霊的修行 友達との電話シリーズ

萌えアニメとアストラル界の幸福について

(アニメについて親友と話していて──)

「確かにね。昨今の、もう昨今どころか、ずっと前からだけど、ワンパンマンからはじまり、ほとんど敵を一発で倒せるような楽勝勝ち組確定案件量産型アニメが多いね。異世界アニメを見ていても、あんまり苦戦するっていうのがないからね。本当に、見ていて、どれも、ぜんぶ主人公の都合がいいように進んでいく。強いのはもちろんなんだけれども、もちろん女にはモテるし、ヒロインも一人どころじゃなく、5人も10人もいて、ハーレムどころじゃない、世界で唯一のスキルを与えられたり、ライバルからは特別視されていたり、一応、最初から完璧というわけではなく、ちょうどいいスパイスになるような艱難辛苦も用意されていて、気持ちよく人生を攻略していくRPG要素は残されてある。こういった世界でも困難は必要なんだろうね、困難はあるみたいだけど、都合のいいような困難でね、あれはもう困難でもなんでもないよ、困難の皮をかぶった幸福だよ(笑)およそ一つの角度じゃない、すべての角度から、十全に満たされるということ、成功、女、強さ、才気、仕事、年齢、若さ、何もかもがね。ほとんどの異世界転生アニメがこういった性格を示しているのに、未だに視聴者は寝転んでこの根無草をチューチュー吸い込んで口から離そうとしないのは、やっぱり俺たちの理想郷としての写し鏡のような役割を果たしているからかもしれないね。

俺はこのとき思ったんだけどさぁ、まぁ少なくとも、アニメを見ているとき、少なくとも、そこに感情移入したり、主人公を自分に置き換えて、まぁ置き換えてるかどうかわからないけれども、その世界に入り込んでいって楽しむわけじゃない? 自分はこの世界に溶け込めるかなぁ、羨ましいっちゃ羨ましいけど、ちょっとこのキャラ達のテンションついていけるかなぁ? なんて、ちょっと不安で、ビクビクしながらも。

俺も、このアニメの世界に入っていって、この生活をしたいかっていうと、まぁ、したい、したいっちゃあしたいけど、そんなに、そこまで、というわけではないよ? いや、やっぱりしたいかな? まぁ、あの、大地と美女は捨てがたいところはあるかもしれないね、あとは、そんなに欲しいとは思わないかもしれない。別に、魔王とか、討伐したいとは思わないし。

やっぱりみんな、この近代の工業世界にはうんざりしているんだろうね、ああいう自然豊かな土地で暮らしたいって思いがあるんだろうね。のどかで馬がポカポカ歩いていて、皮の腰巻きを履いた村娘がその馬を引いて。馬と女の両取り。これはオープンワールドRPGにも見られることだから、アニメとゲームとで二大願望実現装置として並列に繋がっている大きな特色の一つだね。

まぁ、俺も、あそこで暮らしたい気持ちはあるんだけど、でもね、あんまりにも、あそこまで、全部が満たされているというのは、逆に怖くなるというか、あの快楽の世界で溺れられるほど強くできてないかもしれない。数年で飽きるかといったら、それはわからないんだけど、もうあそこまで何から何まで満たされちゃあ、後は死ぬだけかなってボソっと思っちゃう。

自身が、最も能力を発揮できる才気で成功して、その成功を超可愛いヒロイン達と分かち合えて、自然食の、なんとか、ホワイトドラゴンだか、レッドドラゴンだか、そんなやつらの肉を食べて、これが俺らの世界で食べている料理とは比べ物にならないくらい上質な肉らしくてさ、一口食うたびに、「ん、んまあああああ!」って、画面がピカピカフラッシュ効果で、集中線みたいな演出がされたりで、そんな毎日を送って、あとは他に何がやることが残されてるんだろう?って考えちゃう。これが一生続けばいいんだろうけど……。まぁ一生続くんだろうけど、その超絶かわいいヒロインたちと、まぁ、一人だいたい3回セックスしたとして、その次の、同じくらい可愛い女とも3回セックスしたとして、それを100人くらい、3年くらいやったらどうだろう? もう十分って感じになるのかな? 俺だったらどうかな? 3年……、それを3年やったら、後はもう死ぬしか残ってないような気がするけど、どうだろう? あれ、いや、30年かな……? 30年もやればもういいような気がするけど」

友達「3年と30年じゃだいぶ違うような気がするけど」

しまるこ「まあ、

アニメの中の時間の進み方もあるしね。でも、それだったら、最終的に酒池肉林をやり尽くして、死を迎えるのがゴールだとしたら、今、それをショートカットしてゴールに至ったとして、何がそんなに違うんだろう? って思わなくもないというか、そんなに過程って大事かなって、とくにそれは幸せなシチュエーションが続くとき、幸せなものを眺めているときにそういう感覚になることがある。なんであれ、どんな幸せであれ、それが繰り返しに位置するものであれば、そしてその先にかならず死が待ち受けているというのなら、何か俺は、ショートカットしてさっさと目的地に着いてしまいたくなるところがある。死が打ち止めで、死の先にもう何もないというのなら、死が最高の幸福なんじゃないかって。それは、現実逃避からくる死への願望ではなく、満足からくる死への願望ね。むろん、それが、終わりの終わりなら、という話だけど……。

