと、教室を後にした。
と、その前にトイレに行こうと思って、荷物はまだ席に置いておいて、トイレに向かった。トイレから戻ってくると、俺は自分の席より先に彼女の席を確認した。すると彼女の姿がなかった。
(いない?)
(あれ?)
(帰った?)
時計を見ると、15時40分。こんな時間に帰るのか? 受験生が?
寝るし帰るしでしょうがねーな。これ受かんねーんじゃねーか? 不合格は似合わないって言ったけど、これやべーんじゃねーか?
もしかしたら、このあと塾でもあるのかなと思った。俺は自分の席のほうへ目をやると、(あれ? このリュックは……。ぬいぐるみが5匹、サイドポケットにエイトフォーが差し込まれてある)、席のとなりに見慣れたリュックが置いてあった。初めに目に入ったのはリュックだ。俺は視線をリュックの上方へ移していくと、とても姿勢のいい、見慣れた姿があった。今、トイレに行って戻ってきたこの30秒足らずのあいだで移動してきたというのか?
?
移動してきた?
いったいなぜ?
移動してきている?
この短い時間に? なぜ?
動作が遅そうな彼女にしては、とても素早い動きだ。
ふつう自習室なんてものは、その日自分が使用する席を一度決めたら変更しないものだ。俺はすぐにハッと気づいて視線を天井に向けた。空調の風が直下であたるためだと思ったからだ。が、彼女がいた席の天井をチェックしてみても空調機は見当たらなかった。じゃあなんで移動してきたんだろう? 移動後の彼女の右となりには、彼女と同じくらいの年の女の子が座っていた。もしかしたら友達かもしれないと思った。ああ、友達のために移動してきたのか。
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ホ
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ホ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ホ
◯ ◯ ◯ 俺 女 友 ◯ ホ
とにかく俺は着席することにした。何が立ち読書だ。立って読書するとか二宮金次郎じゃあるまいし、罰ゲームかよと思った。
俺はカバンの中の荷物をまた丁寧に一つひとつ取り出していった。荷物たちが(え?)というような顔をしていた。出したりしまわれたりするばかりで、ぜんぜん使われないんですけど……。
着席して5秒ほど経つと、チラッと彼女がこちらを見てきた。やっぱりそのチラッっていう擬音がはっきり聞こえてくるようだった。どうして彼女の動きには一つひとつ擬音が伴うのだろう? 高校生だからか? それとも彼女だから? 俺は意識を彼女の方へ炭治郎のように全集中していたから、彼女がこちらを見てきたことがはっきりとわかった。
これは……、もしかして……、うーん、ん? んー?
いや、まさか、そんなことは……
だって、◯◯高校のお嬢様だぞ?
そんなことがあるか?
こんなに可愛くて、美人で、書道部で、オシャレなファッションしているのに、
◯◯高校のお嬢様だぞ!?
いや、
うーん?
もしかしたらと俺は思った。あのとき、あの、初めて目があった日、あのとき、お互いの目の奥と奥とで目があった気がした。あれだけ、俺の方でズン……ときたのだ。彼女の方で何も起こらなかったとは少し考えづらいところがある。いや、でも……、どうだろう? 確かに、時間にすれば、一瞬にして永遠のような、永遠にして一瞬のような、通常の時間の流れではなかった気がする。3秒か、4秒か、通常でははかれない時間の中で、長く見つめ合っていたような気がする。あの時間は、あの光は……、少しだけ信じていいものだったような気がする。その時間が、光が、彼女の方にもおとずれていた……?
うーん? とにかく俺は座って考えることにした。誰だ? 立つとかいったバカは? そんなやつは自習室から追い出してしまえ! そして二度と出入り禁止にしろ!
