たまたまPrimeVideoのお勧め欄に『東京ラブストーリー(1991)』が出てきて、そういえば、『東京ラブストーリー』って見たことなかったなぁと思って。恋愛ドラマのバイブルというか、月9の月9たる所以を作ったドラマだ。月曜の夜9時になると街中から20代の女性が消えると噂されたドラマだし? 一応見てみるかと思って何気なくクリックしたら、2日でぜんぶ視聴し終えてしまった。面白かった。面白かったのもあるけれども、当時の人情風俗を観察する点からいっても興味深い内容だった。
ドラマを見るのは15年ぶりくらい。最後に見たドラマが、『女王の教室』か『マンハッタンラブストーリー』だ。高校3年の頃からドラマを見るのをやめてしまっていて、それ以降はまったく見ていなかった。
しかし何を隠そう、もともと俺はドラマが大好きだったのだ。それが大好きとかいうレベルではなく、異常といってもいいくらいで、高校2年の三者面談のときに、担任の教師から、「息子さんのご自宅での様子はどんな感じですか?」と聞かれた母が、「この子、異常にドラマが好きなんです……。月曜日から日曜日まで放送されているすべてのドラマを見てるんです。ドラマの時間が重複する場合は録画までして、そのクールに放送されている全てのドラマを見ているんです……」と話し、担任に「なんなんだ、お前、気持ち悪りぃな……」と言われた。
その時、俺は初めてこれが異常なことだと気づいた。俺は誰もが学校から帰って夕食を食べて風呂に入ったらドラマを見るものだと思っていた。俺はどんなにつまらないと言われているドラマでも、それが完成されたドラマだという理由で全て欠かさず見ていた。食い物と一緒で、食べられるものであれば何でも面白く見れた。オープニングの歌も毎回飛ばさずに見ていた。録画した場合でもそうだったので、たびたび母親から、「録画してあるのに、どうしてオープニング飛ばさないの?」と言われた。
確かにドラマというのは、愛憎無象の、誰かを愛しただの愛さなかっただの、愛したから刺しただの、年柄年中やっている。そのクールに放送されているドラマのすべてがそれだと言っていい。気持ち悪いと言われれば、確かにそうだと思った。
ドラマは大好きだったが、映画は苦手だった。ドラマは全部で11話まであるわけだから、全部を見たら10時間をゆうに超えてくるわけだけれども、こんなに長いのに見れてしまうところがある。長いから見れてしまうのかもしれない。1時間づつ小分けをされているところも大きいと思う。映画みたいに2時間や3時間パックになって見せられると、どうしても入っていけないところがある。いつも電話している友達は大の映画好きで、友達が泊まりにくると、必ず映画を2、3本見せられるのだけど、友達が言うには、映画は2時間や3時間の中にエッセンスが詰まっているから、全てのエンターテインメントの中でいちばん無駄がなく優れていると力説される。
映画は、シナリオや事件が中心になってくるけれども、ドラマは日常生活が中心なところがある。たまにこの回はなんだったんだろうと思うこともある。果たしてこの回は見る意味があったのか、間に合わせに用意された脚本に過ぎなかったんじゃないかと思えるような回もあるが、それも含めて好きである。アニメもそうである。アニメも日常生活が中心だから好きだ。だからエヴァンゲリオンなんかも、映画は面白いと思えなかったけれども、テレビアニメの方は好きだった。アスカと同棲生活をしているくだりが好きで、ゆったりと日常シーンの尺を取るから、感動もひとしおである。
歩き方
さて、『東京ラブストーリー』の話だったか。このドラマ、とにかく元気である。昔のドラマを見ていていつも思うことだが、元気だなぁということだ。
