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まぁおばあちゃんだからいいかというような

何か他の作品を見て涙を流すなんていつぶりくらいだろう?

もう遠い昔。記憶にない。感動したことならある。数年前に、座王で、ベジータ(R藤本)の、パパとママ、お兄さん、お姉さんも、お隣さんも、死ねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!! を見たとき、久々に魂が激震した。あー、あったな、この感覚、懐かしすぎて、というような。しばらく放心してしまって、感動よりも、放心のほうが先にきた。

3年前…… ? 座王でベジータのこれを見たとき? いや、そこまで遡らなくても、毎日大喜利でスリムクラブ眞栄田さんや、ななまがりの森下さんの回答も、わりと感動するものだったし(感動にわりとというものがあればの話だが)、バカリズムの、「1分間に6回。何の回数?」というお題に、「中村アンが髪をかきあげる回数」もやばかったし、そうしてみると大喜利ばっかだな。しかし、あれだね。小泉進次郎の関連のネタ動画は、どれも面白いね。どれも小泉進次郎ネタは面白すぎる気がする。

まぁそれはともかくだ。まぁだいたい感動するっていうのは笑いに関することが多い。あるいはちょっとした名言か。少し前に、岡本太郎の本のこの部分を読んでいて、ひどく感動した。こういったものは不思議なもので、この部分を読むという前に既に、これから自分の身に何か大変なことが起こるという予感が、そういった風が自分の前を横切ったものだ。

ツボとかサワリということをご存じだろうか。鑑賞者がこうきてほしいと思うところで、 ちゃんとその手を打つ。ドラマが高潮してきて、ツボのところにくる、お客さんはもう次にくるものを待ちかまえている。その期待どおりに、ピタリとくると、じつにうっとりとする。

つまり演じるほうと観るほう、双方の暗黙の約束で、あてはまるべきところにあてはまる、それがツボ、サワリだ。どういうことをやればうけるか、もてるか、定石は決まっている。そういうものになずんで、うまく合わせていく職人芸であり、それが巧みなのが名人なのだ。

お客さんのほうは、こういけばこうくるという、決まり決まりにはまって任わない、注文どおりにいくことがたのしいので、間がズレたり、型が崩れたり、 ガタビシしたのではちっともおもしろくない、下手だということになる。

よく「味がある」などというけれど、味わうというのは、以前に経験があって、それが何度も何度も繰り返された上での話だ。ぜんぜん味わったことのないものは味にならない。

だから、もし自分の作品が人に味わわれたり、好かれたり、愛されたりするようだったら、ハテ、俺は知らず知らずのうちに職人根性を身につけた芸人になって、ツボやサワリの手でいってるんじゃないか、と疑ってみたほうがいい。 この職人根性というものは、芸術の歴史にとってながい伝統なので、作家の側にも鑑賞するほうにも深くしみついている。

絵画でも、小説でも、映画でも、ほんとうにやりきれない気分だ。とにかく、 味わわれたい、好かれたい、わかってもらいたいとしなをつくってウインクしてるような芸術ばかり。鑑賞者と作品とが寄りかかりあって、互いに堕落させあって成立しているのが日本における現代芸術なのだ。

感動。まあまあ面白い作品を見てまあまあ楽しいってことはあるけれど、あんまり感動するってことはないね。カフカは人はもっと感動するもの、ゲーテもショーペンハウエルもニーチェも、人は感動するものだけを読んでいればいい、それ以外のものは手にするなと言ってたっけ。これはおそらく我々が思っているよりずっと重要な警句だろう。なかなかその約束を守ろうとしても難しいところがある。今の時代の今に蔓延る作品は、今の時代の人々のツボとサワリに合うように作られているから、楽しいけど、いまいち心の淵源には触れてこない。かといって、古い時代の作品も、堅くって、かならずしもなずむものではないから、読み進めるのが面倒だ。

ただ、そんななかで、ほろっと涙が流れてしまったのは、もう昔すぎて思い出せない。もしかしたら、そのときもMr.Childrenだったかもしれない。ただ、音ではない気がする。音ではない以上のものに揺さぶられた。音を媒介にして。前の楽曲を聞いた時もそうだった。他のアーティストではこんなふうにはならない。けっこう、アーティストでも、尊敬している人はいる。さいきんじゃあ、革命道中なんかもいいと思ったし、普通にYOASOBIやライラックなんかも好き、ナナヲアカリ、スピラスピカの燦々デイズ、たいていアニソンだけどね。俺の耳だって肥えているわけじゃないから、そこいらに流れている人気J-POPソングにふつうに聴き入って、いいなと思ったら、YouTubeにいって、リピート再生ばかりを繰り返していたりする。

