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2022年の目標

発信活動を続けてきて4年目が経とうとしているが、いまだに方向性というものが見えない。

自分に何ができるのか、何をやりたいのか、小学校ぐらいの頃から、30年間近く考えてきたけど、いまだによくわからない。笑

永遠にわからないかもしれない。36歳になってもわからないんじゃ、もうわかんないかな。わからないものなのかな? わからないまま死んでいくのかなぁ、なんて思ったりもするが。特に後悔もない。時間いっぱい考えて生きてきたからね。

周りを見渡してみると、そんなことを一抹も頭によぎらせず、日々生きるのに精一杯の人たちがいる。仕事、家庭、いろんなことを守りながら。

俺はそうはする気はないから、それをせずに、自分の可能性とやらを模索しながら生きている分、楽しく生きれているのかもしれない。少なくとも、俺にとっては。

光芒に包まれたような輝かしい生活を送っているわけではないが、特にイヤなことはない。イヤなことがない日々を送れるということは、それだけで十分すぎるほど幸せなことだ。

全ての重荷をおろして、本当に好きにやってきた。好きにやってきたといっても、サボっている時間の方がずっと長かった。半分くらいはYouTube見てダラダラ過ごしていた。

俺がやりたかったことって、YouTubeを見て寝て過ごすことか。他人が作ったアニメや動画を見て過ごしたかったのか。そうか、これが俺の好きなことか、やりたかったことか。何かこの時間を有意義なことに使おうと思っていたが、悩めば悩むほど、変なものを食べたくなるし、瞑想や散歩をしても、ついついダラダラして過ごしてしまうものだった。

しかし模型作りをしているときは、まったくYouTubeを見なかったし、音楽も聞かず、まったく無音の中、ろくに食べず、一日20時間ぐらい、4時間だけの睡眠で、一週間ほど作り続けていた。自分にこれほど集中力があるとは思わなかった。集中していたのかもよくわからなかった。ただ心地のいい充実感だけがあって、疲れもなかった。

恐ろしいほど考え事が浮かばず、いつも頭の中に溢れて止まず苦しめられてきたあの煩悩がまったくなかった。煩悩にまっすぐ向かっていってもなかなか逃れられないが、別の作業に没頭していると、いちばん効果があるかもしれない。

低俗な欲求を克服するには、より高次の欲求に働きかけることだと、中村天風やスリユクテスワが言っていたが、そういうことかもしれない。

ほとんど思考が停止していた。前から思っていたことだが、人は何かしていないと思考ばかりで疲れてしまうからYouTubeを見るんじゃないだろうか。スマホゲームもそう。YouTubeは思考停止のためにちょうどいい。すなわち思考停止させる代わりの何かがあれば、すぐに止められるかもしれない。どうせ同じ思考停止があるなら、生産につながるものにしたいものだ。

文章だと1日に4時間も書けばお腹いっぱいになり、もうそれ以上は書く気が起きなくなる。午前中に執筆したらもう午後は書けなくなってくるところがあるが、模型作りのように、作業が中心となってくると、20時間やってられる。雪溶けのように時間が過ぎていく。

まぁこれは作業の種類による性格によるもので、文章と模型作りでは、気色が違ってくるという話だ。俺の個人的気質どうこうの問題ではない。文章だって、完成間近になってきて、校正作業に追われていると、一日中せっせと文字と格闘することになる。文章はアイデア出しと格闘する時間が長いから、つい眠くなったりYouTubeを見てしまいたくなってしまうのだ。これはみんな同じだと思う。その証拠に、俺はひとたびRPGをやり始めると、クリアまでほとんど手を休めることがない。学生時代、ポケモンを買った時は、電源を入れて、一度も中断せずに四天王まで倒した。ネットゲームとかやる人たちも、20時間やってたりするものだろう。あんな感覚だ。

しかしこの定理は、今年最後に発見した中でいちばん貴重な発見だった。2022年は、変に空腹や煩悩、不安と真っ向から戦うより、何か没頭できることを探そうと思う。

手あたり次第試してみて、そんなことをしていて人生が終わってしまうかもしれないが、それしかやりようがないから、それしかないと思っている。粘土いじりもやってみるまでは、こんな世界があることはわからなかった。頭の中で思い描いていたものとは、ずいぶん違った。本当にやり始めたきっかけは、ふとした好奇心で、それもしばらく面倒くさそうだと思って見送っていたが(道具を集めるだけで一苦労だしね!)、やっぱりちょっとふと思ったことをやってみることは大事だなと思った。

その瞬間やってみようと思って、2秒後に行動できる時間の中で生きていることは幸せなことだ。これ以上何を望むというのか。寝ても覚めても自分のことばかりで、人によっては狂ってしまうかもしれないが。

世界中の人々を抱きしめてまわっている聖女アンマですら「人生における最大の悲劇は死ではない。最大の悲劇は、私達が生きている間に自らの才能を発揮せず、錆びつかせてしまうことです」と言っていて、愛の伝道師のアンマですら、そう言うのならば、やはり鍵はここにあるのかなと思ってしまう。そうじゃなくても思うけどね。やはり俺も、ここにいちばんの関心がある。そのために発信活動を続けている。自由の実験室というやつだ。

