あまり、出前館で女性ドライバーを見ることはない。
いたらいたらで、おそらく、デリヘル嬢と勘違いして、部屋に引っ張り上げようとしてしまうエロオヤジがいるからだろう。自分で注文しておいて。
出前館の世界もけっこう暑苦しいところがあって、コミュニケーションに飢えている変な配達員に声をかけられることが多い。「どうもぉ〜」と、気づいたらあったことにびっくりする壁の大きな漆喰のように、ねっとりうっとり背後から近づいてきて、「次何キロコースっすか?」「今日オファー鳴ります?」「一日で最大いくら稼いだことあります?」と聞いてきたりする。
かつやだったり、バーガーキングだったり、居酒屋系串屋だったり、とくに、かつやが多いかな、揚げ物系のできあがりに時間がかかるような店だと、同じくカツをとりにきた変な配達員に声をかけられてしまったりする。彼らは、同じ見た目のホームレスのような格好をした配達員には声をかけようとはしないが、なまじ小綺麗な見た目をしている人間には話しかけてしまうところがある。甘い匂いに誘われてやってくるゴキブリみたいだ。つまり、俺でさえこうなのだから、女だったら殺されるということだ。
じっさい、性被害も多い。彼らは自由という病に侵されていて、ちょっとした感冒状態になっており、やっていいこととならないことの区別がつかなかったりする。最近も、俺の配達地域において、マンション女性宅のポストに配達員が書いた変な手紙が投函されたという事件が起きて、出前館の公式から犯人を特定するための調査のようなメールが何度となく送られてきた。
まぁ、確かに、エロ漫画みたいな状況に出くわすこともある。さすがに、裸やバスローブ姿、といったことはないけれども、ほとんど下着同然の格好の女性に玄関先に受け取りに来られたこともある。ほかにも、風俗嬢だよなぁという女性、変な、水商売特有の香水を醸し出していて、この暑さでクラクラしながら配達していると、俺もグラッときてしまうことがある。俺がIQ76だからなんとか保つことができたけど、これがIQ75以下だったら、変な手紙を投函してしまうこともなきにしもあらずといったところだろう。

さて、その、出前館だが、いつもの避暑として利用しているタリーズではなく、今日は気分転換にスタバでも行ってみるかと向かったところ、ザメ子がいた。
相澤 奈津子(あいざわ なつこ) 通称ザメ子──
理学療法の専門学校時代の同級生である。こうして目にするのは10年ぶりだろうか。もっとも、俺は25歳の時に入学して、そのとき彼女は現役の生徒だったから、歳は7つ離れている。
学校時代と比べて、ずいぶん大人っぽくなっている。もう見た目は20代後半に見える。実際年齢は31、2といったところだから、まだ若く見える方だ。一つひとつの顔のパーツが小さいため、老けづらいタイプだと思われる。鼻は小ぶりながら高く、ややとんがっている。耳も小さく、耳たぶなどはほとんどないくらいで、それが運のなさそうな、彼女が全体的に醸し出している悲壮感と無縁とは思えず、唇は大きく腫れぼったく、どこか物欲しそうにしている、当時は長い黒髪だったが、今は明るい茶髪になっている。金髪といってもいいくらいだ。だが、下品な感じはしない。肌がとても白いから、端正な顔立ちと相まって、外国人女性ドールみたいになっている。胸は相変わらずデカい。
目は、小さく、一重まぶたの、キリッとした印象で、凛とした日本人風の、和風かもしれない。とくに、この目が印象的だ。小さいながら、黒目は大きく、子供のようにあどけない瞳をしているが、目尻が切れ長なので、美人ふうともいえる。だいたいの場合において、可愛いというより美人と見る人の方が多いだろう。どこか弱そうな部分があり、SMでいったらMのような、いちど凌辱されたらどこまでも堕ちていってしまいそうな、低く、深い、その闇の底が見えないくらい下方向において深さを感じる。
