食べ物に関する研究・美容・健康

「食べたい」とはなんだ? 「おいしい」とはなんだ? 〜5号のホールケーキを食べたくてしかたなかった日のこと〜

投稿日:2021-09-15 更新日:

※長文です。ちゃんと推敲していないので読みにくいと思います。

食欲というものは不思議なもので、ふだん起こる食欲と、食欲を終わらせようとして起こる食欲とでは、また違った形となるのである。

なんと今はホールケーキを食べたいと思っている。ホールケーキ。ショートケーキではない。ショートケーキだったらいらない。なんと、4号でもいらない。5号じゃないと、ダメなのだ!

別に甘いものなんて好きじゃないし、ケーキなんて今まで食べたいと思ったことはほとんどなかった。それだったら、カラムーチョや、しょうゆがよく染みた煎餅、中本蒙古タンメンや、スーパーのイカの唐揚げ等の方が大好物なのだが、今は5号のホールケーキ以外まるで考えられなくなっている。

ワンカットで450円くらいで売られているあのケーキを食べたいわけではない。

5号のホールケーキなんて一人で食べ切れるかどうかわからないが、だったら4号でいいかもしれないが、どうしても5号でないと、ダメなのだ。というのも、この前、小生の訪問マッサージの利用者のお客さん(85歳のおばあちゃん達)のお誕生日パーティーをやったとき、5合のホールケーキをみんなで食べたのだが、物足りなかった。

ワンカットだけ食べて物足りなかった。欲望が閾値に至る前に食べ終わってしまった。あと、もう一切れ、いや、もう二切れ。いや、まるごと一人で食べてみたいなぁと思ったのである。

小生だって馬鹿じゃない。あんな甘ったるいものを、一人でぜんぶ食べようと思ったら、途中から苦しくなることは想像がつく。おいしいのは最初だけだ。食べきれるかわからないし、半分も食べたら、もういい、と飽きてくるだろう。最後は無理して味噌汁を注ぎ込みながら片付けなきゃならなくなる様子がありありと想像できる。

少し前は「まぜそば」が食べたくて仕方なくなっていた。なぜ、「まぜそば」なのか? YouTubeでたまたま、まぜそばを食べている動画があって、それを見て食べたくなってしまった。

まぜそば? ラーメンと何が違うのか? スープがないということは、味がどう変わるのか? もっと染み付いているのか? そういえば、焼きそばと富士宮焼きそばは何が違うんだ? そういえば、ここずっと、かた焼きそばも食べてないなぁ。

こんなふうに、そうして小生は、「まぜそば」「富士宮焼きそば」「かた焼きそば」を食べた。まぜそばは静岡の名店、富士宮焼きそばは富士宮まで食べに行って、かた焼きそばはリンガーハットまで行って、それぞれ全部、食べに行った。

↑この機会に、普通のちゃんぽんの味も知ろうと思って、かた焼きそばと両方買って食べた。

↑富士の生しらすは普通の生しらすとは違うという情報を聞くと、それもやはり知るために食べに行った。

この通り、「食べたい」というよりも「知りたい」という気持ちが強くなるのだ。

食べ物への欲求の根を止めようとすると、曖昧なものを残したくなくなる。ああ、どんな味だったっけ? とこれまで食べたことのないもの、久しく食べてないもの、以前から気になってたけど、そのままにしておいたもの。それらをすべて片付けたくなってしまうのだ。

そして、今はなんと、ホールケーキを片付けようとしている……!

