多くの偉人や天才や今話題のインフルエンサーまで、口を揃えて言うのが「質より量」だ。
しのごの言わず、とにかくたくさん作れと言う。
それについては俺も同感だ。とにかくたくさん作ればどうにかなると思う。
モーツァルトは指が変形するぐらい楽譜を書き、今我々が耳にしている曲は、その膨大な作品の中のわずかだと言う。
ゴッホも、たかが10年の間に数千の作品を仕上げている。
ブロガー界のトップのイケダハヤト氏も、1日に5、6個の記事を仕上げている。
その世界のトップの人達は、圧倒的に生産量が違う。
では素人がそれを真似して生産量を増やそうと思っても、どうだろう。
まぁ、そう上手くはいかないだろう。
下手でも何でもいいからとにかく量だけは負けじと頑張ろうとしても、半分すら届かないだろう。
なぜうまくいかないかと言うと余計なことをするからだ。
みんなやる気や才能や知識や経験が欠けているからうまくいかないと思っているが、一番の理由は余計なことをするからだ。
イケダハヤト氏のブログはツイッターで呟いたことに、やや注釈を入れるだけだ。
そこらのブロガーは目次をしっかり書いたり、写真や動画や色んな素材を使って、フランス料理みたいに一生懸命味付けをしている。
何回も推敲を重ねたんだろうなと思う。
ひとつひとつにエネルギーを注ぎ込んでいる。
そんなことばかりしているから月に10個程度の記事しか書けないのだ。
生活の中でパッとひらめいたものをパッとその勢いで落とし込むこと。機会詩であること。フットワークの軽さや、手慣れさ、簡便さ。これらが欠けている。
席を立って動こうと思ったら、すぐそれを実行できるようなら自分の手足を操るような感覚やスピード感でなければいけない。
さあ作るぞと思い勇んで椅子に座ってノートパソコンの電源を入れて、たくさんのファイルを確認したり用意したり、いろんな素材やツールを駆使しているようではとてもじゃないけど、この情報社会に遅れを取るばかりではなく、一番最悪なのは自分自身のスピード感に遅れをとってしまうのだ。
手塚治虫がなぜあんなに素早く漫画を大量にかけたかと言うと、一コマ一コマがシンプルだからだ。
余計な書き込みをせず、必要最低限の情報で、簡単そうにキャラクターを動かして、漫画より文章を書いているような感覚で、寄せては返す波のように、優れたボクサーのようにあまり考えず、右のストレートが外れたら今度は左のフックを放ち、ボディをガードされたら今度はがら空きの顔面へと、その都度ら流れの中に見を置くように仕事をしている。
1枚絵を仕上げよういう意識はさらさらなく、ネームを描くような感じで漫画を書いているからあいうことができたんだろう。
そう、この表現が一番良かったかもしれない。ネームを描くようにして仕上げている。
高橋留美子がたった2日で1話を仕上げて、みんな驚いたり凄いとか言ったりするけど、そもそも「toloveる」と「うる星やつら」の漫画の描き方を比べてみて、どちらが早く描けそうか見れば分かるだろう。
高橋留美子の漫画は、ネームのようにキャラクターがそのまま動いて進んでいくスピード感がある。
問題は書き方なのだ。
方法にある。
「toloveる」なんかだと一枚一枚の絵を仕上げるかのように書いているけど、
高橋留美子や鳥山明や手塚治虫はネームのように書いている。
あまり大コマを使わず、コマの中のキャラクターが作者の意思ではなく、キャラクター自身の意思で動いているように見える。
あんまり自分で物語を考えていないんだろう。キャラクターが勝手に動いて、こうきたらこうなるといった感じでやってるんだろう。
流れをそのまま描き留めているような印象だ。
みんなこういう描き方をすればいいのにと思う。
エロ漫画家だけはしっかり書き込んでほしいが。
わざわざみんな大変そうな書き方をしているように思える。
七つの大罪の人もサラサラと簡単そうに描いている。
肝心な部分だけ描いて、あとは目もくれないぐらいの覚悟が必要だろう。
他のどんな仕事でも、パッとやってパッと終わらせられなければ駄目だ。
でなけりゃ大量生産何て出来っこない。
肝心なことだけをするのだ。後はどうだっていい。
ブログだったら音声入力でパッと書いて載せてしまえばいいし、動画だったら、さっさと撮影して余計な部分だけカットしてアップロードしてしまえばいい。
ここら辺はシバター氏の動画を見習うのがいいだろう。
編集に時間をかけてはいけない。スピルバーグもほとんどが一発取りだと言う。
その瞬間の感性を一発書きで終わらせてしまうのだ。
「質より量」という大量生産法とは編集に時間をかけないことを言う。