昨日の記事のタイトルだが、
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174cmと会ってきた
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「いくらなんでも、このタイトルだけはなんとかなりませんか? しまるこさんのファンだけど、このタイトルだけは許せません。悪魔的です」といわれた。
いったいこの人は小生のどこに惚れてファンになったのだろう。エアコンのファンのことをいっているのか。
悪魔的でいうなら、
「進撃の174cmの巨人を駆逐してきた」とか、「174cmと会ってきたけど、顔が遠過ぎて見えませんでした」とかにした方が、悪魔的な気がするが、ここまでやるとやり過ぎて、かえって何もいわれなくなるだろうか。
この記事では、「人工生命体の巨神兵」とか、「吉田沙保里」とか「南海キャンディーズのコント」とか、もっとひどいことをたくさん書いたのに、それについては何もいってこないで、「174cmと会ってきた」というタイトルにだけは文句をいう。
「174cmと会ってきた」だけの方が、よりニュートラルな自然な悪意に感じるため、反応したくなるのだろう。Twitterの炎上もそういうケースが多い。発信者の良心のあり方が間違っているときほど、炎は大きく燃え上がる。
別に弁明するつもりもないが、なぜこのタイトルにしたかというと、このタイトルでしかなかったからである。
確かに、心が痛む。昨日の彼女とのデートは本当に楽しかった。久しぶりにすばらしい女性に会えて、この世界のすべてに感謝している。未だに彼女の良人間としての波動が小生の中に息づいており、小生はその馥郁たる香りの中でタイトルをつけた。小生だって、そんな人の悪口などいいたくない。
本人が見たら卒倒するだろう。実際、出会い系で会った女性に、その女性をボロカスに書いた記事を読まれたことがある。2時間くらい、泣いていた。
別におもしろがってこのタイトルをつけてるわけではない。この記事にはこのタイトルがピッタリはまる、というものがある。今回のタイトルはまさにそれだ。「174cmの女の子と会ってきた」と最初つけたけど、少しトイレに行って、また戻ってスマホを手にしたとき、「174cmと会ってきた」という文字が光って見えた。頭に浮かんだのではなく、記事の上のタイトル欄に、はっきり光って見えた。タイトルが、そうだといっていた。名付けたのではなく、そうだったのである。
芸術は、性格があるものだけが美しい。
「174cmの女の子と会ってきた」ではダメなのだ。記事が違うといっている。そこに小生の想いや感情を挟む余地はない。それは、すでにそう名付けられて存在していた。小生の出る幕はどこにもない。ただの掘り出し物だ。小生は作ったのではなく見つけたのだ。拾っておいて、違う名前をつけるわけにはいかない。
「そんな悪魔的なタイトルはやめてください!」という人ですら、結局、悪魔的なタイトルだから見にくるのだ。その人の心の奥底では、このタイトルが大好きなのだ。色んな感情を引き起こされ、最低だ、もう見ない! という気持ちになるかもしれないが、だから読むのだ。本当はこの人が、このタイトルを熱望している。