(となりに移動してきた?)
(椅子がガタって動くくらいキョドッてたよなぁ?)
朝、起きて、また考えていた。イチローの名言のせいで、朝、彼女のことを考えていると、同時にイチローの姿も浮かんできてしまう。それが悩みだった。
寝ても覚めても彼女とイチローのことばかりだった。仕事も趣味もまったく手につかず、出前館をやっていても商品を家に持って帰って食べてしまいそうになったり、アニメを見ていても気づけばエンディングロールが流れている。
もう一回、確かめたい。彼女が俺に気があるのかどうか。そのためにもう一つだけ具体的な証拠がほしい。もう一度、自習室に行って、もう一度、彼女が俺のとなりに移動してきたら、それは100%だ。
そういえばと思った。俺は起き畳から身体を起こすと、そばに転がっていたMacBook Pro16インチを手元に引き寄せ、Braveの検索欄に『◯◯高校 書道部』と打ち込んだ。すると、彼女の画像が出てきた。
(すげー、出てくるんだ)
まるでプライバシーも何もあったもんじゃない。もう地球上の全ての人間がネットの中に住んでいるといっていいだろう。
俺は挙げられている学校写真を次々と見ていった。




まるで◯◯高校は、地上のアストラル界のようだった。学生たちは全員、天使のような見た目をしていた。サットヴァ、純粋性の塊、男も、女も、妖精みたいだった。たしかに牛乳瓶の底のようなメガネをしている者もいる、垢抜けない、冴えない風体の生徒も散見されるが、街を歩いていて誰もが振り返る美女がひとクラスに一人以上はいる(これはあえてバラけさしているのか?)派手すぎず、地味すぎず、ちょうどいい塩梅かつ知性的でアンニュイな雰囲気をならしめている男女、勉強の虫のような顔をした色気が絶望的な生徒、奇形のかたちの生徒、ごくごく普通の生徒、もうすでにこの頃から立派に主婦としてやっていけるだろうというお墨付きの女の子たちが、ごった返した芋のように何でも混ざっていた。
(これは平均的な学力の高校と比べて種類がバラけているような気がする)
とくに女の子は、今からいい奥さんになりそうな顔をしていた。もうすでに達観した、男を立てることを今から覚えていそうな、けっして男子を苗字で呼び捨てで呼んだりせず、かならず"君"をつける。男は男で、ワイシャツをきっちりズボンの中に入れて、ベルトのラインが引き立ち、今からいいサラリーマン風を呈していた。
こうして画像を見ていくと、彼らから匂い立ってくるこの安心感みたいなものはなんだろう? と気になった。すべての生徒がホッと胸を撫で下ろしたような、長年の煩わしさから解放されたという、定年退職を迎えたサラリーマンのような顔をしている。おそらくこれは、バカといっしょに過ごす時間からやっと解放された♪ ここまでくればもう大丈夫♪ 中学まではバカといっしょに学校生活を送らなければならなかったが、ここまできてしまえばもう大丈夫♪ あとは、大学、会社、人生の最後までバカと接点をもたずにすむ♪ という安心感からきているようだった。
やはり、トップオブトップ高校。格式高い空気は健在だ。中学時代の成績の1、2位だけが集められてきているのだから当然か。差別やいじめがまったくなさそうだった。戦争のない国、未来のあるべき世界の理想形はここにあらわれている。すべての学生が不可侵講和条約を結んでいそうで、互いのプライベートゾーンを尊重し、必要以上にパーソナルスペースに踏み込むことなく、いい距離感で保たれていそうだった。しかし、日常で困ったことがあったらなんでも助け合う。意見の食い違いがあっても、頭ごなしに否定することなく、相手の立場になって考えてちゃんと話し合って解決する。大人たちが人生の終局になってたどり着く境地を、若干15歳にして達しているようだった。
(すごい……。アストラル界をそのまま体現したような場所がこの地上にあるのか)
俺はおそるおそるした手つきでトラックパッドをスクロールしていった。
(まるで、Googleやアップルの社風みたいだな)
こういった学校ほど同窓会もよく行われるものである。バカな学校ほど同窓会をやらない。何が楽しくてバカがもう一度集まらなくてはいけないのか。もう全員忘れたい過去だ。同窓会とは仲がいいから行われるのではなく、たんに学力に比例して行われるのだ。医者は医者のパーティ、弁護士は弁護士のパーティがお盛んのように、こうした催し物は学歴にしたがって開催される。人々が恋愛できなかったり、出会いがなかったりするのは、たんに社会的な後ろ盾のなさからくるものであり、それは人間が社会的な生き物、というより、恋愛自体が社会的なもの、というより、社会そのものを指すからである。
