霊的修行

しまるこが真我実現のためにやっている霊的修行のまとめ

きみひと

真面目な話になりますが、私はしまるこさんのブログで、
「真我以外は幻想」「人間は習慣と性癖の蓄積」ここに大変惹かれました。
性別の枠など越えて普通に話がしたいのです。
「どうしてわかったの?」が素直な感想です。
人間は変化し移ろいゆく社会や人に心を目まぐるしく奪われ、物質社会は現実ですが、一方で真実ではない。
でもそれはなかなか解らず、人は日々盲目で飢え、安心する事なく求めて止まずに生きています。

そして、いつ始まったとも知れぬこの世ですが
流転するこの現象世界は、過去から現在という因果関係の蓄積そのもので、
過去の蓄積である私達は、知らぬ間に過去の自分に引っ張られ、自分自身が重荷・苦しみであるかのよう生きています。

ですが、人の”意識”が、現象の中心にある、真珠の様な真っ白な真我といわれるものに帰還することで、廻り続ける輪廻の重荷が下ろされ、過去から自由になれる。
中心である真我に安住する者は至福・歓喜そのものとなり、
過去の罪は消えないけれど、永久に根絶やしにする事が出来る。

しかし真我への旅路は、誰かと一緒に到達するものでもなく、
完全に孤独な、個人個人の経験になります。

↑本など読んで、理屈ではこうだとわかります。
が、霊眼で観るなどは全く至っておらず

パラマハンサ・ヨガナンダ『あるヨギの自叙伝』は言わずと知れた大変な名作ですよね。
スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ・木村慧心『魂の科学』これは、物理的身体だけではなく霊視で肉体の内部構造まで観察しており、希で興味深いです。

長々すみません。大病を患っている訳ではないものの、人生とはいつどうなるか解らず。全部うやむやに流そうかとも思いましたが書きました。

しまるこ

きみひとさん。コメントありがとうございます。

>スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ・木村慧心『魂の科学』これは、物理的身体だけではなく霊視で肉体の内部構造まで観察しており、希で興味深いです。

素晴らしい情報を頂きました。施術士の端くれとしては目を通さずにはいられません。とくに、霊視で肉体の内部構造を看破しようと目論んでいる私にとって、今もっとも必要な本です。ありがとうございます。

私も世の中の瑣末な情報に惑わされて、最新の家電製品を調べるのが好きですが、結局は真我です。本当のところは、ここしか興味を持ってはいません。

私は昔から面倒くさがり屋だったので、たった一つの観念に、自分を丸投げしたいと思っていました。色々こうしてああしてと複雑に考えますと、疲れるばかりだし、うまくいきません。たった一つの心の置き所さえ分かってしまえば、あとはそこに頼っていればいいだけだから、人生が簡単になると思いました。そんな風に楽をしたくて、その一点を探そうと思っていました。

当時はボクシングに夢中になっていて、『正しいフォームに近づけば近づくほど、気持ちがよくて疲れない上に効果は絶大』という真理を発見し、それを人生に応用させたくなりました。20歳ぐらいだったと思います。その頃はまだ真我の存在について、何も知りませんでした。30歳くらいまで、ずっと知りませんでした。ただ、精神の立脚点を探していました。恋愛と仕事において妨げになることの方が多かったですが。

「あなたと付き合ってても何もメリットがない」と彼女に言われた話

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例えばピッチングなどで、球を投げるとき、体のどこかに力が入っていたり、バラバラに運動をしていたら、とてもじゃないけどいい球は投げられません。疲れるし嫌になるし身体も壊します。フォームが固まらないうちは、いくら投げても害があるだけです。というより力いっぱい投げられるものではありません。ゲームにも負けるでしょう。それは人生にも言えます。フォームが固まって、どこにも生命の流れを滞らすものがなければ、ゲームに勝利することができます。

真我というものがあると分かったのは、30歳のときに読んだラマナ・マハルシの『あるがままに』のおかげです。きみひとさんは、どうしてわかったのかとお尋ねになりましたけれども、決して独力で気づいたわけではありません(笑)

ラマナが言うには、真我に気づくには、自分は誰なのかと問い続けることだと言います。次点で有効なのは、サートヴィック(純粋)な食べ物を食べることだと言っています。

食物の質は心に影響を与える。心は「食べた食物」に依存するからだ。

習慣とは、環境に対する適応に過ぎない。重要なのは心である。実際のところ、心の訓練によって、ある特定の食物を美味しいと思わせることができる。菜食主義者の食事であろうとなかろうと、等しく食物は取られなければならない。しかし、心は慣れているもの、そして、美味しいと感じるような食物を望むものだ。

そして次に読んだのが、とあるヨギの自叙伝。作中のこの台詞が、人生で一番好きな言葉です。

あらゆる問題を瞑想によって解決しなさい。無益な思索によらず、神との霊交によって解決するよう努めなさい。心の中から教条主義的神学の垢を取り除いて、その代わりに、直覚という新鮮な癒しの水を組み入れなさい。自分の意識を内なる案内人に同調させれば、人生のあらゆる問題に対する答えを聞くことができる。人間は、自分の身の周りに悩みや問題を作り出す天才で、次々と作っては飽くことを知らないが、神もまた飽くことを知らぬ無限の救済者なのだ

さて、私が真我実現のためにやっていることを列挙しますと、

テニス
ボクシング
バットの素振り
書道
執筆
瞑想
出会い系
大喜利

となります。こうして見ると、スポーツと芸術活動が多いようです。これらは楽しいからやっているところも多分にありますけれども、私が宗教芸術一元論の立場を取っているからです。上のどの扉から入っていっても、行き着く先は、たった一つの同じ答えがあると確信しています。