いきなり変なところから言及してしまって恐縮だが、俺はまず歩き方にびっくりしてしまった。このドラマ、出演している演者のほぼ全員が、生まれたての子鹿のようにジャンプするように歩いている。頭が数十センチくらい上下して、これから楽しみが待ち受けている子供みたいな飛び跳ねた歩き方をするのである。会社に行く時も、繁華街を歩く時も、さすがに家の中ではやらないけど、外を歩くときはいつも頭が10cmくらい上下している。歩き方が、今の時代の人の歩き方とはぜんぜん違う、歩き方なんてものが時代に影響されるかどうかわからないけど。
主人公の鈴木保奈美がいちばん飛び跳ねて歩いているけど、織田裕二もそういう歩き方をしている。二人とも、もともとそういう歩き方なんだろう。これは絶対にドラマのためとかではない、監督の指図によるものではないと思う。同僚役の他の演者もそうだし、江口洋介や関口さとみ役の女は、まぁ、そこまででもないけど、エキストラとか、周りに映っている役者のほとんどが飛び跳ねるようにして歩いている。ここに時代性が現れているように思うのだ。『東京ラブストーリー』はバブルの時代が舞台になっているけれども、撮影時から、生活が、街が、仕事が、恋愛が、バブルが楽しくて、浮き足立っているのだと思う。強いていうならば、この空気感がいちばん好きだった。
そういう俺も、浪人時代まではずっとこの歩き方をしていた。浪人時代、河合塾の寮に入っていた時、寮の友達から、「お前みたいな歩き方するくらいだったら死んだほうがマシだわ」と言われて、人生でいちばん傷ついたことがある。俺はその時、初めて、自分がピョンピョン跳ねて歩いていることに気づいた。これまでどうしてこんなに恥ずかしい歩き方を平気でしていたんだろうと、ひどく赤面して、地球にいてもいられなくなり、これまで自分の歩き方を見た人間を一人ひとり殺して回ろうかと思った。
俺は浪人時代のこの時まで、生きていることが、ただそれだけで嬉しくて、いつも小躍りするように世界を闊歩していた。悩みなど何一つなく、いつも瑞々しい喜びに溢れ、それが足取りに現れていたように思う。俺はいつもゲームのことを考えていて、学校から帰ったら、これからたくさんゲームをするんだホイ♪と、小学校一年から浪人時代まで(まぁ、それで浪人したんだが)、いつもそれだけを考えていて、FF8やFF9をコンビニに買いに行く時は(当時はコンビニでしか予約できなかった)、いつもの倍くらいの高さで飛び跳ねて歩いていたような気がする。
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さて話は戻るが、このドラマ、服装なども、ちょうど着物を脱ぎ捨てて、西洋から持ち込まれた、シューズやバッグなど異流品が流れ込んできて、それらを身につけ、こなれてきた段階というか、新しいものが少しづつ馴染んできた時代だろう。スニーカーなどに目を光らせては、「わー!なにこれ履きやすーい!」と言ったり、ふかふかのベッドに「ドーン!!」と言って飛び込んだり、新しい物を目にするときは大人も子供になってしまうものであり、このことから、子供が子供である所以は、常に眼前に新しい世界が広がっているからと言えそうである。
この時代は、1991年で、俺が6歳の頃であり、俺は6歳の頃、白ブリーフを履かされていた。親父もこの頃、白ブリーフを履いていたのを覚えているから、たぶん月9といえども、聖なる祭典と名高い『東京ラブストーリー』といえども、白ブリーフなんだろうか、どうなんだろうと思って、俺はそこに注意を向けながら視聴していた。白ブリーフを履いた織田裕二や江口洋介がラブシーンをするのか気になったのだ。
