恋愛

図書館に行ったらなかなか可愛い子がいた 4

8/19 火曜日

(もう一度、席を移動してきてくれたら──)

考えることといえばそれだけだった。

まったくおそろしい話だ。女はちょっと男のとなりに座っただけでこんな出前館ヒキニートに好きになられちゃうのだから、オチオチ男のとなりにも座れない。

図書館に行っても何があるでもない。ただ石の棒のように中に一本線が入ったような思わず手を合わせて祈りたくなるような神々しい像があるだけだ。今日はオレンジ色の薄い素材の英字Tシャツを着ていた。半分透けていて下着のラインが見えていた。室内温度は一定なのに、薄いTシャツを着たり、ジャージを羽織ったり、よくわからない着方をするものだ。下はかなりタイト目の淡い水色のジーパンを履いていて、裾の部分が広角に開かれていて逆エリマキトカゲみたいな形をしていた。

ファッションにおいては、女子高生ミスコンの決勝戦に向かうような格好をしてくることもあれば、学校のジャージを着てきたり、ラフだったり、さまざまである。しいていうなら、個人的には、いちばん最初に見た、ツインテールのおさげの紺のフリルのドレスみたいなのがいちばん好きだったかもしれない。童貞ホイホイの代表格ではあるが、あのやりすぎくらいな清楚が彼女にとてもよく似合っていて、まったく嫌味になっていなかった。どんな格好、どんな髪型でも最大の興味をもって鑑賞できるつもりでいたが、しいていうなら、あまりデコを出しているところは見たいとは思わなかった。いや、見たいかもしれなかった。毎回、違う服装、違う髪型をしてくるので、特定するのにとても時間がかかった。ひょっとしたら、彼女ではない女性を眺めていたこともあるかもしれない。しかし、そんなときでも、俺はその人間を見ながら読書に集中できてしまった。次々と本を読破していった。このことから、事実は彼女の中にパワーフォースの所在はなく、俺の概念の方にあることがわかってきた。また、このことから、人間の実体なんてものはどうでもいいことなのかもしれない。

毎日行けば、毎日いて、毎日眠っていた。ほとんど彼女はうつらうつら、こっくりこっくり、自習室にいるあいだのほとんどの時間を眠って過ごした。その素晴らしい姿勢を保ったままで。

ほんとうに、いつも、寝ているけど大丈夫か?

おそらく、これは学校でもやっているだろう。

(睡眠学習?)

2時間ぐらいこの調子が続いたときはうしろからひっぱたきたくなった。そうしてやるのが彼女のためだと思ったし、思わず身体が反応してはたいてしまいそうになった(もっとも、2時間、この状態が続くことは異常だと思ったし、2時間それを見続ける方はもっと異常だったかもしれないが)。ヘルメットみたいな黒艶のいい頭を見ていると、パシィンとやってしまいたくなるところもあったかもしれない。

しかし、相変わらず、神々しいパワーフォースのような精彩を放っており、合格祈願をする方の立場であるはずなのに、自身がそれになってしまっている。少なくとも、あのお稲荷像がもう一度俺のとなりに引っ越してくることはあまり考えられそうになかった。

◯  ◯  ◯ ◯  ◯ ◯  ◯  ◯  
◯  ◯  ◯ ◯  ◯ ◯  ◯  ◯  
◯  ◯  ◯ 像  ◯ ◯  ◯  ◯ 
◯  ◯  ◯ ◯  ◯ ◯  ◯  ◯ 
ホ  ◯  ◯ ◯  ◯ ◯  ◯  ◯ 
◯  ◯  ◯ ◯  俺 ◯  ◯  ◯ 
◯  ◯  ◯ ◯  ホ ◯  ◯  ホ 
◯  ◯  ◯ ◯  ◯ ◯  ◯  ホ 