仮に、もし人生経験のすべてを堪能することができたなら、異世界萌えアニメのように、もうあそこまで何から何まで御膳立てされて、すべての欲望が叶ったら、あとはもう死しか楽しいことも残ってないんじゃないかっていう。だから、あの世界においては死が救いでもあるような気がするんだけどね。まぁ、転生ものの主人公は死んであすこに行ってるんだけど。

でも、それは、この世界においても同じことかもしれない。死が最大の救いであって最大の幸福であるということは。

考えてみれば、快楽というものは、すべて死と結びついている気がする。マスターベーションでフィニッシュを迎えるときなんてのもそう、命そのものを削っているような気がするし、実感覚として、一瞬、死の匂いのようなものが垣間見えるような気がする。食事にしたってお腹いっぱい食べて、詰め込めるだけ詰め込んだら、あとはもう何も考えられなくなってポカーンとただ死体みたいに転がっているだけ。眠りだって、眠りなんて死そのものじゃない。食事、性、睡眠、これら人間の三大欲求は強く死に結びついている。快楽の正体は死なんじゃないかと思うことがある。バーガーキング、風俗、マラソン、激しい笑い、自己への罵倒、少なからず、生の裏に潜む死を、生きながらにしてそこはかとなく感じ取ってる、ちょっとした、小さい死をね。この小さい死を快楽とうたっているだけなんじゃないかって。

それゆえ、死に近づけば近づくほど快楽の度合いも高まっていく、生きている人間に比べて、死体はみんな幸せそうだ。だから、我々は最大の目的に、日進月歩進んでいっているわけで、まぁ、こんなちんちくりんの平面の女が騒いでいる数インチの世界に飛び込んでいかなくても、十分に最高の幸せは人々に用意されてあるよと言いたいのが一つ、それが萌えアニメへの感想ではあるんだけれども。

ただ、やはりね、多くの賢者がいうように、この地上というのは、魂の成長の場であって。私たちの本来の住処は霊界といわれている場所で、そこで一定時間過ごしたあと、この地上に降りてくるらしいのね? 霊界で過ごしている時間の方がずっと長くて、長らくそこでの生活を楽しんだあと、一時的に修行のために降りてくるらしいのね。われわれの生命の完成へと向かってこの作用が働いているらしいけど、修行はこの星でないとできないらしい。それは自分の意志でやっているのか、神がそうさせているのかはわからないけど、これは俺が尊敬しているどんな聖者も押し並べて口にしていることだから、俺は大体において本当だと信じてる。

そこでね、まぁそうなってくると、じゃあ、この霊界、アストラル界といわれているところなんだけれども、そこでは、どんな暮らしがされているんだろうってことで? まぁお前も、あんまり聞き慣れてないことかもしれないけど、ちょうどスウェーデンボルグがこの辺りを詳しく説明してくれている本があって。これもさ、この世界でいちばん面白いところなんだけど、どうして、こんなに不思議な世界に産み落とされて、こんなに、死んだらどうなるんだろう? 私たちはいったいどこからきてどこにいくんだろうっていう、最大の疑問を残したまま、この謎について明晰に解析してくれた本があるのに、それを押しのけて、さらに迷盲の迷盲を突き進むような本ばかり手に取っていくんだろうってことで。

で、まぁそのアストラル界なんだけどさ、そこだと、やっぱり萌えアニメみたいな世界が広がっているらしい(笑)

人はね、これも肥田先生が言っていたことでもあるんだけど、我々が行っている一分一秒の行動というものは、そのまますべて判断されているらしい。天国と地獄というものもちゃんとあるし、すべて最後の審判のように審判されている、これは聖書やギーターにも書かれてあることだし、肥田先生やスウェーデンボルグは直接見たと言っているしね。

 精神界においても厳然たる因果律方程式があって、人間の行為、思想、思惟、感情に至るまで、悉く、厳正に審判され、しかも、それは、キリスト教にいうような『最後審判』などと云うのでなくて、時々刻々自己清算されつつあるのであって、人はその厳正なる清算書を持って、死の門をくぐって行くのである。宇宙は進化しつつあり、瞬間もやまぬ生々化育の働きをやっている。物質界のみならず、精神界にも、厳粛なる秩序が貫かれている。宇宙理法は、物質界精神界を一貫して厳存し、人間の行為、行動、思惟、思想、感情に至る迄、悉く、彼自らが、時々刻々、法則的に、精算、審判せられつつあって、死ぬときはその無形の判決書を以て、死の門をくぐって行くのである。

 真宗教の実体は、数学的厳正である。神の数字は、御利益の出鱈目で、乱されるものではない。私は私の精神を以て、直接、法則理法の玄妙に触れて、物理化学的秩序の厳正なることを観た。物質以上精妙な生命精神界が、無秩序、乱雑に放置されて居る筈は無いのである。茲に私は、精神界にも厳然たる法則が存在して、其れは正確なる神の数字を以て、処理せられて居ることを、確認したのである。

