霊的修行

肥田春充先生に学ぶ、正中心一点における立禅について

姿勢について研究するなら、肥田春充先生が最適だろう。

なぜなら多くの霊的偉人は、神を見出す方法をその著書で、それぞれの語り口で述べているが、

『人間の最も正しい姿勢こそが神を見出す』と語っているのは、肥田氏をおいて他にいない。

この人はどんな霊的偉人よりも、はっきりしている。非常に幾何学的である。幾何学的過ぎて、真理を一点にまで絞りきって説明するまでに至っている。

俺が、「真理とは一点だ、神は一点だ、一点を追及するんだと、一点一点……」と口やかましくいうのは、この方の影響である。

真理がどこか一点にあるような、心の奥のはっきりとした位置座標であるようなことをぼんやり考えていたときに、肥田先生の本に出会って、やはり一点だったんだなぁと安心できたからである。

肥田先生は、正しい姿勢によって正しく神を悟れるという。その姿勢の分析が非常に鋭く、宮本武蔵の五輪の書や山岡鉄舟の剣禅話でさえ、ここまで姿勢について完璧に書かれていない。五輪の書では、天上から吊るされたような感覚と述べられているけれども、はっきり立禅を追求したい人からすると、少し心許ないだろう。絵も欲しいだろう。

実際多くの賢者は、心の在り方だけを説いて、姿勢に対してうるさく言わない。ラマナマハルシの写真や動画を見ると、姿勢が悪い写真ばっかりである。マザーテレサも祈りすぎたせいか、身体が曲がってしまっている。

身体が曲っていても祈りが届くのだから、必ずしも姿勢を完璧にすることが神を悟る方法ではないのかもしれないが、精神世界のどこを探しても神の一点を感知できないのであれば、肉体の一点からはじめたって間違いではないだろう。

しまるこブログはインチキブログ

ヨガナンダ先生が、神を知らない者が神を語ることは大罪に値すると話していたので、これは肝に銘じなければならない。

俺は、あーだこーだごちゃごちゃ言っているけど、本当は、悟りとは〇〇なのだとか、こうあるべきだとかは言うつもりはないし、言ってはいけないと思っている。

とくに人間の生き方はこうだとかいう命題を扱うことは畏れ多いし、本当は黙っていなければならない。どこぞのインフルエンサーのように恥ずかしげもなく口を開いてはならない。

世の中はどうしようもないくらいゴミな本で溢れていて、そのせいで肥田先生の本が地下深く埋もれてしまって、多くの人に取ってもらえないこと残念に思う。本屋に行けばすべて肥田先生の本しか売られてなくたって、全く不都合はないどころか、それが理想である。

しかし、俺もそのゴミをばら蒔いてネット上の本屋を汚している輩と変わらない。肥田先生に迷惑をかけている人間と変わらない。悟入する前に神を語ることは大罪に等しい。このように真理の浅瀬で溺れている人間が一番やっかいである。

これは何度も大声で言いたいことだが、『しまるこブログ』で真理を悟ろうなどとは思ってはいけない。

こんなクソみたいなブログを読まなくても、真理に達した聖者が残した本がいくらでもあるんだから、それをよく手に取って何度も読んだらいい。

このブログは単なる狂人の精神修行の一環である。霊的修行を通して得た感想や苦悩を、読み物として、こんな変な男がいるんだと楽しんでくれればいい。自分の記事を真実だと言ったり、急にインチキブログだと言い出したり、そんな狂人の狂言を眺めるブログなのである……! ただの娯楽である。それ以上のものを得られると思ってはならない。

数年後は知らないが、このブログが世間に認知されてないのは、非常に良いことだ。日の目が当たらないことに感謝しなければならない。少し前の記事ですら、デタラメなことしか書いてないのだから、昔の記事なんて読めたものじゃない。日記として恥を晒す為に残しているだけである。