しかし、このドラマ、ベッドシーンは少なくないのだけど、男女ともに下着になる場面がなくて、けっきょく分からずじまいだった。というのも、1991年といえば、当時、松ちゃんが、バラエティ番組で、白ブリーフにマジックペンで「ひとし」と名前を書くギャグをやったのだが、そのとき出演者全員の顔が「?」になっていた。現場のスタッフの笑い声もなかった。松ちゃんは、「えー? なんで? なしてわからんのー? おもろいやーん!」と周囲の無反応に困惑していたが、出演者たちは、白ブリーフに自分の名前を書き込むことの何が面白いのだろう? というレベルだったのである。俺は子供ながらにその光景を覚えている。みんな、このギャグが新し過ぎて分からなかったのだ。今の時代を生きている皆さんなら分かる通り、名前が書き込まれた白ブリーフなどは使い回しされ過ぎて、古くて、いくらなんでも古過ぎるくらいなのだが、それが浸透する前の、ということである。そんな具合だから、『東京ラブストーリー』においても、俳優陣が平気で白ブリーフで愛を語らうシーンがあるのか気になったのだ。
神は黎明期に宿る
このドラマ、織田裕二が抜擢されたけれども、本来は緒形直人が予定されていたらしい(緒形直人って知らんけれども)。諸般の事情で緒形直人が降板し、この時まだ2、3作品しかドラマに出演したことがない織田裕二が出演することになったのは、自然の修正力が働いた結果だろう。
しかし、織田裕二のこの表情、ドキリ……としてしまった。三上(江口洋介)に自分の好きな女を寝取られて、三上がその女と真面目に付き合うかと思ったら、他の女と平気で遊んでいる様子に怒って、というシーンである。織田裕二ってたまにこういう表情をするから、やっぱり抜き差しならないと思う。23歳でこんな表情ができるんだと恐れ入る。俺も今度女と会う予定があったら、こんな表情をして、その辺の店員とかぶん殴ろうと思う^^;
いつだって時代に残る名作というものは、神の見えざる手が働くものだ。これはドラマに限らず、例えばゲームにおいても、あの時期になぜ堀井雄二と鳥山明とすぎやまこういちが揃ったのか、あの時にちょうどスライムも生まれて、ドラクエを代表する、あのプレリュードの音楽も生まれたりして、偶然にしてはできすぎている。俺はいつも思うのだが、人が時代を築いているのか、時代が人を築いているのか、とかく黎明期に神は宿る。それはゲームでも、お笑いでも言えるところで、例えば『ごっつええ感じ』なんかも、初めてコント番組が作られたのは、まぁ、ドリフとか、それ以前にあったかもしれないけど、ある意味、初めて作られたのはこの頃のような気がする。やはり作ったのは、『東京ラブストーリー』と同じで、20代の出演者やスタッフで、手探りの中で、いちばん初めの、誰もやったことのない、誰も通ったことのない道、それを手探りの中で一生懸命つかもうとする中から生まれたものであって、ゲームもドラマもアニメも、いつだって、そこに神が宿る。言い換えれば、初めてのものにしか神は宿らない。ゲームも、ドラマも、今では方法論が確立されて、どれも同じようなことが繰り返されているけど、こういった模倣はすればするほどすり減っていき、退化の一途を辿るようになる。それでもまだオイシイ蜜は残されていないかと一滴一滴探しながら乞食の体で創られる作品は病的であり、そのため作品も病的な性質を帯びることになる。科学は進化していくけれど、徳性や、宗教や芸術は衰退を辿るように、新しい一歩の中にしか道はないように思う。暗中を振り抜き、道なき道を切り拓いた古典はいつまでもたくましいのである。
「私は古典的なものを健全なものと、ロマン的なものを病的なものと呼ぼう。この意味で『ニーベルンゲン』もホメロスも古典的だ。なぜならともに健全で力があるから。新しいものの大部分はロマン的だね。新しいためでなく弱々しく病的なためだ。古いものが古典的であるのは、古いからではなく、強く、元気で、快活で、健全だからだ。こういう特徴から、古典的なものとロマン的なものを区別したら分かりやすいだろう。」ゲーテ
赤名リカ
