印刷工場の情報処理部は本当に空気が悪く、初めてこの部門に訪れた人間は、ブラック企業ここに極まれりという顔をする。印刷物なんてものはジャンプだけが必要であって、それ以外は地球を汚す用しかなさない。つまり彼らは一生懸命働けば働くほど人に迷惑をかけているのである。
この部署は、古紙のように長い年月をかけて、シワ、シミ、ヤブレができていった。大幹に「そもそも働きたくない」という問題があって、そこからだんだんと枝分かれが進んでいって、一番先っぽの尖っている部分の問題が、派遣社員のいじめだった。
全体の2割程度が派遣社員だった。彼らの特徴といえば、みんな泥棒のような格好をして、色褪せたチェックの服や、オシャレを目的としない破けたジーンズを履き、肌が浅黒く禿げていて、歯が欠けていた。なぜか細い人だけはいなくて、食事は好きな物を三食食べていそうだった。年齢は四十〜五十代ぐらいが多く、性格は謙虚で優しい人が多かった。
彼らは社員よりずっとよく働いた。一つひとつの動きがキビキビしているし、はっきり大きな声で返事をする。無駄口を叩かない。この労働力をここでしか活かせないのが残念だった。これを学生時代の勉強に活かしていれば公務員試験ぐらいはらくらく突破できたように思えたが。
「〜〜やって」「〜〜しといて」と年下の社員たちから乱暴の口の聞き方をされていた。社員たちは全員高卒上がりで、みんな20代前半くらいの年齢だった。派遣のおじさんたちからすると、およそ半分の年齢だった。
中心にいる社員が派遣に対して高圧的な態度をとると、その周りも一緒になって高圧的な態度を取る。というより、そうせざるをえなくなる。自分だけ派遣に優しくすると、それは間接的に先輩のやり方を否定することになるし、お前は派遣寄りなのかと問いただされることになる。組織の中だと、ただ人に優しくすることに、勇気が必要になる。
いったって、派遣と社員の間に大した給料の変わりはない。むしろ、派遣の方が多い。この工場は手取りが15万でボーナスは缶ビール2本だったから、これより悪い条件を探す方が難しい。むしろ社員であることの方が恥ずかしいことなのだ。
そして仕事内容もほぼ変わらない。いったん機械が動いてしまえば、後はただ部材を乗せたり、流れてくる製品を検品し続けるだけだ。30分くらいは派遣と違うことをやるかもしれないが、7時間は同じことをやる。そしてその30分の仕事も、責任問題で派遣はやってはいけないだけで、教えさえすればその場で覚えられるものだったから、通りすがりのサラリーマンですらもできる仕事だった。
派遣の人たちは、彼らしかいないときの間でも、社員の悪口を言うことはなかった。社員がいないときでも、さん付けで呼んでいた。家に帰ってもさん付けで呼んでいそうだった。怒られたり、いじめられたりしている人間は、その人に強く心臓を握られているかのように、その人のいないところでも悪口を言わないから、外に漏れるのを案じて言わないわけではないから、根が深い問題だ。
俺も一応社員だから、俺のいないところで集まって言ってるのかと思えば、そういうこともなさそうだった。そんなところはとっくの昔に通り越しているようだった。そして、それでも、社員たちに明るい笑顔で対応していた。善一点で戦っていた。それは媚びるためではなく、回りまわって、いちばん楽なようだった。
派遣のおじさんたちは、俺にはよく話しかけてきた。俺は命令口調をやらなかったし、浮いていたから、話しかけやすかったんだろう。
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城之内さんは、いつも黄色の薄い色褪せたチェックの服を着ていた。頭皮は日照あがっていて、油がうっすら浮いていた。その上にキャップを被るから、衛生的によくなさそうだった。目がクリッと大きく光っていて、子供のような絢爛な輝きをしていた。肌が浅黒く、芋類のような土を被ったような外見をしていた。
白い軍手をいつもしていたが、ずいぶん使い込んでいるようで、それを白と言うには白に失礼だった。しかし茶色と言うには茶色と言うほどのものでもなかった。他の派遣先でも使っているようで、汗や汚れが染み込んで、どれだけ洗濯してももう元の姿に戻ることは適わなそうだった。
俺はいつもその軍手を見るたびに、一体どんな匂いがするんだろう……と、しばし作業の手を止められた。
当時、俺は風呂に入るとき、パンツを脱いで洗濯カゴに入れる前に、そのパンツの一番クサイ部分を嗅ぐということをしていた。1日の仕事の疲れがいっぱいに立ち込めた、キンタマの裏が密着し続けて、こんもりと汗とシミで湿っている一番臭い部分を鼻に押し付けて、スうぅ………ッ!! と一気に吸い込んで、グハあぁ……ッ!! と頭をクラクラさせるのが好きだった。
