小生は25歳の頃、理学療法の専門学校に入った。学生の歳ではないからとても勇気がいった。入学してみると、やはりほとんどが高校を卒業したばかりの現役生たちばかりだった。
しかし、そんな小生の不安を一蹴するかのように、41歳の男が入学していた。ハンチング帽、赤い英字Tシャツ、穴の空いたジーパン。英字TシャツのブランドはBADBOYSだった。
41歳? 定年じゃん。就職してもすぐに定年じゃん。なんで41歳で専門学校? 学校卒業するまで3年かかるから、卒業するときは44歳じゃねーか、と思った。
しかし現役の18歳たちは、41歳の男を暖かく迎え入れた。
読者の皆さんに、現役で理学療法の専門学校に入るということをよく考えてみてほしい。現役で理学療法の専門学校に入るということは、それはつまり、高校在学時から理学療法士になる意思を固めていたということになる。
保守的。公務員的発想。ジジイとババアの骨を触わる日々。高校在学時から医療保険制度に寄りかかって生きていこうと腹をくくれててしまう態度。安定を通りこして脳がすでにジジイ化している。風呂に入るとき、金玉をぶつけて片方とれてしまったのだろう。
彼らは、18歳にしては相当に古かった。地味にすることだけを目的としたどこかの専門学校のパンフレットに載ってる男女よりも、ずっと垢抜けなかった。
遊戯王カードやお菓子やコミックをパンパンにリュックに詰め込んで、中学生でも履かない白い運動靴を履いて学校にやってきた。更衣室ではブカブカのトランクスを履いている姿を何度も見た。昼休みはお互いの目の前に異性がいるのに、すごい勢いでガツガツ食べた。
教室にはいつも童貞と処女の香りが充満しており、インディ・ジョーンズに出てくる神殿のように、閉ざされた性器に詰まった垢が、カビて腐って酸化を起こしているような匂いだった。
だから、41歳の紀文(のりふみ)は受け入れられた。歳は23離れていたが、23年が気にならなくなるほどの、同じ人間的特性を備えていたのである。
紀文。昭和中期らしい名前である。紀文は現役生たちから、のりさん、のりさんと呼ばれていた(のりくんと呼ぶ者もいた)。紀文は彼らといつも昼ごはんを食べたり、連れションをしたり、放課後に勉強したりしていた。
紀文は彼らとほとんど服装が変わらなかった。そのため、一見、現役生たちと区別がつかないこともあった。
現役生たちの多くがPIKOを着ていた。紀文はBADBOYSだった。いつもPIKOとBADBOYSが並んで歩いていた。
これから介護の世界に身を置こうとする人間がBADBOYSである。教師はそれについては何もいわなかった。しかし迷彩柄を着ていた生徒には注意していた。「それは人殺しのための服だから二度と着てくるな」といっていた。BADBOYSのロゴを胸にでかでかと表示させていた男の隣で。
さて、41歳と18歳が、いったいどんな会話を繰り広げるのだろうと興味津々だった小生は、彼らの話を盗み聞きした。
「午後の解剖だるくね?」
「まだ時間あるかな、コンビニにワンピース読みにいきたいんだけど」
「のりくんもいく?」
「おう。俺もワンピースみてーわ」
と、まったく同じ目線で会話をしていた。
彼らと同じ口調、同じ空気、同じファッション、一緒に語らい、一緒に勉強する。
この異質な空気はなんだ? なぜ誰も何もいわないんだ? 違う。いわないのではない。気づかないのだ。気づけていたらPIKOを着ていない。目の前の男のナイフで刻まれたようなほうれい線を目にしても、「のりくんトイレ行こうぜ!」といえてしまう。
彼らはよくマックで勉強していた。学校は18時に閉まるので、その後はマックで勉強するのが常だった。聞く話によると、紀文は自分のハンバーガー代しか出さないらしかった。3年間、一度も奢ったことはなかったらしい。
さらに聞いた話では、休みの日になると、彼らは友達の家に集まって勉強会を開くらしいのだが、なんと、紀文も参加していたらしい。
もちろん休みの日だから、ご両親は在宅だった。ご両親はなんだと思っただろう? 担任? 保護者? お母さんは皿を割らなかったか。お父さんは警察を呼ばなかったか。
家には、男女混合で20人くらい集まっていたらしい。マックにもいつも20人くらいで押し寄せていた。1クラスが25人くらいなので、ほぼクラス全員で行動していたことになる。校内だろうと校外だろうと、彼らはいつも20人一緒だった。
小生は一度も参加したことはない。小生は残りの5人側に属していた。残りの5人側は、主に社会人メンバーである。それぞれ個々に行動し、勉強する。紀文だけはなぜか20人側の方に属していた。
紀文はクラスで最年長だったのに、現役生グループに属していた。社会人グループと現役生グループもとても仲がよかったが、紀文が社会人グループの方に寄ってくることはなかった。
友達の家では、みんなでウイイレ(サッカーゲーム)をやっていたらしい。勉強目的で集まったはずだが、こういうことはよくある。真面目な彼らだろうと息抜きは必要だ。聞くところによると、紀文は初期のファミコン時代からウイイレをやりこんでいたらしく、かなり腕が立つようだった。
お母さんがみんなにご飯を作ってくれたそうだが、紀文も一緒に食べたらしい。20人分を用意するのは大変で、台所が荒れに荒れたらしいが、女の子たちが一生懸命に皿を運んだり洗いものを手伝うことで乗り越えたらしい。その間、紀文は男たちと一緒にウイイレをやっていたらしい。
※
そんな平和な日々だったのだが、ある日、クラス最大の事件が起きてしまった。
教室で、現役生たちが話をしていた。
「愛菜彼氏できたんだって! 他校の大学生だって!」
「理学療法の?」
「いや、普通の文系の大学生らしい」
「危険じゃね? 文系の大学生と付き合うなんて。今どき文系の大学生なんて就職ないぜ?」
「愛菜……大丈夫かな」
「岡崎さんも終わったな」
「他校の大学生……」
「他校の大学生か……」
(ルール違反じゃね?)