彼女に限っていえば、格式が高いのか低いのかわからない。一見、目はキリッとしていて、鼻が高いだけでなく、尖っていて、耳も鋭利な形でシュッとしているので、エルフのような、バレリーナのような、フィギュアスケートのような、氷世界の女王といったクールビューティ系であり、凛とした風采を放っているが、同時にコンビニで売っていそうな安さを感じる。一人の人間にそんな二律背反した様態が同居しているのが彼女だった。
ただし、相変わらず悲壮感のようなものはつらぬかれていて、中出しをされ続けた弊害がまだ尾を引いているのか、本人も、自分のなかで悲壮感の風が通り抜けていることがわかるようで、一種の詩人めいた、凛とした、憂っぽい、蠱惑的な瞳を浮かべながら、いつも後ろ髪をひかれるように学校の廊下を歩いていた。それは、客観的な、あまりにも客観的な──、ニーチェにしてそんなタイトルを付けられてしまいそうな、彼女の人生を物語る上でこれ以上ないうたい文句だろうが、その凛とした風味を意識的に自身の細胞内で賦活させて生きることができるという世にも稀な特技を持っていた。そうやって自家中毒を起こしている状態が他者へ感染させる働きも持っていた。
学校を卒業した後は、大きな回復期の病院に就職したが、そこは俺の親友が勤めている病院でもあり、ザメ子の情報は、逐一、俺の耳に入ってきていた。
ザメ子といえば、ボインの代名詞、おっぱいしか取り柄がなく──
「ああ、ザメ子? あいつは、まったく同じ系統のボインの女の子といつも二人で病棟を練り歩いているよ。4つのボインを揺らしながら歩いててさぁ」と親友から聞いていた。「顔や背は微妙に異なるけど、おっぱいだけはそっくり同じ大きさでさぁ、同類っていうのかな? 女って、ほんとに自分と同じ匂いがする女と廊下を歩くのがうまいもんだね。ほんとに二人とも、同じ生物みたいだよ」
友達は続けた。「俺は入社式前の、衣装合わせのとき、二人の初顔合わせ時にたまたま居合わせてたんだけど、そのとき、二人が初めて顔を合わせたときから今日に至るまで、同じ親密度が保たれてるんだよ。瞬時に最大沸点の親密度を迎え、それから、その温度が一度も下がらずに保ち続けられてる。瞬間湯沸器ポッドみたいな、女って、そういうとこあるよね。本当に、仲良くなるのが早いよね」
それが、廊下を歩いている二人の姿からわかる、と友達は豪語していた。「病院内で自分たちが課せられている使命がわかっている感じ。立ち位置とか、それが同族というのが嗅覚でわかったんだろうね。それが今日に至るまで、いつも同じ顔をして廊下を歩いてる」
それ以外は、とくに目立った動きはないらしかった。ただ、土曜日になると、各病棟の代表者が担当者会議に出かけるため、リハビリ室のリーダーが不在になるらしく、その間、ザメ子は、患者を変なオールを漕ぐ船みたいな形をしたリハビリマシンに乗せて、自身はその横でボーッとしていることが多いらしかった。
「やっぱり、なっちゃんも手抜きしたかったんだぁって、みんな言っている」
「そこは隠せよなぁ」
と俺は言った。
「こういうとき、人間性ってわかっちゃうね」
この件のせいで、病院内では散々の言われようで、病院のマドンナ的な存在が、手を抜いたり、人間らしい態度を表に出したため、男性陣は誰もが奈津子を嫁にしたいと思っていたが、結婚したら家事の方も手を抜くんじゃないかと思うようになったらしい。
結婚しても、患者を変な船のリハビリマシンに乗せるように、子供をベビーカーに乗せ、自身はその横でスマホでも弄っているんじゃないか、という噂が立つようになったらしい。
また、それが、平日の仕事にも尾を引くらしい。ザメ子の土曜日の仕事の印象がみんなの記憶に残っていて、ザメ子が平日にちゃんと仕事をしていても、本当はサボりたいけど無理しているんだ、リーダーがいるからサボりたくもサボれないんだ、というふうに、まわりはそんな目でザメ子を見るようになってきてしまったらしい。