『機関誌 聖中心道』「聖中心道NO.3中心帰一の根本道」「宇宙倫理の書(一)序論」 肥田春充

スウェーデンボルグは、とくにこの辺りを戒めているね。天国に行けなくなりますよって。今、我々の地球にいるときの態度に注意勧告を促しているのね。私たちは、それが罰則や法律によって裁かれるのを恐れて、悪いことをしないようにしているけど、そうじゃないんだよって、神が与えた良心にしたがって善悪を判別していかなれば、天国への門は閉ざされてしまうよって。それは古い迷信として、まだ、微かに俺たちの心の中心を座すものとして、悪いことをすると天国に行けなくなるって、そういうのをどこかで信じてしまうのは、良心という、 生命の核というべき場所にこれが印されていることでね。

すべて学問は善悪を正しく見極めるためにあるとスウェーデンボルグは言っていて、この、善悪というのは、我々が生活の中でなんとなく心の中で感じたり、思ったり、単なるニュアンス的なものに位置付けられているそれとはちょっと違って、人間感情を越えた、相対的なものじゃなくて絶対的なものとして、これを正確に見定める、あるいは見定めようとする姿勢は、学問の唯一の条件みたいに考えることは、それはやっぱり、この地上での活動を終えたときにね、人間のこの地上での行いや態度のすべてが、紛れもなく、一つひとつ、すべてこと細かに、というより、信じられないかもしれないけど、本当に完全な形で、一つひとつが、最後の審判の日に、これらの善悪がすべて精算されることがあることから、それを実際に見てきた人の目から語れていることは、興味深いことだと思う。

じっさい、この辺はどうなんだろう? 悪いことができないのは、本当に道徳のため? 哲学のため? 理由もなしに、ただ自分自身の根元にくっついている問題として、それができないという人もいるでしょ? そして、そういった人間が、ズルをして成功したり、うまくいったり、金持ちになったりする人と比べて、なんだかより高い天界に行きそうな気配ってのは、今でも感じたりするものじゃない、

だから、そういう意味じゃ、たかだか、80年か、90年、この世界の暮らしに耐え、善悪を見極め、善をして生きていれば、みんなその世界に行けるんだって、萌えアニメみたいな世界にうつつを抜かしていなくもいいんじゃないかと思えるところはあるんだけどね。まぁもっとも萌えアニメは、慰安のために寝転びながら見るから違うんだけどさ。ただ、寒いところの国の人っていうのはがんばりやさんが多いね。だいたい文明っていうのは寒いところの方が進むんだけど、あったかいところはダメだね、怠けてばっかでダメ。だから静岡はダメだね。この日本列島においてだってそう、静岡は愚民ばっかり。沖縄なんてもっとひどいでしょ、やっぱりもう少し、上の、寒い地域の方ががんばりやが多い気がするね。だから、俺ももっと寒い地域に生まれていれば、もっと善行に励んで天国に行けたかもしれないんだけど、静岡だからなぁ……、どうしても怠けちゃうね」

友達「お前じゃなくて静岡が悪い?」

しまるこ「そう、静岡が悪い。静岡のせいで地獄に行っちゃうかもしれない、このままだと。

俺はやっぱりどうしても不思議に思っていたことがあって、やっぱり成功者とか、偉かったり結果をなしていたり、そういうことよりも、日々心根を正しくして生きている人の方が、何か幸運のようなものに支えられているような、一種の光芒に祝福されているのがチラついて見えるのは、紀元前の(※紀元前じゃなく400年頃)、ギリシャ数学者ヒュパティアなどは善良な人間で知られていたのに、どうしてあんなに非業な死を遂げなければならなかったのか? それは、自然界の動植物の弱肉強食からくるあらゆる不幸な運命、まだ生まれて間もない子供がなくなってしまうこと、それはこの地球の中だけで考えて見ていると、割に合わない話のように思われるかもしれないけれど、霊界という観点を含めたら、ちゃんと辻褄は合っているのかもしれない。善悪は、地球の中だけで完結しないのかもしれない。ソクラテス、ピタゴラス、あらゆる非業な死を遂げた英雄達、スウェーデンボルグがいうには、ヒュパティアのような死を遂げるものは、死ぬと数段階、霊性の高い魂となり、霊性の高い村区分に入れられて、そこで仲良く霊格のたかいステージ同士の魂で暮らすということを言っていて、じっさいにスウェーデンボルグは彼らと霊界で話してきたと言っているけど。

友達「戦争で死ぬと位が上がるみたいな」

しまるこ「そう。ただ、こう言うと、霊界で身分が高い状態でスタートするため、ということを目標にしてしまいがちだけど、やっぱりそれも違うと思う。良心の本質を見極め、良心のもとに生きていくことそれ自体が幸せなのだと思う。善悪の重要は、それは、この地球での過ごし方が天国に行くか地獄に行くかを決めるものになるからというのは今言ったところではあるんだけど、我々はどうしても地球で暮らしていて、地球の生活に慣れ親みすぎているせいか、この地上での法則ばかりを気にしてしまう。天上人として呼吸している人は誰もいない、自身が天上人だということも知らず、自身の正体を掴もうとせず、この地球での栄耀栄華につながる俗的な見方ばかりをしてしまう。それがまだ地球由来のものだったらいいけど、人間が人間によって作り出した法律を重視して生きている。その人間を作り出したのは神だというのに、神のルールを守ろうともしないし、知ろうともしない。そのため、今、この地球上に蔓延る善悪はだいたい間違っている。