神に誓っていうが、ホールケーキなんて、本当に食べたくない。この記事を書いている現在は、食べ物の偏愛が静まっている状態で、旅も終わってる? 最中なのだが、当時は、どうしようもないほど頭がおかしくなっていた。しかし、これは、食べ物を終わらせようとすると、多くの人に起こる現象だと思われる。

例えば、マックのフライドポテトを食べたくて仕方がないとする。普段は別に、マックのポテトなんてどうでもいい。本当にどうでもいいのだが、明日から生玄米生活をしようと決意すると、最後に、マックのポテトと決別したくなるのである。

「食べたい」とか、「美味しさを味わいたい」とかではなく、「知りたい」「記憶をはっきりさせたい」あの塩加減、あのポテトを噛んだとき、ぐちゃっと潰れる歯ごたえ、熱感、舌触り、喉を通る感じ、繊密に、それらを知りたくなるのだ。

食べているとき、小生はどんなことを考えているのか? それだけ知りたいと思っていて、じっさい、それを食べたとき、小生はどんな感想を覚えるのか? それは、ああ、こんなもんか。なるほど。想像通りだ。うん、わかった。なるほど、思ったとおりだ。と、繰り返し、繰り返し、そんなことをひたすら感じている。

思っていた通りの味。そう、思っていた通りの味があるだけだ。

ふーむ、俺はどうしてこんなに、こんなものを求めていたんだ? 実に無益だ。やっぱり思っていた通りの味だ。

この「知る」ための食事は、最後の一口というものがとても重要で、たとえば、マックの最後のポテトを食べるとき、それをなんとなく慣性にまかせたまま、何も考えず(味を確かめようとせず)、ふつうにフワッと食べてしまうと、すべてが台無しになる。やり直しになってしまう。やり直しとは、また翌日、マックのポテトLサイズ2個を買って食べるということである。

最後の一口がいちばん重要で、要は、最後の一口のために、マックのポテトLサイズ2個を買うはめになる。ほんとうに、一口だけ、一口だけ、アルコール中毒者のように、最後の一口だけ、と。どんなものか知るためには、一口で足りるので、一口でいいはずなのだが。

じっさい、「ウニ」の正体を知りたかったときは、スーパーで寿司のパックを買って、ウニだけ食べて捨てたこともあった。セブンの中本蒙古タンメンについて知りたくなったときは、中本蒙古タンメンを買って、一口だけ食べて、残りを全部捨てたこともあった。

一口だけ食べて、味を知り、それを乗り越えて捨てる、ということを、何度となくやった。

中本蒙古タンメンの場合は、チーズを入れて食べると、また違った感覚を楽しめるので、一緒にセブンでチーズも買って、普通の中本蒙古タンメンと、チーズ入りの中本蒙古タンメンそれぞれ一口だけ食べて捨てる、ということもやった。チーズは6ピースすべてまるごと突っ込んだ。

よくわからないが、食べたいと言う気持ちは、何なのか、本当にわからなくなる。

食べたいってなんだ? おいしい? 味? 舌を通して走る感覚? 脳? 信号? 何も考えずに普通に食えば、「おいしい」という気持ちになるが、よーく冷静に俯瞰してみて、この、「おいしい」とはなんだろう? と、注意しながら食べると、味というものはよくわからなくなってしまうのだ。おいしいのかまずいのかもわからない。味があるのか、ないのかもわからなくなる。

まぁ、これは快楽全般にいえることで、オナニーやセックス、睡眠欲、その他もろもろ、すべての快楽と脳の関係について言えることだ。

とても透徹な視線で、よくよく観察し、注意し、意識し、「おいしい」という感覚の正体を、精密に、おいしいという感覚に流されることなく、正体を突き止めようとして、それに流されないでいると、ん? なんだこれは? ふーん、なるほど、こういう感覚がきて、こういう感覚が続いていくんだ、ふーん、なるほど、と、ずっと「なるほど」と思いながら食べるだけになる。

と、なると、富士宮焼きそば、ふーん、なるほど、こんな感じが。かた焼きそばは、ふーん、なるほど、こういう感じね。と、ずっと学者のように調べ物をする感じで食べていた。一度もおいしさに流されることなく、ただ、味蕾細胞が脳に働きかける信号。それを「おいしい」と変換させることなく、ただの身体的刺激の情報として、そのままキャッチする。