「アイドルも大変だね。内側から綺麗にしなきゃいけないんだから」と俺は言った。
「タイプ、というのもあるよね。仕事がめんどさいキャラ、もう〇〇君やって〜、めんどくさーい! みたいに、平気で仕事を丸投げしちゃうような、そういうキャラだったらよかったかもしれないんだけど」
「同じなんだけどね」
親友は、ザメ子と同じ部署であり、彼が机の上に溜まっていた書類を一枚いちまい確認していた時、うまくプリントをめくれないでいると、急にザメ子が話しかけてきたという。「櫻井さんはもう歳だから、指に油が足りてないんですよぉ〜」と、まるでサキュバスのように、尻にしっぽが生えた小悪魔のように、からかってきたらしい。親友はこの時、定時に仕事が終わりしだい、すぐに俺に電話を寄越してきた。「やっぱり、なっちゃんからすると、俺はちょっと年上にあたるのかな? でも、珍しくね? あんまり、そういう、人をからかったりする子じゃないじゃんね? だけど、けっこう、そういうこと、するんだね。なんか、そうやって、俺をからかってきたんだよ。でも、諸刃の剣だと思わない? からかうにしてもさぁ、指に油が足りてない、とか、けっこう、ギリギリだと思うんだけど。だって、あまり、言われて嬉しいことじゃないじゃん? 人をおっさん扱いしているわけなんだから。でも、俺が29だから、ギリ、どちらでも取れるっていうか、どちらでも取れるっていうのは、俺が若いから、あえておっさん風に揶揄したってことね、たぶん、そっちの方だと思うんだけど」と、ずっと、ブツブツ変なことを言っていた。俺も聞いていて、スマホを投げ捨てたくなったが。おそらく、その、油が足りていたかいないかわからない、そのめくる予定だったプリントの仕事もちゃんと終えてきたのかもわからない。
学校時代、あれほどウワサされていた女、ザーメンが服を着て歩いているとか、ザメ子が歩いた後は、廊下にザーメンがこぼれ落ちているとか、滑って転ぶとか、散々な言われようだったのに。それでも、いまだ、親友の心をこれほど掻き乱すのか、と俺は逡巡した。
中出し女、と有名だった。
学校時代、なつこがビニール袋からバナナを取り出して食べていると(彼女は昼食に果物しか食べないことがよくあった)、「バナナを舐めている」「非常にいやらしく、舌で絡めとるようにしてバナナを舐めていた」「舐め回していた」とか、あらぬ噂が立つこともあった。

じっさい、この、理学療法学校の専門学校という、芋しかない生徒群においては、ザメ子の存在は高嶺の花というより、オーバーキルといってよかった。女子生徒たちも、嫉妬すら湧かない、中途半端な勝利だと嫉妬も生まれるかもしれないが、ザメ子は別次元の風格を示し、女は女としての優位性がどちらにあるかを瞬時に見分けるようで、全員が白旗を上げていた。ザメ子としては、そのような畏怖すべき対象、猿山のボス的な存在になることは、美少女には無用の長物というか、なんとしても願い下げたいという顔をしていたが、それが自身についてきてまわってしまうことは仕方がないと諦めているようだった。
こういった女性は、いったい誰と付き合うのだろう? それが学校中の男女の疑問だった。答えから言ってしまうと、より、強い男を求めるらしい。それは動物の世界と似たところでもあり、あまり、ひょろひょろとしたイケメン勢よりも、ガテン系の、肉汗香る、日によく焼けた、オスとしての力強さがある男を選んだ。モテる女ほど、こういう男を求めるものである。線の細いジャニーズ系を羨むのは、非モテ女の典型であり、いまだに王子様との恋にこがれる少女時代から何も進化していないことから起こる。事実、ザメ子と同じ高校から入学してきたザメ子の友人の女子生徒は、「なっちゃんはいつも決まってそういう男と付き合う」と話していた。