あの日以来、席を移動してくるということはなかった。

彼女が俺のとなりに引っ越してきてくれた日以降、"今日はこちらに移動してくる気配があるか?"を仔細にチェックするため、観察力のほとんどをそれに奪われ、読書のための集中力も残らなくなっていた(2時間もチェックしていれば分かりそうなものだが)せっかく物置のホコリ被った古本を持ってきたというのに(こちらの古い恋人の方がずっと可能性はありそうだが)、これらの本がトイ・ストーリーさながら(やっとご主人様に手に取ってもらえた! が、がんばります……!)というふうに熱っぽい瞳で俺の顔を見てくるのだが、"本>俺>彼女"というふうに、自習室内において奇妙な三角関係を繰り広げるでしかなかった。

だいたい、席を移動してきたらしてきたらで、そのときに対応すれば間に合う話なのだ。移動してくる"気配"があるかどうかを確認するなんてことは犬の糞ほどにもどうでもいいことだ。警察といっしょで事件が起きたあとに対応すればいい。それをわかっていながら、俺は、翌る日も翌る日も、あの美しいお稲荷り像の背中を見ながら時間をドブに捨て続けた。繰り返すが、それが39歳の夏休みの過ごし方だというのだ。

俺が来ていることにすらまだ気づいていない様子だ。もちろん彼女の頭の中に俺という人間が住んでいればの話だが。

うーん、おかしいな……。一度は席を移動してくるくらいのアクションを起こしたんだ。もう一度それをしないまでも、それに準ずるもの、その兆しのようなものが見え隠れしてもよさそうなもんだが……。しかし、毎回、毎回、俺のとなりに移動してくるとか、そんなアバズレみたいなことをあの子がするとも思えない。

こうして遠い瞳でチラチラ見るばかりでことは一向に進まない。もう一度席を移動してきてくれたら、もう一度何かサインらしきものをよこしてきてくれたら、こちらでも動き出せるのに──だって、普通に考えてごらんよ? そっちで、そういった道を用意してくれなきゃ、39歳の男が17歳の女の子に歩を進められるわけないでしょ? 大人の女はこういうところがわかってるから俺が動きやすいように考えてくれるわけ。これだから高校生は。あれだけガタって音を立てて動いたんだ、それが、そのあと、こっちをまったく見てくることもないって考えられる? ……だが、前回のときもそうだったからな……。ああ無理か……とあきらめた瞬間に引っ越してきた例があるから油断ならん。

(これはナシ、かな)

彼女がこちらをぜんぜん振り返ってくれないので寂しくなってきた。

振り返る──か。

何が楽しくて、39歳出前館ヒキニートの顔を見なきゃならないんだか。

相手が自分のことをどう思っているか、そればかりを気にしている。こういう心理状況になっているときはたいてい失敗するものだ。17歳の少女の気持ちがわからなくて、後手、後手にまわり、彼女のまわりを嗅ぎ回っている。俺はこのとき、バルザックの小説『幻滅』にあった文章が思い起こされた。

『ふたりが、感情のかけひきにばかり没頭して、行動しないで、しゃべってばかりいる。攻撃にうつらないで野戦のようなことばかりしている。こうして、しばしば、情熱は自分でいたずらに疲れて、その純真さを失って行く』バルザック. 幻滅(上) (p. 182). (Function). Kindle Edition.

ふたりがってことはないが……。俺が勝手に小石を拾って投げてぶつけているだけだが……。

一体、今日だって、俺は何をやっていただろう? 今日も、きっちり2時間、彼女が寝ている姿を後ろから眺めていただけだ。それが成人男性の時間の過ごした方といえるだろうか? 39歳、出前館ヒキニート、その唯一の仕事である出前館をサボってまで、彼女がまるでフードデリバリーのようにこちらに移動してきてはくれないかと願っている。

これが地獄でなかったらなんだというだろう? はたしていったい誰がこんな男を好きになるというのか? 寝ているとはいえ、俺が来た頃にはとっくに来ていたし、いつも俺の方が彼女の後にやってきて先に帰っていく。はたしてこんな時間の使い方をしている39歳の男に声なんてかけられたいかねぇ?

