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書籍レビュー『自分の中に毒を持て』岡本太郎

この本は小生がいちばん好きな本である。人生でおそらく10回以上は読んでいると思う。

イケハヤ先生、あんちゃ、まこなり社長、どの人も影響された本として、この本を挙げている。イケハヤ先生やあんちゃ氏は、この本はクレイジー、いかれている、こんな狂った本は見たことがないといっていたし、まこなり社長にいたっては、20歳のころにこの本を読んでからずっと、この本の熱情に浮かされているといっている。

確かにそれだけの力がある本だ。今まで見た本の中でもっとも魔的なものに満ちており、若者を狂わさずにはいられない本だ。

イケハヤさんのいうとおり、中村天風の『運命を開く』という本も強烈で、これと双璧をなすバイブルではあるけれども、個人的にはこの岡本太郎さんの本の方が好きである。

特にインフルエンサーはこの本に影響されている人がとても多い。この本の以下の言葉に特に救われるらしい。

人間にとって成功とはいったい何だろう。

結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。

夢がたとえ成就しなかったとしても、精いっぱい挑戦した、それで爽やかだ。

不思議な言葉だ。ありふれた言葉ではある。聞いたことがない人はいないはずだ。でも、岡本太郎がいうと、とても新鮮な響きに感じられるのだ。ああ、確かにその通りかもしれないと思ってしまう。

インフルエンサーのように世の中の枠組みから外れて生きていこうとするには強いモチベーションが必要で、すぐに後ろを振り返って立ち並ぶ企業の顔を見てしまいたくなるものだ。

そして彼らは、成功するために書くのか、それとも自分のやりがいを通す為に書くのか、いつもその別れ道で迷っている。

自分のやりがいの為に捨て身になったら、はたしてどうなってしまうのか、売れるか売れないかもわからない、一生食えないかもしれない。それでもこの道を貫けばいいのかもしれない、でも……、そんなふうに何度も同じ想いが頭を占める。

誰だって、やはり自分の道を歩きたいのだ。成功とか、売れるとか、ぜんぶ無視して自分の最大の可能性、見たこともないしよくわからない、自分の中の可能性にかけてみたい。そんなとき、岡本太郎が背中を押してくれる。こればかりは他の人間ではダメなのだ。他の人間がいくら君の道を貫けばいいといってくれても、その人が自分の道を貫いていないことがわかるから、信じたくても信じられないのだ。

だけど、岡本太郎なら信じられる。この本に書かれてある文章は、本当に自分を貫き通した人間にしか書けないものだとはっきり感じられてしまう。この人がいうなら間違いないと思わせられる。岡本太郎がそういうなら、俺も貫き通してやるぜ、という気持ちになってくるのだ。

みんな、やっぱり自分の道を貫いて生きたいのだ。でも若いから、誰かの胸を借りたくて仕方ない夜がある。

小生を含め、発信者やインフルエンサーたちは本当は大して強くない。少し普通のルートから外れて生きてるだけで、それを偉そうにブツブツいってるだけだ。発信活動なんてとんでもない。不安や寂しさを紛らわせるためにブツブツいってるだけだ。

岡本太郎だって、どこまで強いのかはよくわからない。岡本太郎本人も、自分のことを強いといっていない。自信があるわけでもないといっている。ただ、ぶつかってみるだけだという。自信もない、強くもないけど、そのままの気持ちでぶつかるしかないんだという。確かにそうかもしれない。それなら自分でもできそうだなと、小生も、インフルたちも、思うのである。

岡本太郎はただ生命を爆発させろという。爆発。瞬間瞬間に爆発しろという。この本はただそれだけのことをずっといっている。

確かに突き詰めて考えてみると、爆発以上のものがありようがない。子供が生まれてきてあれだけ泣き叫んでいるのは、生命の爆発以外のなにものでもない。あのとき、我々の存在の答えははっきりしていたのだ。