でも、やっぱミスチルだけはなんか別だな。何かっていわれても、あんまり説明できないし、説明する気もない。ただ感動して、涙がほろっと流れてしまったから、こんなことはいつぶりくらいだろう? と思って、ちょっとこの気持ちのままに、文章とやらを紡いでみようと思っただけだ。

これだけ言っていても、俺はとくにミスチルを追いかけてるわけじゃない。中学時代からずっと好きで、カラオケに行っても、ミスチルしか歌わないくらいだけど、今じゃあ、どこで何をしているのかはしらない。今日だって、本当にたまたまだ。ミスチル、さいきん聞いてないけど、今何してるんだろう? 活動はしてるよなぁ? 最近はどんな曲を作ってるんだろう? その曲を聞けば、今、桜井さんがどんな境地でいるのか、少しわかるような気がする。その、境地を知りたい……、そんなふうにして、とつじょ、桜井さんの精神境地を知りたくて、知りにいく。

昔、ペアーズ(マッチングアプリ)をやっていたとき、女から見た男のプロフィールページというものを見たくて、女のアカウントを作って、男のページを調べまくったことがある。すると、ほとんどがミスチル好きですって書いてあって笑った(笑)俺もその中の一人だと知った。ほとんどの男が、ミスチルのファンですって書いてあってね。でもやっぱり、男側からふつうに女のアカウントは見れるから、そのまま見ていくと、女では、あまりミスチル好きって書かれていたプロフィールページはなかったね。

どうもねちねちしたような、ねちっこいというか、愛とか恋とか、ちょっと考えすぎというか、ロマンチックだけど、本当の求道心みたいなものが入ってしまっていて。その本当が邪魔らしい。優しいといえば、優しいんだけど。甘ったるいといえば甘ったるいんだけど、それだけでもない気がする。その、それだけでもない部分が個性的で、その個性がちょっと邪魔だったんじゃないか。桜井さんの声もちょっとダミ声だしね。

たいていの女のアカウントってのは、もっと激し目のアーティスト系の方が多い。ワンオクロックとか、King Gnuとか、もう少し、ちょっとイケイケ感というか、タトゥーが入ってたり、あごヒゲを生やしていたり、ワイルドな男を連想させるもののほうが多く、いうほどには、私達はそんなセンチメンタルではない、あなたたち男が勝手に思い描く、女はこういう甘ったるい感じで、うっとりしているという、そんな男の考える浅はかな女性像、理想像を押しつけてこないでほしいと抗議するような論調のアカウントが多い。もう少し男性ホルモンが濃いめの活発的な、もうちんげがボーボーになっていたとしても、毛むくじゃらのイエティみたいになって、普通にパッとみたら、デメリットを負っているようにしか見えないような見た目でも、それがちょっと小男でダボダボのズボンを履いて高音を効かして歌っていると、なんかカッコよく見えるらしい。俺は(僕は)、音楽とか学校とかいじめとかよくわからないし、反対だけど、音楽だけには嘘をつきたくないというような、マイナスの立場だけど、音楽だけはプラスみたいな。あるいは、あごひげを生やしていて、ちょい悪だったり、タトゥー入れて、悪くて、不器用で、俺、生きるのとか下手くそで、よくわかんねーけど、音楽だけはマジだから、というような、そういう形のピュア。ちょっとワイルディーでオシャンティーの方が、今の人には刺さるんだろうか? 案外、元陰キャというのも、いいアクセントになったりする。まぁ、ふつうに、時代が、今の若い子たちにミスチルが刺さるというような時代ではないんだけど。「いつになく笑っていれたよな」なんてね、刺さらないか。それも俺もマッチングアプリをやっていたのは、かれこれ5、6年前だから、もう色々食い違っているんだけどね。

で、何が言いたいんだったっけか? そう。そんな、年齢差をさしおいて、やっぱりミスチルは女より男に人気があるらしい。

今でも、若い子が、もういっかいもういっかい〜〜!なんて歌っているの姿が目につく。男の美学、男の理想像をいっているような、男に愛されるミュージシャンなのだ。まぁ、コンサートにいけば女しかいないんだけど、あれはいまだにどういう現象なのか悩む。コンサートには、女しか行かないからだろうか?