鍵と鍵穴が一致するように、一人、ガテン系の男がいた。いつも声を荒げて、自分で目覚ましをセットするのを忘れていたくせに遅刻してきて逆ギレするような、手がつけられない狂犬、名はカツキと言ったが、彼は、ザメ子がクラスメイトの男と話していたり、男性教諭と話しているのを見ると、トイレに行って壁をパンチするほどだった。
彼はよく、「俺はいつも、なつこに中出ししている」と、クラスメイトたちに吹聴していた。クラスメイトたちは「へぇ」と言って、話を聞いていた。
美女というのは、その特質上、『モテ』を重視するのであれば、あらぬ噂が立たないよう、なるべく学校では、彼氏と一緒に行動するのを拒んだり、恋愛している様子を見せないようにするのが常だが、ザメ子にそういうところはなかった。この辺りは、恋をすると一直線というか、彼にゾッコンであることを隠そうとせず、ザメ子は毎朝、彼が運転する車で学校にやってきて、教師たちからも、「あなたたち、どういう関係なの?」と朝から校門前に立たされて尋問されていたこともあった。
彼は、急になんの脈絡もなく、
「俺はいつも、なつこに中出ししている」
と言っていた。
口をひらけば、それしか言わないところがあった。
「マジで、かっちゃん、中出し? 相澤さんを?」
「ああ、いつも中出ししてる。10回セックスすれば、10回中出ししてる。例外はただの一度もない」
ざわざわ、ざわざわ、と、教室のバックヤードでは、茹でタコのように頭から湯気を吹きこぼしている男たちで群がっていた。黒板の方に視線をやれば、その黒い背景によって対照的に映し出された白い肌のクールビューティの奈津子の姿がある。
「カツキ君、中出しって、子供できたらどうすんの?」
「せっかく高い学費を払って、専門学校に入ってきたのに」
「いや、でも、二人とも理学療法士なら、なんとか、生活の方はやっていけるんじゃない?」
「でも、それが無理かもしれなくなるって話をしてるんじゃん! 妊娠して、相澤さんが学校辞めることになったら、どうすんの!?」
「そうしたら、かっちゃんは学校に通い続けるの?」
「俺は資格取るまでいるよ」
「へぇ……」
と、みんな、この一言には閉口した。
みんな、口々に心配を装っていたが、カツキが学校を辞めることを期待していた。そうすれば、カツキは田舎のポン引きになるのが関の山で、じきに資格もちになる僕たちの方へ相澤さんが擦り寄ってくることもあるかもしれない。彼らは、いつもカツキの中出し話を聞くたびに、そんなことを夢想だにしているようだった。この手の女を親に紹介するのは憚れるかもしれないが、中出しされていたことは黙っておけばいい。ザーメンでベトベトして汚いかもしれないが、そこに目を瞑れば、自分の手に余る第一級の美貌と乳がついてくる。
「まぁ、その方がいいよ。働くのは、卒業まで、先送りにしてさぁ。理学療法士になってからの方がいいと思う」
「絶対それの方がいいよ」
「でも、相澤さんは……」
「妊娠したまま、授業受けるとか、できんのかな?」
「さぁ」
学費がいくらだとか、養育費がこれくらいかかるからとか、ボッキして頭が沸騰しておかしくなっているくせに、理路整然と、他人の生活費のやりくりについて仔細に計算しながら話す様子は、もはやわけがわからなくなっていた。
「なんかもう授業とかで、椅子に座っているときとか、ザーメンがこぼれ落ちたりしてこないのかとか、心配になってきちゃうよ」
と、一人、変な男子生徒がそんなことを言った。
「さすがに授業で座っている時は、もう、シャワーを浴びて、膣内のザーメンを掻き出したあとだろ」
「それもそうか」
この辺りから、ザージル、ザーメン、ザーメン子、ザメ子、といったように、ザメ子と、という呼ばれ方が定着していった。
あの、異様に白い肌も、ザーメンを浴びて育ったからだという説も生まれるほどに。
やはりというか、思春期の男たちにはザメ子の存在は刺激が強く、ザメ子と話すときはおろか、ザメ子が廊下を歩いているだけで、ザメ子が存在してるだけで、ザメ子が家でスマホをいじって寝ているだけで、男たちは変な気持ちになった。チンコを等身大の形に保ったまま、まともに顔を合わせて話すことなど、できるはずもなかった。