私たちは、この善悪に対しても初めから洗い出して考え直さなければならないんだけど、まぁ、ただ、大体において、ほとんどの人がこの善悪に対して悩んでいるし、考えている。我々の悩みなんてものは、ほとんど善悪に由来していて、人間関係の悩みというのは、いかに相手が悪で自分が善かということを、いかに自分に納得させられるか、ただそれを延々と続けているだけであって、そうしている時間を悩みといっているに過ぎない。だから、悪人は悩まないし、善人は悩む。これは賢さより誠実さに由来していることが大きい。この善悪のために、善悪の観点から、何が正しいか、間違っているか、それをこの善悪を、自分や他人に納得させようとしたり、押しつけようとしたり、善悪の根拠や筋道をどれだけ辻褄があってるかをいつも競い合っているし、やっぱりいつでも、善悪を最大の根拠にして動き回っている。そういう意味じゃ、移動式裁判所というか、街でも、職場でも、SNSでも、いつも裁判して回っている。法律が善悪を根拠に作られているように、我々の行動のすべての基本原因が、やっぱり善悪をいちばん最大の根拠にしていると思う、不倫は悪か悪ではないかと延々とSNSなんかでは議論されているけど、それだって現生利益的地球上の立場から考えていたらけっして解き明かせるものではないし、そもそも、人々は善悪を捉え間違いしているから、賢者が正しいと言っていることを間違いとし、賢者が間違いとしているところを正しいとし、あらゆる賢さもまた、より善悪の基準を明確に見極められることでしかなく、もし知性があるとすれば、この善悪を明確に見極めれられることでしかないのに」

「萌えアニメもさ、萌えアニメだけじゃなくて、すべてのストーリー作品に言えることだけど、もうこれだけ、すべての物語、ストーリーが出し尽くされてしまって、まだ決定的に一つだけ取り残されている分野といえば、アストラル界しかないんじゃないかって思うんだけどね。アストラル界はブルーオーシャンだと思う。無論、キラキラした世迷言みたいな、スピリチュアル的なストーリーはいくらでもあるんだろうけど、地上の出来事をヒントにして、地上での日常を素材に構成されたストーリーや物語を見ていると、スウェーデンボルグが自由に行き来していた中で、その都度持ち帰ってきた、あの生き生きして生々しいアストラル界の描写そのものに触れられるような物語作品があったらどんなにいいかって、俺はよく思うよ。それが萌えアニメだったら申し分ない。それこそ俺はどんなものを差し出しても見たいくらいなんだけどね。でも、それだって、自分が死んだら、その後いくらでも見ることになるもんなぁ。この地上で暮らしていた時間より、ずっと数倍、数十倍、長い時間……。これからずっと死後、そこで暮らすことを考えると、今は今で、地球のことに専念していた方がいいんだろうけどね。これは、子供が学校に行かずに就職するようなことかね。まずは学校をがんばりなさいって。どうせもうちょっとすれば会社に行って働くことになるから。あんまり、死後の世界を中心に据えて現世で暮らすっていうのもね、結局この地上に来た意味も失ってしまう気がするし。

ただ、ヨガナンダ先生もこう言っていたけれども、アストラル界にこういったものはありません。テレビ、ラジオ、インターネット、YouTubeも、アニメ漫画も、何もかも、この地上での反映、起こっているエンターテイメント何一つね。

それでも、ずっと楽しい状態が続くって言うんだよ。この地上でいるよりよっぽど楽しい状態が続くらしい。何百年も、何千年も。それって想像できる? PS5や、Switch2、こういったものがないのに、ずっと幸せな状態が続くって、もっと高尚なおもちゃがある。もっと贅沢で、もっと複雑で、白米よりも玄米に似た、それ以上の複雑珍味が、あらゆる点から私たちの脳細胞や精神を刺激してくれるアイテムがあるかというと、そうではなくて、何もないらしいんだよ。そういった肉体的、物質的なものは。ただ霊的エネルギーがあるだけ。その霊波動を味わうだけ。バガヴァッドギーターでは、それを、霊感覚を楽しむ、と表現しているんだけど。まぁ、一応、肉体はあるらしい。霊界で暮らす人々は、ほとんどこの地球で暮らしている人と同じ見た目をしているらしい。でも、あるのは霊性だけで、まぁ一応、今の人間と同じような見た目をしているという話なんだけど、

わからない、その外見上としては一応肉体はあるらしいんだよ。自分が最も自己想起するときの肉体、あるいは死んだときのそのままの見た目をしていることもあるらしいんだけれども、まぁ一応肉体はあるんだけれども、でも、肉体に根ざした喜びというわけではないそうなんだね。あるのはただ霊性だけ。ただあるがままの自分としての幸せの状態のまま生きて暮らしている、ものは食べず、人と言われるような見かけをした霊と霊が挨拶をして暮らしている。音楽を奏でている。なんだか知らないけど、音楽を奏でたりすることはあるらしい、そして、美しい景色がたくさん広がっているらしい。