教師たちも、他の学校のそれとは大きく違っていた。あなたたちが悪いことをしないことはわかっている。と信じきっている様子で、まるで大人対大人というような、一個の自分と同等の生き物として尊敬の念をもって生徒と関わっていそうだった。他の学校と比べても、教師と生徒間の仲が良さそうだった。GTOのように、壁をハンマーで破壊したり、屋上からバイクで飛び降りたりと、そんな派手なことをしなくとも、生徒と良好な関係は築けるらしい。金髪だとか、ピアスとか、自由な服装も許されているようで、そうした見た目をしている生徒も複数あったが、それについて取り締まることもなさそうだった。そう、規則はバカのためにあるものだ。あなたたちは大丈夫。とお墨付きをもらっているようで、もう朝礼もナシにしちゃう? というような軽いノリも健在そうだった。いや朝礼はやるべきでしょう! とバカな高校が口を出してきたとしても、規則と風紀のなれの果てのためにその学校がひどい有様であることが余計にあからさまになるだけだったろう。
こうして、39歳になって思うことは、やはり人間、このような学校で育つ方がいいということだ。それは霊性の師たちもかねがね同意するところでもある。俺は、学生時代当時は、このような高校で学校生活を送ることをとくに羨ましいとは思わなかったが、今ではこのような高校に通うことこそ、学童時代における正しいあり方だと心から思う。というのも、アストラル界に似ているからだ。霊的修養の場として適当で、サットヴァの静かで柔和な空気に満ちており、学校全体に瞑想的な響きがこだましている。
俺は、やっと39歳にして、たゆまぬ霊性修行の結果、学力ではとてもおぼつかないが、内面だけは彼らと同じくらいには遅れを取り戻すことができたから、そのため図書館の彼女は俺を仲間だと認めてくれてとなりの席に移動してきてくれた気がする。
(まるで、アストラル界からの使者だな)
(もう同窓会も参加しちまうか?)
今ならこのような学校の良さがわかる。今世ではもうこのような学校に通うことはかなわないが、来世では中学時代に精一杯勉強して、かならずこのような高校に入学したいと思う。それにしても、この学校の生徒は、生まれてわずか14、5年で、今の俺と同じくらいの精神レベルにいると思うとすごいことだ。
まるで計算されたように、ひとクラスにかならず一人だけ可愛い子が配置されていることが気になった(そういえば、この学校に限らず、これまですべての学校で、学年の美女がひとつのクラスに集中されたケースが見られたことがないのはなぜだろう?)美人の様相もまた、ほかの中程度の学校の美人とは異なる。自身の中から動物めいたものを払拭させ、あくまで人であろうとする。誰かがゲロを吐いたりしたら、すかさず介護をし、ハンカチを汚物にあてることを厭わず、修道女と似た空気がある。あまり動物的な、肉欲じみた性質を持つ女はない。知性がそれを追い払ってしまうのだろう。自身の中にあるものを外に表現する手段として適当だとも思わないのだろう。また、ずいぶん日焼けしている者が多かった。よく外に出て活動しているのか、いわゆる一般的な学力の女子生徒に比べて、異様に日に焼けた子が多い。化粧っ気もほとんどなく、およそ流行りのファッションやメイクをしてアバズレのような格好をして生きるのは、ひどく自分を貶めるような気がして、もっと中身の方を見てほしいという証左であろう。もう頭がいいことはバレているし、いまさら天然キャラやアバズレみたいな立ち回りをしたところで効果も期待できない。この頃から、高学歴の頭のいい大人の女性だけに見られる特有の思い詰めたような顔、その兆しのようなものが垣間見えた。人して、女として、なりたいものになるための戦い、その火蓋が切られているような気がした。
それに比べると、男はまだ人間として完成品になるにはまだだいぶ時間がかかりそうであり、まだ、どこを見て生きていったらいいのかよくわからなそうで、次の瞬間には自分が何を言っているかもよくわかってなさそうだった。女子生徒たちは、男のそうした出遅れた部分をよく理解しているようで、親鳥がそのいずれ巣立っていく雛がいつか立派な成長を遂げることを今から楽しみにしているそれのように、他のどんな高校の女子生徒よりも優しい母性に満ちた慈愛の目で彼らを見守っているようだった。
ニヤニヤについて

とにかく、目だ。目が、ぜんぜん違う。
ひと通り学校写真を見終わると、俺は心おきなく彼女の写真を鑑賞することにした。
