女性研究 霊的修行 恋愛

田中みな美と亀梨の結婚に対する考察

(田中みな実と亀梨和也の結婚についてどう思うかと問われて──)

悪いとは思いません。昔、私が初めて結婚式というものに出席したとき、それは姉が結婚した時のことでしたが──、たしか、私がまだ21の頃で、大学3年生の時でしたが、あの時、私は人生で初めて結婚式というものに参加しました。

その際、神父というものは、「あなたはここにいる〇〇を一生愛することを神に誓いますか?」「では、誓いのキスを……」ぐらいにしか話さないものかと思っていたら、わりと小一時間くらいの長い演説をしはじめて──、その内容のほとんどは忘れてしまいましたが、たった一つだけ覚えている言葉があります。「芸能人同士の結婚がいちばんよくない」「芸能人同士の結婚はダメ」と言っていて。まるで、一般人同士の結婚は芸能人同士の結婚でないからいい、というような態度で、私の姉夫婦の結婚式に臨んでいるように感じられ。まあ、彼もまた芸能人同士の結婚式に呼ばれたら、同じセリフを吐いたかどうかは分かりませんがね(笑)

田中みな実と亀梨の結婚ですか。以前、付き合っているというヤフーニュースを見たとき、ああ、これはお似合いだなと、すぐに私は思いましたよ。

田中みな実といえば、あの元彼との大恋愛以降、まともな恋愛ができていないことを自身でも告白していて、およそ芸能界における恋愛博士ともいわれるような立ち位置でありながら、知識だけは豊富で、実践においては、疑問符を投げかけられるような、およそスタンダールや、ラ・ロシュフコーに似た、知識ばかりが先立ってしまい、実践面での、恋愛における共同作業というところではうまくできない種なのではないかと思われる趣がありましたね。

田中みな実は、この時世において、一つの意義ある女性のあり方を示した稀有な例だと思いますよ。他の芸能人がいうとおり、例えば、ダウンタウンの松本氏が話していたとおり、その能力においては非凡なものがあって、業界中で噂になっていたとのことです。彼女自身は、仕事熱心ということもなく、女子アナとして最高の仕事をしてやろうという野心はなかったのことでしたが、能力においては、有り余るほどの力を持っていて、テレビに出れば、どんな女性タレントよりも面白く、機知に富み、男性芸能人たちは、ぜひ、田中みな実と共演したい! 田中みな実がいると助かる! と、声優界でいう山寺氏のように、困ったら田中みな実を呼べばいい、ということになっていたと聞きます。それはテレビで見ている視聴者からしても、勘がいい者だったら気づくところかもしれませんね。どんな仕事においても、最小の準備で最大の結果を出し、おそらく向いているということはこういうことを指すのでしょう。一時期、田中みなみがバラエティを席巻し、テレビで見ない日はありませんでしたが、一線を退いた後も、Yahoo!ニュースなど、グータンヌーポで話した言葉の切り抜きや、どこかでちょっと話した発言を切り取られ、毎日のようにヤフートピックスで槍玉に挙げられていましたね。

それだけ、世の中では、田中みな実という女性の動向が気になってしまう、目を離せない何かがあるようですね。容姿にしても、年齢にしては、あまり劣化を感じさせない、よほど努力しているんでしょう。確かに、女性というものは、年齢による劣化に逆らおうとして、とうとう自分の顔ではない何者かになってしまうことが少なくなく、そうした中で、綺麗でありながら、あまり老化を見せず、自分の顔を保っていられるのは稀有な例だと思いますよ。ほとんど作り物のような顔で、ホースの修繕箇所からピューピュー水が漏れ出ている、そんな歳の取り方をする芸能人女性が多い中で、田中みな実は自然です。綺麗なのに自然な歳な取り方をしている、MEGUMIだとか、小雪だとか、安達祐実とかとはまた違った老い方をしています、およそキラキラしている、それが作り物なのか、天然由来なのか、それを見定めたくなる何かがあるから人々は動向を追いたくなるんじゃないかと私は思いますね。田中みな実のその発言が鋭いからという意見はありそうだけれども、田中みな実が今話したような容姿でなかったら、きっと発言は注目されなかったように思うからです。