「おいしい」というのは、正体を突き詰めようとすると、消えていってしまう。心というものも、雑念も妄念も、取り込まれてしまっていると、その正体がわからなくなるが、ただひたすら知恵の炎を当てるようにして、この「心とはなんだ?」「今、浮かんでいるこの思念、想像、これはいったいなんだ?」といちばん冷静な視点で見つめていると、必ず、見えなくなってしまう。止まってしまう。それらは意識の外からやってくるが、意識的に注意を向けることによって、なくなってしまう。

これは、食べ物も同じである。おいしくないとか、まずいとかではなく、「味」そのものが消えてしまうのである。

「おいしい」という感情、そして、目の前の食べ物。これらを、いちばん冷静な視線でもって、流されることなく、ただ見つめる。見つめ続ける。知る。ただ知る。ただ知り続ける。知りながら食べる。けっしておいしいという感情に流されることなく、ただ、知るように食べる。そんなことをずっと繰り返し続けてきた。

しかし、ふとまたある時、どこからかまた、マックのポテトを食べたいという気持ちが浮かんでくる。いや、確かめたいという思いだ。知るためにたくさん食べたのに、あれだけ知ったはずなのに、どうしてまた知りたいと思うのだろう?

確かに、「食べたい」ではなく、「知りたい」なのだ。たくさん食べた。たくさん知った。でも、やはり知りたくなってしまう。知識の定着が不十分だったのかもしれない。これで最後にしよう。今度は、ひとつの情報も漏らすことなく、完全に定着させよう。それで、すべてを終わりにする! 最後はマックのポテトか。最後にふさわしい食べ物だ。これで、この旅を終りにさせる。やっと終わらせることができる。

そんなふうに思いながら食べるのだか、やはり最後の一口、これを曖昧な形で終わらせてしまうと、その最後の一口までに食べたものがすべて無意味になってしまう。ついボーッと食べていると、最後の一口を無意識で食べ終わってしまうことがある。また、どれだけ集中していても、最後の一口がよくわからないまま終わってしまうこともある。そうやって、終わらせるために向かったのに、次の日に延期になってしまうことがよくあった。

食べてみると不思議だ。ポテトがある。食べる。かぷ。味がする。ちゃんと予想していたような味だ。体に入っていく。ゆっくりゆっくり確かめる。からっとした感じ、ふむ、味がする。味だ。なんだこれは、味? これは、おそらく脳からきている。脳に信号が走っている。だからなんだ? 脳にビビビと、いつもと違う信号がある。これが「おいしい」というのか? この信号を走らせるために、俺はこうして、スーパーに買いにきたのか? そのために、金と時間と健康を捧げているというのか? この信号は、それだけの価値があるというのか? やはり、信号だ。信号だけがある。

ほんとうに、一口一口、全意識を集中させて食べていると、味がわからなくなる。あれだけ知りたかったのに、最大限に研ぎ澄まされた意識の焦点をあてつづけていると、味がわからなくなってしまうのだ! 無意識にポンポン食べているときにしか、味というものはわからないものだ。

ポンポンポンポン食べそうやって食べてきて、今がある。今もこうして書いている時、文章がポンポンとそのリズムに流れていき、それに任せていると、思っているのか思っていないのかよくわからないことを語り始めるようになる。無意識。意識。意識的にあろうとすると止まる。

やはり注意か。注意しないで食べるから、味が発生して、流されてしまうのだ。注意して食べると、すべてはだんだんと透明となっていき、ただ、口の中でくちゃくちゃすることがあるだけだ。

なぜこんなにホールケーキを食べたいのだろう? この前、利用客のおばあちゃんの誕生日パーティーをやったとき、いちごの大きな5号のケーキを買ってみんなで食べた(上の写真はチョコだけどねw)4人で分けて食べたので、ワンピースだけ食べたのだが、その時もっと食べたいと思った。欲をいえば、一人でぜんぶ食べたいと思った。そして今、その感情がぶり返しているように思う。あの丸々とした巨大なケーキを独り占めして食べたい。