嗅ぎたくないけど嗅ぎたくなる、というやつか。城之内さんの軍手は、きっと俺のパンツじゃとても敵わないほどの信じられないパワーを秘めているに違いないと思っていた。
城之内さんは「しまるこくん、おはよう! 今日は仕事少ないね〜」といった風に、よく話しかけてきてくれた。俺は自分から話すことはなかったけど、城之内さんに話しかけられるといつも応じていた。城之内さんは笑顔が眩しくて、浅黒い外見とは裏腹に声がとても高くてキンキンしていた。その笑顔と発声で、いつも疲れが吹き飛んだ。たまに長く話していると、一緒に怒られた。社員たちは、なんでしまるこは俺たちと話さないくせに派遣と話すんだろう? という顔をしていた。
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ある日、 ちょうどいいところに城之内さんの軍手が落ちていた。落ちていたというより、机の上に置いてあった。城之内さんはトイレに行く時、軍手を机の上に置いていくのが常だった。
俺は、どうせ嗅ぐのであれば、城之内さんがトイレに向かった直後がいいと思っていた。戻ってくるまでの時間を稼げるからだ。
そうはいっても、俺と機長と派遣の三人で機械をまわしていたので、城之内さんがトイレに行ってしまったら、俺はその間二人分の仕事をしなければならなくなる。今は俺と機長しかいなかったが、ちょうどトラブルを起こして、機長が印刷機とにらめっこしてたから、ここしかないと思った。
いつもは、トイレに行くときは報告し合って行くことに決まっていたが、城之内さんがそうしなかったのは、機械が長らく停まっていたからだろう。俺はぼーっとしすぎていて、機械が動いてるのか停まってるのかわかってないまま仕事をすることがあった。
正直、いつ城之内さんがトイレに行ったのかはわからなかったけど、俺の勘は「まだ戻ってこない」と告げていた。
最後にもう一度機長の方を確認すると、点検で忙しそうで、全く俺の方を気にする様子はなかった。
俺はさっと取って、さっと吸った。後頭部を殴られたような、頭の裏側まで突き刺すような強烈なものが通り過ぎた。この世で一番すっぱいものと甘いものを同時に吸った気がした。そのどちらも芯を食っていた。二つの極地に達したものが二重の螺旋状を交差しながら進んでいって、俺の後頭部を撃ち抜いたのである。
俺は1回嗅いだだけでは納得できず、もう少し緻密に調べたくなり、2回も3回も4回も嗅いだ。当然だが、続けて嗅いでにおいに慣れてしまってわからなくなってしまったので、いったん間を置いて、また吸った。そしてまた間を置いて、吸った。それが悪かった。
城之内さんに見られていた。いつから見られていたかわからなかった。
こういう時シャレが通じない人間は怖い。普段から馬鹿正直で、表も善、裏も善という一枚で出来上がっている人間は、簡単にオーバーフローしてしまう。脳の中に遊びのスペースがないから、俺の実験や好奇心を理解するゆとりがない。
城之内さんの顔は真っ赤になっていて、目が見開いて血走っていた。血管の一つひとつが、骨よりもはるかに強い輪郭を手にしたように浮かび上がっていた。
こんな顔をみたくなかった。いい大人を本気で怒らせてはいけない。一本気の快活な人は、怒るときもはっきり表れる。俺は仕事のミスをして信頼を失うことは多かったけど、 一緒に泥水を啜った仲間を裏切る真似だけはしたくなかった。
しかし、城之内さんはなぜ怒ったのだろう? 自分の手袋があまりにも臭そうだから、興味の対象に選ばれたことがわかったということか? わからなかった。でも、怒っていた。俺だったらどうだろう? 自分の手袋の匂いを嗅がれたらどんな気分になるんだろう? なんとなく、そういうことなんだろうなって、俺だったら、同族に出会った気分を覚えるけど、それを世間に求めるのは虫がよすぎるか。
(キミは違うと思っていたのに……! キミは他の社員と違って、命令口調や高圧的な態度をとらないし、いつも話しかけるとにこやかに返してくれた! 社員よりこちら側の人間だと思っていたのに……! 社員たちが私たちに酷い態度をとるのに、キミは1人だけ抗った……! とても勇気がいることだと感心していたのに、まさか、キミは、他の社員より、よっぽど悪質だったなんて……!)
そんな声が聴こえたような気がした。謝りたかった。けど謝れなかった。謝っても理由を尋ねられただろう。俺は城之内さんを納得させられるだけの答えを持っていなかった。ちょっとだけ嗅いだのだったら誤魔化しも効くかもしれないけど、吸ったり間を置いてまた吸ったりしといて、何を謝るというのだろう?
城之内さんは何も言わなかった。怒った顔で仕事をしていた。普段どれだけ若造に横柄な態度を取られても怒らなかったのに、手袋の匂いを嗅がれると怒るんだ、と思った。