赤名リカ役の鈴木保奈美、素晴らしい。ほとんどこのドラマは鈴木保奈美のおかげだろう。女優顔というか、今、こんな顔をしている女優やタレントがいるだろうか? なんて個性的な顔だろう。顔がまるで違う。表情もとても豊かで素晴らしい。乃木坂なんかを見ていると、やはり顔がすべてのような気がしてくる。賀喜遥香と井上和のビジュアルが強い。他のメンバーがいくら歌唱力が高かったり、キャラが立ってたり、バラエティーで活躍したり、何をしようが、やっぱり賀喜遥香や井上に目がいってしまう。やはり、単にビジュアルの問題だ。
服もダボダボなのがいいね。カチューシャもいい。赤いハチマキやデカいリボンをつけていても、違和感がないかもしれない。
世間では、男も女も、さとみよりもリカの方が人気らしいが、その理由もわかる。みんな、この元気に吹っ飛ばされたいからだろう。いろんなドラマのキャラクターを見てきたけれども、こんな元気なキャラクターを見たことがない。鈴木保奈美の、演技とはいえ、本当に演技? と言えるくらいの、この底抜けの元気はなんなのだろう? このドラマの魅力は赤名リカの元気にあると思う。鈴木保奈美がいなかったら全部パーである。アニメはともかく、人間がこういう役をやると、少し無理が出てしまうきらいがあるが、その無理感がまるでない、それを自然にこなす彼女の器量には恐れ入った。これはベテラン演者でも決してできないことだろう。まぁ、田中みなみなんかは、ナチュラルでこういうところがありそうだけどね。時代が新しい節目を迎えていて、その生命が鈴木保奈美に吹き込まれている。いや赤名リカに吹き込まれると言ったほうが正しいか。
しかしこの赤名リカというキャラクター。これはなかなか新鮮だね。決してシンボル的な、シナリオのために用意された元気キャラでもツンデレキャラでもない、確かに生きているキャラクターだ。原作の漫画はどういうキャラクターなのかわからないけれども、そういえば、ほとんど原作の方は話題にされない。ドラマの方ばかり話題になるけれども、ふつう原作を超えるなんて滅多に起こり得るものではない、と思ったけど、逃げ恥もそうだっけか。ちょっと前に、東京ラブストーリーの令和版みたいなものも作られた気がしたが……、まぁそっちは見るつもりもなく、やっぱり変に擦ると大抵失敗するものなんだね。
恐らくだが、ことドラマにおいて、単純に、好きとか、嫌いとか、嫉妬とかを超えて、ただ好きという想いに殉じるキャラクターは、このドラマが初めてではないかと思える。俺はこの赤名リカというキャラクターを見ていて、ずっと岡本敏子さんや宇野千代の姿を重ねていた。というのも、恋愛における哲学や、その心構えの一貫している姿勢が、彼女たちにそっくりだからである。およそ恋愛至上主義というか、相手に好きな人がいても関係ない、奥さんがいようが子供がいようが関係ない、好きになったらとことんぶつかる、といったふうに。岡本敏子さんは、岡本太郎がよその女のところに行ったまま一年くらい帰ってこなかったり、時には、太郎に誘われて一緒に風俗までついていったと話しているが。それでも敏子さんは、「太郎さんにたくさんの女の人が寄ってきてくれるのは私も嬉しい、だってそれだけの人だもん、みんなで一緒に太郎さんのお世話をしたい」と言っている人だった。岡本太郎の母である岡本かのこは、亭主がいるのに、その家に不倫相手を2、3人連れ込んで、みんなで同棲生活をするような人だった。周りからは不潔呼ばわりされていたそうだが、太郎が言うには、どこの家庭よりも清潔だったとのことだ。
敏子さんは、とある女性から恋愛相談を持ち込まれれば、「相手の気持ちがわからなければ始められないようなら始めない方がいいわね」と答えたり、「恋愛はこの世でいちばん無条件であって無目的なもの、自分を守ってたら、怖くてできるもんじゃない」と言ったり、最も恋愛の本質を捉え、それを己が身をもって実践した。
俺はこのドラマを見ていて、危なっかしいなぁこいつら、とずっと思っていた。見ていれば見ているほど、恋愛なんてものは危なかっしいものである。こんなに、泣いたり、苦しんだり、嫉妬したり、嘘をつかないでと言ったり、まるで相手を自分に取り込もうとしている。一体化しようとしている。恋愛の目的や正体が一体化にあるのだろうかと思えてしまうくらいに、なぜそんなに一体化したがるのか、そこに幸せがあるのかと思って見ていた。
