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観察についての考察

投稿日:2020-12-16 更新日:

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小説として書かれたのではないんだろうけど優れた小説だと思います。個人的に教科書にしたいくらい。マネできるもんじゃないすけどね。作者さんの野卑と品をふつうに同居させてる感性は。不遜だけど、ちょっとだけ二人の幸せを願わせてほしい。その後どうなったのであろうと、願わせてほしい。

しまるこ

クーンツの『ベストセラー小説の書き方』という本に、「自分が体験した事実をもとに面白い部分を誇張して書けば、どんな物語も必ず面白くなる」という説がありまして、ゲーテやバルザックやカーネギーも言っていることですな。

【他人の日常的な噓偽りのない内幕話ほど面白いものはないのです。人が苦闘した体験を持っている限り。そういう体験を持たない人がいるでしょうか? その人の話は、語り方さえ当を得ていれば、必ずや人の心を打つはずです】D・カーネギー

私はすべて現実から着想を得ています。この物語が面白かったのなら、彼らがすばらしいストーリーを私に見せてくれたところが大きいと思われます。

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ポップテイストでこのクオリティが書けちゃうってすごいすね。苦いってのは彼女だけでなく、もっと普遍的な生きることそのもののの苦さみたいなものかな、おれが感じたのは。しまるこさんの透徹力みたいなものが放っておいても働いてるんでしょうね。生のいろんな層を貫くというか。

しまるこ

褒めすぎですよ笑

実際の人物を観察するように書いて、そのままストーリーをはじめていくと、そのような印象になるのかもしれません。ドストエフスキーもそんな感じかなと思って真似ています。小説というより人物の観察記というか。観察に重きをおいてストーリーを動かすというか。

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とにかく観察だ、みたいな話は前もしてくださってやっぱり納得できるし深い話だなあと感じます。しまるこさんが観察されてるときの意識の配分みたいなものに興味があります。

ご自身の中心感覚への意識を怠ることはないと思うんですけど、同時にふつう以上に外側の世界の観察をするって感じですよね。しかもネコとか景色でなく、目の前でコミュニケーションを取ってる相手の。状況も心理も関係性も刻一刻変化するなかでそれをこなすって、たとえば救急ヘリコプター操縦しながら助手席の女性を口説くくらい高度なマルチタスクな気がします。肥田先生ならさらに同時にLINEで人生相談にのるくらいふつうになさりそうすけど。聖徳太子とかも。

気が向いたらこういうときの意識の持ちようについて記事にしてくださいませんか。読んでみたいです。しまるこさんはナチュラルにできるんですか。鍛練によってできるようになったんですか。

まさかの雪です…

K

「才能とは観察力」
それを発見するとは凄いですね!!
(*^▽^*)☆仰る通りですね。
才能とは「その対象について緻密に思考出来て曖昧さが少ない」。「通常は見逃してしまう些細な事でも漏れなく観察出来る」
その為、誰よりも優れるのですねー(*^▽^*)

しまるこ

『観察における意識のあり方について』

これ以上の題が我々にあるでしょうか。

確かに物書きにとっていちばん気になるところです。私もずーっとこればかり考えてきました。15年くらい考えてきましたが、まだまだはっきりしません。言い換えると、『生きる上での心的態度、心のあり方について』ともいえますね。

すべての人間が抱えてる最も大事な問題です。15年考えてきてもはっきりしませんが、リクエストということであれば、今到達している地点からに過ぎませんが語ってみることにします。かえって混乱させてしまうかもしれません。とりあえず一人の男がこんな風に考えている、と質問者さまの思考の材料にしてもらえればいいと思います。

何かを見るときはどういった精神状態でいればいいのか。書くという行為も、見るという行為も、すべての行為も、人間はすべて心からスタートして行為が生まれるから、心をどう使うかがいちばんの問題となってきます。

ではいったい心をどう注意すればいいのか。そもそも注意するべきか、しないべきか、注意するとは? しないとは? 書くときは何をどこからはじめればいいのか?

ひとつボールを投げるときだって、どこに注意すればいいのか。身体か? 身体とは? 足か? 手か? 心か? 心?

心にもたくさんある。平常心、それはどこ? 集中しているときの状態? ゾーンに入っている状態? ゾーン? ゾーンに注意すればいいのか。それはどこ?

自分のいちばんいいときの状態とは何か。普段からどこに意識を向けるか、どう心を操縦するか、理想の心的態度とは。

こうして考えてみると、剣客が無我の境地を目指すのと似ていませんか? 修行僧が悟りを開くのと。

質問者さまは、『観察しているときの意識の状態とは?』と、観察という場面に限った問いをされたのかもしれませんが、観察するということは、結局こういう話になってきてしまうと思います。

結論からいうと、何も考えない、何も見ない、どこにも気をとめない、ということになります。

相手の目を見てはいけない、目に心を奪われてしまうからだ。相手の剣を見てはいけない、剣に気が囚われてしまうからだ。相手を見てはいけない、相手の気に吸収されてしまうからだ

これは合気道の開祖、植芝盛平の言葉ですが、私は観察というものに対して、この考えを持っています。

私は観察するということについて、文章よりも、目の前の自然、もっといえば、武道の経験からきています。

江戸時代の悟りの指南書として、その道の人達の間で流行したといわれる『天狗芸術論・猫の妙術』という本では、一般的に僧よりも武士の方が悟りを得るのが早い、と書かれています。

芸術論とありますが、この本は一人の侍が天狗に弟子入りして、天狗から悟りの境地を教わるというものです。内容も武道的な話に一貫されています。

宮本武蔵、植芝盛平、肥田春充もそうですね。みんな悟りを開くのは武道家が多い。目に見えない精神世界から持ち帰ったものを、実際に相手を無力化させるという物質的な形で反映させる。そうやって答え合わせをし続ける結果、修行が進みやすいのだと思います。

じっさい天狗芸術論にもそう書かれています。私はそういった達人たちが、いったい何をどう思って100回戦って100回危うからずという境地に達したのか。とにかく研究しました。芸術よりも武道の方が正確に真実を学べるのではないかと思い、ずっとボクシングをやってきました。その他の運動だったりも、色々と。

憶測ですが、漱石の顔を見ていると自然をそのまま読破したように思いますね。自分の心のいちばん深いところへ降りていき、降りていき、宝珠のような輝きにたどりついた。老子とかもそうなのかな、しらんけど。

繰り返しになりますが、『観察』について紐解いていくには、運動方面からお話するのがいちばんわかりやすいと思います。幕末最大の頭脳、勝海舟ですら、役にたったのは剣と禅だけだといっています。禅よりも剣の方からお話しする方がわかりやすいと思います。

これから語ることはあまりにも身体的で多義にわたるものとなってくるので、今回は動画で語らせてもらうことになりました。文章もまた、身体的な活動に他ならないと思われます。

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