女子アナといえば、田中みな実が、いちばんキャッチーで、いちばん女子アナ界の主人公というか、ヒロインというか、THE女子アナというような、漫画界における悟空のように、いちばん主人公にあたる気がします。変に、女子アナをアイドル視したり、バラエティに頻回に出演するタレント化、そういったことは、田中みな実から始まったような気がします。時代の黎明において、どんな職業、職種においても、黎明期とともに登場してくる人間が、いつでも最後までその意味を持ち続けます。彼女が時代を作ったと、一般には考えられるかもしれないですが、厳密には、時代が彼女を作っている。こうした女性は、天がその造化の世界を彩る上で、一つの彩り、こんな花の種類も有るんだよ、というふうに、一つの遊び心を示した稀有な例だと思いますから。だけど、いつでも、その黎明とともに誕生したものだけが、最後まで完成の意味を持つ。ドラゴンクエストもそうだし、カップラーメンなんかも、あの日清の紙コップみたいなやつがやっぱり顔でしょう。最初に登場するものが、最後まで他を圧倒するすべてを持っているのです。これは、どの分野でも、同じです。

で、田中みな実の恋愛の能力ですね。この人もまた正直なところがあって、嘘を言わないところがいいですね。あの大恋愛に関しても、田中みな実の方が敗者という位置付けになっていますが、どう見ても、田中みな実の方が彼よりすべての点において上です。どうも、恋愛においては、いつでも能力が高い方が振られてしまう掟があるようですね。ほとんど全てにおいて田中みな実の方が勝っているというのに不思議なことです。まぁ、でも、その頃から、これまで、田中みな実の方の動向を世間が追いかけてしまうことが、その答えというか、彼女の方が優秀種である証拠になっているように思いますが。

私が、一つ、田中みな実の言葉として、いちばん記憶に残っているのは、不倫についてどう思うかと問われたとき、「ちゃんとした性生活があればいい」と答えていたものです。およそ簡単には離婚はしない。簡単には関係を諦めない。ちょっとやそっとの浮気や不倫をされたくらいで、すぐにギャーギャー泣き喚いたり、離婚したりする輩とは一味も二味も違うようです。

彼女は、浮気をされることは、半分は自分の方に原因がある、むしろ、どちらかといえば、自分の方に非があると思ってしまうとも話していました。なかなか、こんなふうに考えられる女性は少ないですよ。大体において綺麗な人ほどそう考える傾向にある。渡部の奥さんなんかもそうかもしれませんね、佐々木希でしたか。夫に女として魅力がないと思われることは、負け。女性にとって罪なことと考えているのでしょう。それで離婚になったとしても、その非は自分の方にあると。

「ちゃんとした性生活があればいい」というのは、そこからきているのだと思います。もし夫婦の間にちゃんとした性生活があって、その上で浮気をされたのであれば、構わないといっているのでしょう。それは、単に、男が精子をばらまきたいのであって、心までその不倫相手を好きになったわけではないからいいと言っているのです。この、"ちゃんとした"というものもミソです。ただ、夫婦のスキンシップの約束事として、習慣ごととして、マンネリに感じながらも無理にセックスをしているのではなく、ちゃんと、お互いが、心から求め合っているのであれば、他の女とセックスしてもいいといっているのです。およそ形式的なものにとらわれず、ただ、お互いが、性愛の部分でお互いに魅力を感じている、結婚生活においては、そのことが大事であり、形式的なものではなく、気持ちの面で、そのつながりがあれば、他のことは多めに見る、許す、ということなのでしょう。それだけ、結婚の生命の部分だけを見ているとも言えましょう。それがあっているにしろ、間違いにしろ、おそらく結婚生活を大切にしたいという想いから来ているのであって、その覚悟や想いのような大きさや強さが他の女性とは異なるように思うのです。それは相手に対していつまでも新鮮な風を持ち込ませたいという、彼女の女性としてのプライドからきているように思います。そんなふうに、行き過ぎた覚悟や大きさのようなものを、彼女から感じます。かえって、こうした、重さが、相手の男をして、重すぎるという理由で、別れてしまったことが、何度かあるようですが……。

さて、亀梨ですが。

亀梨も、なかなか悪くない男ですよ。

この男は、確か、福山のラジオに出演した時、「亀梨君はモテない(笑)僕と同じだからわかる(笑)」と福山に笑われていました。「亀梨君はきっと世間が思っているようなモテる男ではない、僕と同じ人種で、絶対モテない」と。

およそ福山といい、亀梨といい、世間ではこれ以上ないほど2枚目とされ、長らく、イケメンの代表格のように思われていたかもしれませんが、それが、そのまま、いうほどには女性関係に通ずるというわけにはいかないようです。