この目はなんだろう? どこまでも、沈み込んでいった先の、深く、暗く、吸い込まれていきそうな、黒くて、深い……が、暗くはない、どこか、明るさを底面の部分で担保されている、いったいどうやって生きたら、こんな目になるのだろう。
無、だな。
無。
無なのか、有なのかもわからない。
笑った顔がニヤニヤしている。
いつもニヤニヤしている。
この一件だけでも大したものだなと思った。この世の中、ニヤニヤできる者は少ない。
この、ニヤニヤするということができない人間が多い。人によっては、大きく笑うか、小さく笑うか、クスッと笑うか、犬や猫みたいな顔をしているか、ガハハハハ!と、吹き出すように笑うか、皆さんは世の中にはたくさんの笑い方があるように思われるかもしれないが、事実は大きく分けて二つしかない。ニヤニヤ笑うかそうでないか。
含んだような、薄気味悪い、この地球現象をただゆっくり噛み締めるような、何も起こってないのに、何かが起こっているように、ただ、この地球の機微を静かに味わっている。この幽玄微妙かつ神韻縹渺なる微細な空気を空間から汲み取ることができるだけの感受性を持つ者だけがニヤニヤという笑い方をするのだ。"気づいている"とも言い換えられる。ただ、気づいている、一周も二周もまわって、気づくことに気づくことによって、ふと自然と笑みがこぼれてくる。この地球の機微に気づかないやつは一生気づかないし、人間ともいえないだろう。あるいは、何もない、人間のニュートラルの状態なのかもしれない。ある程度精神的に達観して、そのままただ静かでいると、不思議とニヤニヤしてくるものである。彼女の写真は、ふつうの押し黙っている顔であっても、ニヤニヤしているように見えた。ニヤニヤとは心の所作であり、自分が内側に複雑機微をもっていることのあらわれであり、それがたとえ外に現れていなかったとしても、やはり、あることはあるからである。
さて、彼女の顔だが、こうして見ていっても、いまいち判然としてこない。なんて複雑な顔なんだろう。まるで一筋縄ではいかない顔だ。俺はこんな顔を初めて見た。彼女が映っている写真は4枚見つかったが、はたして、これは彼女だろうか? と非常に判断に悩むほど、一つひとつの顔がぜんぜん違った。書道部の集合写真を見ても、あれ? いない。はじめどこを見渡しても彼女の姿がないように思われた。アップロードされた年月からして彼女が写ってないはずがない、仔細に見ていくと、一人だけ嘘のように髪が長く、毛先が椅子の面につきそうになっている。これは彼女かもしれない、そんなふうにして、消去法で導き出していった。たまに、女の子にはこの手の顔の子がいる。写真によってぜんぜん顔が変わってしまうのだ。狙ってやってるのかどうなのかよくわからないが、たいていそういう人は、内面においても変容に富んでいることが多い。脳や精神の閾値が異様に広がっていて、それがそのまま容姿に現れるのか、写真に切り取られるのか、そのときの心のパターンパターンの有り様が、そのまま現像されるのか、といったら、あれだけれども。逆に、画一的な性格の人間は、それがそのまま写真に現れるものだ。それにしても変わりすぎじゃないかと思った。ここまで変わってしまう女性は初めて見た(しかしその一枚いちまいにも何ともいえない良さがあった)。いったいどれがいちばん彼女らしい顔なんだろう? ふだん彼女と共に生活している仲間からすれば、共通する容貌を思い浮かべるだろうが。
自習室においては、俺はせいぜい後ろから眺めているばかりで、まともに正面から見たこともなければ、横顔すら長い髪に覆われてほとんど見通せたことはない。しょっちゅう彼女のことを思い出してはいるけれど、思い出すことすらうまくできていないのが実情だった。なのに思い出している。だから、やっとどんな顔をしているかわかると喜び勇んでみたら、ますますわからなくなってしまう不思議があった。目は小さかったり、大きかったり、そもそも大きさが写真ごとにぜんぜん違う。静かに沈んでいった先の、黒くて深い波動を放っているのはどれも健在だったが、鼻は低くも高くもない、小ぶりできれいな形をしている。口はのっぺり風の和風、全体的に洋風なのか和風なのかもわからなかった。まぁこんなものは、着てるものによって左右され、最も洋風なものは最も和風になりえるだろうし、その逆もあるだろう。また、全体的に、アップの写真はなくて、顔という顔がわかるような写真もなかった。身体は、中背で細身で、といってもかなり細い、華奢なくらいだ。首の上にどんぐりがのっているかのようなほど顔が小さく、全体的に秋の空気が流れている。書道部の催し物で袴を着たりしている写真も見られたが、一人だけ袴のデザインの選択や着こなし方がまるで違い、見たことのない髪型、見たことのない服装、かといって、奇抜すぎて引くようなものでもなく、お笑い芸人のような女性になって性の魅力をおとしめるようなこともなく、このバランス感覚はニヤニヤしているところと無関係ではないと思った。

