さて3週間近くブログの更新が滞ってしまった。何をしていたかというと基本的にはダラダラしていた。あと、絵を描いていた。
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2週間での画力上達の過程
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昔から絵が苦手だった。絵が苦手なくせに漫画家になろうとしていた。
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25歳の頃、集英社に「幻のチンコオロギを捕まえろ!」という漫画を持ち込んだ話
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スポーツは習得がはやく、何をどうすればよくなるのかすぐに見つけることができて、ほとんどのスポーツは独学で自得していったけど、絵だけはぜんぜん上達の鍵がわからなかった。
小生は地味なトレーニングが好きで、テニスの壁打ちだったり、バットの素振りだったり、シャドーボクシングや書道など、平気で3時間ぐらいやっていられるけど、絵だけは数十分でギブアップだった。
30を過ぎてから、いろんなことに挑戦しだした。ブログ執筆、テニス、大喜利、瞑想、書道……、多くの人は10代20代に挑戦して、右往左往して色々あって30代になって家庭に入り、新しい技能に習熟しようとは思わなくなるだろう。それをやるのは自分の子で、自分はサポートにまわるだろう。やるとしたら、せいぜいでマラソンか筋トレ、ゴルフくらい。
テニスの壁打ちを延々とやってられたら気持ちよさそうだなぁと思い立ち、30を過ぎてからテニスを始めたけど、これはなかなか難しかった。
まったくコツが掴めず、もうこれ以上上手くなることはできないと思ったことは数度あったけど、真理の勉強と照らし合わせて考えることで、なぜか処々の問題を解決できてしまった。バックハンドはまだなかなかうまくいかなかったりするが、それなりに様にはなっている。
字も一年ほど前から始めたけど、最初はほんとに下手くそで、何をどうしたら上手くなるのかわからなかったけど、毎日書いてたら上手くなった。学生時代、処理に追われるように書いていたときは上手くならなかったけど、意識して毎日少しだけ続けていたら、どんどん上手くなった。やはり、意識が大切である。
小生は字が本当に下手でコンプレックスだったけど、やればなんとかなるもんだ。字は生まれつきだと思っていたけどそうではなかった。で、字ばっかり書いていると、今度は絵を描きたくなってくるのである。
字を書いていて感じた秘訣は、正しい線を見つけられればうまくいき、線を間違えると下手になる、ということだった。これを絵に応用させられる気がした。
正しい線は、自己の内部の深い部分と繋がっていて、この線を捉えるときは胸が安心するというか、不思議な一体感が訪れる。はっきり正しい線を辿ることができなくても、正しさに近いところに近づくほど、その安心感は大きくなる。だから、このホッとする安心感がひとつの頼りになり、大事なセンサーとなる。
これは人生や普段の日常生活にもまったく同じことがいえる。常に我々の行動や目の前の問題にはたったひとつの正解(線)しかなくて、それに近づけたとき、我々はホッとするのだ。
この意識がどうしても欠けていた。この意識が欠けていると、何をどれだけやっても上達しない。
だから、字のように、絵も、このピタッとくる線を見つけることができたら、上手く描けるだろうし、そして、気持ちよくなれるだろうと思った。
それでもって、さいきん2週間ほど練習してみたら、上達の兆しがみられた。
やはり、正しい線を見つけることだろう。勝手に線を書かない。正しい、もしくは正しさに近い線だなと感じたときだけ線を書く。そうでなかったら書かない。先へ進まない、ということだろう。いま言っていて思ったけど、なんというか、仕事と一緒かもしれない……。
この正しい一線、一点でもいい。確実に捉えながら進むということが、すべての物事が上達しやすくなる秘訣である。はっきり自分の胸にピタッと落ちる感覚を頼りにするのである。
心の深層の部分には、すべてが備えられているようなところがあって、自分の行動と、この深層の部分が合致すると、強烈な気持ちよさを覚える。これはゴロゴロYouTubeを見ていても得られない感覚である。
昔、漫画家を目指していたころは、どれだけ練習しても上手くならなかった。大学4年で卒業間近になっても就活をせず、部屋にこもって4時間も5時間も描いていたけど、上手くならなすぎてびっくりした。この深層のピタっとなる感覚がないのに無理してそれっぽく書いていたから、ダメだったのだと思う。ただ線だけを真似るということをやっていた。
反対に、ボクシングや剣道は誰よりもはやく、信じられない速度で上達した。自分の動きが自然の法則と一致していることがはっきりと感じ取れた。それに比べると、ちょっとテニスは難しい。単純にスポーツとしての難易度が高い気がする。