この手の男たちは、どこかちょっとカッコつけすぎてしまったり、奥手だったり、繊細すぎたり、自意識が強かったり、ナルシシズムが強く、いろいろ考えすぎてしまったり、意外に面倒くさいところがあって、女々しかったりするところがあるので、あまり恋愛というものとなると、思ったようにうまくいかなくなってしまうところがあるようです。あるいは、たった一人の女性と深い仲になるという、女性と溶け合ったりすることが、あまり得意ではない人種です。

およそ、その王子様的であろうとする、そのロマンチストな面が、美貌に磨きをかけ、他のいわゆる美男子よりもさらに美男子となりえ、その意識が、肌という肌、凛とした雰囲気に働きかけ、その美を賦活させることがかなうとされるわけですが、つまり、意識、この自意識、美意識が、そのまま美貌につながっているというわけですね。その意識が彼らの肉体を作っている以上、それは商売道具というわけにはなるのですが、その肉体のまま、女とデートしたり、恋愛できればよかったのですが、その糸を断ち切らねば、普通に女とデートしたり恋愛することはかなわなかったかもしれませんね。

女性という生き物は、現実的な生き物です。女性は、少女漫画からすると、いつも異性に対して憧れを抱いていて、白馬が乗った王子様をイメージしたり、おおよそスーツを着た、キザな、気取ったような男、優しかったり、二枚目だったり、なんでも仕事ができて、スマートな、というものを、確かに願望として持っているのでしょうが、実際方面としては、断然自分のタイプと違う男と結婚したり、付き合ったりしています。また、そういう男たちから満足を得ていることがわかるでしょう。

亀梨や福山が想像している女のイメージ、女性観、デート、女性の世界、女性の日常、いわゆる、彼らは、女性が欲しがっているとされるそれを、是非とも提供したいと思ってはいるのですが。どうも、ここに、食い違いのようなものがあるようです。

せっかく、ビジュアルがいい自分がこうしてデートしてやっているのだから、女はもっと喜ばなければならない。が、おかしい? あれ? 意外にも、あんまり喜んでねーな。俺がデートしてやっていて、俺がデートの男として、最適な、最高の空間を演出してやっているというのに、どうして、思っていたより喜ばないんだ? もっと喜んでいいはずなのに、そこまで俺を喜んでいるようには見えない……。

つまり、ビジュアル的にいいことをしてやろうと思っているのですが、つまり、綺麗な空間で、綺麗なものを食べて、綺麗なネックレスをプレゼントして、綺麗な車で、綺麗な表参道を歩いて、綺麗なデートをしてあげようとするですが、女性は意外にも普通に街を歩いて、普通の大してかっこよくない男と、普通のものを買って、普通の話をしているだけで、その恋愛の大部分、およそ恋愛の醍醐味というものをすでに果たし終えてしまっているところがあります。

すると、そんなに恋愛において綺麗なものは必要とされていないとも言い換えられるかもしれませんが、そんなことはありません。恋愛において綺麗なものは必要なのです。というより、これ以上必要なものはありません。恋愛はいつでも綺麗なものにつらぬかれているのです。

そうでなければ、世の中のほとんどの女性たちが、かっこよくない男と結婚したり、恋愛したりしていないでしょう。あれだけ、美の虜になり、美こそ全てで、関心なものは美だけで、美のアンバサダー、可愛いもの、綺麗なものに目がなく、美しいものを身につけ、女子高生ですら、あんなに可愛いサンリオだかのアクセサリーをカバンにつけています。やはり、いつでも、ああいったものに囲まれて、男でさえ、恋愛でさえ、ああいったものの延長でしかないことは拭えません。が、しかし、女性はそれ自体で、対象を美化することができてしまうのです。女性は、目にしたものをすべて美化することができてしまえます。というより、そうやって生活しています。男は、その対象を、一ミリ単位で、非常に細かく、ものを、形を、物理を、徹底的に細かく、うるさく、細々と見て、その価値を見定めようとしますが、女性は、ほとんどこれを観念でやっています。あまり、男のように、ミリ単位で、鼻が、口が、とはやらないのです。

これは、ほとんどイメージの問題であって、彼自身より、自分自身の中で映す彼の方がずっと重要な意味を持つのです。じっさい、そればかりを見ています。水商売や風俗などで、外見的にかっこよくない男たちと肉体関係を果たせてしまうことができてしまう理由もここからきています。あまり、肌が、粘膜が、とか、仔細な部分は置き去りにできてしまい、同じことを男がやろうと思っても無理です。男は一日中何人もかわいくない女とセックスするなんてことは、性機能という問題を抜きにしても、精神上、無理な話なのです。