神を見出そうとする、それだけが人の努力といえるにふさわしい努力だ。受験勉強なんてそれに比べれば稚児の遊戯に等しい。しかし、こうして神を考える39歳の男と、目一杯受験勉強に勤しむ17歳の少女、神はどちらを寵愛するだろう? 俺は神を見出そうと努力している、だから俺の方が偉いはず、だとしたら、なんだろう? この身につまされる敗北感は。俺たちの間にどちらに正義があるかは一目瞭然な気がする。少なくとも、俺は彼女よりがんばっているとは言えそうにない。がんばっているとか、がんばっていないとか、恋愛において、相手よりがんばっていなければダメなのか? だとすれば、俺はどうやってがんばっていることを彼女に示せばいい?

もし俺が神を見出せていたら、こんなことで悩まずには済むのにな、と思った。それだけのことでも神を見出す価値がある。あんなに可愛い17歳の女の子だ。これから志望校の国立大学に受かって、また大学で書道をやるのかしらないが、サークルの勧誘と称して言い寄ってくる、同じく高学歴の書道サークルのヤリチンの先輩たちに、チンコだか筆だかを突っ込まれる青春活動において、俺の存在は邪魔になるんじゃないか? 俺だって字はうまい方だけど、部活動で何年もやってる奴には敵わんさ。そんなに自信がないの?って思うかもしれないけれども、自信ならあるさ。自信ならあるけれども、それが彼女に伝わるとも思えない。今、日本でいちばん面白い文章を書けるのは俺だけど、それが彼女に伝わるとも思えない。それは絶対的なものではなく相対的なものであり、そのために俺の自信も相対的にならざるをえない。39歳、出前館ヒキニート、月収8万円。大学生のアルバイト代みたいな収入だ。そこだけは大学生と同じだ。もし俺が本気で霊性修行に打ち込んでいたら、もうとっくに神を見出していたっていいはずなのだ。アンマだって、「もし本気で修行に打ち込むなら2年も必要はないわね」と言っていた。2年、これも大学受験と同じくらいだ。

「神を見出すのは、40歳手前がいちばんいい」とパパジが言っていたが(ソクラテスも言っていた)、もう、あと一ヶ月で40だ。本当はあと一ヶ月で見出さなければならないというこの時期において、彼女が俺の前に現れたのは、どうも偶然ではないような気がする。

というのも……、じつは、これは内緒にしていたことなのだが……、俺はいつも寝る前や、ふだんの日常のあらゆる折に、「どうか神様、最後に一度だけ、可愛い子と恋愛させてくれませんか?」と、ここ10年くらいずっと祈っていた。ふつう願いというものは、10年祈り続ければ叶うといわれているが、「17〜19歳くらいの可愛い子、そういう子と最後に一度だけ恋愛させてくれませんか?」と、生活の中の少なくない回数を祈っていたから、とうとう神様が叶えてくれたのかと思った。まさか下限の17歳が来るとは思わなかったが。

世間はこういうとき、いい大人が女子高生に声をかけるとか気持ち悪いとか、みっともないとか、同じぐらいの年の女性に相手にされないとか、ロリコンとか、これだから39歳の出前館ヒキニートはとか、いろいろいうが、この手の奴らは全員、自分が街を歩いている気になった女子高生に声をかけられないから、先を越されたことに腹を立てているだけだ。このさい成功も失敗も関係ない。ただ先に声をかけられたことに対してムカついているだけだ。彼らのなかにも本当は女子高生に声をかけなければならないという使命感にも似た気持ちがあり、非難する側と同調することで己の中のくすぶっている火種を完全に消そうとこころみるが、それがなかなか消えてくれず、そのプスプスとあやしく揺めく薄黒い焔がぽくちんに向かってきているだけだ。

(俺は、俺だけは、ぜったいに女子高生に声をかけてやる……!)