もしタバコを、あるいは車を、お金を欲しがるなら、アストラル界はそうしたものを提供できません。ですから、そうしたものが手にはいる地上に戻らざるをえません。たとえば、美しい音楽、広大な風景、調和した人間関係への希求などです。そうした欲望は、この不完全な物質界よりアストラル界のほうが、ずっとよく満たされます。この地上で美を創造したいという欲求は、多くの場合、ひとがアストラル界において経験した、意識下にある美と調和していたときの記憶によるものなのです 

パラマハンサ・ヨガナンダ

 現在では、天界の喜びがどのようなものか知っている人はほとんどいません。それについて考える人でも、漠然とした概念を抱いているにすぎません。
 私は、霊界入りしたばかりの霊たちが天界の喜びについてどのように考えていたかを知ることができました。というのも彼らは自分一人だけになると、地上にいたときと同じように考えるからです。
 天界の喜びがどのようなものか知っている人がほとんどいない理由は、それについて考える人でも、自然界レベルでしか考えていないからです。霊的人間がどのようなものか知らないのですから、霊的人間の喜びなど知りようがありません。ですから、仮に霊的な喜びを味わっている者から天界の喜びについて説明されても、理解できないでしょう。未知の概念であるため何のことか分からず、拒絶するだけでしょう。
 ただし、人間は外的人間(自然界レベルの人間)の状態を脱すると、霊的人間になります。 そのことから、天界の喜びは霊的喜びであり、外的喜び(自然界レベルの喜び)でないことが分かります。天界の喜びは霊的喜びであるため、より純粋かつ精妙であり、人間の内部(霊魂に属するもの)に影響を及ぼします。
 こうしたことから、人間の喜びはその人の霊の喜びと同じであり、肉体の喜びは天界の喜びではないことが分かります。人間は死んだ後も、霊は身体から抜け出して生き続けます。

『天界と地獄』スウェーデンボルグ

これは、地上の生活と比べてどっちが幸せなんだろう? なぜ俺は今、そこからやってきたというのに、その記憶を何一つ持っていないんだろう? 神はやっぱりそんな記憶は無い方がこの地上では暮らしやすいと思って取り上げたのか。でも、あるいは、持っているのかもしれないね。最近は何もせず、この地上で最も易しいといわれる本すら手に取るのが困難なことがしばしばで、ただ椅子に座ってポカーンとしている時間が多いんだよね。人より時間にはだいぶ恵まれていて、どこの貴族だっていう時間の使い方をしているんだけど。たぶん、生活の面倒なことはぜんぶ奴隷に押し付けて、自身は考えることに没頭しているギリシャ哲学者と同じような暮らしをしている(笑)だからせめてもの、こうして考えたことを書かないと……(笑)

友達「椅子に座って4時間考えた結果を」

しまるこ「そう、椅子に座って4時間考えた結果を。夜の可処分時間なんて4時間は優にあるというのに、その4時間、ただ座っていることは、これはもうアストラル界で過ごしているときの日常とほとんど変わらないかもしれない(笑)つーか、もう死んでいるかもしれない(笑)

あともう俺も、40年もすれば、そっち側に行けるんだから、何をそんなに一生懸命探す必要があるかってね。それだったら、今、この地上でしかできない神の捜索のために時間とエネルギーを割いたほうがいいということはわかってる。わかってるんだけど。

で、何が言いたかったんだっけか?」

友達「……ん?」

「そう、つまり、俺が言いたいのは、人は人が考えているより、よっぽど幸福なものがあるということだ。萌えアニメの世界を夢想だにしているようだけれども、萌えアニメのあの世界があれだけ人気なのは、それだけ今、この世界に絶望していて、あの桃源郷のような世界へ皆移住したがっているからだろうと思う。でも、俺が言いたいのは、その世界以上の世界へどうせ死ねば行くことになるということだ。

せいぜい、私たちが考える喜び、幸福というものは、萌えアニメの世界に凝縮されているかもしれないけれども、それ以上の喜びがあるということ。私たちが頭で考える喜びを超えた喜びを描写することは、萌えアニメには不可能だろうと思う。それ以上のものが、死後、私たちに待ち受けているばかりでなく、それが私たちの正体であり、私たちの幸せだということは、存在としての幸せ、自身の霊感覚としての幸せは、瞬間的に過ぎ去ってしまうこの地上での喜びとは比べものにならないくらい、その100倍、1000倍の気持ちよさがずっと続いているらしい。そして何度も言うようだけど、それが私たちの正体である以上、それがこうして肉体という皮に覆い被されていても、今だって味わえることは、ヨガナンダ先生や中村天風先生、肥田先生が口をすっぱくして言っている。聖書もギーターも言っている。今すぐ神の美酒を味わいなさいってね。