本当に悟りたかったら、悟りに達した賢者の本を読んで瞑想するしかない。

瞑想

瞑想をネットで検索してみると、非常にふわふわしていて、ほとんどまともな知識が得られたものではない。

脳からα波が出るとか、集中力が上がるとか、5秒吸って10秒吐きましょうとか、背筋をピン伸ばしましょうとか。そんなのは「今日はいい天気ですね」といっているのと変わらない。

今では瞑想はポジティブシンキングやリラクゼーションと変わらず、もはやネイルアートや野菜ラーメンと同じような扱いになってしまっている。

ほとんどの人が瞑想をやっても続かない理由は、「あー何となく気持ちよかったなぁ」で終わってしまって、それが瞑想の目的でゴールだと思っているからだろう。

そうやって、ほとんどの人は姿勢を正し、ゆっくり座ったり、あるいは立ったりして、なんとなくリラックスして気持ちよかった。価値のある時間を過ごしたなぁと、自分勝手に解釈して終わらしてしまうのである。

深呼吸と同じ程度の価値しか見出せないから、やってもやらなくてもいいだろうということになってしまう。

人間は、はっきりしないものに対して続かない。

瞑想が神とつながる唯一の行為であり、神と一体となることが何よりも肝心で、一刻を急ぐ至上の命題だということを知らないのである。

すべての賢者が語る通り、自分の心の中に神が住んでいるとしたら、いったい心のどこに神がいるのか、探し出さなければならない。それが瞑想である。

それは極めて能動的な行為であり、決してただ落ち着けばいいなどという、眠りに似た行為ではない。

頭を空っぽにして座ってればいいと言われて、そんな風に言われて、ずっと座っていられるものではない。時間の無駄に感じてやめてしまうだろう。はっきりした気概を持って挑まなければ、すぐに飽きてしまうだろう。

偉大な宝玉を持ち帰ろうという目標を持って大海原に漕ぎださなければ、すぐに家に帰ってきてしまうだろう。

はっきりしたものとは、肥田先生が教えてくれる一点である。

つまり、この記事で言いたいことは、俺の言うことはどうでもいいから、肥田先生の言うことを聞けということだ。

肥田春充

というわけで、肥田先生の教えに預かろう。

一点に関する研究については、肥田先生以上のものはないだろう。

肥田先生は、ひたすら中心だけを追い求めた。

30かそこらで世俗をすべて捨て、たった一人伊豆の山奥に籠って、究極の一点をさがし求めた。

まずは古来からいわれている臍下丹田について、肥田先生は考え直した。丹田に気を静めろといわれるけれども、その丹田というものは何なのか? どこにあるのか? ヘソ下4センチといわれるけど、ずいぶん漠然としている……。

というわけで、にわかのおしゃべりはここまでにして、以降は肥田先生の言葉を引用する。

人体の中心を練磨することは、すべての体育法、運動法、健康法、養生法、衛生法の根底であり、基礎であり、本源であるとの確信を得るに至ったのであって、曖昧な抽象的な点は少しもない。

整った姿勢とは、何も手足を揃えて人形を立てたようにすることではない。すなわち、姿勢の正否は、中心=腰と腹とが正しい形にあるかどうかによって、分かれるものである。

肉体が物理的に重心の安定を得るところ、それがすなわち中心である。その中心に向かって、力学的無形なる球状の圧迫力を作ること、これすなわち中心力である。それに全精神全霊魂を集中統一させることによって、中心生命は活きてくる。

生命の中心に触れない思想、感情、哲学、神学が、宗教上、無意義無価値のものであるように、中心を基礎としない肉体の鍛練もまた、労多くして効果極めて薄弱である。

虚無の大気迫大精霊が、丹田に活躍して宇宙の心と契合するもの、これすなわち気合である。

さて気合とは、腰を据えて気海丹田に力を込めることである。「腰と腹との力」であり、解剖学的にいえば、「腹直筋の緊張…および椎骨と仙骨との接合点の反折」である。

すなわち、横隔膜の操練によって腹部諸器官を圧下するとともに、下腹筋肉を緊張させ、腰を落として、臍下のところに自ずから力が入るようにするのである。

機械的に正中心を定めて、この大活力と大歓喜とを得る。これこそすなわち、禅の極致、悟道の妙諦であることを、私は疑わなかった。禅の悟りといったところが、これより他にあるはずがない。私は私の正中心力、練磨の道を、一途に突進して得た、完全なる体勢を、そのまま禅にもっていってみた。しかして、それは全く同一のものであることが、わかったのである。