※
少し話がずれるが、最近は生玄米生活をしているのだが、これをやっているとまったく眠くならない。寝たとしても2時間くらいで目が覚めてしまう。だから時間がありすぎて困ってしまう。
そんなに時間があるならブログ更新しろと思うかもしれないが、一応それなりに書いてはいる。書くだけ書いて、仕上げが面倒だから放っておいてあるだけだ。
生玄米生活をしていると、どうしても空腹感がある。たまに酷い空腹におそわれるときがある。こういうときは何かをしていなければ凌げるものではない。
ボーっと考えごとをしていたり、YouTubeを見たり、文章を書いていると、どうしても空腹を感じてしまう。
文章を書いていても空腹を凌げるものではない。サラサラと筆が止まらなければいいのだけど、どうしても考えたり止まったりして、ふぅとひと息ついたりすると、空腹を感じる。
だから、本当に作業に没頭するタイプの作業らしい作業でないと、どうしても空腹を感じてしまう。この空腹がうっとおしい。
慣れてくるとは思うのだけど、慣れる前にカラムーチョやミニストップのアイスだったりをたまに暴飲暴食したりしているから、なかなか慣れがやってこないのである。
だから生玄米生活をものにするには、絵の練習をするのがいちばんいいと本気で思っている(笑)
その実例として紹介したい話がある。
ワンビースの作者の尾田栄一郎氏は、2日か3日に一度しか食事をしないそうである。食べると眠くなるからだという。日に3時間くらいしか眠らないそうである。
これも少食だからできることである。あれだけお金持ちだというのに、びっくりする話だ。貧乏人の大食いは立場がない。
エジソンも同じ理由で少食だったという。眠くならないだけの量にセーブするために、仕事しながらパンを握りしめて、その手からはみ出た分だけを口に入れていたらしい。……笑。
しかし、仕事のためだからといって、食べずにいられるものだろうか?
おそらくこれは、絵だからだと思う。他のことではたぶん耐えられない。絵を描いているときは空腹にならない。あるいは、プラモデル等の模型作り、裁縫、プログラミング、物理実験などの没頭するタイプの作業は、空腹を感じない。
ゲームは難しいところだ。YouTube視聴より能動的だから空腹は感じにくいだろうが、ムービーシーンとかになると食べてしまいたくなるのではないか。
少食にして、睡眠時間を減らしても平気になり、その有り余った時間を自己実現に向けることができたら最強であるが、頭を使うとお腹が空くので、結局どうしても、字を書いたり絵を描いたりする方向に向かってしまうのである。
別にいまさら漫画家になるつもりはない。もうすぐ35歳になる。ただ絵が描けるようになれば発信の幅が広がるし、文章にも活かせられる気がする。デッサンを通じて文章に立体感が生まれるんじゃないかとも考えている。
まぁいちばんは、昔あれだけ努力したのに上手くならなかったのが、今は少し上手くなってきたから、それが楽しくて描いてばかりいたら、ブログ更新をさぼってしまったということだ。
イケハヤ先生が最近の動画で、もし今、情熱を抑えられないほどのやりたいことがあるなら、その情熱を優先した方がいいといっていた。
明らかにやった方がいいことだったり、いい金稼ぎだったり、優先した方がいいことがあったとしても、それでもいま無性にやりたいことがあるのだったら、それをやった方がいいと言っていた。いい話はその都度顔を変えてやってくるかもしれないけど、情熱は再び訪れるとは限らない。情熱だけはコントロールできないといっていた。
小生はなんとなくこの話に思うところがあった。だからもう少し更新をサボって絵を描こうと思っている(笑)なんだか今は無性に絵が描きたい。
線が決まる気持ちよさといったらない。字もそうだけど、あっここだなって思う線が見つかって、それを書けたときは気持ちいい。
絵を描く人が楽しんでるときの感覚はこういうことだったのか。この気持ちよさがずっとわからなかった。10年前は、絵を描くのが嫌で嫌で、無理しながら練習していた。
小生はずっと鈍感だったから、若いときは心の奥の信号を感じ取れなかった。真理の修業を通じて持ち帰ったものの最たるものは、このセンサーが鋭敏になったことだろうか。
昔は〇〇道といったふうに、芸事を通じて精神教育を図った。くだらない詰め込み教育よりも、やはり道と芸を通じさせる教育がいいと思うがね。ひとつを習熟させることで他の理解も進むようになる。
真理の勉強をしてからは、いろんな技能芸能の会得がはやくなった。得意なことはすごいスピードで上達するし、苦手なこともそれなりにマシになってくる。しかし得手不得手というものは逆らえず、絵はどこか不自由さが拭えない。運動系の方が素質があるようである。
もしかしたらサラリーマンに戻って仕事したら、今度は上手くやれるかもしれない。
ははは。
ぜって〜働かねーけど!