こんなふうに、エロいことに話題欠かさない女性だった。
ザメ子は、ヤリマンなのか、ヤリマンじゃないのか、真剣に会議をされることもあった。
職員会議でも、毎朝、その話し合いがされているんじゃないかというくらいで、
「ヤリマン?」
「ヤリマンでは?」
「ヤリマンじゃないの?」
「ヤリマンだよ! ヤリマン! ヤリマンっぽいじゃなくて、ヤリマンだよ」
「っぽいじゃなくてね」
事実、ザメ子は、文化祭のとき、男とふたりで林の奥へ消えていったところを目撃されたこともあった。その相手はカツキではなかった。カツキは夏の臨床見学実習(たった一週間の見学実習)の際に、実習先のバイザーの指導に腹を立てて、リハビリ室の壁にパンチをして大穴を開けてしまい、退学処分になってしまった。
ザメ子は、二月もしないうちに、新しい彼氏ができた。このように、付き合っては別れ、別れては付き合い、結局、3年間の学校生活で、ザメ子は5人の男と付き合ったが、新しい彼氏ができるたびに、その性事情のすベてが筒抜けになるという、不思議な運命を背負っていた。それも悲壮感のなせる業か、それとも彼氏が悪いのか、ただ、同時期に二人の男と付き合うことはなかった。
「ヤリマンだよ」
「ヤリマンじゃないよ、だって、相澤さんは、好きな人としかエッチしてないじゃん。中出しされるっていうのもさ、好きだからじゃん? 特定の人とたくさんエッチする人のことをヤリマンっていうわけじゃないでしょ? 不特定の人とたくさんすることをいうんでしょ?」
「でも、一人の男とたくさん回数をこなしたほうが、マンコの消耗度でいえば著しいじゃん」
「でも、それとヤリマンは違わない?」
「ヤリマンだから、こうやって噂になるんだよ。ヤリマンじゃなかったから噂にすらならないはずなんだから」
本当に、これは驚いたことだが、真面目に、ザメ子が、ヤリマンかヤリマンじゃないかということで、クラスメイトたちが、放課後の教室に集まって議論していたことがあった。14、5人の生徒で議論していたが(クラスの半数以上)、その中には、2、3名の女子生徒も含まれていた。
とうぜん、それは奈津子のいないところで話し合われたが、彼氏の耳には入ってくる。業を煮やした二人目の彼氏は、とうとう奈津子を呼び出して、「ヤリマンなの?」と問いただした。奈津子は「ヤリマンじゃない」と答えた。
「ヤリマンがヤリマンっていうわけないじゃん」
と、一人のクラスメイトの男が笑って言った。

ヤリマンか、ヤリマンじゃないのか、チグハグした、変な疑問があるところから交際がスタートしていたから、このカップルはすでに地盤がグラグラしていて、すぐにでも別れてしまいそうだった。それを裏付けるように、まだ付き合って間もないというのに、二人が小さな諍いを起こしているのを何度も目撃された。
ある日、教室を出たすぐの廊下で、奈津子と、その二人目の彼氏が、重々しい空気の中で話し合っている姿が目撃された。これは俺がじっさいに見たわけじゃないけど、何人もの生徒がその光景を見たと証言している。奈津子からすると、どうして、まだ付き合って間もない彼氏にグチグチ言われなきゃならないの? と、珍しく、普段見せないような不定愁訴を前面に出した顔つきをしていたらしい。彼氏に矢継ぎ早に言葉の矢を連射されても、一言も答えようとせず、終始ブスッとしていたそうだ。しかし、その連射される言葉の矢の中で、「ヤリマンなの?」と聞かれたときだけは、「ヤリマンじゃない」と、そこだけはすごい速さで返答したと、陰で見ていた一人の生徒が、学校中を走り回って伝聞していた。
「大変、大変! 大ニュース!」というふうに、すごい速さで階段を駆け上ってきて、俺はそのとき、3階のラウンジでコーヒーを飲んでいたのだけど、「『ヤリマンじゃない』のところだけは異様に速く、語句が強めだった!」と、第一次世界大戦時の伝令兵として評価されたヒトラーのように、俺に伝えに来た。