そこで、俺はミスチルを追いかけているわけではなかったのだが。やっぱり、どんなもの作ってるんだろう? と、ふと思い立ち、YouTubeに行ってみた。やっぱり違う。毎回違う。魂の変節というか、いや、変節はしていないんだけど、霊性の向上、人生に対する理解そのものが底上げされ、その底から音楽が鳴り響いてくる。つまり精神的境地がそのまま音楽になっていている。やっぱり、いつだって、センスだとかそういったものを超えている。現代アーティストで、こんなふうに自身の境地を音楽にしている人は他にいないんじゃないか? やっぱり、いつ、どこで聞いても、新しい曲を聴くたびに、いつも新しい境地を歌っているような気がする。ふつう、アーティストというのは、どうしてもメロディーに自分を譲って、メロディーが先立ってしまう。そのメロディーが、一個いっこの音節を歌い上げるたびに、その一つ一つを自分と戦わしている、そしてその戦いに勝利した自己が、一つ一つのメロディーと置き換わっている。たんにメロディーのセンスでいえば、若い頃の方がそういった意味ではずっと凄かったんじゃないか。Tomorrow never knowsとか、イノセントワールドとか、キャッチーで、耳においしく届くという点では。あれらの方が、ほとんどそのまま神からの送り物だったように思うが。今の曲はどうだろう? やっぱり、熟成されていて、桜井さんの命が育っていて、ふと何かこぼれるような、早すぎてもダメだし、遅すぎてもダメ、桜井さんの魂の経年変化に応じて果実がぽろっと落ちるような、そんな自然発生的な音楽。熟成発酵されて時満ちて桜井さんの内から生まれてくるようなね。メロディー、音律、響き、テーゼ、そういったものももうあんまり関係ない気がする。いや、あるんだろうけどね。魂の叫び? でも、叫びっていう感じでもないな。もっと自然体だ。ただ、自然に、普通に語りかけてくるようだ、歌というよりも、とくに出だしはいつもそう。魂そのものかってくらい、それだってどこから出てきてるかわからないし、自分の奥深くのところからぽろっと出てきた感じ。それだって無理して出しているのか、出てくるまで待ったのか、それもわからない。でも、一つ一つ自分の中から、嘘のないところから出てくる、そういう音だ。それも、今の境地に合致した、そうやって、一つひとつの音を練り上げていって構成させているような気がする。わからない、ミュージシャンはみんなそうやって音を作っているのかもしれないけど、桜井さんだけはそこが大きくて深い気がする。外から眺めていると、似たような曲長、サビへの持っていき方とか、全体の構成なんかは、それは確かに外から眺めてる分には同じように聞こえてしまうこともなくもないが、そこは岡本太郎と同じだ。一見、全部、似たような作品に見えなくもない。一見は。だが、やっぱり内から見ると違う。どうやったらこんな音を鳴らせるんだろうと思う、不思議なリズム、不思議な音階、こんなところでこの音を鳴らすのかって不思議がいっぱい詰まってる。桜井さんの楽曲は、業界内でも「細かい」と、アーティストたちから有名らしいけど、本当にね、まぁそりゃあ、細かい。この細かさはメロディーどうこうよりも、桜井さんの精神の細かさからきている。でもそれでいて、これ以上ない自然さを同時に感じられる。それはやっぱり、曲というよりかは、彼そのものだからだろう。岡本太郎は、作る作品がぜんぶ金太郎飴みたいだと揶揄されていたけど、もう、いくところまで行き着いた人は、こうして、自身のグレードアップ版、ただ、自身を更新させて、作品を作っていくんだろうか? そして俺もまた、どちらかというと、それを楽しみにくるのだ。

でも、これだけ言っても、なんで涙がこぼれたのかはわからない。これはもうだいぶ前からだけど、この人の歌からは、ちょっと死のようなものを感じさせる。他のアーティストたちが生を歌っているとしたら、この人は死を歌っている気がした。そこはかとなく、旋律から死が響いてくる。漂っている、荒廃感。もともと苦しそうに自分の作った歌を歌う人だけれども、考えてみれば、桜井さん以外に、自分の曲をこんなに苦しそうな顔して歌う人はいないかなぁ。

ただ、人生の後半になるにつれて、年をとるにつれて、身体で歌っている気がする。身体的な音楽、歌い方というか。精神というよりも、身体で歌っているような気がする。横尾忠則さんも、絵は身体で描くものだと言っていたけど、この、身体性というものはバカにならない。なぜなら、やはり、身体から打ち出されているようにしか見えないから。真理は、確かかにまことしとやかに、今では多くの人が共有財産として、バーゲンセールのように無料で配布されているが、その中で、一体どうして自分が真理を口にするべき価値があるだろうか? と思い悩むかもしれない。自分だけはこの方面とは別のところへ行こうと思ってしまいがちかもしれないが、なんてことはない。みんな真理を知識の上で二番煎じ、三番煎じとして語っているだけだ。もしそれが本人の身体感覚からくるものだとすれば、その真理はどんな場合にせよ、口にすべきものだ。