個人的にはおちんちんバスターズの2話が、自分の才能をいちばんよく表現できていると思うが、出会い系にハマっていたころは、出会い系のことばかり考えていたからその記事ばかり書いていたし、食生活にハマっていたときは食生活のことばかり書いてきた。

出会い系→食生活→恋愛→霊的修行→ストーリー→笑い→模型 こんなふうにグルグルうねりながら移行してきた。

今はまったく出会い系のことも、食生活のことも書きたいとは思わない。やはり、今ハマっているものをその熱のままに外に出すのがいちばんいいかなと思っている。

たぶん今後は、食生活も霊的修行も出会い系も男も女も人間考察だかも書かない。記事もほとんど書かないと思う。ふざけたものしか作らない。神を求めるのは当然の人間の義務だから当然やるが、悟り系の記事も、もう書かないと思う。俺は悟っちゃいないし、悟りたかったら悟った人の本を読んで各自瞑想するしかないだろう。

あまり肩に力を入れて専業性を意識した作品よりも、その時ふと思ったやりたいことを表現していった方が、あとで見返してみて、面白かったりするから、いろいろ手広くやってみるつもりではいるが。

少なくとも、この4年間の活動を通して、他人から求められているものは少しわかってきたが、周囲から求められるのは、食生活や霊的修行、あるいは男と女、出会い系体験談などであり、俺が求めているものは、圧倒的な才能を見せつけることである。

ずっと、もっと何かなにか? もっと何かないか? と、ずっと自分の可能性を信じ続けてきた。本当にそれしか考えてこなかった。自分の可能性のことしか考えてこなかった。昔から自分大好きだねって言われてきた。Mr.Childrenの桜井さんも、彼女に、「でーた。自分大好き」って言われた時が、人生で一番ショックだったらしい。

まぁいいが、それだけ考え続けてきた割には、俺よりよっぽどその方面を考えていない人たちの方が、自分の天職に就いていたりするから不思議なものだ。

考えるからよくないのか?

ゲーテもこんなことを言っている。

何をなすべきか、いかになすべきか、をのみ考えていたら、何もしないうちにどれだけ多くの歳月がたってしまうことだろう。 ゲーテ

(笑)

本当にそんな感じで、俺のこれまでの人生を振り返ると、上の一言がよく当てはまる気がする。

自分のやるべきことを見極め、その中に吸い込まれるように働いて死んでいきたいと考えてばかりして生きていたが、外から見たらYouTubeを見て寝てるばかりだ。

小説なら小説、漫画なら漫画、コントならコントなりに、自分の中ではっきりしたものが欲しかったが、結局、どれも中途半端である。幅広く活動しているように一見見えるのは、探り探りやっているからである。結局これというのが見えていないからである。

小説投稿サイトの人達から、公募を勧められることもあるが、5000文字程度の掌編しか書いてこなかったし、本一冊分の長編作品など書けやしないし、書く気も起きない。これまでほとんど小説など読んできたことがなかったから、書き方もよくわからないためだと思う。

執筆は向いているような気がするが、なんだか文字ばかりがダーッと並んでいても胃もたれが起こるし、もっとイラストや何かを絡めていった方が相乗効果を起こせる気がする。

こんなふうに、寝ても覚めても自分のことば〜〜っかり考えているが。これが悪いんだろうか。自分に望みを抱きすぎることは不幸なことか。夢ばかり見ている36歳の中年。夢だけで生きているようなもんだ。

アドラーはこんなことを言っている。

どうしたらみんなを喜ばすことが出来るかを、毎日考えるようにしなさい。そうすれば憂鬱な気持など、吹き飛んでしまいます。反対に自分のことばかり考えていたら、どんどん不幸になってしまいますよ。 アドラー

自分のことばかり考えているのと、人のためになることは正反対のように思えるが、

苦しみから抜け出す方法はたった1つ。他の人を喜ばせることだ。「自分に何ができるか」を考え、それを実行すればよい。 アドラー

自分の何ができるかを突き詰めることは、世に還元することになると思う。そして苦しみからも解放される、唯一の手段だと思う。

自分の中心に迫った作品の方が、後で見返してみて良かったりする。

一つひとつの行動に、最も見て、最も聴いて、最も感じなければならないものが動いている。表現は、これに行き着いたものと、そうでないものがあるだけだ。 オーギュスト・ロダン

何をやるにしても、すべてに上の法則が働いていることは確かなので、何をやるというのも大事だが、その中にある上の法則を見出すということさえできれば、何をやっても表現させられるだろう。

というわけで、これといって相変わらず、まったくやりたいことも何もわからないが、変に間に合わせの記事を書くよりも、2022年はとことん自分の中心に迫ってみようと思う。

皆さんも、自分の中心とひとつになれますように。

 

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