俺はお稲荷像にそっと手を合わせた。

まぁ、けっきょく、声をかけずに帰ってきたが。

俺は椅子に座って考え始めた。

俺はやはり、こういった気持ちになったからには、この気持ちに対する責任のようなものがあるような気がするのだ。

誰かを好きになると、たいてい、いつも、こんな感じの思考パターンを繰り返しているような気がする。へんに相手を神性化して、ろくすっぽ相手を見てもいない。自分の想像の中で肥大化していく虚像をみて、それに恋している。それはいったい"誰"なのか? そうやって、何度も、何度も、失敗してきたわけだが、はたして、今回は、どう思いますぅ〜皆さん? どうかねぇ。今は、彼女と付き合うか、さもなくば誰とも付き合いたくない、というくらいには気持ちが膨らんできてしまっているが。それだってねぇ、また、数ヶ月も経たないうちに、そんなことあったっけかなぁ? なんてことになるのが関の山で、いつものことってことだが。それをずっと見てきた皆さんからすると、どうせ8話になっても、女の子との会話シーンが一つもないまま進んでいくんだろ? と思うかもしれないけど😂

この状況を用意したのは神だ。

これはぜんぶ神が計画しているんじゃないかと思うところがある。

1 最初に自習室に行った日、となりの席だったこと
2 目があって光を感じたこと
3 コインロッカーを使おうとして、100円玉をポケットに忍ばせたこと
4 ノイズキャンセリングヘッドホンをしていて、100円玉を落とした音に気づかなかったこと
5 彼女が俺のとなりの席に移動してきたこと

この5つの点は、普通に図書館の実習室にふらりとやって帰っていく分には通常起こるとは考えられにくいものである。しかし、これらの1つでも欠けていたら、今回の件は起こらなかった。

まず俺はカフェ派だし、自習室の無菌室のような筆記音がえんえんとこだまする環境が苦手で、一年ぶりにふらっと気まぐれで入ってみたところ、彼女ととなりの席だったこと。このとき彼女ととなりの席ではなかったら、俺は2回目以上は自習室に足を踏み入れていなかったのだ。コインロッカーを利用しようと思ったのも、その日たまたまたくさんの荷物を持っていたためであり、ノイズキャンセリングヘッドホンなんてものも、返品可能だったからどんなものかと試してみようとAmazonで購入し、パッと使ってみて送り返すつもりでいた。

少し、考えてみよう。この考察については、長くなるばかりであまり面白いものにならないかもしれないので、急いでいる人は次の5話に向かってもらって構わない(まぁ、この連作記事に『5話』なんてものがあればの話だが……。またこの記事を読んでいる読者に、『急いでいる人』がいればの話だが……。いったい何を急いでいるのだろう?)

 雀一羽落ちるも神の摂理がある

神は、俺にどうしてほしいと思っているだろう? 

皆さんも知っているとおり、たしかに、この地球上の生きとし生けるすべての存在が、神といわれる調律者の指揮棒によって動かされている。この地球が誕生する前から、われわれの存在とわれわれの予定は、彼の計画書に書かれてあった。

この出会いがどんな出会いになるかはまだわからないけれども、神が与えてくれた出会いということは確かである。なぜなら、すべての出会い、すべての人との関わりは、すべて、何かしらの意味を持っている。それは、われわれの矮小な知性では知るよしもないが。

ひとたび、その恩寵にかなえば、われわれのなかの発起心が作用するようになっている。今回、俺に限っていえば、今までこれほど光を感じたことはなかったし、これほど心を揺れ動かされたことはなかった。この気持ちも、この気持ちが起こるに至った因子、つまり彼女が俺のとなりの席に引っ越してきたことも、神がそうさせたと俺は考えている。椅子をガタッと動かしたことも。すべての人と行動は神の摂理にある。その発起となるその心の種なるものは神によって植え付けられ神によって発芽している。

問題なのは、神は俺に彼女のもとへ行けといっているのか。これも欲望の一種だから、こんなものにかどわかされていないで、まっすぐに"わたし"のもとへ来いといっているのか? それとも、先に話したとおり、霊的通説では、人が神を見出すのは40歳手前がいいとされていることから、あと一ヶ月で40歳になるというこの時期において、人生の前半期における集大成としてのこの試練を乗り越えて"わたし"のところに来いといっているのか?