俺は彼女のとなりに座っている子が彼女の友達なんじゃないかという濃そうな線を追ってみた。しかしすぐにその線は薄いことに気づいた。『女同士は生まれつき敵同士』とはよく言ったものだ(これはショーペンハウエルが言っていた)。こうして女二人が並んで座っていると、それが高校生であれ、子供であれ、並々ならぬ、刺すような、殺伐としたオーラでぶつかり合っている。これが友達同士ということはないだろう。これが友達同士だったらとっくに互いが生傷が絶えなくなっている。女は自分と同じくらいの年の女が近くにいると、どちらの方が上かどうか比べずにはいられない生き物であり、確かに女同士はすぐに仲良くなるが、同じ組織の同じ利害関係が一致した場合に限られる。わざわざ誰が好きこのんで、こんな図書館の自習室というホームレスの巣窟になっている自分の人生航路になんら関係ない境遇で出会う同性に敵だという態度を隠さない女がいるだろう? しかし、◯◯高校のお嬢様ですら、彼女ですらこうなのかと俺も多少なりとも驚かされた。
やはり隣にいられるのと後ろから眺めるとでは違う。内側から信じられないパワーフォースのようなものが湧き上がってきて、俺はなんでもできるような気になってきた。お嬢様ってアゲマンなのかなと思った。性器とは関係ないところでピンピン動いているように見えるのに、お嬢様にして唯一にして絶対の条件だと思った。俺はカバンから『オイディプス王』を取り出すと、日光を浴びて生長するひまわりのようにグングン読み進めていった。
彼女の方は、2分も経たないうちにこっくりこっくりするようになった。今移動してきたばかりだというのにどういうわけだろう? 立ち上がって、歩いて、座って、少なからず身体活動があったはずなのに。
本当に、いつも寝ているような気がするけど、これでどうやって◯◯高校に受かったんだろう? いや、もしかしたら昨晩も遅くまで勉強していたのかもしれない。それで疲れて寝てしまうのかもしれない。ふつう、こんなにこっくりこっくり隣の人間に寝られると、読書に集中できなくなるものだが、ただ幸せな気持ちがあるばかりだ。俺はきっかり2時間でオイディプス王を読み終えると、ちょうど、そのとき、出前館のオファーが鳴った。
(出前館のバカが)
(殺すぞ)
アプリの通知をみると、509mの配達で1796円の案件だった。これはめちゃくちゃおいしい案件だ。俺はお嬢様の前で下品な舌なめずりをした。今日はオイディプス王を読み終えるという目的も果たせたし、予備の本も持ってきていないからちょうどいい、一本配達して帰るかと思った。俺は椅子に腰掛けたまま背を伸ばし、横目でチラッと彼女を見た、すると彼女は熱心に赤色のチェックシートを問題集の上に滑らせていた。いざ勉強にとりかかると、この実習室内において誰よりも鬼人のような集中力を見せる。どうも最近の自習室は混んでいて、初日のように隣り合わせになることができない。今日はたまたま彼女が引っ越してきてくれた(?)からいいけど、次はわからない。俺は彼女の長い後ろ髪にひかれるように、自習室を後にした。
配達先は地図アプリを見なくても遂行できる場所だった。庭で狂った犬が吠えていて、窓際で4、5人の子供たちがガラス戸をガンガン叩いている、いつも注文してくる金持ちの家だ。ほぼ毎晩、ケンタッキーのチキンバスケットを夕飯時になると注文してくる。これを地図を見なければ配達できないようだったらフードデリバリーの仕事などやめてしまった方がいいが、毎回、毎回、地図を見ないと配達できない配達員がいる、それがこの仕事のいちばん恐ろしいところだ。
※

もう一件、1.1kmの917円のコースが鳴ったので、その配達にも向かってしまった。先の配達と合わせて、40分で2800円。上々だ。
時刻は16時30分。
(まだいるかな?)
いたとして、どうするんだ? もうオイディプス王も読んだじゃねーか、行ったって、読む本がない!
自習室に戻ると、よかった! 彼女がいた! 先まで座っていた俺の席も空いていた。俺は席まで行くと、机の上にボディバックをポンとおいた。すると彼女はチラッと机の上に置かれた俺のボディバッグを見て(またそれもチラッていう擬音が聞こえてきそうだった)、とつぜんガタッと椅子を激しく動かした。それから返す刀でバッと野生動物が振り返るような速度で素早く俺の顔を見上げてきた。こんな素早い動きができたのかと俺は心の中で思いながら、その動きを下を向いたまま確認していた。俺は教室に入る前から視線を下に向けたままでいようと謎の覚悟を決めていたので、彼女と目が合うことはなかった。それをやらなかったら目が合っていただろう。
先の、隣に引っ越してきた時に見せたチラッとは違い、今回はあまりにもびっくりしてしまって勢い余ってしまった感じだ。彼女は座ったまま椅子を直すと、またコツコツとペンを動かし始めた。
うーん?
これは。
いや、
でも、
うーん?
いや
うーん
このボディバッグの持ち物が誰かわかっている? バッグを見るなり、椅子をガタッと動かして、すごい驚いた反応を見せた。そして、その持ち主を確認するように見てきた。
うーん?
凛としていて何にも動じないように見えるけど、こんな反応を示すのか。もしそうだとして、この辺は高校生か、まだ自分に嘘をつくのが下手だなと思った。もしそうだとして、この反応は信じてもいい反応かなと思った。もしそうだとして、席を移動してきたことといい、椅子をガタッと動かしたことといい、この二つの物的証拠が揃うと、どこの特務捜査室でも満場一致で黒というだろうと思った。
もしそうだとして、俺はこの反応を目にしなかったら、次の行動に移らなかっただろう。しょせん恋愛なんてものは女が指し示してくれる轍の上を歩いていくことでしか進んではいけないものである。