霊的修行

ブレ球矯正

さて、やはりすべての運動に中心が働いていることがわかった。

ボールがぶれたり、曲がってしまうのは、中心だけの力を伝えられず、余計な力が働いて邪魔してしまうからである。

これまでを振り返ってみると、ずいぶん中心以外の、雑念、妄念、上空に浮ついたくだらない思念を一生懸命描写していた。ボール投げをしていてそれに気づかされた。

未だによくボールの握り方も、リリースポイントもわからず、狙ったところにちゃんと投げられない。矢のようにスーッと静かに伸びていくのが望ましいのだが、どうやってもそうはならない。それが悔しくて悔しくて仕方ない。

一日中ボール投げのことを考えており、朝から晩までずっとフォームの研究をして、22時ぐらいになって公園に誰もいなくなると、ふらふらと公園に忍び込んで、壁やネットに2時間ぐらい投げ込んでいる。

一日で10時間ぐらい投球練習していることになるが、まったく飽きない。YouTubeでプロの投球を見て真似たり、自分の中心感覚を探ってみたり、この時間がとても楽しい。下半身は凄まじい筋肉痛だが、上半身はまったく筋肉痛になっていないことは、いい傾向に思う。脱力はできているのだろう。

クリスマスの時期からもうずっと毎日こんな日々を過ごしている。偏執狂とはよくいったものだ。

友人が『天穂のサクナヒメ』が面白いからやった方がいいといわれたけど、あれだけ好きだったゲームがまったくやる気が起きない。

小生は小学校から大学までゲームしかしていなかった。比喩ではなく、本当にゲームしかしなかったので、両親や姉はいつも小生を不気味な顔で見ていた。学校から帰ったら深夜の1時までずっとゲームをしていた。17時から深夜の1時までだから、えーっと、何時間だ? もう馬鹿だから計算できないや。ドラクエ5は7回以上クリアしている。画面が暗転したとき、ガリガリの細くてメガネをかけた毛玉だらけのパーカーを着た男がコントローラーを握りしめている姿が映ってゾッとした。あまりにもゾッとして、画面がゲームに戻ったあとも、プレイを再開できずにコントローラーを握りしめたまま硬直していたことがある。

しかしゼルダのブレスオブザワイルドぐらいはやっておかないと、ゲーム好きは名乗れないのだが。もう名乗れないな。ゲームばかりやって青春をかなぐり捨ててきたので、今それを埋め合わせるかのようにボール投げをしているのか。

たくさん書いたり投げたりすればいいというものではないということに気づかされた。中心を意識してやること。しかし、中心を意識しているからここまでやれてしまうのだろう。

何かに夢中になるときの感覚というのは、ある程度頭の中に正解のイメージなるものがあって、それを追いかけているときだ。何かに夢中になりたくてもなれないというのは、理想がないからだろう。

ただがんばろう。ただやろう、ただ書く。時間がきたから時間が終わるまでやるとか、そういった動機だと夢中になるのは難しい。

やはり頭の中にこれこそ正解だ、真実だというものを想起させて、それを実験立証する立場で行動にあたる必要がある。瞑想もまた中心の座標を仮定してからはじめないと、ただそわそわしたり、ボーッと曖昧模糊した気分で終わってしまう。能動的な態度で確かな真理の一点を持ち帰るつもりがないといけないと考えている。

しかし今までくだらない球ばかり投げていた。ボール投げをやっていてよくわかった。フォームが間違っているのに投げ込んでも意味はないだろう。

義務感に駆られて、無駄に記事や動画を作るより、こうやってボール投げしているほうがいい気がする。それが記事や動画にいい影響をもたらすだろう。現実逃避な気がしないでもないが、やっぱり現実逃避でない気がする。

以下、肥田春充『聖中心道肥田式強健術』より抜粋

人体の中心を練磨することは、すべての体育法、運動法、健康法、養生法、衛生法の根底であり、基礎であり、本源であるとの確信を得るに至ったのであって、曖昧な抽象的な点は少しもない。

整った姿勢とは、何も手足を揃えて人形を立てたようにすることではない。すなわち、姿勢の正否は、中心=腰と腹とが正しい形にあるかどうかによって、分かれるものである。

肉体が物理的に重心の安定を得るところ、それがすなわち中心である。その中心に向かって、力学的無形なる球状の圧迫力を作ること、これすなわち中心力である。それに全精神全霊魂を集中統一させることによって、中心生命は活きてくる。