まっすぐ神のもとに行くのか、それとも彼女を通じて行くのか、ということである。

俺としては、失敗したとしても、そんなに苦しむことはないだろうと考えている。見てのとおり、一目惚れの範囲内に過ぎないし、こんなふうに一目惚れをした結果、見事に花散った経験などは2000回をこえているし。もしかしたら、これを過ぎたら、ほとんど思い出すこともないかもしれない。これが、もし、5年10年付き合った関係でご破談……となると、苦しみは計り知れないものになるかもしれないが、時間がほとんど関係していないために、きっとそんなに苦しむことはないように思う。

人間の幸福は、自身のうちにある神、自身のうちに眠っている本性、バガヴァッド・ギーターは、これを霊感覚といっているけれども、自己の本性に達したものは、自らの霊感覚を楽しむ──とある。

これが人間の幸福の最たるものであり、本当のところでは、これ以外に人間の幸福はないらしい。われわれがいつも追いかけている幸福──、私たちは、たしかに、物質的なもの、精神的なもの、あるいは人であれ、物であれ、外部のものであれ、内部のものであれ、さまざまなものを追い求めるけれども、自分とは誰か? 自分はいったい何者なのか? この"自分"の正体を突き止めようとはしない。しかしそこに私たちが生まれてきた本当の目的、本当に手にしたいと思っているものがある。幸せはそこにしかないというのだ。だから本当のところでいえば、俺は彼女とどうこうなるよりも、この霊感覚を楽しむというゴールを迎え、そこに安住していたい。それが人の幸せである以上、きっとそれに勝る幸せはないだろう。

それ以外の何が手に入ったところで、これを得るために再びこの地上に戻ってこなければならなくなり、また、それ以外のものは大きな満足を与えてくれることもないだろう。じっさい、その証拠に、俺はいろいろなものを手にして、たくさんの満足を感じたことがあったけれども、今はどうだろう? いったい何を手に入れたことによって、何に満足しているというだろう? 過去、どんなものを手に入れたことが今の幸せにどう役立っているだろう? むしろ不足を感じ、彼女というものをほしがっている。彼女を手にしたとしても、また別のものを欲しがるだろう。いつも何らかの感じている不足感、この不足感がわれわれが神を潜在的に欲していることの証左である。

人々は、本当のところでは、この霊感覚、人間の最高の幸せなるものが、そこにあることを実際感覚的にしっている、そのために地球へ送られてきたことも潜在的にはわかっている、ただ、知識としてそれを持っていないために、無性に背後からやってくる、ほしい、ほしい、という欠乏感の支配にあってしまうのだ。神を求めるための聖なる意識が人々の中に植え付けられているが、その意識が物質を求める形で顕現してしまっている、それがわれわれの欲望といわれるものの正体らしい。

だから、今俺が彼女を追いかけていることも、そのためだと思う。欲──。皆さんは欲だと思うかもしれないが。まぁ、俺も思う。これが欲でなかったらなんだというのだろう? これが執着か愛かといったらいわずもがなだ。だが、この欲というのは、人間の神への帰属本能における推進力がさまざまな物質対象へあらわれているにすぎない。つまり、幸福になりたい──、という、われわれの、われわれのなかに犯しがたいものとして依然としてある、ずっとうずまいているもの、無性に駆り立てられるもの、不足感、それが無軌道に放逸に発揮されている結果が欲であり、真実は神への希求なのである。これはすべて無知から起こっている。

一応は、俺は理論としてこういうものがあるということは知っているから、どうせ今回失敗したところで神がいるから大丈夫、というところにやる前からその場所に座っている気でいるが、だからそんなに苦しむことはないだろうと考えている。それだけでも宗教の役割は大きい。

