25歳の頃、仕事を辞めて実家に戻ってきて、なんとなく友達と遊んでいた。
卓球をやろうということになり、市民体育館で卓球をやっていた。
男3人で卓球をやっていたら虚しくなり、モテる友達が女の子を3人呼んでくれた。その内の2人はよく見る顔だったけど、1人は初めてみる子だった。呼んだ女の子の職場の同僚らしい。普段は合コンや飲みには行かない子らしいが、『市民体育館で卓球』というワードに興味を示したらしい。
その子は25歳。中、高、大と女子校だったらしい。それが影響しているのか、あまり男の匂いがしなかった。恋愛経験は一度もないといっていた。しかし、堂々と男と話していた。
卓球台を挟んで対面すると、彼女は一回一回、おねがいしますといった。
自分がサーブを打つときも、小生がサーブを打つときも、毎回必ずお願いしますといった。
毎回毎回お願いしますというのはどういうことか? 最初にお願いしますといったら十分ではないのか? 最初のお願いしますに、未来に向かっての保証が約束されているのではないのか?
そのお願いしますが、すごく自然だった。普段からやってるんだと思わせられた。思考のための遅れがなかった。
毎回毎回お願いしますというのは少しあざとすぎるだろうか? かえって相手に気を遣わせてしまうのではないか? ゲームの進行に邪魔をきたしてしまうのではないか? という思考が常人には必ずよぎるものであり、少しでもよぎってしまったら、どんどん声が小さくなるし、最後には何もいわずにラケットを振るようになる。
しかし、彼女は最後までずっと変わらないテンションで「お願いします」といっていた。まるで毎球毎球、初めてゲームが始まったかのように。
小生も、「何度もお願いしますっていわなくていいよ」といおうとしたけど、いえなかった。
彼女のなかで、めんどくさいな。もういいかな? どうしよう? という迷いが少しでもあったら、それが小生に伝わってきて、小生も、「もういいよ」といったかもしれない。
しかし、彼女にはまったくその気がなかった。もし、「もういいよ」といったら、「何がですか?」といわれそうだった。
周囲も小生と同じ気持ちだったようである。だから誰も何もいわなかった。
お願いしますだけではない。
小生の方のネットにボールがひっかかったときも、毎回必ずボールを取りにきて、小生に手渡しで渡してくれた。必ず手渡しで渡してきた。
ボールが完全に小生側の遥か向こうに飛んでいったにも関わらず、取ろうと駆けてきた。その翔ける姿には恐怖すら感じた。
狂ってると思った。狂人とは別の方向で頭が飛んでいる。こんなことは、頭が飛んでいないとできないことだ。
自分の方面だろうと、相手の方面だろうと、ボールを取りに行くときは、全速力で取りに行った(といっても女の子走りで、非常に遅かったが)。ちょっとやりすぎかな? 今回はちょっと遅めに走ろうかな? という気持ちが少しも頭によぎらないところは脅威だった。感動して、少し泣きそうになってしまった。
この優しさはいったいどこからきているのか、小生は思考を巡らせてみた。
後天的に会得していったような技術の匂いがしなかった。では生来の性格かというと、少し違う気がした。
これは周りを気にしないところからきている。
なんとなくだが、この子の一連のすべてに、周りの評価を気にせずにお絵描きをする子供の姿が浮かんだ。小さな子が絵を描くときに周りを気にしないように、自分の中で完結しているものを感じた。明らかに、周りを気にして生じる優しさとは質が異なった。1から10まで、自分で始まって自分で終わっている。
「その絵おかしいよ」といわれて修正されることなく、あの絵のまま、ここまできたような気がした。
今日昨日培われたものではない。あるときから変わったわけでもない。ただ描いてる。ただ生きてる。ただ優しくしている。
誰がどれだけ優しくなろうとしても、この子には絶対に敵わない気がした。才能ある人が一生をかけて努力したとしても、25歳かそこらの女の子に負けてしまう事実がある。
月並の言葉だが、これが聖母かと思った。優しさという点では、男は決して女には敵わないが、その中でも、異質なものを感じた。
女性特有の、生理の日の、じめっとしたナメクジっぽさがなかった。「どうすんの? 卓球行くの? 行かないの?」「……」「黙ってちゃわからないよ、どうすんの? やめるの?」「……」「ユキちゃんが卓球やりたいっていったんじゃん」「……」「ねぇどうすんの!? 卓球キャンセルするの!?」というやり取りをしなければならない絵が浮かばなかった。
卓球の最中、クマのパンツを履いていることを友達にからかわれても、「もう! いわないでよ〜!」と笑っていた。
服装は大変おしゃれで今風だったが、下着は動物のプリント入を履いているらしかった。
いわないでよ〜!とは、私は今クマさんのパンツを履いていますと、我々に公言していることと同義だ。
小生はあまり動物のプリント入のパンティは好きではないが、ここに一種の相関を見出せずにいられなかった。この子の優しさとクマさんのパンツに一種の関係があるような気がした。
私は私の優しさを貫く、という決意すら感じなかった。その決意すら邪魔になる。ごくごく当たり前の、自分の世界だけが続いている。
この優しさは、この子以外には無理だろう。考えてしまった時点でダメになってしまうのだから。そんな凄まじい難易度の優しさを、25歳でできている……だと? いや、25歳だからできるのか? もはやわからない。
この子の前で、我々はただ心が洗われるばかりだった。
この種の優しさの前では、「今日の卓球代、俺がぜんぶ払うよ!」といったところで、とうてい敵うものではない。
どんな女も手篭めにしてしまう友人も、「こんな子は見たことがない」といって、本当に見たこともなさそうな顔をして立ち尽くしていた。
「落とせない?」と聞いたら、「落としたくもない」といった。小生もその気持ちがよくわかった。この子には、すべての邪悪なオーラを寄せ付けない何かがあった。付き合ったことがないという話も納得だ。
小生は、この子は金持ちの男と結婚してほしいと思った。ぜひダラダラして、コタツでケツをかいて、みかんの皮を剥いたら床に撒き散らして、「ぉぉう」と、低く唸るような声で、寝返りをうっていてほしいなと思った。