霊的修行

読者さんとの真我追求

きみひと

自分でまとめると言っておきながら、生産性とかなんとかなんだかよく訳がわからない事を言い、真摯にお答え頂いたにも関わらず、お礼が遅くなり大変申し訳ありませんでした。

私の突拍子もない質問についてですが、しまるこさんがそれを知った経緯、思う所、行っている霊的修行について教えて下さり有難うございました。
前へ前へと進み、直球で真っ直ぐなしまるこさんは、
寄り道さえしなければ、私などよりずっと早く目的地に辿り着き、修行が進んでいくと思います。

理屈ではなく、胸の光に焦点を宛ててそれを鋭敏にし、真っ直ぐに生きていく、
本当はこれが最も大切ですね。
どうか、これからも、胸の光を曇らせずいて下さればと願います。

しまるこさんは、芸術、スポーツ、書道、執筆から人生に至るまで、
精神と肉体両面からバランス良く修行を行っておられ、究極の一点に焦点を据えておられるあたり、すごいなと思います。

以前ご紹介させて頂いた本にあるように、
「結果として得られる心の純粋さが大切なのだ、修行は道具に過ぎない」
これが当て嵌まっておられますね。

結果が、内面の充実さを増して実りあるものとなるならば、
人のどんな道も間違いなどないのだと思います。
しまるこさんには、自分の全存在をかけて直球で行う純粋さを感じました。

お伝えしたい事はコメント欄でお話しているような気がしますが、
他に思う所があるとすれば、

「たったひとつの観念に自分を丸投げしたい。たったひとつの心の置き所さえ分かってしまえば、後はそこに頼っていればいいだけだから、人生が簡単になる。」
「外的要因や物質に頼らず、ただ精神の力で全てを解決する」
についてです。

精神の力で全てを解決するというのは、つまるところ究極の悟りの境地の状態だと思います。
究極の悟りの状態というのは、何処にも葛藤や曇りがなく自他の分離意識がない。
全ての存在、自然、生きとし生けるものの中に「わたし」がいる。

全てが「わたし」なのだから
鉛や毒を飲まされても害されなかったり、狂暴なライオンと仲良くなれたり、
迫害されても影響を受けなかったり、
自分の身が殺される事があっても喜んでそれを受け入れられる、
勿論、食べる食べないも自由。そんな境地かと思います。
私達が人間として生まれ生きる究極の目的地も、この境地なのだと思います。
すごいですね。

東洋の修行者のように聖者の下で過ごし、一直線に悟りを得たいですが
しかし私たちは生きているだけでも、遅くはありますが
死ぬまでの過程そのものが一歩一歩の進化と浄化の道程を歩んでいるのだと思います。

生まれてから死に至るまで、その人独自に実に様々な経験があり、
内面は混沌、萌芽、成長、収縮、崩壊を繰り返し、
死とともに今世の肉体と自我を一旦捨て去る。
そして次も再び新たな自分を経験し、脱ぎ捨て、それを繰り返し
ゆっくりと、心が織りなす幻影の世界を解いていく。

しまるこさんを見ていて思うのは、
ご自身の心は鏡の様に、人間の欠点や醜い点を見付け、突き付ける事ができる。
しかしマイナスな所に焦点を当てるが故に、
自分も他も分離させ、傷付け合うような所があるのではないかなという所です。

立ち顕われて来る外的環境に対して心を惑わされないようにして、
「怒り」が沸いて来ても自らを愛の光で満たし、全てを解決する、
外側の環境は本物ではないので、心の一点に集中すれば良い。
確かにそうかもしれません。
しかし、内面で悟りを得ていく過程において、
環境は良いとか悪いとかでもなく、活用し気付きを与えてくれるものなのだと思います。資本主義社会も、様々な問題は生み出しているものの、デメリットばかりではない。

あらゆる環境が、他の人が裁かずとももう既に顕われ行われています。
環境は否応なく内面に注意を向かわせる契機に過ぎないもの。
ひとりひとりを取り囲む人間のオーラは丸いですが、
そのシャボン玉のようなオーラの中に、外側の環境が映し出され、
私達はひとりひとり独自のシャボン玉の中で廻っており、
千差万別、その人独自の心の歩みの為に外的環境は造られている。
赤貧の中に生まれようと、障害が多くても、苦しみと問題の真っただ中にいても、
「悪い」訳ではない。
万物が我、調和がもたらされる為の手段としてプロセスが機能しているだけ。

ですから、外側にあるものを全て悪だと決めつけずに
自分の内面に集中すれば良いというだけでもなく、
「環境」は良くも悪くもなく「内面の旅の道筋」を表しているので、
私もですが投げやりになりがちな気持ちも、悲しみも壊してしまいたいものも
全部大切に出来たらいいなと思います。

アメリカの著名なヒーラー、セラピスト、
科学者でもあるバーバラ・アン・ブレナンさんの著書
『癒しの光』にはこのように書かれています。

『目的は前進する。
いわば、生きているのだ。
人の人生をひろく覆うだけでなく、今、この瞬間にも機能している。
そしてこの瞬間における人の目的はつねに人生の目的につながっており、
これはどのような状況においても変わらない。
自己の内面の神聖な意思は、
あらゆるほんの一瞬の間にも、
あらゆる大規模な時間の尺度においても機能しており、
また小さな行為にも大きな長期的プロジェクトにおいても機能している。
ホログラフィー的に機能して神聖な目的達成のために働く。』