さて、今、俺が考えていることは、マザーテレサが『神はあなたに成功して欲しいとは思っていないのよ、ただ挑戦してほしいと思っているのよ』と言っていたことだ。

挑戦。

やはりそうなのかな? 挑戦。何か、俺が思っているような、俺の欲望をていねいに叶えてくれるような、そんな俺の召使いのような役割を神がしてくれるはずもなく、むしろ俺が召使いとなって彼に従う構図が正しい。俺の欲望や俺の考える道程とはちがって、俺の出会いや俺のこれからの起こるできことには、俺が神のもとへまっすぐ進むためのヒントが隠されているのではないか。それは俺にはわからないけれども、それはこの件にかぎらなくとも、日常のすべてのできごとはそうなっている。すべて、毎日、毎瞬が、すべての人間が神へたどりつくため、己の完成のための一瞬いっしゅんがその連続なのである。そうやってすべての人間が神に至る。

正直、彼女のことが好きなのかどうかはよくわからない。この気持ちを好きといったら、好きに失礼な気がする。これも、あまり皆さんがご存知あることかどうかはしらないが、"行かない"という選択がとれないためである。俺はこういった状況を人生の節々で何度も体験してきたのだけれども、自分が大して気が進まないこと、やりたくもないことだというのに、不退転を厭う行為をどうしてもとれないときがある。透明な何かにムリヤリ身体を動かされるような、自分がどれだけその力に逆らって、抵抗したり、身を翻すようにして、反転しようとしても、ムリヤリ首根っこを掴まれて、グギギギ……というような、軌道修正されるような、そんな不思議な力に抑え込まれてしまうことがあるのだ。自分の肉体であり、自分の意志であるはずなのに、これがどうしても指一本動かせない。こういうときは何をどうやっても逆らえたことはないし、抵抗しても勝てないことは知っているから、さいきんは素直に従ってしまうことの方が多い。何のためにこの力が働いていたかを知ることができるのは、だいたい3、 4年後だ。

俺は現在、この力がかかっていることから、やっぱり神は行けって言っているんじゃないかと思っている。

じゃあそれは一体何のため?

もしかしたら、俺も32の頃に会社を辞めて、それから8年ばかり霊性修行をしてきた。そのため8年前とは比べ物にならないほど霊的進化を遂げることができたところは実感できるところであり、もうそろそろ大恋愛できる準備が整ったかな、と思わないところもなきにしもあらずでといったところで、よくがんばったなぁリョウイチ、よし、そろそろお前も女の味を覚えてもいいころだ、さぁ、たーんと味わえというふうな、大盤振る舞いとしてあたえられたふうな、ちょっとしたご褒美なのかな? といったことも考えられなくもないが。

というのも、世間の男女がやっているような恋愛とはまた違った恋愛ができそうなのである。俺自身が霊眼に優れ、以前よりは相手の内に光を見出せるようになってきて、その光と同化して楽しむ、まるでおじいちゃんとおばあちゃんが縁側で茶を飲みながらオセロを指しているような恋愛と似たものかもしれないが、そうでなく、もっと静かに、ただ座って、いっしょに光の波動を楽しむという、もうそういうところまでできるようになってきた気がしたのだ。第一話で、熊谷守一さんが、「私は石ころ1つあれば、1ヵ月はゆうに過ごせる」と言っていたように、女に対してなら、俺もそれができるような気がした。いつでも人間に与えられるものはその境地に見合ったものに限られるが、今回、俺の鑑賞眼とその対象物の一致度といったらない。俺だって誰でもいいわけではないのだ。彼女ほどの光を持つ女性は、その光の光度を1から100までわかるような、あ、これは63.7だったとか、それくらい仔細に見分けられるだけの目も同時に必要になってくるように思ったのだ。鍵と鍵穴はそろった、いざ、扉は開かれん──

『ハムナプトラ2〜黄金のピラミッド〜カルナック大神殿』開幕……!

