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この劇場型記事も終演を迎えたようです

投稿日:2020-01-14 更新日:

今回の小説投稿サイト一連の記事は、敵味方、清濁併せ呑んで作ったような、大衆演劇のようでした。

なんと、ここ数日はアクセス数がいつもの倍になってます。皆さん、こういう荒れ狂った話が好きなのかもしれませんね(笑)でも、この辺りが潮時です。

皆さんから色々な感想を頂きまして嬉しく思います。『誰が悪いのか悪くないのか』『しまるこは善玉か悪玉か』『痛々しい』『行間を読ませようとしている』『テーマがよくわからない』『芸術とは』等、考えさせられることがありました。

作品(小説投稿サイトという、信じられないほど狂った世界)の中で全部語り終えているから、もう語ることはないし、劇場型作品の最後に作者がしゃしゃり出てきて解説をするほど興ざめはありません。しかし、最後までお付き合いしてくれた皆さんに、感謝の気持ちとして鮭茶漬けのような締めの言葉を語らせてください。だらだらと長くなってしまいましたので、ビールでも用意してゆっくり読んでください。

さて、なぜこのブログ内だけの公開とせず、わざわざ彼らにこの作品を見せにいったのかというと、初めから彼らに見せるために作ったからです。

以下を目的に作りました。

1、サイトの投稿作品と彼らのコメントを題材にすること

2、関係のない人が見ても面白いこと

3、再現性があること

4、「そのやり方があったか!」と彼らがしまるこに感謝すること

1は、彼らに自分たちのコメントを小説にしろと勧めても、そんな話で本当に面白くなるの? 実際に作って見せてよという流れになるのは必然です。だから前もって作品を作っておく必要がありました。普段から彼らを観察していたから、形にできる自信はありました。

しかし、重要なのは2です。小説投稿サイトの人達とまったく関係のない、いわゆる一般人が読んで(みなさんが一般人なのか少し疑問ですが笑)、面白いと思われなければなりません。当事者しか満足できないものだったら、勧める意味がなくなってしまいます。幸運なことに、このブログではなかなかの反響があり、作品に説得力を持たせることができました。

3は残念ながら失敗です。投稿作品の抜粋とコメントをコピペして、あとは描写を加えて深堀りすればいいと彼らに説明しましたが(私が実際にやった方法)、残念ながら興味を持ってもらえませんでした。

4も失敗です。感謝されるどころか訴えられそうになりました。

私はプロじゃないですし、その人がプロになるとかならないとかもどうでもよくて、楽しく文章を書ければそれでいいと思っています。物書きにとって、これほど幸せなことはありません。彼らもそれをよく知っています。一日中サイトに張りついて楽しくコメント書いてますから。小説を書かずに。

彼らの人生の目的はコメントを書くことではないはずです。そして、彼らが苦しんでいるのは、プロになれないからではなくて、小説が書けないからです。

『いまのところ、小説の文章は、自分の生き方にくさびを打ち込むような感覚で、苦行のように書き込んでいる姿勢が自分にあるから、ああいう形になってしまってるんだと思います。ふだんの生き方がかなり前向きなので、書くものについては地歩を固めるというか、かなり慎重に、自分を縛ってみたり、がちがちにしてみたり、ネガティブに近い物を含ませながら、自分にセーブをかけながら書いているという意識があります』

『私は執筆量も少ないし、きちんと完成させた作品もほとんどありません。小説を書くための初歩的なこともわかってません。公募に出せるような代物を書く力は私にはありません。
誤字脱字も多いですし、語句の用法もよく間違えますし、語彙も少ないし、お恥ずかしい限りです。
だから使い方に自信のない漢字や熟語、語句は調べますし、何度も読み返して手直しして推敲を重ねています。少しでも読みやすい文章になるようにと。
でも読み返すたびにアラが見つかり、何度も手直ししているので、量産できません。我が子を手塩にかけて育てている感覚です』

と彼らは話してくれました。やっぱりなと思いました。彼らの作品を見ていると、鈍重な筆を頑張って動かそうとしているのが手に取るようにわかったからです。10年も20年も悩んでいるようです。私も20代はずっと悩んでいたからよくわかります。おそらくこれは物書きなら誰もが通る道でしょう。

物書きは量産できるかが重要になってきます。別に経済的な理由からではありません。例え駄文だとしても、いつも文章が内側から溢れ出していたら、これほど幸福なことはないからです。話すことが尽きず、いつまでも友達と長電話していたくなるのと同じかもしれません。私が人生で得たものの中で、この感覚を手にできたことが一番の宝物です。物書きだったら間違いありません。

それは決して難しいことではありません。その人がその人らしい生活をしているときに、いつだって生まれているのです。私は生活の中で、その瞬間に正直に思ったことや感じたことをGoogle keepにメモしていますが、記事として投稿する時は、これらをただ整理するだけです。