生命の中心に触れない思想、感情、哲学、神学が、宗教上、無意義無価値のものであるように、中心を基礎としない肉体の鍛練もまた、労多くして効果極めて薄弱である。

虚無の大気迫大精霊が、丹田に活躍して宇宙の心と契合するもの、これすなわち気合である。

さて気合とは、腰を据えて気海丹田に力を込めることである。「腰と腹との力」であり、解剖学的にいえば、「腹直筋の緊張…および椎骨と仙骨との接合点の反折」である。

すなわち、横隔膜の操練によって腹部諸器官を圧下するとともに、下腹筋肉を緊張させ、腰を落として、臍下のところに自ずから力が入るようにするのである。

機械的に正中心を定めて、この大活力と大歓喜とを得る。これこそすなわち、禅の極致、悟道の妙諦であることを、私は疑わなかった。禅の悟りといったところが、これより他にあるはずがない。私は私の正中心力、練磨の道を、一途に突進して得た、完全なる体勢を、そのまま禅にもっていってみた。しかして、それは全く同一のものであることが、わかったのである。

とくにこの言葉だな。

生命の中心に触れない思想、感情、哲学、神学が、宗教上、無意義無価値のものであるように、中心を基礎としない肉体の鍛練もまた、労多くして効果極めて薄弱である

去年発信したものは、中心に触れないものばかりだった。ひとつだってあったかどうか怪しいものだ。明らかに外れた上空を揺蕩っていた。

今だって中心の触れ方などわからない。わからないなりに中心に向かって手を伸ばしているに過ぎない。

記事や動画みたいに、書いたり話しているばかりだと外れたままホイホイと進んでいってしまう。その点、大喜利なんかだと外れているか当たっているか顕著に表れる。まあ簡単にいえば質を量でごまかしているわけだ。もっと、ボール投げや大喜利のように、シンプルなわかりやすい形で試行していきたい。

ここで中心を狙うのか狙わないかという問題が出てくる。無我の境地とかそういう話になると、狙わないから(無心だから)当たるという剣客の論もでてくるが、やはり本物中の本物になると、あくまで狙うものとしている。

宮本武蔵は攻撃はあくまで狙って当てなければならないといっている。肥田先生も、百発百中で弓矢の的を当てたとき、当てた後から射っているから、当たるのは当たり前であるといっていた。

植芝盛平が警察の射撃部隊の連中の銃弾を全弾避けたけど、飛んでいる鷲の頭を百発百中で撃ち落とす狩人と対決したときは、「この方の射撃をかわせない。当てた後から撃っているから躱しようがない」といっていた。

これらの証言から、確かに狙わなければならないものがあり、そこを当てたあとに表面の世界でも当たりとして判定される。行為が先ではなく、裏面の世界で先に当たりの判定を出さなければならないらしい。人と話すときも、当ててから話す感覚がほしいものである。

当てた後から投げる。当てた後から話す。当てた後から書く。この、先に当てるという感覚がほしい。

そんなことを考えているくせに、友人にこんなLINEを送ったら、返事がこなくなった。

新年からこんな奴とはLINEしたくないと思ったのだろう。当てるどころか、完全に明後日の方向へ投げてしまった。

まずやってみるということは大事だし、これからもまずはやってみるけど、中心を基礎としないことはやらないつもりだ。といっても中心に向かうということしか今はできないけどね。

「真宗教の実体は、数学的厳正である。私は私の精神をもって直接、法則理法の玄妙に触れて、物理化学的秩序の厳正なることを観た。物質以上精妙な生命精神界にも、厳然たる法則が存在して、それは正確なる神の数字をもって処理せられていることを、確認したのである。私はそれを、『宇宙倫理の道』と称えたのである」肥田春充

このようにもう少し幾何学的になりたいものである。

以前、岡本太郎の記事で、芸術は爆発がどうのこうのという記事を書いたけど、岡本太郎のいう爆発と肥田先生のいう数学的厳正は決して異ならないと思う。

まあこれからはしばらく中心力の記事になっていきそうだが、この方面は参考にしないでほしい。自分でまったくはっきりしていないことはわかっているし、世の中には達成した人の著作があるのだから。頭から離れなくて書きたいから書いているだけだ。慌ててくだらない記事や動画を作るよりも、中心感覚を養うことに努める。人と話すときも創作も一日のすべての行動も、中心力の派生として考える。

「一時間に絵短冊の千枚も私が描くのを人は信じまいが、お前たち明光社の人々、毎日のように実地を見聞している者には疑いはないだろう。四百頁(四六判 )近い霊界物語を二日乃至三日に口述するのも、習ったことのない絵が書けるのも楽焼ができるのも、みな神様が私を使うて学力と神力との力競べをしておられるのである。大本神諭に「神が表に現われて、神力と学との力競べを致すぞよ。学の世はもう済みたぞよ。神には勝てんぞよ」とあるを証しせんがためである」出口王仁三郎

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