もっとも、そうやってアストラル界に行ったときは、この肉体の不自由から解放されて、肉体の姿を纏いながらも霊感覚がより研ぎ澄まされ、この地上にいるときよりもパワーアップした状態で霊感覚を楽しむことができるらしい。ほとんど霊性だけが抜き身になってね。と、まぁあんまりこんなこと言ってると、死にたくなってきたかい? そう考えると、死ぬのもなかなか楽しみになってくるでしょう? でもダメだよ、最初言ったように、我々の一分一秒というものは、こと細かに神の目によって審判されていて、もしあんまり悪いことばっかり考えていると、地獄に落とされて、天国で霊感覚を楽しむ毎日を送ることができなくなるかもしれない。だから俺は言うんだよ、世の中には本当に悪質なことをする人がいる。誰も見てないからといって悪さを働いたり、インターネットだからといって匿名を利用して、罵詈雑言を好き放題言ったり、隙あらば、これは法律を守っているから罰にはならないと、裁かれないのであれば何をしてもいい、むしろ悪さをした方が得だと思っている輩もいたりする。

あらゆる目を誤魔化せても、神の目は誤魔化せない。悪いことを平気でする人もいるけど、やられた方はやられ損だと思う人もいるかもしれないけど、そんなときは、なんとしても相手に復讐してやりたいと思うこともあるかもしれないけど、それは、その残念な人間性を抱えて生きていること、そのこと自体が罪なことなんだよ、と現世利益ごとでものをいう人はいるかもしれないけど、それはその通りなんだけど、それ以上に、もっと霊的な解釈から言うと、やっぱり地獄に落ちるからなんだ(笑)

こういった霊的法則がつらぬかれていることから、俺は人は悪いことをしない方がいいと思うし、俺はやられてもやり返さないし、それ以上に、あぁ、そんなに悪いことをしてしまって大丈夫かなぁ? 地獄に堕ちちゃうんだけどなぁ……って、むしろ、その人のことが心配になってきちゃう。大丈夫? 今、まさに、そんな悪態をついているけど、それが、ちょうどそのまま因果応報としてあらわれることを実際感覚として知っていたら、誰も悪いことができなくなるんだけどなぁって思うんだけどね。だからまさに、この方程式の所在を悟覚することが、現代の我々の急務であって、その一言一句が、最後の審判の日に使われるノートの○○ページの○行目に、何月何日、あなたはお台場のマルマル店で、淑女にあれこれを言って、じっさい、スウェーデンボルグは閻魔大王がそうやって列を並べている霊たちが審判されているシーンを、天使たちに連れてかれて、その場面を見せてもらったと言っているんだけど。

 附賂を受け取り、裁判に手心を加えた者もいましたが、同じように記憶から探られ、任務を引き受けたときから最後まですべて語られました。何を、いつ、どれだけ受け取っていたかが細部に至るまで、彼らの精神状態や意図とともに記憶に呼び覚まされ、延々と本人に見せられました。驚くことに、メモ帳さえも本人の目の前で開かれ、一ページずつ読まれました。
 少女を誘惑し、淫行によって処女を奪った者もいましたが、同じような裁きを受け、罪が細部に至るまですべて記憶の中から呼び出され、語られました。少女たちが、突然、犯された場所に映像となって現れ、交わした言葉や考えていたことも当時さながらに犯人に延々と見せ続けられました。
 他人を平気で中傷していた者もいました。彼は生前そのことは隠していましたが、彼の悪口がそのまま、語られた人の前で再現されました。 親戚を騙して遺産を奪い取った者もいましたが、同じように告発され、戚かれました。驚くことに、彼らの間で交わされた手紙や書類が一言一句に至るまですべて読み上げられました。
 彼は死ぬ直前に密かに隣人を毒殺していましたが、それも次のようにあらわになりました。彼の足もとにあった溝が開き始め、開いたかと思うとその溝から被害者の男性が墓から出てくるかのように現れ、彼に向かって「あなたは、なんてひどいことをしてくれたのだ!」と叫びました。それから彼がどのようにして親しげに話しかけて被害者にコップを差し出したか、何を企んでいたか、その後に何が起きたかなどすべてが明らかにされました。これによって彼は地獄行きを宣告されました。

まぁ俺なんてね、こうして神に許されてストレスがない生活を送っているわけだけど、出前館なんてほとんど人に会うこともないでしょ? でもね、一回だけ事件に遭遇したことがあって。ほっともっとで、同じく商品を受け取りに来た別のドライバーとタイミングが重なっちゃったことがあって。

出前館で、商品を貰い受けるときは、店員に商品番号を言い渡すことになってるんだけど、俺が店員に「DH678です」って言ったら、「DH678ですね、こちらです」ってビニール袋を二つ渡されて。ほっともっとでビニール袋二つは珍しいなと思ったんだけど、それだけ今回は商品点数が多いんだろうと思って、そのまま受け取って外に出ちゃったんだよ。そして、駐車場に行って、品物をバイクの荷物カゴに入れて、バイクに跨って、いざ出発て、エンジンを回してアクセルを回して走ろうとしたら、

「ちょちょちょ! ちょま! それ俺んだから! それ俺んだから!」って、さっきまで、店内でいっしょに商品が出来上がるのを待っていた別の出前館ドライバーが迫ってきて、