それは、彼女たちの作品によく現れています。どんな、クソキャラ、ブサイクで、デクのぼうで、だめで、悪魔みたいな、どうしようもない醜いブサイクみたいな男でも、彼女たちが、それを演出するときというのは、いつでも、それほど悪くない、単なる普通の外見が、少し醜いくらいに脚色されています。じっさい、たいてい不細工を見ても、普通か普通以下に見えるし、それはほとんど脳の観念化作用によって、たいていのものは、実際のものよりも美しく見てしまっているからでしょう。だから、風俗嬢という仕事が務まるのです。

彼女たちは、いつもキラキラしたものに囲まれ、自分自身をキラキラ彩ったり、キラキラしたものを見ているなかで、キラキラしているものばかりを見ているので、ほとんど全ての、自分が地球を通り抜ける間隔の中で、全てがキラキラしているものとしてしか映らないところがあります。

私たち男が見ているように世界を見ておらず、大抵のものを美化してしまいます。歩く美化活動キャンペーンというやつですね。その自身の美化する能力によって、たいていのものは美化できてしまうから、そこまで、イケメンというものを必要としていないとも言えるし、いわゆる美男子とデートをしていて、美男子の特別の恩恵に預からなくても、いわゆる、普通の男とデートをしていれば、その美男子が与えてくれる恩恵に預かれることができてしまえます、それは自身の能力で! それは、無理にそうしているということはなくて、本当にそう思っているし、そうなってしまうのです。

亀梨や福山にとっては、これはあまり面白い話ではありません。女性にはもちろんこうしたイケメンとデートするのは嬉しいことだけど、こんなに、すごい持ち物を与えようと、すごいプレゼントやでと思っているところに、彼女らが思っているほどには喜ばないので、肩透かしを食らうはめになってしまいます。自身らイケメンを思うほどにはありがたがってくれない、それが、亀梨と福山にとっての共通の悩みでした。

こうした、ロマンチストの男にとっては、恋愛は一つの顔を持ちますが、女性にとって、恋愛は二つの顔を持ちます。

あるいは、男にとって、恋愛は一つの顔を持ち、女は恋愛に対して二つの顔を持っていると言えます。

この恋愛の顔の数が、問題となってくるのです。

質問者さんは、女性といえば、恋愛に対してすごくロマンチックなものを持っていて、月9なような恋愛を夢見ていて、甘い言葉や、切ない思いを胸に蓄えたりして、綺麗でありながらも切なかったりして、

それは月9のような恋愛を女性が思っているように思うかもしれません。だが、そうした女性たちが、その意中の男と会っているときといえば、どんな顔をしているでしょうか? 意外にも、そのロマンチックな部分が飛んでいってしまっていて、月9のような恋愛どこ吹く風といった様子、ロマンチストぶっていなくて、キザな態度をしていなくて、友達のような、フレンドリーのような、およそ同性の友達と接しているようにその男と一緒にいるように見えるでしょう。それはいるというより、遊んでいるといった方が正しいかもしれません。ああこれが欲しいとか、あれは欲しいとか、いわゆる世間のことやタレントの話、テレビの話、たわいもない友達と話すようなことを、そのままその男にやっている光景が目につくでしょう。

男が恋愛というと、そうした前者のような、月9のような、ロマンチストの一つの顔になってしまいがちだけど、女は、女も確かにその部分を持っているのですが、それは恋愛の一つの顔であり、もう一つの、いわゆる、通常というような、日常というような、ガサツというような、二つ目の顔を持っているのです。また、どちらかというと、このガサツの、二つ目の顔の方が、重要な意味を持っています。

本人も、月9のような恋愛を夢見ていて、それを実行しているつもりでも、このフレンドリーに相当するような、ざっくらばんとした、くちゃくちゃと菓子を食いながら話して、口からくちゃくちゃと菓子をこぼしているような、そんないわゆるガサツな部分を、そのもう一つの真面目でセンシティブな、胸が締め付けられるような、あっちの方の恋愛の顔と、思いの外、区別がついておらず、こういうガサツのような、友達のように、ケラケラと自然体で話している時であっても、そのもう一つの月9のような恋愛と相反しないのです、女にとってはそれが一つになっている。それを、一つ、もう一つと、考えていません。その顔が一つになっているのです。それに対して、男は、恋愛に対して、真面目な、一つの部分しか持っていません。

いわゆる、亀梨や福山にあたっては、こうしたガサツな部分の時間を過ごせば過ごすほど、恋愛としての美味しさ、鮮度というものが落ちていくように考えてしまうのではありますが、反対に、女性というものは、こうした時間を過ごすことによって、恋愛の濃度が高まっていきます。