二人目の彼氏は、学校一番のイケメンだった。サッカー部に所属していて、一年次でありながら、いちばん上手く、学業の成績もなかなか良かった。182cm、70kgほどの長身細身で、韓国ヘアーっぽい、サイドを刈り上げて前髪を重くして、青木とか言ったが。「青木君は勝ち組だね」と、あだ名が『勝ち組』だった。
お似合いといえば、これ以上ないお似合いで、「そっかぁ、なっちゃん、そっちの方もいけるんだぁ」と、女子生徒たちからは言われていた。そっちの方とは、つまり、ガテン系だけじゃなくて、ちゃんとオーソドックスのイケメンタイプとも付き合ってしまうんだ、ということである。
一般の女が羨望するような男とも付き合ってしまう、選びたい放題だ。それは、本当はガテン系の男がタイプだけど、味変というか、今回はこちらに流れてみようかしら、といったような、一種の余裕のようなものが感じられ(余裕というより遊びだろうか?)、彼女たち、非モテ女子たちの恨みを買うことにならないかと周囲は冷や冷やしていたが、その心配は杞憂に終わった。しかし──、はいはい、お似合いですね、はいはいそうですか、と、私たちは美男美女の戯れを見ていればいいんですね、はいはい、というような、むしろこれは、お似合いすぎてつまらないといった評価に落ち着きつつあった。
これは、当人たちにとってもどこか違和感があるようで、私たちはお互いに最高の異性を手に入れたはずなのに、何かが欠けている、といった顔を二人でしており、その心の葛藤がそのまま行動にあらわれるようで、ついさっきまで、階段の踊り場で二人で話している姿を見せたと思ったら、次の瞬間には、調理実習室の方をフラフラしていたり、3階に行ったり、1階に行ったり、2階に行ったり、ラウンジの自販機で二人で飲み物を買っていたり、神出鬼没な動きを見せた。ムーミンに出てくるニョロニョロのように、あてもなく学校内を漂うといった妙な動きを見せていた。
「カツキと付き合ってた方が、なっちゃん、幸せそうな顔してたんじゃない?」
という声も挙がった。
「私もそう思う」
「一度、ガテン系の彼氏と付き合ったから、あの、線の細い2枚目タイプじゃ満足できないんだろう」
と、賢明そうな意見を呈した生徒の姿もあり、なるほど、といったような顔をした生徒の姿もあった。
これは、事実がそうだというよりも、”そうあってほしい”という、願望のようなものが込められていたかもしれない。うら若き、屈強な肉体と肉体とが、激しく火花散らす、ギリシャ神話の大英雄ヘラクレスと豊穣を司る地母神アプロディーテのような黄金比ともいえる肉体美のぶつけ合い、大衆はそれを期待したところがあったかもしれない。
確かに、ザメ子はアザラシのメスのようなところがあり、オスとしてのアドバンテージがある方へ、ある方へ、また、ザメ子の肉体自身が、私の豊満な身体は、同じく男性としての完成系、マッチョにこそ抱かれるのが望ましいと、そうしゃべりながら廊下を歩いているようでもあった。
そういうこともあって、二人目の彼氏は、いつも一人目の彼氏に負けているんじゃないかとイライラしているようで、俺だってイカせられる、俺だって中出ししてやるんだと、心の余裕をなくした状態が続いており、結果、ものの一ヶ月もしないうちに別れてしまった。イケメンなのにあっちの方は弱いんだと、イケメンでも付き合ってもないブスやブサイク達からも言われるようになり、その後はあまりモテる方ではなくなってしまい、彼のあだ名は『負け組』になってしまった。一人目に続き、二人目もこんなふうにしてしまったから、ザメ子はサゲマンでは? と噂されるようになった。
※
ところで、ザメ子は、いったい、なんなのだろう?
どういう気持ちで、この学校に入学してきたのだろう?