すべての女というわけにはいかない。向こうにだって、ある程度の素養がなければダメだろう。俺は彼女の写真を見ていて、彼女とだったらそれができるんじゃないかと思った。あのダウナー気質の、静かで、どこまでも沈んでいった先の、空間の一点のような場所でそのまま溶け込んで消えてしまいそうな、そういう時間を過ごせるような気がした。そんな時間を過ごしたいか? といわれたら、よくわからないが。俺は消えてもいいけど、彼女はまだやりたいことがあるかもしれないし……。少なくとも、運命の女に出会っておいてわからない俺だとも思えないのだ。そういう意味においては、やっぱりこの子が俺の探していた相手なんじゃないかとは思った。

そんな地球上の物質的なできごとにかかずりあってないで、この凡俗と肉欲に満ちた下劣な世俗から身を引き、人里離れたところに一人住み、ゴザをひいて瞑想していた方がよっぽど早道だとは思われなくもないが、われわれがこの地球に生まれた以上、この身体が通りすぎなければならない体験があるらしい。その体験を通すことでしか神へと近づいていくこともかなわないのかもしれない。神はただ自分を見てほしいだけではないのか? ギーターにも聖書にも書かれてある、あれらの二大聖典が口やかましく何度も何度も説いているのは、ただ神を愛せよ。神を愛するように隣人を愛せよ。その二つしか言っていない。それが自分とはまるで違う17歳の女子高生へと俺を向かわせようとするのは、およそ悟りとはまったく反対方向のような気がするのだが、この道こそが神へと続いているというのか?

あのバガヴァッド・ギーターにおいても、アルジュナはあれほど嫌がった親族に弓を引くという行為を通じて神へとなっていった。その行為を通じて"わたし"のもとへ来いと命じられていたのだ。普通に考えれば、戦争だとか、喧嘩だとか、親族争いだとか、そういったものから離れて、ひとり菩提樹のもとで足を組んでいた方が早道だと思われるが──、クリシュナはアルジュナに戦え、と言った。

何か俺の中で戦わなければならないこと、何か俺の中で必要としていること、それがうずまいている。何か俺の中でどうしても向き合わないことがこの先に待ち受けられていて、そのために動かされているのではないか?(俺はおそらくだが、書くために起こっているんじゃないかと考えているが)

すべては神の恩寵だ。すべて、その人のふさわしい時期にふさわしい物事が訪れているだけだ。それを拒むことも余計に手にすることもできない。それはむしろ自分が追いかけるものではなく向こうからやってくるものであり、フンボルトに至ってはこれを、『幸福な出会いはたいてい人に呼ばれずにやってくるものであり、押しのければ押しのけるほど、いよいよやってくるものなのです』と言っている。

39歳になって、一つだけわかってきたことがある。人生は乗り物に乗っているように勝手に進んでいくということだ。自身が決定をするということはない。ただそうすると思っているだけだ。何か他のものが物事をなすように駆り立てている。ただそれに気づいていないだけなのだ。思考過程に忙しくしている間は、それに気づくこともないだろう。もし俺が彼女と付き合う運命になっているのなら、俺が望もうが望まなかろうが付き合うことになるだろう。もし付き合えない運命になっているのなら付き合えないだろう。

神様お願いします。どうか彼女とうまくいきますように、とは祈らない。それは明け渡しではなく命令である。神様、どうぞあなたの好きになさってください。あなたの御心のままに従います。という気持ちがあるだけだ。

自分が望む望まないとあれ、その人とのあいだに起こるものを体験し終えるまでは終われないだろう──

戦うしかないか。

このとき、俺の胸には、バガヴァッド・ギーターの次の一節が思い起こされた。

敵を殲滅しものアルジュナよ 仇敵(かたき)をこらしめ罰する者よ 卑小な心を捨てて さあ立ち上がれ!

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