それは、もしかしたら、恋愛はそういった部分を必要としていない趣があります。もっと恋愛らしい空気を出して、もっと恋愛らしいキザなセリフ、恋愛らしい行動をして、恋愛のいちばん恋愛らしい部分、お台場で恋愛らしいことをして……。女は、というより、恋愛は最初から恋愛を必要としていないところがあって、やっぱり、ここでも肩透かしを食うことになります。

何も必要としないのが恋愛なのであり、何も必要としないから恋愛なのでしょう。本当は、何もしなくてもよかったのですが、彼らは、恋愛において、何もしない、ということができない性質でもあります。それは彼らのサービス精神が行き過ぎているところからきているところでもあるのですが。また、道具は、道具としての本能から、その性能の良さのままに、存分に自身の力を余すことなく使い切りたい、と考えるタチのものでもあります。彼らの美意識を存分に発揮するには、およそテレビドラマの方が都合が良く、適していて、一般の女と、一般の恋愛をする、ということになると、道具がその限界容量いっぱいに羽ばたいて使われるという勇姿がいよいよ見える機会を逸します。何事も、100%の出来事に対して、100%の力で使われることが、どんな仕事、活動において、道具において、理想的とされ、それ以上に、そうして当然だというふう風当たりのようなものがありますから、それは本人たちのあいだで、力強い風が吹いていないな、と感じてしまうところではあったかもしれませんね。だから、彼らは、何もしなかった恋愛においてはいつでもうまくいったし、しかし、何かをした恋愛はすべて失敗してきました。それは彼らの顔を見ればわかります。

いうほどには、恋愛は恋愛を必要としていない。

本当に、恋愛は、恋愛を必要としていないのです!

実は、恋愛が恋愛を求める以上に、恋愛という水を与えようとしてしまい、枯らしてしまうところがあります。彼らはもっとムーディーで、もっと六本木で、キザな会話をして、しゃれ込んで、〇〇をして、というのが恋愛だろうとは思っていたのだけれども。案外、くっちゃべって、菓子をぼろぼろこぼして、口の周りをくちゃくちゃにして、ケラケラ笑ったり。あれ、これ友達じゃん。

これ、恋愛っていうより、友情みたいな感じだけど……、それでいいの? というような……。恋愛の持つあの恋愛の甘い蜜の部分だけを賦活させ、それを与えるのが自分の仕事だと思っていたのに……、女性は女性同士、友達で会話をするような関係の方を求めがちなところがあって。しかし、女性というものはそういう一面を見せた上でも、また別に恋愛というものを、先に言ったように、2つの顔で持っていて、かたや、満足すると、もう一つの顔を取り出して、交互にその顔を埋めよ、といってくるのです。

亀梨と福山は、このロマンチックな顔しか持っていませんでした。今は友達モード、今は恋愛モードというように、女は怪人二面層のように、仲良くケラケラ話したと思ったら、今度は「私、あなたのことを愛している」とか言い出したり、こっちの、もう一つの顔についての努力をおこたっていたのかもしれませんね、が、しかし、本当のところで言えば、こっちの顔の部分だって、亀梨や福山の方が上なのです。ただ、こっちのほうは、チューニングの問題として、思っていたより、ずっと、自分のレベルを落とさなければならないこともあって、もう、一つの顔の方だけで、勘弁してくれよ、というところはあるかもしれませんね。彼らとしては、一度、お菓子を食べながら、くちゃくちゃ会話して、ぽろぽろこぼすようなことをしてしまうと、それはそれとしてというか、またキザな態度を復活させるにはどうしたらいいかと、気を揉んでしまうところがあるのですが。

一般的に、女性の方が、美意識が高く、恋愛におけるガサツな面を目にすると、その恋愛の死を意味してしまう、その恋愛の生死の判別が、男よりシビアだと思われていますが、女の持つこの二面性、男からすると、このガサツの部分と過ごしている時間が長くなると、あれ、これ俺でなくても良くね? これ、俺かっこいい意味あんのか? となり、今、美男でも美女でもなくてもいいことをしている、と、役不足感に襲われてしまうところがあるのですが、女からすると、それが、自身が美女であっても、これ、私じゃなくてもいいような、これ、私が美人の意味があるんだろうか? と、役不足感に襲われたりはしません。それは、やはり、女が恋愛において、二つの顔を持っているからです。ガサツの時間はそれはそれ、と、割り切ってしまっているというより、もう一つの顔として屹立していて、というより、この二つの顔が一つの顔になって恋愛しているんですね。それは、友情でも、恋愛でもなく。そのガサツの時間を共有できればいいのですが、彼らはデリケートなので、ズレが生じてしまうのです。