「普通に考えろよ! これわかんだろう!? ビニール袋が2つ用意してあんだから、ほっともっとでビニール袋2つあったら商品点数が2点か確認するだろうがよ!」

そこで、よくみたら、もう一つのビニール袋には「D538723」って番号が書いてあって、やっぱり、それはこいつの分だったのね。店員が間違えて俺に渡しちゃったのね。

「はぁ、すいません」

「あんた頭大丈夫?」

「大丈夫です」

「あんた外人?」←多分これを言われたのは、俺が外人みたいな見た目しているからだろうね。

「日本人です」

「日本語わかる?」

「わかります」

それだけ言うと、「チィ!」って言って、「外人が日本きてんじゃねーぞ!」って叫びながら、ほっともっとの自販機のゴミ箱を思い切り蹴ってバイクに跨って消えていったけど、

やっぱり俺の怒りというものは相当なもので、こういうのは下手に格闘技なんかやってるのもよくないんだろうね。ボコボコにしてやりたくてしょうがなかったんだけど。まじでボコボコにしたくてしょうがなかった。本当に地面にうずくまってしまうほどで。でもここでボコボコにしたらさぁ、俺絶対天国に行けないなと思ったのね。

さすがにここまでくると、怒りも生じない人のが多いのかもしれないけれど。どうしようもないくらい、ぶち切れちゃってね、心の中で。俺もね。もちろん、心の中でだけど。マイクタイソンが言ってたんだけど、『人はSNSだと殴られることがないから誹謗中傷する』って、やっぱ伝説級の世界チャンピオンは言うことが違うね。まぁ、SMSじゃないけど、同じことじゃん。俺は何がむかついたかっていうと、悪口言われたことに対してじゃないんだよ。俺が殴らないと思って安心しきっていることに対してめっちゃむかついてたんだよ。それに安心して隠れ蓑にして、まるで治外法権を目の前にしておんぶ抱っこしている、外人だから日本の法律も適用されんのかわかんねーのにだぜ? これがめちゃくちゃ腹立ってきてね。わかんないぜ? 俺だって台所のシンクにおしっこして彼女と別れてきたり、高校3年のハワイの修学旅行の夏にホテルのベランダから外人にしょんべんをかけて停学になった男だぜ? どうしてお前にそれをやらないと言える? お前のバイクにおしっこするかもしれないぜ? 野良猫みたいに。なんなら、今、手渡した、ほっともっとの弁当に、豚汁の代わりに、しょんべんを! お漏らしマンだからなぁ……!」

友人「いいからはやく次いってよ(笑)」

しまるこ「だからね、そいつの安心してドカッと座っている椅子の部分を引きずり下ろしたくなったというか、まぁそれだけ信用してくれてんのかもわかんないんだけど、この外人顔の出前館ドライバーを(笑)お前の職場でも、今、これを読んでいる職場で理不尽な目に遭っている人でも、誰でもいいんだけど、どうして俺はこいつにこんなに死ぬほど責められなきゃならないんだ? どうしてこんな理不尽がまかり通っている? 俺、ただのサンドバッグじゃん。これ、どうしたらいいんだろう? って。そんなやり場のない怒りを抱えている人はごまんといると思うのね。これは公的な目からいって、必ずこいつは地獄に落とされなければならない、誰かがコイツを粛清せねば、日本はダメになる、誰かがやらないなら俺が……って。それは、どちらかというと、自噴よりも公憤が顔を出してくるケースが多いと思う。怒りの際までいくと、公憤の方が大きいと思う。神に誓ってぜったいにこんなことはあってはならない、こんなことはぜったいに地球上にあってはならないんだ!って、正義が叫び声を上げるのね。もしかしたら、すべての怒りは、この正義感に紐づかれているのかもしれない。事実、俺はいつも職場でこういうババアと出くわすたびに、この手の感情と戦ってきた。でもね、それはやっぱりやらなくて大丈夫なんだよ。かならずこういう輩はみんな勝手に地獄に落ちる。じっさい、俺はそれをたくさん見てきた。

悪いことをすれば悪い目に遭う。それは因果応報の法則が働いている。それは神の采配としてちゃんとしてある。それは今この瞬間ではないかもしれない、審判の日まで待たなければならないかもしれない、だけど目下、だいたい数年以内にほとんどの場合、不幸な目に遭っているもんだよ。たぶん、ゴミ箱にキックしたその出前館ドライバーも今ごろ大型トラックに轢かれてミンチになっていると思う。悪いことをしている人はそれ相応の悪い顔になってくるものだし、すでに地獄がそのまま歩いているような事態になっていることも少なくない。その点では確かに、すでにもう地獄に堕ちているとは言えるんだけど、

聖書にも書いてあるでしょう。

「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」ローマ12:19

神に代わって復讐しようとして、その人が地獄に堕ちてしまったら本末転倒でね。今はただ無駄に耐えているだけかもしれないけど、この世にはこういった法則やシステムがあるということ。それを知っているだけでも、通り過ぎていけることに通り過ぎて行けるようになるんじゃないかな。

自分もまた悪に染まってしまえば、死後アストラルで受けられる幸せな生活の権利を失ってしまうことになってしまうかもしれないんだよ。まぁ、別に信じなくたっていいんだけど、まぁ地獄よりかは天国のほうがいいでしょう? もしあれだったら地獄の描写もちょっとスウェーデンボルクの著書から抜き出してあげようか?