ルール違反。誰も口には出さないが、そんな顔をしていた。おもしろくないという顔だった。このクラスには、男女交際はこのクラス内で行われなければならない、という空気が蔓延っていた。
「どうすんだよ、これ」
「実習に支障がでなければいいけど」
「のりさんどう思う?」
「ちょっと問題だなぁ。代々築き上げてきたこのクラスの文化は大事にしたい」
紀文のいう通り、この学校には仲のいい文化が築き上げられていた。それはどの学年、どのクラスを持ってしてもそうだった。実技練習の時間は、関節の可動域とか、筋肉の起始停止などをみんなでまさぐり合うから、みんなで恋愛しているように見えなくもなかった。
紀文も安心している顔をしていた。ヨレてクタクタになっているTシャツを着ていても、このメンツ内で恋愛が行われるから大丈夫という顔をしていた。
それは童貞と処女の制約のようだった。
一歩外に出れば、僕よりかっこいい男がいる。私より可愛い女がいる。でもそれには目を瞑ろう。校門を潜ったらすべてを忘れよう。美意識や色気は門の外に置いておこう。それがいちばんいいんだ。それが僕たちが楽しく暮らすいちばんいい方法。卑屈じゃない。だってここは理学療法の専門学校。美容師の専門学校じゃない。
これは前向きなのか、後ろ向きなのか、小生にはわからなかった。
「愛菜、大丈夫かな?」
「騙されてなければいいけど」
「騙されるって……」
「どうする?」
「どうするってなにが」
「岡崎さんに問いただす?」
「問いただすって、何を」
ちなみに愛菜もブスである。
「なんか、橋の下で舐めたらしいよ」
「え!?」
「橋の下で舐めたってどういうこと?」
「わかんない。愛菜がいってた。出るっていわないから飲んじゃったんだって」
「…………」
「マジかよ岡崎さん」
「フェラ子ちゃんじゃん。それってフェラ子ちゃんじゃん」
と紀文がいった。やっぱりこいつだけオヤジだなと思った。『フェラ子ちゃん』なんて、オヤジしかいわない。
それから愛菜はハブられていった。
いつも一人で行動するようになった。実習も一人余るようになった。それまでは『もっちー』と呼んでいた友達を、『望月さん』と呼ぶようになった。
それを気の毒に思う者もいたが、どうすることもできなかった。間に入ろうとするとややこしくなりそうだったし、愛菜の背中が、そっとしてほしいと語っていたからである。
実習のときがいちばんつらそうだった。実習は2人1組でやるため、愛菜だけいつも余った。こういうのは慣れていくものだと思っていたが、そんなことはなくて、だんだん決壊の日に近づいていっているようだった。ある実習中、とつぜん愛菜の胸の下部から強烈なものが押し上がる瞬間を見た。愛菜はとつぜん後ろへ反転して、そのまま壁に向かって止まってしまった。そのまましばらく止まっていた。誰もがそれを息を飲んで見ていた。先生でさえ声をかけられなかった。
不思議なことだが、小生の場合はとくにこれといった原因がなかったにも関わらず、余ってしまうことが多かった。愛菜は小生の隣に黙って座った。言葉を発したら涙声が漏れてしまうと思ったのか。それとも言葉が出なかったのか。
小生はよく愛菜と実習をやった。愛菜の胸鎖関節を動かしているときに気づいたのだが、愛菜は産毛が生えていた。浮ついた話題のためにハブられている女に、どうして産毛が生えているのか。
愛菜の成績は著しく下がっていった。原因は過去問が回ってこないことだった。彼らはよく勉強していたのだが、結局は過去問に頼りっぱなしだった。この学校は教師が凄まじい手抜きをするので、過去問さえ前日にやっておけば簡単に定期テストを潜り抜けることができた。しかしなぜか毎年一人か二人、留年する生徒が出るのは、学校の七不思議のひとつである。
しかし愛菜は。愛菜は、返ってきたテスト用紙を持ったまま立ち尽くしていた。その顔で点数が計り知れた。一応追試は用意されているが、過去問を持たない愛菜が受けたところで見えた結果だった。武器を持たずに戦争にいくようなものだ。
そして愛菜は留年してしまった。