さて、そういえば、トークしてるところはどうなんだろう? と思って、今度は、桜井さんがトーク番組に出演して話しているところを見たいと思った。すると、相変わらず、恐ろしい目をしている、俺はかつてテレビ越しとはいえ、こんな目をしている人間を見たことはない。目力が強い、といえばそうなのだが、退廃的で、死んだような、停止した感覚、止まったようでいて、強い。動と静が同時に強いものとして、一つの目に同居している。そんな目だ。

司会は誰だったか、ここでは触れずにおいておくけど、司会者は、どうしてまぁ、この目をした人と普通に話せるんだろう? と思ったものだ。この司会者だって、そんじゃそこらの人ではない。十分に数々の修羅場を潜り抜けてきた大物だ。頭でいえば、桜井さんよりずっといい。だけど、霊性境地が違いすぎるか、その目に佇む光には雲泥の差があった。

俺は、もうあの目のほうに印象が奪われてしまって、会話などろくに頭に入ってこなかった。桜井さんの奥さんや、息子さんや、あるいはバンドメンバーたちは、いつもあの目にさらされて話しているわけだよなぁ、と、よく、まぁ、無事でいられるものだ。この目、この感じ、この喋り方、この佇まい、ああ、これはどこかで見覚えがあるなぁと思ったら、プロフェッショナル仕事の流儀に出ていたときの、井上雄彦にそっくりだった。彼も、このような目をして、こんなふうに話していたものだ。

この目は、バガボンドのセリフから借りるのであれば、長年、己の色を深く濃くしていった人間だけがする目である。もうそれが板についてしまっていて、それが染み付いてしまっていて、取れないし、取る気もない。自分の深い精神の奥底まで降り、それも普段から降りていて、そこで生活しているから、でも、人と話す段になると、さすがにそのままというわけにはいかないから、2、3段だけ上がるけれども、2、3階上がったところで、はたして意味があるかわからない。

自身でも、世間へのポーズとして、一応、上げるけれども、それとて、といったところか。でも、本人はもうそんなことは慣れたものといった感じで、自由人としての責任を全て受け入れた自由人の顔をしている。だから、奇妙な割り切りの良さを感じさせられてしまい、慌てたり、驚いたりするのも、皮膚の外側だけでやらせているというような感じだ。Mステで、平気で自己葛藤して疲れ果てていて、そのままベンチに腰掛けるように座って、普通にタモリさんと話していたときの、あの顔がどうしても忘れられない。どれだけ自己葛藤を繰り返せば、複数台のカメラを向けられて、いろんな有名アーティストがまわりに座っていて、その中であんな風に自分の色がついたまま話せるのか、そのまま、その顔がワイプに抜かれていたにもかかわらず、その顔を見ながら、普通に話していた。その顔をしていることも、その顔を見られていることも全部わかっていながら。まぁこれは、すごく下品な言い方で例えるならば、オナニーしているときにおばあちゃんに見られたとして、まぁおばあちゃんだからいいかというような、そのままオナニーを続けるような、そんな感じに見えてしまった。あんまり周りが精神の小虫に見えてしまっていて、問題としていないようだった。というより、問題とできないといった方が正しいと思う。岡本太郎と坂口安吾は、深刻な顔をした芸術家に本物はいないと言っていたが、俺もそう思うが、あの顔を見ても、彼らはそういうだろうか? しかし、あれは深刻というものでもなかった。死のなかにほんのちょっぴり生を混ぜて、それを生だと言って無理やり押し通す気でいた。どちらかというと、積極的な気配だと信じたいが。まぁ、めんどくさいというのがいちばん大きそうだったけど。このような形であっても妻帯者というのが許されるのだから、俺が思っているより、結婚というものは易しいものかもしれない。しかし同時に、こういった人間の方が、案外、家族をも幸せにできてしまうかもしれない。

俺が聴いたのは、きっと音楽でもなかったのだろう。そんなたたずまい、そんな人生の態度、いつもそんなふうに過ごしている、桜井さんの時間。そんな、桜井さんの時間が聴こえてきた気がした。そうして言えば、やはり時間のような気がする。なにか、ずっとそんなふうにして生きていて、過ごしている、それがふっと自分の中に入り込んできた気がした。

宗教か。誰かの音楽を聴いて涙する、それは宗教かもしれない。思えば、あのコンサート会場などで、観客がステージに立つ一人に熱狂する様は、司祭の下に頭を垂れている信者の姿と重なる。宗教がなくなって久しいなどというのは嘘だ。宗教は今も音楽の中で立派に鳴り響いている。俺は、思うのだが、こうして霊性境地の高い人が歌う音楽、その旋律の波動が、人々が宗教に目覚める契機になるのではないのかと、よく思うのだ。これからの時代は、音楽によって人は霊性に導かれるだろう。

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