ラスト、赤名リカが、長年の夢だったロサンゼルスで仕事をする機会を得た時、カンチ(織田裕二)は、リカを応援すると言って送り出そうとした。リカからすると、なんで引き止めてくれないの!? という展開になる。
こういうとき、相手のためを想って送り出そうものなら、それはダメ男の烙印を押されてしまう今日この頃だが、それは今日の草食系男子でも知っているところではあるが、1991年の頃から、この理念があったことに恐れ入った。俺は昔の恋愛観というものを舐めていた。
というのも、カンチは、三上に、ロサンゼルスに行こうとするリカをなぜ止めないのかと責められ、「リカの夢を俺が破るわけにはいかない」と言うのだが、それに対して三上が、「そんなの全然関係ないじゃねーか」と言う。この、「全然関係ない」というセリフも1991年の当時から出てくるとは思わなかった。正直舐めていた。「俺のせいでリカの運命を変えてしまうことになる」と言い残して去ろうとするカンチに対して、最後、三上が言い放った一言、「もう変わってんだよ」はなかなか痺れた。俺の負けだと思った。
作中人物の一人が、「もうこんな苦しい思いをするなら恋愛なんてしたくない」と泣きじゃくって、隣にいた人物が、「でも楽しい思いもあるじゃん。二人が出会って、経験したこと、ぜんぶ、ひっくるめて、それが今の自分を作ったんだよ」というやりとりが、3回くらいあった。
苦しんで、泣いている登場人物を見て、恋愛はなんのためにあるのだろうかと、俺も考えてしまった。確かに、こんなに苦しいならやめた方がいいと思わなくもない。瞑想していた方がずっと翌朝スッキリして仕事に向かえるかもしれないし解脱もできるかもしれない。恋愛とは何か、恋愛は何をすればいいのか、遊べばいいのか、飲めばいいのか、抱き合えばいいのか、セックスすればいいのか、結婚すればいいのか、楽しければいいのか、恋愛とは楽しければいいのか。
いま書いていて思い出したのが、いつも電話している友達だが、この友達が付き合っている彼女に突然、「私たちって楽しいことしかしないね」と別れ話を切り出されてしまったことがある。その夜、友達は俺に電話をかけてきて、「楽しいことしかしないのが何が悪いの? 恋愛って楽しいもんじゃないの?」と、「じゃあ何をすればいいの? 結婚?」と、袋小路に似た、どこか深い哲学や恋愛の迷宮を二人で彷徨って語った。
恋愛は楽しいものではないとつくづく思うのだ。むしろ苦しいものだ。男は男だけでは男になれず、女も女だけでは女になれない。善と悪のように、神と悪魔のように、異なった、正反対のものを通してでないと、謎を解き明かすことはできないからだ。この世界は、マーヤによる幻想のヴェールに覆われていて、二つの対局するものだけで成り立っている。生と死、男と女、愛と不安、唯一絶対である神に辿り着くため、正反対のものとして、この世界は用意された。この正反対のものを通してでしか、唯一絶対である神を悟ることはできない。
俺は、好きだから苦しいということはなくて、苦しいから好きなのだと思う。ドストエフスキーもまた、確か日記のどこかで、苦しさのために彼女を愛したと言っていたし、恋愛はただ苦しいだけだ。恋愛の正体は苦しみだ。それは恋愛というものが、とにかくエゴイスティックになりがちで、エゴだから苦しい、エゴとエゴのシーソーゲームで、その人を決して自分の思い通りにできず、期待すれば裏切られ、相手を変えようとすれば自分が変わらなければならなくなり、その際に起こる苦しみだけがある。期待しなければ苦しみはないが、恋愛もない、バルザックの「恋愛はどちらかがズルをするゲームだ」という言葉の通り、この考えもズルなのか、エゴとズルの中で、ただ真実を見つけるという、そういう苦しみなのかと、その夜はそんなふうに友達と話した。何が起ころうが、起こらなかろうが、相手がいようがいなかろうが、苦しいのである。その元凶は相手ではない、自分である。自分のいちばん見たくない部分、いちばん避けたい部分、逃げたくなる部分、自分の最も嫌な部分が、相手を通して、そのまま反映されるようになる、それと戦わなくてはならなくなる。それが恋愛だ。戦っているのはいつだって自己である。自分自身でない者を愛すことはない。自分自身に出会うから苦しくなるのだ。