YouTubeで5号のホールケーキを検索したらいっぱい出てきた。クソみたいな奴らが5号のホールケーキを一人で食っていた。若い女の子もやっていた。関連動画もすべて見た。30個くらいの動画があったが、すべて見た。食べ物系の動画の再生数が多いわけである。テレビだって食べ物の番組だらけだ。

ポテトを食べた時やっと救われた気がした。ずっとポテトのことを考えていたから、やっと終わることができた。執着が取り除かれたのだ。やっと解放されたと思った。喜びとは、食べることによって訪れる「味」の喜びではなく、執着から解放される喜びなのである。すべての喜び、快楽は、この苦悩からの解放によるものでしかなく、 人はみんな食べることによって幸福が付加的に与えられると思っているが、そうではなく、苦悩からの一時的な脱出に過ぎないのである。はじめからニュートラルの存在であったら、ずっと幸せでいられるのだ。

ホールケーキを食べたいという気持ちも、同じである。ただ、「知りたい」という執着、食べたいわけではない。味が恋しいわけではない。「気になる」のである。これは、食べない限りは、終わらせられない。

ポテトの件の通り、よくよく観照しながら食べると、「無」があるだけだ。ホールケーキに取り込まれることなく、ホールケーキの正体を見極めるために食べようとすれば、ただ透明な何かがあるだけだ。透明な何かを感じながら、ずっと口をくちゃくちゃしているに過ぎない。

ホールケーキは、確かに、口に入れて噛んでいるときの最初の方は、ポテトとぜんぜん違う味になるが、途中から味も消えていき、咀嚼を終え、嚥下を終え、少し時間が経つと、ポテトと変わらない後味が残る。

ホールケーキもポテトと同じ? ぜんぶ、食べ物は同じ味ではないか? たしかに、口に入れている前半は、ぜんぜん違う味だが、後半から最後にかけては、けっきょくどれも同じ味ではないのか? 早食いの人はわからないかもしれないが、ゆっくりゆっくり噛んで食べると、後半はすべての食べ物が同じ味になるのだ。ただ唾液の味しかしなくなる。ゆっくり、注意を向けて食べればの話だがね。

まぁ、しかし、早食いして食べた場合とゆっくり食べた場合で味が異なるので、その両方を比べるために、わざわざ同じものを翌日に買って食べたりすることもあるのだ(笑)

わかりにくかったかな? 「知る」ために、早く食べる時と、遅く食べる時があって、そのために、わざわざ日を別にして食べに行くという話だ。

しかし、富士宮焼きそば、かた焼きそば、マックのポテト、中本蒙古タンメン、カラムーチョ、塩辛いものばかり食べてきた。最後はホールケーキがいいんじゃないか? ホールケーキ、ショートケーキ、4号、5号。無意味だ。食べきれるのか。半分ぐらい食べたら飽きるだろう。買うだけで満足するんじゃないだろうか?

しかし、スポンジの歯ごたえが気になる。スポンジを食べるときの歯ごたえ、歯に伝わってくる感覚ってどんなものだったろう? うーん。スポンジの歯ごたえを知りたいだけなら、スーパーでワンカットのケーキを買えば済む話だが。

そう思うと、なんと小生は、スーパーでワンカットのケーキを買ってしまった。そのときもやはり、「なるほど」「ふむ」「スポンジ」「柔らかい」「予想したとおり」「予想通りの歯ごたえだ」「なるほど」という感覚しかなかった。

しかしケーキ屋さんのケーキとなると、もっとスポンジは立派かもしれない。

ふーむ。でも、やはり、ホールケーキ用のスポンジだと、もっと立派かもしれない。生クリームも立派かもしれない。ワンカット用のケーキと、ホール用のケーキだとスポンジは違うのか? いや、一緒か? 店員に聞けば済む話だが、聞くのも恥ずかしい。いや、そうなってくると、別のケーキ屋さんのスポンジや生クリームの違いも知りたくなってくる。

ああもうダメだ! わけがわかんねぇ!

