ブログ・文章論

「最強最速最楽なブログの書き方」をイケハヤ先生とゲーテ先生とメンタリズムDaiGo氏から学んだよ

これはダイゴ氏のツイートの中で一番好きな言葉ですね。

イケハヤ先生も言ってます。

ゲーテ先生も言っている!f:id:simaruko:20181130130004j:image

大作に挑戦しないようにしたまえ。優れた人々でも、大作となると苦しむものだ。最も豊かな才能を持ちながら、最も真摯な努力をした人々でもそうだ。私もそれで苦しんだ。そしてそれが非常な害になった。その際何一つとして水泡に帰しなかったものがあろうか。もし私がまともにできることだけを書いていたら、百巻の本でも足りないほどできたろうに。

現在は現在としての権利を要求している。日々詩人に思想や感情を通じて迫ってくるものは必ず表現されることを要求し、またされなければならない。しかし大作を企てていると、何ものもそれと一緒にやることができない。その他の一切の思想は追い払われ、その間は生活そのものの喜びがなくなってしまう。ただ一つの大きい全体を心のなかにに組立て完成するには、いかに多くの精神の努力と投資とが必要だろう。そして、それを一つの流れの中に適切に表現してゆくには、いかに多くの力と、いかに静かな平穏な生活状態とが必要だろう。もし全般において掴みそこねると、一切の辛労はむだになる。そういう広漠とした対象になると、その材料の個々の部分に全く精通していないかぎり、その全体はところどころに欠点ができ、人から非難されるだろう。そこでその非常な努力と献身とに対して、詩人は賞讃と喜びとを受けないで、ただ不快だけが残ることになるのだ。これに反して詩人が日々現在の与えるもののみを掴み、提供されたものばかりをいつも清新な気分で取り扱っていると、確かにいつも立派なものができるだろう。そして、たとえそれがたまたま失敗しても、何の損にもならない。

まずこの言葉をよく考えて、君はどれだけ納得できるかためしてみたまえ。実は君の事を気遣っているのではないが、この私の忠告によって、恐らく君は君の現在の立場にふさわしくない一時期をすばやく通りすぎてしまうことができるだろう。いま言ったように、まず君が小さい題材を、日々君に提供されるような事を、絶えずすぐ作っていたら、大抵立派なものができるだろう。そして毎日を楽しく暮らせるだろう。何よりまずそれを年鑑や、雑誌に書きたまえ。しかし、他人の依頼でしないで、たえず君の思うままにやるようにしたまえ。

世の中は広く豊かであり、人生は複雑だ。だから、詩をつくる動機がなくて困るようなことはない。しかし詩はすべて機会詩でなくてはならない。つまり現実が詩に動機と材料とを与えなくてはならない。特殊な事件も、詩人が取り扱って普遍的な詩的なものになる。私の詩はすべて機会詩であり、現実に暗示され、現実に基礎を持っている。捏造した詩を私は尊敬しない。

自分が知っている、よく通じている題材ばかりを選べばいい。しかし大きい文学的作品となるとそうはゆかない。全体に関係したもの、その計画に関連しているものはすべて、しかも精密な真実さをもって表現されなければならない。しかし若い人は知識がまだ偏っているのに、大作には博識が必要だ。それで失敗するのだ。(一八二三年九月十八日)

イケハヤ先生の物真似だけど、やっぱり瞬間瞬間に気持ちが熱いままにTwitterで呟いておいて、あとでそれをまとめてしまうのが一番楽だしクオリティがいいような気がします。さすがトップブロガー、巨匠ゲーテと同じ執筆方法ができてしまっているんですな……!

機会詩。機会詩は物書きには一番大事と言えるでしょう。俺も長年書けなくて布団に身体を乗っ取られていた時期があったけど、

この私の忠告によって、恐らく君は君の現在の立場にふさわしくない一時期をすばやく通りすぎてしまうことができるだろう。

本当にゲーテ先生の言うとおり、無事に不幸な境遇を抜け出すことができました。

『ドワイト・ L・ムーディは、宗教史に残るその数々の演説を、どのように準備したのでしょうか?  そう聞かれて、「秘訣などまったくありません」と彼は次のように話しています。「何か一つの題材を選んだら、まず大きな封筒の表にその題名を書きます。私の手元には、そんな封筒がたくさんあります。どの題材についてであれ、本を読んでいてこれはというものにぶつかったら、それをメモして該当する封筒に入れてそのままにしておきます。またいつもノートを持ち歩いていて、人の説教の中に、どれかの題材を解明してくれそうなものを耳にしたら、書きとめてそのメモを封筒に入れます。そして、たぶん一年あるいはそれ以上もそのまま放っておくんです。新しい説教の文句が必要になると、ためてあったものを全部引っ張り出してきます。封筒の中身と自分の勉強の成果を合わせれば、それで素材は十分。あとは、こっちを削ってあっちで加えるといった調子で、絶えず自分の説教の原稿に手直しをしていくので、決して内容が古くなることなどありません』

『父(ヴィクトル・ユゴー)はほんのささいなこと──よく眠れたとか、なにか飲むものをくれ、とかいう会話以外のすべて──を一言いうたびに、メモ帳を取り出し、いま自分がいったことを書きとめた。なにひとつ取りこぼさなかったし、そのすべてが活字になる。だから、息子たちが父のいったことを自分の作品に使おうとしたら、必ず見破られてしまう。自分たちがメモしたことはすべて、父の本が出たときに、もう世に出てしまっているのだから』

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