立禅の姿勢

①両足を、直角に踏み開いて立つ。(この練修には、鉄棒を持たない)

②両足爪先の間隔は、親指と中指とで計って四つ。すなわち、約七五センチメートル。

③腰を反り、腹をきめて、体重を両足の中央に落とす。

④上体は柔軟、両膝は、ピーンと伸ばす。

⑤眼光を決める。凝り固まるな、ゆったりせよ。

⑥両手の指を揃え、手のひらを上にして、両体側から上げながら、胸を充分に開いて息を吸い込む。

⑦スッカリ吸い込んだところで、両手をピシャッと合わせる。

⑧そのとき、顎は、両腕が上がるのと同時に仰いで、眼光は、両手指先を通じ、上体にそそぐ。

⑨呼吸停止、三秒間。

⑩呼吸停止間に、五指を組み合わせ、頭の上で小円を描いて、手のひらを上方に向け、両腕をグィッと真っすぐに伸ばす。

⑪息を吐きながら、組んだままの両手を、手のひらを前方に向け、腕を伸ばして、臍の前方まで下ろす。

⑫同時に、両膝を折り、下脚を地平に対して垂直にする。(膝が前へ出ないようにすることが大切、すなわち、体重が両足裏に平均に落ちて、爪先にも踵にも、内側にも外側にも片寄らないようにしなければならない。そうしないと、完全なる中心力ができない)

⑬上体は、垂直に下りる。前にも後ろにも傾かない。

⑭腕や肩に、力を入れない。鳩尾を折らない。

⑮そうすると、腹の真ん中を通過する垂直線と、臍を通過して地平に対して平行な直線とがなす所の直角を二等分した直線の方向、すなわち臍下丹田に向かって、引きしぼるような力がストッと動く。そして、下腹部をドカッと叩く。(これが、本当の中心力だ。その力の動き方が分からないのは、やり方が間違っていて、真の要領に合しないからだ。意志を用いて、下腹に力を入れるのではない。虚心淡懐、無我無心、ただ物理的に、これらの姿勢と動作と呼吸のやり方をすれば、自ら生理的に、下腹筋肉が緊張してくるのである。そしてそれは、重心の安定を得た、最も強固かつ楽な姿勢なので、精神も自ら、そこへ集中統一されるのである。これすなわち、肉体鍛練の極致であり、精神修養の奥秘である)

⑯上体は柔軟、正しい中心力のみ、渾然として大なる明玉の如く、腹と腰との中央に納まる。

⑰眼光は、パッと無邪気に、しっかり前方にそそぐ。

⑱息を吐いて、腰を下ろしたとき、ズーッと体を決める。(その際、息の吐き方、力の使い方、腰を下ろす動作が、自然に加速度的に行って、無理のないようにする)

⑲呼吸停止、三秒間。腹と腰とへ、等分の力を入れたままの状態。

⑳練修の終わりごとに、ピシャッと、両手で自然に両股を叩く。健康の精気、発々としてほとばしる。

以上を三回行う。運動時間、約三十秒。

天地正大の気、粋然として、この中心に集まる。

詳しいやり方はここに載っている。http://www.budoshop.co.jp/Hidashiki-guide.htm

今回の記事は紹介するだけになってしまって申し訳ない。俺の修行不足たる所以である。

色々語りたいことはあるが、今語ると、かえって間違いを誘うことになるだけだろうから紹介にとどめておく。

よくよく肥田先生の立禅を実践してみて、また改めて記事にする。

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