しまるこさんが霊性修行のひとつとしてあげている「執筆」。
「始めから終わりまで、その一つの線で構成させることが出来たら、
果たして一体どんな物語になるのか。」と仰っていましたが、

どんな道を選択しようとも、例え間違いのように見えても、
ストップしていても、常に個人の人生の中で選択は続き、
そしてそれは同時に全体の、より大きな目的の為に、
前進しながら描かれて絵になる。
自分が想像する物語や絵とは、出来上がりは違うかもしれませんが、
絵は描かれていく。
人生の歩みと創造、芸術はひとつ。
とても面白いですね!

あと、精神の力で食欲も乗り越えようとしているとの事ですが
かのお釈迦様も中庸を説いておられました。
どうぞ無理せずに頂ければと思います。

しまるこ

東洋の修行者のように聖者の下で過ごし、一直線に悟りを得たいですがしかし私たちは生きているだけでも、遅くはありますが
死ぬまでの過程そのものが一歩一歩の進化と浄化の道程を歩んでいるのだと思います。

私も山にこもって師匠の下で修行したいですが、その人の霊的段階に従って必要なものは必要なだけ与えられると、ある聖者が語っていたのを思い出さずにいられません。望みもしないのに、いやいやインドの山奥に連れてかれて修行させられた人もいます、中村天風先生とか。仏の門をくぐらずとも、一人田舎で孤独な修行を通じて大吾した人もいます、肥田春充先生とか。鉄筋コンクリートとパソコンに囲まれて大吾した人もいることでしょう。

その人独自の心の歩みの為に外的環境は造られている。

その通りかもしれません。私も今この環境で奮闘しようと思います。実際この場所で、きみひとさんに出会えたのですから。これも神の計画なのでしょう。

しまるこさんを見ていて思うのは、
ご自身の心は鏡の様に、人間の欠点や醜い点を見付け、突き付ける事ができる。
しかしマイナスな所に焦点を当てるが故に、
自分も他も分離させ、傷付け合うような所があるのではないかなという所です。

(笑)
これはこのブログの読者さんも思っていることでしょう(笑)お前、悟り開きたいとか言って女の悪口言ってるだけじゃねーかと。

私は記事の外に出るとまったく人の悪口は言わなくなりますが、記事だと表現できる限り悪口を言ってやろうと思っています。作品がそれを求めている気がするし、読者も求めているような気がします。私は鉛筆に徹して表現されるべきものを表現しようと思っています。

といっても今の現状は褒められたものじゃありません。暴れ方が下手クソだから、うだうだ言わせる余地を許してしまうのでしょう(別に誰も言ってないけどw)。サーバーごと破壊するくらい暴れて誰も何も言えなくしてしまえばいいと思っています。表現されるべきものを表現するとは、そういうことだと思っています。

外側にあるものを全て悪だと決めつけずに自分の内面に集中すれば良いというだけでもなく、「環境」は良くも悪くもなく「内面の旅の道筋」を表しているので、
私もですが投げやりになりがちな気持ちも、悲しみも壊してしまいたいものも全部大切に出来たらいいなと思います。

私は上級ミニマリストなので、いかに荷物を減らすかばかり囚われて、心さえも捨てようとしています。心を女の悪口で包んで投下しているゴミ箱がこのブログです。

愛は自己放棄の中に瞬間的に生まれるものだと思っています。これは、きみひとさんと正反対の意見のようですが、

自己の内面の神聖な意思は、あらゆるほんの一瞬の間にも、あらゆる大規模な時間の尺度においても機能しており、

さらに進んで大局的な視点から見たら、変わりはないような。

今を全体として語っている聖者はいます。前世の記憶を語ったり、霊界を行き来したり、自分の死期を完璧に予知してそのまま逝ったりと。知識ではなく、体験で語っているのは信じられませんが、きみひとさんがお話されている時間軸を知覚し体現されているように思えます。いや、拡大解釈し過ぎかな。

どんな道を選択しようとも、例え間違いのように見えても、ストップしていても、常に個人の人生の中で選択は続き、
そしてそれは同時に全体の、より大きな目的の為に、前進しながら描かれて絵になる。
自分が想像する物語や絵とは、出来上がりは違うかもしれませんが、
絵は描かれていく。

確かに、目に映るすべての人がそんな顔をされています。

あと、精神の力で食欲も乗り越えようとしているとの事ですが
かのお釈迦様も中庸を説いておられました。
どうぞ無理せずに頂ければと思います。

不食はちと厳しいですが、くだらないジャンクフードや、生きていくのに必要量以上は摂らないよう心掛けたいです。最近狂ったようにモスバーガーを食べてしまいましたw 中庸どころか、極端から極端へ走ってますね。人々が考えている中庸は、お釈迦様の中庸と相違がありそうです。

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