後天的に生きる上で小賢しい知恵を身につけて、どんどんあのときの爆発力を弱らせているのが今の私達だ。

自分の生命力が思いっきり爆発しているときの、それ以上の何があろうか。本当の意味で爆発することができたら、もうその瞬間に死んでいいとすら思える。

そして、他人も私達に爆発を求めている。その人がうまくやろうが成功しようが興味はない。人が興味があるのは、その人の完全な爆発だけだ。その人の最大限、最大力の爆発を見たい、それだけだ。

Twitterでごちゃごちゃ騒いでいる人を見て我々が思うことは、いいからごちゃごちゃいってないで、お前のすごい爆発を見せてくれよ。無理してでも何してでもいいから、とにかく爆発を見せてくれ。その人の、その人にしかできない、その人のありったけの生命の爆発を見せてくれ。それは、お互いにそう思っている。

小生が、神やら宇宙とかいって、自然界の悟りをひらいてそれを作品に活かすといっていると、それは聖人みたいな作品や人となりになるものだと、みなさんは思うかもしれない。

小生がそれを掲げているにも関わらず下品な作品ばかり作っていると、本当に悟りを開くつもりはあるのか? と思われるかもしれないが、基本的に小生は岡本太郎の考えに立脚している。岡本太郎寄りの人間なのだ。

表現は性格を持つほど美しい。人間の大きな感情の猛りをそのまま表現するところに作品の美しさが宿る。別に無理して下品だったり暴力的にする必要はないけれども、作品自体がそれを求めているときは、どこまでもそれを強く打ち出していかなければならない。

毒はやはり必要だ。カラマーゾフの兄弟も、とんでもない悪役がいるから、歴史上最高の文学作品として君臨しているのだろう。

一般的に、達観した表現者ほど、誰が見ても楽しめるような、愛と調和に満ちた、この指とまれ的な作品になっていくと思われるようだが、そういった幻想を打ち砕くために、岡本太郎は『自分の中に毒をもて』というタイトルにしたのだろう。大変素晴らしいタイトルに思う。

松本人志が、プロフェッショナル仕事の流儀という番組の、最後の決め台詞で、「(プロの定義とは)素人に圧倒的な力の差を見せつけてやること」といっていて、いいなぁと思ってしまった。それに比べると、他のプロフェッショナルたちは毒がなくて寂しい。

この本を読むと暴れまわりたくなる。70になっても、80になっても、もっともっと激しく燃え上がることしか考えずにはいられなくなる。絶対に丸くなったりなんてしない。いかにマグマのようなエネルギーを発揮させて、この世界を震撼させられるか。自分も壊し、世界を壊し、すべてを粉砕するような、そんな想いに駆られてしまう。

ドーンと目の前のことに向かって爆発して倒れて寝て、また起きてドーンと爆発してまた倒れて寝る。そんな生活を送りたいものである。もちろん送ればいいのだが、それこそがいちばん難しい。いや、簡単なのか、難しいのかも、よくわからない。この本を読むと、そうありたいために挑戦したくなるのだ。

小生の表現における考え方や、人生の生き方まで、ほとんどすべてが岡本太郎の受け売りである。

矢吹丈のように、真っ白に燃え尽きるということ。結局今この瞬間に、真っ白な灰のように燃え尽きることができたら、それ以上のものは何があろうか。

確かにみんな成功とか金とか安定とか、追いかけたくなるし、追いかけてしまうけれども、本当の意味で真っ白になるほど燃え上がれることができたら、それ以上のことはないと、みんな思っているだろう。みんなそうありたいと心の底では思っているから、多くの人に愛されている本なのだと思う。

仕事を辞めたいといってるのに辞めない友人が、「辞めてもやりたいことがない」といっていた。

本気で自分の全生命を費やさずにいられないほどのやりたいことを誰もが求めている。結局みんな、やりたいことが見つからないから苦しんでいるんだろう。

まあ実のところは、やりたいことがない人間なんていない。本当はみんなやりたいことはあるんだけど、いろんな理由をつけて、結局は逃げ込んでしまってるだけなのだが。

人はみんな、成功することよりも、自分を出し切れないことが悔しいから、輝いている人を前にして劣等感を感じる。

小生はべつに聖職者になりたいから神の道を勉強しているわけではない。ただ力が欲しいだけだ。小生はもっと面白くなりたいという理由で神の道を研究している。しかし、岡本太郎のいう爆発と神の道は決して別物ではない。それどころか同じところで同じ光を放っている。