一枚、興味深い写真があった。彼女が同じ書道部の友達と書き初めをしている写真だ。この写真の彼女の顔は他のどのそれとも違っていた。最も気を許しているような、ノスタルジックで、甘い、安堵感。すぐに彼女の親友だということがわかった。子リスみたいな少女で、おそらく身長も145cmもなさそうな、そんな物体が小さな手で大きな筆を持っているのが印象的で、とても重そうに見えた。理知的な目、おそらく理系のクラスだろう。茶髪だが、明るすぎない、品がいい程度に抑えられてある。これ以上明るくしてしまうと下品になってしまうというギリギリのラインに抑えられていて、ほんのりとしたいい茶色で、もしかしたら地毛かもしれない。化粧っ気はないが、それがむしろアンニュイな、素朴な素材の良さを引き立てており、やはり類は友を呼ぶのか、この友達も同じような目をしていた。波風ひとつない湖面のような瞳をしており、この目の静けさの程度でふたりが引き合ったことがわかる。静かで、消えりそうで儚い、二人でいても、それほど会話は多くなさそうである。沈黙のうちにゆっくりしながらお弁当を食べたりしていそうだ。この部活動においても、ほとんどいつも二人で一緒に行動していることがこの写真からわかる。もう一枚、二人がたてかけの人間大サイズの半紙に書き初めをしている写真があったが、それが天にも昇るほど美しかった。古事記、般若心経だか、空海やら、お手本なるものを見ながら、二人で一生懸命に書き初めをしていて、太古の先達のお気に入りの書柄があるのだろう、普通の女子高生のそれのように、やれこの親鸞のハネの部分が好きとか、山岡鉄舟のハライが……、えー、わたし、空海の、この「是」の文字が好き〜、とか、大家のクセをひとつひとつ検証考証したりしながら、サットヴァの最大級の時間を過ごしていそうだった。これが妖精たちの戯れというやつか。やっぱり高学歴は趣味も違うな〜と思った。カメラマンもいい角度で撮ったものだが、おそらくこのカメラマンも、他の部員たちに対しては数合わせというか、途中からお情けで撮ったくらいで、途中から彼女たちを撮ることしか念頭になかっただろう。ただ、この友達の方は、ニヤニヤしているということはなかった。どこまでも堅物、一枚岩で、二週、三週にも渡って、広漠たる精神界隈を自由に歩き回るほどの素養は持ち合わせてはいないようだった。無論、そのことを不満に感じる彼女ではないだろうが、この才覚の壁については彼女の方でも自覚的だったと思われる。もっともこの書道部においては、彼女ら2人だけが抜きん出ていた。
街を歩いている女性を見ても何とも思わなくなってしまった。

それからというもの、俺は街を歩いている女を見ても何とも思わなくなってしまった。
これまで俺といえば、街を歩いている女性を一目見ただけで、雷にうたれたかのように、初めて女性を見た人のように衝撃を受け、立っていられなくなり、再び動き始めるまでしばらく時間がかかるほどだったが、それがまったくなくなってしまった。
どれもこれもニンジンとジャガイモにしか見えない。彼女に比べるとつまらない顔にしか映らない。玄米と白米の違いみたいなものか、一粒で二度おいしいというような複雑妙味を味わってしまったせいか、街で見かけるどんな女性を見ても、全員ブドウ糖のような単一的な味しかしなくなってしまったのである。全部同じトランプの絵柄に見える。彼女だけが一枚ひっくりかえった感じだ。
性欲が根本から引き抜かれてしまったようで、ただ頭の中を涼風が吹き抜けるばかりである。男も女もない、ただ水を打った静けさばかりがある。俺は生まれて初めてまともに地球を歩けている気がした。知性とは無欲とはよくいったものである。いや、無欲イコール知性なのだ。
(そういえば)
と俺は思った。
先の自習室の読書でもそうだった気がする。あれほど注意力散漫だった俺を二宮金次郎のように集中力の鬼にしてくれた。
(ひょっとして、彼女が俺のミューズとなる女性だというのか?)
(そのために、彼女が送られてきた?)
こんな恩寵は見たことも聞いたこともない。
本を読めるようにしてくれたり、女のことばかり考えないようにしてくれたり、俺を良い方向へ、良い方へ、正しい方へと導いてくれる変化ばかりを起こしてくれているような気がする。
女によって、女を打ち消すというのか。