例えば、男は、意中の女を前にすると、なかなか、自分がこれまで好きだった趣味の話ですら、ほうっぽり出して、その女といるときは、その女のことしか考えられなくなり、もう趣味の話など、趣味なんかどうでもよくなってしまいますが、女は、好きな男を前にしても、あのクッキーがどうとか、あのワッフルとかシナモンがとか、本当に、そんなことを考えることができてしまえるのですね。それは、あえてそうしているとか、照れとかではなくて、本当に、クッキーのことが好きでそれを話したくて話しているのです。女にとっては、それがデートであり、恋愛なのです。あるいは、もう、それが、恋愛のすべてを果たし終えてしまっているところがあるのです。ここに彼らの不一致のようなものがあります。女は、好きな男と、クッキーの話をしていることが、恋愛の真っ只中を意味していたりします。

これが、女性が観念の生き物といわれる理由です。女性はその観念によって、イケメンを無用の長物と化してしまうばかりか、クッキーなど、恋愛とおよそ関係のない部分を持ち出して、恋愛の醍醐味に変えてしまいます。

※

さて、二人の結婚についてですが。

この二人にあっては、美意識から恩恵を受けることになるでしょう。

およそ、この美意識というのは、ただ、美というものにとどまらず、知性につながり、若さに繋がり、健康につながり、優しさにつながり、愛につながり、美意識によって、彼らの結婚生活は輝きあるものになるでしょう。人はこの美意識を早々に捨ててしまうがゆえに、結婚生活も捨てることになってしまうからです。

ほとんどおならというものを老人になってもしないだろうし、お互いの美観を損ねるような行動も控えるであろうし、もうお互いいい歳であるということから、あんまり不埒にいろいろな奔放な性生活を求めて旅にさまよったりすることもなく、食事もそんなにもうたくさんお腹いっぱい食べられるほどでもない、案外タイミングとしていい頃合いかもしれません。

このいわゆる世間においては、派手と派手の結婚、消費と消費の結婚、芸能人と芸能人の結婚というふうにして、いわゆる色物扱いとするような記事で、芸能人の結婚の最たるものと考えているふうですが、私はもっと、真逆の、地味な結婚だと考えます。

私はかねてから、美意識が高い人間は、その人間同士で結婚するのがいいと思っていました。すごい美意識が高い人間は、それと同じくらい美意識が高い人間と結婚するのがいいと。

そのほとんどは、その仕事能力、優しさ、愛というものは美意識からきているものであって、その成功は美というよりも美意識から発生した様々に発展した能力に支えられていることも少なくなく。結婚生活においては、いつまでも新鮮なものを維持したいと考える二人だろうから、片や、たまにはあえて家から姿を消したり、時には一緒になって、ハリウッド男優のようなキザなセリフや口の入ったことを一般の生活にその風を呼び込むこともでき、(亀梨は昔、ロケバスに群がってきた、熱中症に倒れた女の子をお姫様抱っこして、「おい、お前、大丈夫か?」と、キザな、ジャニーズ丸出しの行為をしたりして、そういったことは、なかなか照れがあって、他のジャニーズですらできなかったりするのですが、ロマンチックな世界を棲家にしている彼にとっては、そういうことができてしまえるんですね)それと同時に、これはTOKIOの松岡なんかもそうですが、泥臭く、男まさりな、田舎っぺのガキ大将みたいな、泥臭い、野球少年みたいなところもあって、こういった、多面的な部分を、全部わかって包み込むとなると、田中みな実くらいの才覚が必要になってくるように思うのです。それは普通の、安心できる結婚生活よりも、まだちょっと芸能人じみた、いわゆる一般のハートの弱い持ち主の男女においては、耐え切れない息苦しいものに感じる人もいるかもわかりませんが、この二人にとっては、その空気感がまあまあ心地いいもであり続けるでしょう。それはいわゆるある程度精神力が強くなければできない結婚生活でもありえますが。彼らはそれを老後まで続けられる精神力を持っているし、また、彼らがただ一人の人間になりたい時、ピザを食ってだらけてアニメを見て、ケツをかいて寝て、ほとんど痴愚になり果てたい時でさえ、それを見て見ぬふりをしたり、見なかったふりをして、そういった領域には近づかないようにしようとしたりだとか。それでまんざら、気が冷めてしまうようなタチでもないんですね。本当に美意識が高い人間というのは、こういうものを見ても冷めないどころか、一風変わった解釈をするし、それを美化することができるんですね。