死ぬ! 死ぬ! 殺してくれ! 死ぬうぅぅぅぅぅぅーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!

終わらない! 終わらないよーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!

温かいパン生地の上にソフトクリームを乗せるという、コメダのシロノワールについても知りたくなった。

コメダのポテトってそういえば食べたことなかったなぁと思い、

いったいいくら金がかかる? 終わらねーし、高いし! こんなことやってたら、金がいくらあっても足りねー! ケーキ屋さんで5号のホールケーキを買って、また別のケーキ屋さんの5号のホールケーキを買って? なんだ俺は!? サンタか!?

そういえば、貪欲な友達がいて、手取りが18万なのに1000万の車を買っていた。それからも部品を買ってはカスタマイズをし続けている。カスタマイズ代も6,00万くらいかかっていた。俺は車に全く興味がないからどうでもいいが、向こうからしてみても、俺のホールケーキも似たようなもんだろう。

しかしホールケーキは2500円くらいだ。ホールケーキが1,000万だったら絶対に買わない。2500円? 2500円ですべてを終わらせられるなら、すごいことじゃないか? こんなに安くていいの? という気持ちになる。まぁ、全国のホールケーキを知ろうとしたら、1000万を超えてしまうかもしれんが。

しかし、どこかで強く気になった食べ物というのは、どこからかやってきて、強烈につきまとい、圧倒的な存在感を示すようになる。それこそが自分の中心だと思うほどに、いつもそれが真ん中に住み続ける。

食べたいという欲よりも、脳の中に占めるその存在感が気になるのである。ホールケーキそれ自体はどうでもいい。とにかくホールケーキの存在がまとわりついて離れなくて、めんどくさくてめんどくさくてしょうがない。

これは、食べる他に解決がないのか? なにか、他に解決できそうな手がありそうだが? しかし、なんでホールケーキなんだ? わからん。本当にわからん。ああ、とにかく考えるのが嫌だ。とにかくホールケーキから解放されたい。

食べたくない。食べたくないのに、それでも食べなければ終わらせられない。無理して食べなきゃならない。

そう、小生はほとんどの食べ物を、こんなふうに食べ続けてきた。この3年間、ほとんど美味しいと思ったことはない。知れたか知れなかったか、その二つしかなかった。終わらせるために、頭の中に住み着いて離れない執着を取り除くために、イヤイヤ食べ続けてきたのである。

食べない限り先に進められない。ホールケーキを食べない限り先に進めないとは、どういうことだ? すべてを終わらせたい。今日で最後にしたい。ほんとうに嫌々ながら、終わらせるために食べ物を食べ続けてきた。この3年間ずっとそれをやってきた。そしてそれは終わることがなかった。

存在が気になる。ただ存在が気になるだけだ。食べてみたところで別にどうという事はない。おいしいとも思わない。むしろまずいと感じる。それなのに気になる食べ物を次から次へと食べ漁る。どういう食べ物だったかわからない。よくわからずに無意識で食べてしまったとき、よく味を確かめられず、あー失敗したと思って、そして次の日また同じものを買ってきて食べる。

そしてまた、最後の一口に失敗すると、また同じものを買ってきて食べる。そうやって雪見だいふくを20個くらいを買って食べたこともあった。ひどいときは一口食べて、味を知ることができた、成功したと思い、残りを捨てて、で、また知りたくなって、またすぐにスーパーに行って買って、また一口食って捨てて、またスーパーに行って雪見だいふくを買いに行き、一日で5往復したことがある。明日に延ばしたくなかったのだ。今日だけで決着をつけたかった。けっきょく、なんだかんだいって、雪見だいふくを一日で10個くらい食べてたんじゃないだろうか? 