ヤリマンとかヤリマンじゃないとか、そんなことを噂されるために入ってきたわけではないだろう。ザーメンを膣内に溜め込んでいて上手く歩けない時に、たまたまこの校舎が目に入って寄せ木のように身を寄せたか。しかし、本人もまた、理学療法にかける気持ちはつゆほどもなかったことは断言できる。学道的な探究心がないこと、それは、まわりも教師たちも理解していた。しかし、教師ウケはとても良かった。まず、おじさんウケする顔と身体、喋り方。品行方正でありながら、幸が薄そうな、見窄らしいけど、おっぱいはあります。勉強はあまりできないけど、熱心です。授業中は一字一句聞き漏らさないように、教室の誰よりも目を輝かせながら受けています。しかし、成績は誰よりも悪いです。ザメ子は他の女子生徒と比べても、とくに勉強ができません。これに関しては、乳の方に栄養を取られたためだと、満票一致の見解に至っていました。
赤点になると、その補習組にいつもザメ子の姿があった。追試においても赤点を取ると、進級ができなくなってしまうのだが、その年、ザメ子は追試に落ちたというのに関わらず、進級できてしまった! これは、学校始まって以来の快挙で、軽い暴動も起こった。同条件で進級できなかった者が複数名いたにもかかわらず(この中に、俺の親友もいた)、ザメ子だけはできてしまった。
「ふざけんじゃねーよ! 別に、ザメ子を進級させたとしても、ザメ子とセックスできるとは限らねーだろ!」と、廊下に張り出された紙を見て落第が決定した生徒が、猛烈に怒声を上げていた。「ザメ子に彼氏がいることは、先公たちもしってんだろ! あんなに、毎朝、彼氏の車で登校してきてんだぜ? なんで、あの姿を見ても、ザメ子と付き合えると思ってるかなぁ!?」と、一部の生徒の猛烈に憤怒していた姿を覚えている。
なぜ、進級できたのか。
それは、大いに謎ではあるが、俺はおそらくだが、以下のような推察をする。
奈津子は、実習のテスト時に、かならず水色の下着を身につけていた。この学校では、実習のテスト時、KCを着て受験することになっているのだが、なぜか、この学校のKCは素材が薄くできており、ほとんど下着が透けて見えてしまっていた。
いろいろな形の、いろいろな色の下着を身につけてくる女子生徒たちの姿があったが、確かに、いつも、実習のテストとなると、みんな、不思議な色や形をした下着をつけて試験に挑んでいた。何を言っているんだと思われるかもしれないが、本当の話だ。ザメ子はこのとき、かならず水色の下着をつけていた。この意味を、ザメ子なりに感じ取ったらしい。これが豹柄だったり、黒だったり、ピンクだったりすると、勝手が違ってくる。水色がいいと踏んだのだろう。
「どうして、なっちゃんは、実技のテストになると、必ず水色の下着を身につけてくるの?」と言い出す生徒がいた。皆も気になっていたようで、「俺も思った。ぜったい実技テストの時は水色の下着をつけてくるよね?」「ゲン担ぎみたいなもの?」と、ピュアな反応を見せる者もいた。
「いや、変に黒かったり、豹柄だったり、ノーブラで乳首が透けていたりすると、それもなんか、この子を受からせてあげたいっていう気持ちが湧かなくなってくるというか、娼婦じみているというか、あからさますぎるような気もしてくるから」
「俺が考えるに、これが、仮に、ピンクだったりすると、ちょっとそれも狙っている……でもないけど、つまらない気もしてくる。白もね。水色だと、どこか、清涼感もあるし、真面目そうだし、うーん、やっぱり、いくらKCだから透けるといっても、あんまりエロすぎると落としたくなっちゃうんじゃない? エロいけど、エロくないっていうか、エロくないけど、エロい、というような、そのギリギリの線が、線っていうか色が、水色なんじゃないかな」
「うーん」
「わかるような、わからないような」
と、そんなふうに分析してみせる生徒もいた。と、まぁ、その生徒というのが、俺だったが。
※

これが、ザメ子?