そんな結婚生活、苦しい。そんな張り詰めたような、一息つけない結婚生活なんてイヤだ……と思うかもしれませんが、この二人は、もう少し、レベルが高いところにあるのですね。それは、美意識によって、知性や思いやりといった能力も培われているからです。

例えば、片や一方がそのようなピザを食ってだらけてグータラ、ダラダラ、その辺に豚のように転がっていたとしても、それで減衰したり幻滅したりといったことはあまりなくて。どちらかというと、自分がそういう姿を見られたくないという思いの方が強く、他人がそうする場合はそんなに引っかからないでしょう。というよりも、むしろ、安心感のようなものを覚えます。「みなみ、こんな醜態を晒してくれてありがとう」「和也さん、こんなゴミみたいな体たらくな姿を見せてくれて嬉しい」というように、自分ではあまりそういうのを見せたがらないけれども、他人のそういう痴愚へと成り果てたような姿を見ることは、安心を覚えるのです。

これはバカリズムが、とあるバラエティ番組で、「結婚生活において一番幸せな瞬間は何か?」と問われたとき、「仕事から家に帰ってきたとき、嫁のソファーに座っている位置が、自分が仕事に出掛けていくときに見たときの位置とまったく変わっていなかったとき」と答えたのと同類のものです。

いわゆる、大人物にはこういうところがあります。自分のおかげで(自分のおかげでということもないけれども)、結婚生活に気兼ねなくリラックスしてくれている、自分らしい時間を自分らしい姿でリラックスして楽しんでくれている、というところに喜びを見出します。もちろん、これには経済がどれだけ助けになっているかわかりません。およそ、お金による力が大きく、貧乏人の結婚生活には無理でしょう。嫁が、家にいるあいだ、ソファーの同じ位置からまったく動かないこと、大人物になると、こういうところを嬉しがる傾向があります。

ただ、バカリズムの奥さんからすると、「ねぇ!? なんでテレビでそういうこと言うの!? 私はちゃんとやってる! あなたが帰ってきたとき、たまたま、あなたが家から出て行った時と、私が同じ位置にソファーに座っていただけで、私はずっと家の中で動いていた! おかげで、近所からもそういう目で見られるようになったし、実家のお母さんからも電話がかかってきたんだから!『あんたちゃんと家事やってないの?』って!」と、それは、かなり、猛烈なくらい怒っていたようで(そして↑のことも、また、テレビでバカリズムは話しちゃっていましたけどね(笑)

まあ、つまり、女性はあんがい、というより、『ちゃんと家事をやっていない』という目が、何よりも耐えられないようですね。むしろそれがほとんど唯一のアイデンティティになってしまう。結婚すること、妻になることとは、そういう意味を指すのでしょう。

人は何よりも、怠け者と思われることを嫌うものです。社会における、その人の役割。それが仕事であれ、家事であれ、子育てであれ、犯罪組織でのスパイ活動であれ、その人の今置かれている環境で今やらなくてはならないとされる仕事を放棄していると他人から思われることほどつらいものはないようです。他人からすると、ソファでぐたっとしていると、かわいいもんだ、楽しいもんだ、と思ってしまうものですが、本人には耐え難いものがあるようです。

もちろん、田中みなみにもこういうところがあります。彼女は人一倍こういう部分が強いでしょう。お手伝いさんを数人雇える状態にありながら、誰よりも家事をやり、誰よりも掃除や料理をする女性でしょう。とにかく彼女は働き者なのです。

彼女はこれについて自覚があるようで、もし好きな人ができて、そのために仕事を辞める必要ができたら、すぐにでも辞める。もう、すぐにでも辞める、まったく未練はない、というようなことを、ダウンタウンのハシゴ酒かなにか話していた覚えがあります。

私がいいな、と思うところはここです。「トルストイはもっと世の女性たちが家庭の中に収まることを覚え、家事をすることに喜びを覚えなければならない、また、女性はそうすることが幸せなのだということを世に知らしめるために『復活』という小説を書かなければならなかった」と、ロダンは語っていましたが。