同じ食べるでも、空腹のときと空腹じゃないときで、味が異なる。知るときのデータが変わってきてしまうのだ。昼に食べたとき、夜に食べたときでも、また変わってくる。そうやって、同じものでも、完璧に知ることができたという一口に出会うまで、何度も何度も食べ直し、期間が引き延ばされていくのである。

一体何なんだろう? 確かめるっていったい何を確かめているんだろう? もしかして、いや、もしかしなくても、これって、普通のやつよりよっぽど食ってんじゃねーか?

全神経を集中して食べた。よくわからなかった。思ってた通りの味だ。いつも、思っていた通りの味しか訪れない。きのこの山を食べた。そしてたけのこの里も食べた。きのこの山の方がおいしかった。きのこの山とたけのこの里の違いがどうしても知りたかった。きのこの山を4つ食べて、たけのこを里を3つ食べて、捨てた。きのこの山の方がおいしかったから、最後の一口はきのこの山でシメることにしたのだ。最後の一口を、もう一度よく知りたかったので、ゴミ箱から取り出して、5つ目のきのこの山を食べた。

甘いものを食べれば、ホールケーキへの欲求が終わるかと思ったら、終わらなかった。きのこの里とたけのこの山(ああどっちが里だか山だかわかんねぇえーーーーーーー!!!)を食べれば、ホールケーキのことも忘れられるかと思った。

執着を終わらせようとして、あるいは止めようとして、姿勢を正す。腹にぐっと力を入れる。神と思われるような、気づき、心を全て止めて、その静寂らしきものにフォーカスする。そうすると欲が収まってくる。

しかし、またしばらくすると、ホールケーキのことがちらつくようになる。この欲望を、いったん先延ばしにしたり、一瞬その生命を殺すことができても、またどこかですぐにぶり返してくる。この欲望の根源をどうやったら取り除き、 どうやったら消滅させることができるのか? その消滅の仕方がどうしてもわからない。

YouTubeを見ている時、本を読んでいる時、ドトールにいる時、バット振っている時、ホールケーキはそこにない。しかし部屋でごろごろしていると、またホールケーキの存在を浮かび上がってくる。また姿勢を決めたり、心を別のところに移したり、観照したり、ホールケーキのことを考えている自分に気づき続けるようにしたり、注意したりしなかったり、意識、無意識、いろいろ試してみたが、どれも永続的な効果がない。

死ぬ、殺してくれ! 死ぬ!!! 殺せ!!!!!!!! 俺を殺せ!!!!!!!!!!! 死ななきゃダメだ!! 死なないと、もうダメかもしれない……!!!!!!!!!!!!

ホールケーキのことを考えないにしようとする事は考えてる事と同じだ。克服しよう、克服しようと思うと、どんどん存在を強めてしまい、どんどんどんどん苦しくなっていく。

なんでホールケーキなんだ? クソッタレが! 本当にクソッタレじゃねーか! ホールケーキなんて、俺は、食べたくないんだ! ホールケーキなんて本当に食べたくないんだ。本当に本当だ。本当にホールケーキを食べたいなんて一ミリも思ったことはない。

そうやってただじっとしていると、ただ悔しくなる。 どうしてこんなに気になるんだろう? なんでこの思いを消せられないんだろう? 修行? なんだそれは? 霊的修行? ???????? この前はかつおのたたきが気になってどうしようもなくなってしまった。

気になったものは、結局すべて食べてきた。それしか終わらせる方法を見つけられなかった。やはり、それしかないのか。今回も、それしかないか。ホールケーキを食べるしかないのか。

ああホールケーキ。俺は知っている。もう、食べたところで、味覚的な喜びなどほとんどない。ただ、胸に強烈な安心感が得られるだけ。そこに味覚の喜びはないのである。この世の執着を克服したいと思うようになってから、余計に物事に執着するようになった。