岡本太郎のいう爆発とは、火山が爆発するようなそれとは違い、もっと静かな爆発だという。

全生命が宇宙に向かって放射されるような、静かで目の前が閃光に包まれるようなものをいうらしい。

岡本太郎の作品はどれもキャッチーで、みんなが集まりやすいデザインをしている。太陽の塔なんていい例だろう。本人はそれらをすべて一蹴するつもりで創ったに違いないが、岡本太郎の作品ほど公明正大なものはないように思えてしまう。

自分のなかの最高純度の爆発は、全世界に渡って燃え広がるということか。

下品だったり過激がいいということではないけど、生命エネルギーの輝きだけを見ていればいい気がする。そして、輝きは、無目的、無条件のときに生まれる。正直であり、正直すら超えたところにある。

Twitterの炎上も爆発しているように一見見えるが、汚い花火である。まるで芸術性を感じない。純粋の、混じり気のない、人間の本善の炎を燃やすわけではない。

ロダンも、芸術に独創はいらない、生命がいるといっている。

生命。

岡本太郎は一日中燃えているという。この精神状態でいるといっている。

みんな、自分の命を完全に燃焼できないから苦しんでいるんだ。小生だって全然できてやしない。

純粋に思い切り、その人の精神エネルギーをありったけ爆発して、倒れて寝ていればいいだけの話だろう。そしてまた目が覚めたらまた自爆すればいいだけである。

どいつもこいつもうるさくてイライラするから全員消し飛ばしたい。全員消し飛ばす力が欲しい。この本を読んだときだけは力が手に入ったような気がする。何でもできそうな気がしてくる。べつにできなかったらできなかったらで仕方ない。それはそれだ。ただ自分を出しきることはできそうな気がしてくるのである。自分を出し切らずに死ぬわけにはいかない。

賞賛も励ましも非難も批判も、すべて越えて、純粋に爆発だけしていたいものである。この考えこそが、すべての思想の中でいちばん美しいと思える。

この思想で生きると、スッキリしてワクワクして、胸が抑えられないくらい熱くなってきて、明日が楽しみで眠れなくなってくるのである。たまにどうしようもなく死にたくなっても、この本があれば大丈夫だ! 生も死も越えていける!

しかし、この気持ちこそ正解だと思って、さぁこの気持ちで面白いものを作るぞ! と思って作品に向かうと、「?」となるのだ。「あれ?」となるのだ。胸にあるエネルギーをそのまま原稿に移しこもうとするのだが、うまくいかないのである。

エネルギーの転写にも技術が必要か。その技術をぶっ払いたくてやってるんだがなぁ……。

そこでさっぱりわからなくなる。遠い彗星を眺めるような気持ちにさせられる。岡本太郎はそこに行きつくことができたのか、すごいなぁと思う。岡本太郎本人はよく行き詰まるといっているけど。

まぁそんなことはどうでもいい。

この本は、神や仏とかいう話は出てこない、それに打ち勝つような個人としての強みを見せてやるというエマーソンやニーチェのような超越主義的な考え方である。小生もまた超越主義の人間である。岡本太郎は、感動したなら越えなければならないといった。だから岡本太郎はピカソを越えてみせた。小生も、岡本太郎に感動したのなら岡本太郎を越えねばならない。肥田先生も越えねばならない。あと寿命は残り50年くらいか? 間に合うだろうか。まあやれるだろう!

神の意思とひとつになり、それをお笑いに転化する、そんなの面白くならないわけがない、ただ面白いものなんていらない、そんなのは巷にごろごろ溢れていてもうるさいだけだろう。みんな、究極が見たいんだろう、確かに、誰も究極には辿りついていない。この俺が究極を見せてやる!

才能も知識も超えた、決意の凄みってやつを見せてくれる! プロに圧倒的な差を見せつけてやる!

そんな、いちばん最高の状態へ連れてってくる唯一の本である。まこなり社長がいうとおり、小生もまた、この本を読んで被爆した衝撃が、ずっと続いている。

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