俺は目を疑った。
スターバックスにおいて、誰よりも動き、誰よりも清々しい光輝を発しながら仕事していた。
この店舗においては、女性スタッフしかおらず、キャビンアテンダントのような女性性の最たる女性たちによる抜群のチームワークを見せていて、それが個としても、一人ひとりが並々ならぬ一角のクルーのような出立をしていたが、その中でも一際異彩を放っているのがザメ子だった。まるでナポレオン近衛部隊の親衛隊長のようだった。
紛れもなく、自分自身を活かし切っている人間だけがみせる輝きのようなものがあった。ザメ子は、誰よりもにこやかに笑い、誰よりも機敏に動き、その光る汗のほうが追いつかないほどで、テーブルを拭くその一つの動作すら、塵一つ許さない徹底ぶりで、母親が愛する家族のためにリビングテーブルを拭く慈愛じみたものすら感じとれた。しかし、まだまだ現役ふうの、主婦層には至らない、あくまで女性の最前列として戦う姿勢を崩していなかった。同時に、いろんなことをやっていた。インカムで話しながら、ドライブスルーの対応、後輩の指導、頻回にバックヤードや倉庫に入っては、資材の補充に出かける回数も誰よりも多く、働きものだった。知的労働より、やはり、こうした肉体労働の方があっていたのだろう。縄文時代、洞窟奥で女同士で輪を囲って編みものや土器作りをしていた、かの良き時代を彷彿とさせる、そんな、男子禁制の、女性たちの花園の長として君臨しているようだった。しかし、長でありながら怖い感じは受けない、これは学校時代さながらだ。あくまで自分は性の対象なのだと、か弱い部分もちゃんと残してある。後輩の、まだ入ってきたばかりの新人バイトには、そのか弱い部分では負けてしまうかもしれないが、そこはもともとの悲壮感、家が火事で焼けたといったふうな、もともとの哀愁を持ち合わせているため、威圧的にならずにいられた。
客に一つコーヒーを渡すだけでも、全身全霊で、少しもダレたところがなく、土曜日にサボっていた同じ人間とは思えない。握手会のアイドルさながら、一回いっかいを、フルパワーで応えていた。相手の目をじっと見つめて不動に立ち、まるで卒業式の答辞のように、一字一句、並々ならぬ想いを込めて声に出し、注文を請け負った。俺はこんな接客をする人間を未だかつて見たことがない。それは他の客たちも同じ感想を抱いたようだった。多少、演技かかったようにもみえ、おいおい、そんな接客してたら、後がもたないんじゃないか? と、その一回ですべてのエネルギーがなくなってしまうんじゃないかと思われるほど、誰もが心配になる接客だったが、むしろ、そのために新たな力を得て蘇ってくるようだった。
ザメ子の接客を受けた人間は、今のは、本当に起きたことなのか、と、これは、自分の身に本当に起きたことなのかと、信じられない様子で、半ば放心していた。こんな接客を受けたのは初めてだと、エロを突き抜けて感動を覚えているようだった。エロより感動の方が勝ることがあるのだ。
(こりゃあ、天職に違いねーわ)
と、俺は思った。
ただ、客観的ではあった。これも、学校時代の頃から感じていたことだけど、ザメ子は自分が今、この瞬間、どう見られているか、まるでドラマの主演女優さながら、天海祐希が演じているんじゃないかというようなドラマのワンシーンのようでもあり、仕事中、一つ振り返る時でさえ、そこだけ時間が止まったような、スローモーションのような動きを見せ、美意識とはつまりそういうことか、全ての動きがスローモーションじみており、見ているものはみんな、その時間に引きずられた。
この、スタバの十数名のクルーにおいても、自分が自分であることをたまに忘れるような、ふと、別のことを考えたり、ふと、自分がここにいることを忘れてしまっているような顔を見せる者もいたが、ザメ子だけはそれはなかった。ここにあるすべての視線に気づいているようで、その視線の意味するところの意味と自分の役目もわかっていた。これもまた美人病というやつだろうか、女であること、ただそれだけを楽しみに生きている。今でも、毎日、風呂に入って、全裸になるときは、ポーッと鏡で全身を見つめて、静かに胸を触ってみたり、色が、とか、形が、とか、仔細に見つけては、気づけば一時間経っている。そんな夜を何度となく過ごしている。そのことがよく伝わってくる顔をしていた。
男性客たちは皆、数秒に一回は、ザメ子の方を見ていた。これは、なんて気持ちだろう。エロではない、エロではない、何か。
教えてくれ、この気持ちの正体を。
やはり、こんな接客を受けたことはない、いや……、やっぱりないぞ……? というふうに、困惑し、男性客たちは、この抑え難い、どうしていいかわからない感情に、つけられそうな名前がないかと探しているようだった。俺の方でも、エロを突き抜けるとこういうことがあるのか、と、得難い、新しい体験をさせてもらっている気持ちでもあった。
そういう客を次々と続出させていた。
しかし、それでも、
いや、と俺は思った。
そうか、
それが、
それが、恋──、かと思った。
みんな、恋しているんだ、ザメ子に。
マンション女性宅のポストに変な手紙を投函したのは、こいつらか、と思った。