なんで俺は、こんなものを気にかけなきゃならんのだ!? ホールケーキだぞ? ホールケーキ! 俺の心だろう? どうして俺はこんなに心が制御できないんだ? 誰もホールケーキなんて食っちゃいねーだろうが! 俺だって食いたくねぇ! 食いたくねーんだよあんなものは! 殺してやる! 食うんじゃない! 殺すんだ! そう、俺はこれまで食べ物を食ってきてなどいなかった。この3年間、食べ物を殺し続けてきただけだ。食べ物を克服しようとしてきて、3年間、殺し続けてきた。一度もうまいと思ったことはなかった。

スーパーに行けば、生牡蠣が気になる。そういえば、一人暮らしなんてしていると、生牡蠣なんて食うことねーからなぁ。生牡蠣、いいなぁ。生牡蠣をそのまま食べるのは、ちと厳しいかもしれんな。ポン酢が必要になってくるだろう。ああポン酢も買わないといけない。もうヤダ。

なんで生牡蠣なんて食べたくもないのに、ポン酢まで買わんといけないのか。冷蔵庫もないし、一回使ったら捨てるだけだ。そのために買わんといけんのか。

ふだんは通り過ぎることができるものでも、克服しようとすると、かえって欲望を倍化させてしまう。結局、俺は生牡蠣とポン酢を買って食べた。うまくなかった。知ることもうまくできなかった。最後の一口に失敗した。生牡蠣をポン酢なしと、ポン酢ありのバージョンとで食べ比べしていたら、最後の一口を、ポン酢つけたバージョンで食べて、ポン酢ありのバージョンを「知る」ことができたが、ポン酢なしのバージョンは最後に食べなかったので、ポン酢なしのバージョンの生牡蠣を知ることができなかった。

そういうわけもあって、結局、もう一度生牡蠣を買い直して、ポン酢なしで食べた。5つ入りの生牡蠣だったが、悔しかったので、一つだけポン酢なしで食べて、残りの4つはぜんぶ捨てた。

なぜ、こんな想いをしなきゃならんのか?

毎日、毎日、

食ったところでろくなものを生産するわけでもない。

俺が俺として生きるだけのことで、こんなに、食わなきゃならないのか? こんなことをしなきゃならんのか?

金もなくなっていく。

もうよくわからない。たとえ遠い山奥に監禁されたとしても、「ホールケーキを食わせろ!!」と見苦しく暴れて管理人を殺し、ホールケーキを買うために山から下りてきてしまいそうだ。

食べないまま欲望が落ち着いたとしても、それはそれで気持ち悪い。ちゃんと決着をつけたい。ここまで悩んだのだから、中途半端な結末は許されない。

おいしい? おいしいからなんだ? おいしいからなんなんだ? ただそれだけのことだ。脳の信号だ。ただ一種の電撃が走るだけだ。それだけが、それだけのことが、そんなに大切か?

おいしいことにイライラする。べつにおいしくもない。本当に、おいしくもない、脳に電撃が走るだけだ。口じゃない、胃じゃない、腸じゃない、脳が、いつも求めている。脳にいつも振り回されている。狂人といえば、いつも壁に頭を叩きつけているイメージだが、そういうことだろうか? 本当に壁に頭を打ち付けたくなる。狂人とはそういうことか。なるほど、あれもあれでこういう理由があるのか。ホールケーキが食いたかったのか。もちろんそのまま頭が割れても構わない。割れたほうがずっといい。俺が、俺こそがこの脳の主人なのに、この脳をコントロールできないことが悔しい。

方丈記で鴨長明が「人が人生に失敗してしまうのは物事を先送りにするためである」と言っていたけど、その通りだ。本当にその通りだと思う。俺が俺の予定を立てて、そのために生きて生活すればまったく問題ないはずなのに、すべてを先送りにしてしまう。べつに、食べ物が悪いわけじゃない。いったいどうしてこんなに自分自身のことがコントロールできないのか、先延ばしにしてしまうのか。

でも殺す!!! ホールケーキぶっ殺してやる!!! こんなに俺を苦しめやがって!! ぜったい許さない! ぜったい殺してやる!! ぜったい復讐!!! 復讐復讐復讐!!! ぜったい復讐してやる!!!!!