この方法は、加藤諦三さんの本と、以下の文章から学びました。

『ドワイト・ L・ムーディは、宗教史に残るその数々の演説を、どのように準備したのでしょうか?  そう聞かれて、「秘訣などまったくありません」と彼は次のように話しています。「何か一つの題材を選んだら、まず大きな封筒の表にその題名を書きます。私の手元には、そんな封筒がたくさんあります。どの題材についてであれ、本を読んでいてこれはというものにぶつかったら、それをメモして該当する封筒に入れてそのままにしておきます。またいつもノートを持ち歩いていて、人の説教の中に、どれかの題材を解明してくれそうなものを耳にしたら、書きとめてそのメモを封筒に入れます。そして、たぶん一年あるいはそれ以上もそのまま放っておくんです。新しい説教の文句が必要になると、ためてあったものを全部引っ張り出してきます。封筒の中身と自分の勉強の成果を合わせれば、それで素材は十分。あとは、こっちを削ってあっちで加えるといった調子で、絶えず自分の説教の原稿に手直しをしていくので、決して内容が古くなることなどありません』

『父(ヴィクトル・ユゴー)はほんのささいなこと──よく眠れたとか、なにか飲むものをくれ、とかいう会話以外のすべて──を一言いうたびに、メモ帳を取り出し、いま自分がいったことを書きとめた。なにひとつ取りこぼさなかったし、そのすべてが活字になる。だから、息子たちが父のいったことを自分の作品に使おうとしたら、必ず見破られてしまう。自分たちがメモしたことはすべて、父の本が出たときに、もう世に出てしまっているのだから』

変な作品より、上の二つを見せた方が良かったかもしれません。でもそれじゃあ芸がないでしょう?(笑)

作品なんてものは日常のつぶやきをまとめれば出来上がるんです。今だって、私がこの記事を書いているのは、機会詩を重視しているからです。今だけです。今なら言葉が生きているけど、今を過ぎれば死にます。彼らのコメントの瞬間芸と同じ理屈です。

『今この瞬間を生きる』というスピリチュアルワードがありますが、あれです。人は皆、今できることをやらないで遠くの大きなことをやろうとするから苦悩します。彼らの文章の中にそれを見ました。

コメントだと瞬間的な瑞々しさと正直さに溢れているのに、作品だと冗長と嘘に溢れてしまいます。自分を開示するのではなくて、創ってしまうからでしょう。

この理論は作品に限ったことではありません。日常生活にも言えることです。誰もが毎日を正直に生きることは、それはその人の最高の生命力を発揮することになります。文章どうこうではないのです。文章を書くことも生活することも変わりません。もしその人が、自分の人生を正直に生きることができたら、それ以上の芸術はありません。

しかし正直でいることは難しく、よっぽど自分の心の『ある一点』に注意していないと、すぐに曲がっていってしまいます。

私は正直の奥に神を見ます。神がこんな悪魔的な作品を作るかと思いになるかもしれませんが、私は自分で読み返してみて、これは親切な作品だと思っています。

特定の個人を傷つけようという意思はなかったのですが、全体を面白おかしくしてやろうという気持ちは多分にありました。それは自分が楽しむ為でもありましたが、作品が説教臭くなるのが嫌だったからです。だから、彼らが怒るのは当たり前のことです。本当に彼らへの愛情から来ていたとしたら、こんな結果にはなっていません。

訴える訴えない云々はどちらでもいいことです。きみひとさんの言う通り、本人からの削除要請があったら対応すればいいやと思っています。作者はボロクソに叩かれて雪山に遭難してしまい、現在行方不明なので、無事救出されたら……の話ですが。

でも、もう疲れたのでいいです。結局誰一人にも伝わりませんでした。作品はその人が好きに創ればいいだけのことだから、余計なおせっかいでした。まぁ、はじめから本当は知ったこっちゃありません。こういう結末になることもなんとなく予想ついてました。私の場合はたった一冊の本で悟ることができたけど、なかなか上手くはいかないですね。

コメント欄では、やれここの文章が変だとか固いとか古いとか下手だの小さな部分をあげつらっていますが、利益になるどころか喧嘩になっているだけです。でも、その喧嘩が作品となり得るから、作品にして見せた方がよっぽどいいアドバイスになると思いました。

と言っても、本気で彼らを変えようとは思っていませんでした。他人の創作態度を無理やり変えようとしたり、自分の創作法を押し付けるのは、無粋だし下品です。ただ、彼らのコメント(日常会話)は作品より面白いのは確かだし(このクソみたいなブログのアクセス数を倍にしましたからね……!)、作家になりたいのに、原稿ではなくコメント欄に向かってしまうのであれば、それを小説にしたらいいと思っただけです。

私だったらこうやって作るのになぁと思って実験してみただけです。暇人の遊びです。

結局、人間は出会う時に出会う人や言葉があって、他人がどうこう出来る問題じゃないということがよく分かりました。真実に気づくよりも、真実を伝える方がずっと難しい。

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