大喜利を国民の基礎教育の一環にしたい。
学校の授業項目に大喜利を採用するのだ。 素晴らしい人間を育成するためには、笑いの勉強は欠かせない。この世には、面白い人間というのは本当に少ない。みんなつまらない事しか言えない。それを反省している様子もない。一発でドキッとさせる一言が会話の中で発生させることができたら、言った本人も言われた相手も幸せになれるのに。
ゴッドタンという素晴らしいバラエティ番組があるのに、アメトークやらクイズ番組や、グルメ番組を見ている人が多い。もっと悪い例だと、youtuberの動画を至上としている輩だ。
優しい人、賢い人はそれなりにいるが、面白い人は少ない。一言で気持ちのいい、的確で素晴らしいコメントを残せる人は少ない。たった一言でピシッと決める。そのためには、センスが必要だ。センスは生まれつきだと思われているが、勉強で十分に習得できる。そんなに、謎に満ちたモノではない。ちゃんと正解と間違いがある。笑いには、確かに答えがあり、的確な比喩がとりあえず言えればいい。それだけで笑いは怒るし、ピタッとその場に適した言葉を発見できる観察力は人生の様々なところで役に立つ。その観察力は社会を越えて自然界のすべての根底的な問題に通底している。
面白いことを言おうとして、突拍子もない予想外のコメントに向かわなくてもいいのだ(まぁそんな人は昨今はいないが、狙おうとすると、初級者は大体そうなる)。
基本的にどういう精神的態度でいればいいかというと、胸中の真ん中にある言葉を、しっかり掴むような態度でいることだ。
大喜利のように、お題があって、一生懸命答えようとしたり、例えようとしたり、上手いことを言おうとすると、非常にたくさんの言葉が浮かんでくる。あるいは何も浮かばないかもしれない。そんな思考の中で、脳内の活字を一気にリセットさせて、それでもリセットしても消えない言葉、もしくは突然、自分の中からフワッと輝く言葉を選択すればいい。その言葉が正解かどうかは、自然と自分でわかるはずだ。初めは上手くいかないかもしれない。だが、経験によって勘が研ぎ澄まされてくる。
大喜利のように、お題が出されてそれに取り組むなんて、日常ではあり得ないと思うだろうか? そんなことはない。お題だらけだ。生活の中で、誰かの容姿や行動を例えたりする機会は特にたくさんあるだろう。つまらない人はそういうとき「社長令嬢みたい」「ホームレスみたい」「頭良さそう」「喧嘩強そう」とか、短絡的な発言をする。自分でも短絡的だと思わずにはいられないだろう、わかってて発言している。流れやリズムを優先させたり、無言でいることが怖いことから、つまらない発言をしてしまう。それが癖になってくると、とうとうつまらない事しかいわなくなる。そして、だんだん何とも思わなくなる。もっと、あと一つ二つ奥に突き進むことができれば的確な言葉を見つけられるような予感はあるけど、大体みんな諦めてしまう。元々の情熱に欠けるのと、普段から練習していないから心の腰が重くて動けないのだ。いつも諦めているからそのまま放ってしまう。
面白いことを言おうと思う人もいれば、思わない人もいるけれど、この点は別にどちらでもよく、最適な一つの比喩を注意深く追えなければアウトだ。それを諦めない人は、面白いことを言おうとか、周りを笑かそうと狙わなくても、大体ウケをとれてしまう。
昔、俺はいかに人を笑わすか、それだけのために生きていた時間があったが、今はそんなことは考えてない。場の空気や人の心、議論の問題点、今そこに、その瞬間に孕んでいる一番の部分に焦点を当てて、観察して、一言で的確な言葉を決めるということを意識しているだけだ。多くの人は常に最適な言葉と戦う覚悟が欠けている。最適な言葉と戦う覚悟が欠けているということは、最適な精神でいることを諦めていることとおなじだ。
若い人は、ただ単に話をすればいいと思っている。口数が多ければ、コミュニケーションは成功だと思っている。ただ音を出すだけだ。何が正解で何が間違いか、会話の中の一言一言に勝負を置いていない。
といっても、こうやって書いていると、相手が話したこと全てに反応して、何かすごいことを言わなければならない。その全てに正確な比喩をしなければならないのか、と思ってしまったかもしれない。そうではなくて、基本的に傾聴していればいい。特に相手の心の部分を観察して、相手がしっかり言葉や気持ちを吐き出すまでしっかり聞かなければらない。最後までちゃんと漏らさず聞く。それが子供だろうか女だろうがおじいちゃんだろうと同じだ。とにかく聞く。観察するに尽きる。ずっと相槌打っていればいい。そして、相手が明らかにあなたに対して何か話してもらいたいという空気を当ててきたら、そのとき放心して、あなたの心の一番奥にある、ちょうどピタっとくるものを見つけて、しっかり話すのだ。これが会話の全てだ。そしてこれを一つに凝縮してコンパクトにしたものが「大喜利」なのである。
会話の中の、傾聴や発信する言葉を磨くのは練習あるのみで、学校の授業で得られるものではない。だが、現在の学校の基礎教育科目のどれと比べても、会話術は重要なものなので、基礎科目にしなければならない。
大喜利はお題に対して、1つの正解を導き出そうとする、素晴らしい文化だ。シンプルで美しい。 今話した会話のノウハウを、一問一答形式で、簡潔に練習できる。非常に高度な頭脳運動であり、我々を偉大な人間へと導いてくれる最高のツールだ。