 私は、地獄をのぞき込むことが許され、その様子をうかがうことができました。霊や天使は、神が望めば、上部から下にあるものを見通して地獄の性質を調べることができます。私も同じように地獄をのぞき込むことが許されました。
 ある地獄は、岩山にある洞穴のように見え、奥のほうは斜め下または真下に続いていました。 ある地獄は、野獣が棲息する森にある穴や洞窟のように見えました。ある地獄は、炭坑にある空洞や穴のように見え、奥のほうは下に続いていました。
 ほとんどの地獄は三層になっています。上層部は虚偽や悪を働く者が棲んでいるため、暗闇に包まれています。下層部は悪そのものといえる者が棲んでいるため、炎を上げて燃えています。暗間は誤謬や悪と相応し、炎は悪そのものと相応しています。
 地獄の奥深いところには故意に悪事を働いた者がおり、それほど奥深くないところには無知ゆえに悪事を働いた者がいます。
 ある地獄は大火で焼けた後の廃墟のように見え、そこに地獄霊が隠れ棲んでいます。より穏やかなところには廃屋があり、ところによっては路地や街路があり、街のように見えます。廃屋の中では地獄霊たちが憎しみを燃やしながら、口論したり殴り合ったりしています。路地や街路では強盗や破壊行為が横行しています。
 売春宿しかない地獄もあります。そこにはあらゆる種類の汚物や測世物があり、見ただけで吐き気を催すほどです。密林では地獄霊が野獣のように歩き回っています。その地下には竄があり、他者から追われている霊が逃げ込んでいます。不毛なものしかないめ度もあり 。 そこにはごつごつした岩が散在しており、その岩の中に前穴があります。ところどころに小屋もあります。そこには地獄で極刑を受けた者、特に地上で悪巧みと詐欺に長けていた放着な者が投げ込まれています。
 彼らの最後にはこのような運命が待ち受けています。
『天界と地獄』スウェーデンボルグ

こう言っていると、まるで地獄行きを恐れて神に救いを求めている哀れな宗教家に見えるかもしれないけど、原理を口にしているだけだよ。人間が作った法則よりも、神の作った法則に従う方がいい。そして、できるなら、法則よりも法則に至った理由に従う方がいい。

まぁこんなふうにね。そうすれば、もしかしたら、これから、この記事を読んだ人は悪いことをしなくなるかもしれない。別にそれが狙いというわけじゃないんだけど、まぁ、ギーターにも書いてあったじゃない。

『だが 信仰あつき人々に対して この秘密の知識を語ることは、"わたし"へ無上の奉仕をしたことになり その人は必ず"わたし"のもとへ来る』

でも、ギーターに言われたからやっているわけではないよ。

ただひとつ疑問に思うのは、そんな脳内刺激に永遠と電気刺激を与えるような、肉体から脊髄の中枢だけを取り出して、ただ電気刺激を与えてビクンビクンさせて喜んでいるようなもの、そういった中で、ただ状態としての幸せ、存在としての幸せ、永遠と電気信号を脳にビンビン垂れ流され、脳がビンビンしているだけの幸せ、そのアストラル界の幸せというものは、一見そういう幸せに見えてしまわないこともない、ただ、存在としての幸せというのはね。

私たちは今、相対的な幸せを味わってはいるけれども、この地上には、相対的なものしかないから、あくまで喜びも、快楽も、成功も、幸福も、相対的なものになってくるわけなんだけど。何かいいことがあったら喜んで、悪いことがあったら悲しむように。ただ、その、絶対的な幸せというものは、存在としての幸せというものは、それも終わりがあるのかってね? もしそれもある程度の期間が済んだら跡形もなく消え去ってしまうなら、今消えても同じじゃないかっていうね、俺としては差し支えないというか、問題ないと思ってしまうところではあるんだけれども。いくら幸せでも、それが終わることがなく永遠に続くというのなら、俺はやっぱり無の方でいいような気がする。9億年、脳に最高の電気刺激が流され続けられるよりも。

そういう意味じゃ、初めから生まれてこなくてもよかったかもしれない。だから、ギーターでは、私たちは初めから生まれてこなかったと言っている。私たちはすでに最高の幸せを手にしていて、ただいまも無を絶賛進行中なのかもしれない。神は太陽のように我々に最大の幸福を与えるのが仕事だからね。初めからそういう意味じゃ、萌えアニメの幸せも、この地上での幸せも、霊界での幸せも、似たようなものじゃないかって思えてしまうところがある。最終的に全てが消えて、無となり、無となって、無が続いて、無、無、無、無、無……。それは味わう前から終わりの方ばかりを考えてしまうからね、俺の性分として。俺は幸せというものに対して、こういうふうに考えているところがあるから、萌えアニメのあの桃源郷のような幸せな世界を見ながら、いつもこんな幸せを持ち込んできては、比べてばかりいるんだよ」

友達「ふーん暇だぁ」

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