宮本武蔵が五輪書で、多くの芸能芸術に触れて、道を極めていけと言っていたので、それぞれを連関させて修行しています。仕事もせずに。

テニス

マラソンは不思議なことに、空腹状態で、呼吸と心を限りなく静かにして、一番静かな一点にたどり着いて、そこから離れないようにすると、いくらでも走れてしまいます。走るのが趣味の友達よりもずっと速く、そして長距離を走れてしまいます。個人的には、マラソンよりもテニスの壁打ちの方が得るものが大きいと考えて、マラソンはやめてテニスの壁打ちを続けています。

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どうせランニングを趣味するならテニスの壁打ちにした方がいい

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完璧な角度で余すことなく体重が乗った一打は、胸の中心が光るような感覚を覚えます。私は真実を一点で捉えようとしているので、確かな一振をすることは、その一点を捉えている気がするのです。物質的に肉体上の正しい動きをすることは、精神界でも繋がって霊的満足を覚えます。これは答え合わせのようなものです。いくら瞑想や芸術活動を続けても、スポーツのようにはっきりと視覚化して正解が表れるものではありません。

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書道

昔は字が本当に下手くそだったんですけど、心の中心にあるものを線で書きたいと欲求が強くなり、書道を始めました。と言っても硬筆で、鉛筆で書いてるだけですけれども(笑)頭の中ではっきりとした映像を思い浮かべることが苦手なので、絵の方は下手なんですけれども、字はまあまあ上手くなってきました。といっても、見た目の上手い下手をどうこうしようとやっているわけではありません。精神の体重が余すことなく乗った完璧な線を捉えたくてやっています。

執筆

しまるこは毎日のように一生懸命記事を書いているけど、一体何のためにこいつは書いているんだろう? と思うかもしれませんが、これも真我の実現のためにやっています。

前回も、巨乳の女の子がクラスの男子達にエロ話されているところに出くわしてしまうという、いい歳して糞みたいな記事を書きましたが、あれも真我に迫る為です。人間の深層心理に光をあてて、その人の存在を明らかにすること、その人はいったい何者なのか、似顔絵を書き続けることで、霊視能力を開発していきたいのです。

ゴーギャンが「単純な、ごく単純な一本の線で絵を描きたい」と言っていたように、私も一つの線を見つけたい思っています。始めから終わりまで、その一つの線で構成させることができたら、果たして一体どんな物語になるのか、私自身がそれを読んでみたいから挑戦しています。

瞑想

瞑想は最近サボってばかりいます。しかし一番重要なのは瞑想に間違いありません。どんな霊的偉人もそう言います。もちろんヨガナンダ氏も(中村天風先生は、わざわざ部屋に座ってそんなことをしなくてもいい、日常の生活を瞑想の気分で生きればいいと言っていますが)。おそらく私はまだ霊的能力が低いために部屋でじっとしていられず、散歩したり、スポーツをやったり、温泉に行ったり、うろちょろしてしまうんだと思います。多くの人はじっとすることができないために、買ったり食ったり欲望の消化に忙しく、不幸となります。瞑想に至上の喜びを見いだせるようになれば、私はずっと高いステージにいけると、そう思いながらも、サボってばかりいます。

出会い系

出会い系においても、霊視だと思っています。武道の達人が霊視で相手の動きが手に取るように分かるように、私も女というものを完全に見極めたいと思っています。よくある恋愛本のマニュアル通りやっても、どうってことはありません。男女の間にある空間は生き物だから、その瞬間の中で正解が見えていないことには話になりません。女性も自分が何者かを知りたがっているから、本当の彼女の姿を見ながら会話ができなければ、男として一人前とは言えません。

ゴーギャンは無名の貧乏画家でありながらも、どこに行ってもモテました。女に不自由することはなかったと言っています。ピカソも高齢なのに愛人が数人いました。芸術家がモテるのは、その人の存在を明らかにできるからだと思います。普段からその人の真の姿を描いているから、目が肥えてくるのでしょう。
「君の正体は〇〇なんだ」と説教臭く言わなくても、真理の波動が目から出ていて、モテてしまうんでしょう。そういう人間になりたいと思っています。そういう人間になれば、出会い系で乱獲できるでしょう。別に乱獲しようと思ってませんが、乱獲できるぐらいの力は、男として持ち合わせていたいものです。

大喜利

たまにこうして自分の答えが採用されることもありますが、大賞をとったことはないので、もっと煮詰めなければなりません。

大喜利も、一つの線、あるいは点、点でも線でもどちらでもいいことですが、瞬間的な一条の光を捉えるための修行としてやっています。文章も、大喜利の連続です。最も必要とされる言葉、表現されなければならない言葉を探す旅です。記事自体が完成したとしても、表現されるべき正しい一文が見つからないために投稿できないことが多く、毎日更新をできず恥ずかしい限りです。大喜利を勉強することは、ユーモアに欠けてつまらない文章を書いてしまう人間に一番いい処方箋になると思います。結局、一言で面白いことが言えない男は、これも一人前とは言えません。

まとめ

結局、私は真我を、たった一つの光の存在のように思っています。上に挙げた行動を通じて、胸がパッと光った時、神の存在を感じるのです。その光を大きく、そしてもっとはっきり見える頃には、それだけ真我に近づけると考えます。

ラマナ・マハルシの言う通り、私は誰なのか、それを問い続けることが、一番真我の実現が早いのかもしれません。考えたり感じたりするのは誰なのか? 考えたり感じたりするのはどこからやってくるのか? その原点を見続けなさい。とラマナが言った通り、ひたすらそれをやった方がいいのかもしれませんが、勝手に自己流で真我を探してしまっています。私が今、真我について語れることはこれぐらいです。

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