ひょっとしたら、月曜9時になると街中から姿を消した20代の女性たちも、こんなふうにどこかで恋愛を考えていて、恋愛も黎明期で、この時、この国は、初めて、みんな恋愛をするようになって、右も左もわからず、日本は初めてこの問題とぶつかり合わなければならない時代が訪れて、恋愛の説明書なるものが求められて、バブルで浮き足立っている人々の心にも刺さったのではないかと思うところがあるが。
考えすぎだよ、たかが月9じゃねーか、と言われればそれまでだけどね。単に主題歌が良くて、カンチとリカのキャラクターの化学反応が面白くて、「カンチ、セックスしよ!」なんてセリフもセンセーショナルで、全てが新しく、時代の先端を突いていたから、と言われればそれまでだけど。
このドラマの時代は、まだ恋愛というものに対して、どんな姿勢で向き合えばいいのかわからない時代であり(今だってわからないが)、時代は楽しいし、浮かれっぱなしで、夜通し飲み歩いて、同じ服を着たまま翌朝会社に行って同僚に揶揄われ、またその晩も飲みに行って、浮かれあって、物を投げつけあって、それで、付き合ったの、別れただの、泣いたり笑ったりしている。そういえば、歩き方だけでなく、恋愛も、この頃から、生まれたものじゃないだろうか? と俺は思い始めた。明治になって、大正になって、昭和の……、お見合い結婚する人たちがだんだん減っていって、会社というものが乱立して、だんだんそこで恋愛するようになってきて、結婚するようになって、じつのところ、第二次世界大戦後の数十年後、荒れた田畑も癒され、生活も緑も取り戻してきて、西洋の文化と共に、恋愛も一緒に持ち込まれてきたんじゃないかと思った。恋愛が、わりと、1970年、80年あたりから持ち込まれて始まったんじゃないかと思うのである。俺の父ちゃんと母ちゃんは恋愛結婚らしいが、ジジイとババアはお見合いらしいからな。だから、俺の父ちゃん達の世代に、初めて恋愛というものが生まれた。恋愛して、結婚するのが当然だって言ったって、そんなのはせいぜい20年やそこらだ、そりゃみんなわからなくて当然である。戦後、チェスやハンバーガーと一緒に恋愛もアメリカ様から持ち運ばれた文化ってやつかな。と、そんなふうに『東京ラブストーリー』を見ていて思った。マッサージしている92歳のババアも、昔は男と一緒に往来を歩くことが恥ずかしくてたまらなかったと言っているし、まぁ、秘匿されてきた男と女が、白昼堂々、太陽の下に真っ裸の状態で晒され、浮かれて手を繋いで裸足で駆け回って、だんだん疲れて、夕暮れ時になり、ふと我にかえって、恥ずかしくなっているのが、今の時代なんじゃないか? 恋愛も黎明期にだけ神が宿るってやつだ。だからあちこち離婚してるんじゃないかね。ドラマだけじゃなく、ゲームも、笑いも、恋愛も、手探りだったのである。その中で、『東京ラブストーリー』はシックでアーバンで主題歌が良くて、当時最も時代の先端を派手に捉えていたと言えばそれまでだが、恋愛に立ち向かう姿勢を、赤名リカの中に見たのではないだろうか。それゆえ月曜9時になると、街中から20代の女性たちが姿を消した。それまでは日本人女性は世界中で最も貞淑な民族と認知されていたが、この辺りから、どんどん奔放になり、今ではアメリカ人女性よりも奔放で、肉も、アメリカ人女性より日本人女性の方がよく食うらしい。今では彼女たちは、月曜9時になると、いきなりステーキに食べに行く。