食べ物に関する研究・美容・健康

「過食にはそれともうひとつ、自殺行為の側面があると思うのです」

40年間ほど玄米菜食をしている人のブログがあって、考えさせられる一文があったのでコピペする。

私の経験から言えば、例えばそれまで肉食をしてきた人が、いきなりタンパク質を絶ったとすれば、多くの場合、しばらくはタンパク質とカルシウムの欠乏状態になります。なぜかというと、それまでの食習慣に最も適した腸内細菌叢ができているからであり、それを新しい食習慣に再構成するのに相応の時間がかかるからです。

私の場合、それを解消してくれたのが大豆でした。毎日豆腐や納豆、味噌といった大豆製品を常食することにより、肉魚なしにすんなりと玄米菜食に移行できました。またその状態をある程度の期間維持すれば、今度はそれほど大豆を食べなくても平気になります。このように、体の適応(この場合は腸内細菌叢の再構成)は、それ相応の時間がかかるものです。これを体質の変化と言います。

そして今、私はあらゆる食に関する制限を取り払って、ただ自分の食べたいものを自由に食べる生活をしています。しかし実際のところ、肉や砂糖を口にしたいとはほとんど思いません。あれほど若い頃肉好き、甘いもの好きだった自分が本当にウソのようです。断食をすることがガン・慢性病治療の王道ですが、断食が無理な場合は、必要最低限の栄養補給をしつつ異化作用を継続する必要があります。

ものの味は舌ではなく腸で感じるものだと思います。だからお腹の状態によって好みや味覚は大きく左右されますね。腸が機能してると体は食べ物にとても敏感に反応します(まるで自分の食べるべきものを理解している野生動物のように)。私も昔好物だったもので今はとても食べれないものがたくさんあるのですよ。

過食にはそれともうひとつ、自殺行為の側面があると思うのです

このことを誤解なく説明するためには記事ひとつ分くらいの長さが必要になりそうなので本文でもそれには触れなかったのですが、

簡略にいえば、大自然は弱体化した者、種の保持にマイナスとなる者を生かしておかないという原則を持っているのだと思います。

現代多くの人たちが化学物質の味を好むようになってるのは、それはもしかしたら無意識に自滅への道を辿ろうとしている表れなのかもしれない。そんなことを考えてしまいます。

これは個々の当事者にとってはもちろん悲劇なのですが、実は宇宙や自然界を構成する骨子とでもいうくらい大切なものではないかと思います。

自らの持つ攻撃心がまず自分自身を攻撃してしまう。現実はそれの具現化なのかもしれませんね。自分の持っているものは何よりも先に自身に対して使われる。愛も憎しみも……

アグリコ日記

俺より文章上手いでやんのw まぁこの方は70歳過ぎらしいから仕方ない。

しかし世の中に自分と同じ考えを持っている人を発見したときの喜びといったらない。この方は30歳の頃から玄米菜食をされているらしいから、こんなに頭がいいのだろう。

ここでいう破壊とは、脳梗塞や糖尿病などの食事からくる生活習慣病はもちろん、肉や化学物質、重金属の影響で神経系やシナプスや内分泌が狂ってしまって人格変化を起こすこと、つまり心身両方の意味で言っているのだろう。また、運を失って、事故や事件で命を失いやすくなることについても、言葉に気をつけながら述べている。俺もそう考えているから共感できてしまった。

人格変化により荒くなった気性は、一番身近な自分をまず傷つける。それは、ゆっくり自殺していることを意味するだろう。

大食漢は運を失うという水野南北の理論と一致している。我々は、生きている命を頂いて生きているのだから、多くの生き物を与奪すると神の怒りに触れるというのだろうか。それが脳梗塞なのか。運を失うとは神にふるい落とされることか。

我々は何を食べるべきか。そしてそれを決めたら、正確に守り通して、その後は食事のことを考えてはならない。後は習慣に任せてしまって、霊的修行と目の前の仕事に集中するのがいいと、ガンジーは言っている。

あまり食事のことを気にして生きるのは良くない。人間が食べていいものと食べてはならないもの、量の多寡をはっきりさせたら、食べ物のことは忘れてしまった方がいい。俺は今、食べ物のことを忘れるために食べ物を研究している。

しかし、それももうすぐ終わりだ。これを終えて、次のステップに行かなければならない。

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