でも、ホールケーキを買って食べても、これがまた終わらないんだ。また今度はソフトクリームとか、まぜそばとか、マックのポテトとか、セブンのポテトとか、カラムーチョとか、シロノワールとか、別に食べたくもないのに、なぜか知りたくなってしまうんだ。

ホールケーキで終わればいいんだが。終わるかな? うーん。どうだろう。ここでホールケーキを食べると、また新しい何かを食べたくなるから、甘いものを食べたら、今度は辛いものを食べたくなる。となると、やはりホールケーキをきっかけに、また別の食べ物を求めていってしまうようになってしまう。ここでホールケーキの暴政を食い止めることができたら、すべてを終わらせられるかも?

そうだ。終わらせるってそういうことなんだ。終わらせろ、これですべてを終わらせるんだ。終わらせるためには、食べないということなんだ。ここで食べないということ。それがすべてなんだ。

これが終わり。終局。永遠の終わり。やっと訪れた、静寂。やっと解放された。

ホールケーキの味は予想どおりだった。スポンジの感覚は普通。「予想通り」「なるほど」「こんな感じか」「そうか」「ふーん」おいしいといえばおいしいが、「なるほど」という感覚の方が強かった。

最後の一口だけ気をつければいいのだが、最後の一口に至る前に、途中でホールケーキの正体を完璧に「知る」ことのできる一口に出会ったので、そこで終わらそうと思った。この一口に出会ったなら、目的は果たせた。もう食べる必要はない。この上にさらに別の一口を加えてしまったら、ホールケーキの正体がよくわからなくなって、もう一度やり直しになってしまうかもしれない。やり直しとは、もう一度2500円のホールケーキを買うということである。だから捨てた。

そのまま解放の喜びを味わっていたら、あれ? どんな味だったっけ? あのスポンジの感覚は、どうだったっけ? と思い直して、またゴミ箱からぐちゃぐちゃになったホールケーキを取り出して、また一口食べた。ふむふむ、なるほど、こういう感じね、わかった。もうわかった。そしてまた捨てた。

そうするとまたしばらくして、あれ? どうだったっけかなぁ? なんとなく生クリームの情報をちゃんと知れなかった感じがする。スポンジも、ちょっとよくわからなくなってきちゃったなぁ。そう思って、また、さっきよりもっとグチャグチャになったホールケーキをゴミ箱から取り出して、結局ぜんぶ食べてしまった。最後の一口は集中して食べたので、なんとか知ることできた。

やはりショートケーキと、どうスポンジが異なるかということを知るために、ショートケーキも買ってしまった。

ホールケーキとショートケーキを食べてすべて終わるかと思ったら、不思議と今度はかつおのたたきが知りたくなった。ホールケーキを食べると、かつおのたたきについて知りたくなるのか? よくわからんが、つゆ付きとつゆなしを3口づつ食べて、すべて捨てた。最後はつゆなしで決めた。(といっても、残りは2切れだけだったけどw)

そしてかつおのたたきの後は、なんだったっけか? そうだそうだ、ドミノピザを食べたんだ。で、その後は、たしか、「すするTV」を見ていたら、近所のラーメン屋が取材されてて、そういえば有名らしいけど、ここのラーメン食べてなかったなぁと思い、食べに行って、そして最後の一口に失敗して、3回通うはめになって。その後は、ウニ丼だったり、鮎の塩焼き、もう一度富士宮焼きそばと普通の焼きそばを調べ直して、そばと十割そばの違いも知りたくなって、まだしばらくそんなことを続けたんだっけかな? 今はなんとかこの状況から卒業することができて、(わーい(^^))そして、やっとわかったことだが、知るということはできないということが知ることができた。どうやってこの状況を卒業したか、それはまた別の機会に語る。

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