昔の時代の教育というのはよくわからないが、この前カエサルの本を読んでいたら、古代ローマ時代は、弁論術やら、言葉に説得力を持たせるために「比喩」を勉強する科目があったことがわかった。
うまく例えたり、センスのいい言い回しを勉強しようという試みが昔はあったのだ。教育という文化が体系化してこんがらがってしまった現代では考えられないことだ。基本的に黎明期というのは何でもありだ。みんなで何が大事かを言い合って、みんなでそれがいいと思ったら、簡単に可決されてしまう。みんな、生活の中で「比喩」が大事だと考えていたから可決された。今、どこの教育機関を探しても「比喩」を勉強しようなんて意識がどこにあるというのか。原始的な世界で、物事をよく見渡せる時代において「比喩」が大事という精神が根付いていた。
今の時代こそ、比喩の教育が必要だ。今の時代の教育は詰め込み型、一方的に内容を享受するばかりで、自分で発信する為の教育が行われない。発信することの大切さ意義についても教えられない。せいぜい本屋の新書などで扱われるだけで、知的好奇心の高い人間が、独自に勉強するだけだ。
日本においても、似たようなことがあったと思う。江戸時代では儒教だったり、魂の育成を主としていた。広大な知識を詰め込むよりも、いかに人間性を高めるかに重点を置いていた。
文武両道だったことも素晴らしい。剣から学ぶことは本当に多い。一本をとるには、精神世界の葛藤があり、身体と心が、たくさんのメッセージを与えてくるが、その中で正解を見つけ出さなければならないのだ。俺はボクシングも剣道もやったが、あれは正解を探すパズルのようなものだ。スポーツでは武道の代わりにならないのか、と問われると、返答に困る。基本的には同じだが、どちらも、正解を探すためにあることは確かだ。正解を探すためのツールという前提で教育すれば、スポーツも武道も同じ効果が得られると考えている。幕末の動乱の時代を生き抜き、当時の最高の知識人であった勝海舟ですら、自分の役に立ったのは、剣と禅だけだったという言葉を残している。
人間は、同じ教育を受けても、偉い人もでればバカもでる。生来の部分によるところが多いので、放っておくしかない、と思うかもしれないが、それもどうかと思う。それも寂しい考え方だろう。
簡単にどこでも挑戦できるのが大喜利だ。大喜利さえできれば人生勝ったようなものである。
一度、頭をクリアにして、リセットして、肝心なものを見つけ出す。常にリセットしてパッと答えを見つける能力は、どこでも必要になる。長々とした論理展開の果てに見つかるものなんてない。自分の直感力を磨かなくてはならない。そのためには、大喜利が一番シンプルに取り組める
大喜利は慣れてくると、ひとつのお題に対して10個や20個はさらさら出てくるようになる、だから成熟度が分かりやすいし、採点しやすい。車の運転中だったり、歩行中、ランニング中に、頭の中でお題を出して答え続けることができる。つまり、毎日の日課として成り立ちやすいのだ。
こうして文章を書いているときも、自分の中心を捉えることができれば、迷わずに書き進められることができる。大喜利を勉強する以前と以後の俺とでは、文章の練達度がまるで違う。文章を書くことも、今、ここにある中心を的確に掴み、様々な言葉の連想をリセットさせ、中心を、中心を、紡いでいく。深層心理にある、中心だ。
物事に対して、クリアにみることができ、ちょうど真ん中の直感だけで、世界を捉えられたらこんな素晴らしいことはない。
そんなこと言ったって大喜利なんて誰でもできるわけじゃないと思うかもしれない。そんなことはない。俺も最初は大喜利が苦手だった。普段面白いことをいって人を笑わせることができるのに、何故か大喜利だけはうまくできなかった。
誰かを笑わすことができたとしても、それが公の理として成立しているかとは限らない。大喜利は公明正大で、相手を選ばず、確実にお笑いの度合いを計ることができる(基本的に、多くの人は、自然界の理に叶って笑いを取れているわけではなく、ただ単に身内のノリで笑っているに過ぎないのだ)
大喜利は苦手だったが、大喜利の上手い人をよく観察したり、色々な角度から頭の使い方をすることで、少しづつ、できるようになってきた。それは俺がもともと才能があったからか? 才能かどうかわからないが、確かに大喜利に対する熱意は人一倍あった。それが、俺に拍車をかけたのは確かだ。みんな、そんなに大喜利に熱意を持っているわけではない。熱意がなければ、そんなあやふやなものを、習熟できるはずがない。と言うだろうか。
確かに興味がなければ難しいと思う。呼びかけて大喜利を頑張ろうといっても、好きな人しか集まらないし、好きな人が、大喜利を勉強するだけで、差は広がるだけである。大喜利の文化の素晴らしさを国全体で広めて、それを教育として成り立つぐらいの大きい背景がなければダメだ。
あの人は大喜利が面白い、つまらないといった、大喜利が当たり前に生活に結びついてるぐらいの国があったら、確実に国民の質は良くなるだろう(少し窮屈な気がするが笑)
長々と話したが、俺は授業に大喜利が採用されるなんてことは、まずないことはわかっている。何をもってして良しとするのか定義が曖昧だし、教育する人材の確保も難しい。評価機関をねじ伏せて、大喜利を授業に取り上げるなんてことは不可能だろう。
こんな理想を語っても、無意味だということもわかっているが、一つの正解だということもわかっている。