いわゆる田中みなみという、仕事人として超一流の女性でありながら、それを捨てることを一瞬たりとも厭わず、すぐにでも家庭のために自分自身をそこに沈められることができるのだったら、すぐにその役をあやかりたいというのです。女性は、もっと、仕事から解放されて、家庭のことに専念すべきです。まだ生まれてまもない子供を、保育園に預けるなんて考えられないことですし、おっぱいじゃなくて、変な加工した牛乳で育てるなんて正気の沙汰ではありません。もし、このような結婚生活を送らねばならないとしたら、その夫婦はやはり結婚すべきではないと思います。女性は、経済的に豊かな環境で、仕事は旦那に全て任せて、自分は家庭のことで全ての力を果たすべきだと考えます。私はそうした意味で、そうした経済状態下にあり、100%、家庭のことに集中できる、またその熱意がある、田中みな実にあっては、とてもいい結婚だと思います。

およそ、このように、世間において、やるべきことをやり尽くした果ての男女の結婚というもの以上に、素晴らしい結婚はないと考えます。亀梨も、田中みなみも、もう、ほとんどこの地上において、芸能生活において、だいたい役割を終えているでしょう。田中みなみにおいては、また、子育てがどうのこうのとか、結婚生活はどうなのだとか、夫婦関係のあり方だとか。また何か、世間に向かって話す必要や、頼まれでもしたら、またご意見番として、番組に出て話したりすればいいでしょう。

地上のことが片付いたら、その分だけ、霊性生活に入ることができます。この二人にあっては、今ではもう、それほど欲しいものはないでしょう。だいたい、欲しいものはこれまでいくらでも手に入れることはできてきたし、今、伴侶というものも得て、向かう先の心配もだいぶ軽減されました。そんなに、今ではもう、二人とも仕事を頑張ろうという気持ちも、自他ともに欲求も起こらないだろうから、今こそ、霊性生活に励めばいいと思います。

人は結婚する前に神を見いださなければならない、と言ったのはヨガナンダ先生の言葉ですが。だいたい、地上での仕事を終えた、二人にとっては、一人で霊性生活を送ろうが、二人で送ろうが、それほど違いがあるとは思えません。むしろ、これから霊性生活に入ろうとしても、できればパートナーの存在がいてほしいというものが人間の自然な欲求でしょう。

まだ、世間ではやり残したこと、欲しいものがたくさんある人、それが修行の妨げになって、なかなか霊的向上が捗らないとされる、個人、夫婦がたくさんありますが、その中でも、いわゆる成功者の結婚の利点はここにあります。このように、高速道路が用意されている結婚なら、結婚の方だって万々歳でしょう。彼らがまだ欲求のままに、まだ物質的欲求を望んだ道中、その先に果てにある結婚だとするのであれば、この限りではありませんが、この二人は、そういった金持ちとは違うように私は見ているのです。まあ、田中みなみときたら、指原のYouTubeチャンネルに出ては、スイスのチョコレートだか、オランダのチョコレートだか、どこで手に入れたのかわからないチョコレートを持ってきて自慢ばかりしているので、ちょっと怪しいところはありますが。それでも彼女は禁欲的でストイックで、自分の美貌を維持するためにはどんなことだって我慢できるし、それを長年やり続けてきたことがあるから、まあチョコっとぐらいならチョコを食べてもいいかもしれませんけどね。

彼らにあっては、男と女の張りというものがなければならないと考えるタチです、男と女のエキスがなくなりそうになったら、すぐにでも距離を取って、また新鮮な風を復活させようとするでしょう、それはこの二人にとっては自分のいいところ、自分のカッコよさ、可愛さを相手に見せたいという孔雀のような性質があることはもちろんあるのですが、それ以上に相手をがっかりさせたくないという優しさが強いタイプの二人ですから、そこにおいても似た者同士なのです。それは確かに結婚生活において窮屈な思いをさせるかもしれませんが、この二人にとってはそれが喜びなのです。自分自身のそういった美を見せること、見ること見られること、それが共鳴し合って、結婚生活にスパイスを与えると思います。片方が、こういった面を重荷に感じたり苦しくなったりすると、それは不幸を招くきらいもありますが、互いがその短所を打ち消しあって、幸不幸が一致しているのであれば、これ以上ないバランス感覚だと言えましょう。そしてそれは、二人が霊性生活を送る上でも、とても重要な意味を持つように思います。

(まるで二人のナコードさんみたいですね)

そうですか?

(これで速攻、離婚したらお笑い草ですね)

そうですか?

人と人との結婚に、何があるか分かったものではありませんよ。それは、最初に、神父が「芸能人同士の結婚が一番良くない」と言っていたように、神の代理人である神父がそういうのだから、一応、嘘をついてはいけないことにはなっているはずだと思います(そうはいっても一般人同士の結婚である私の姉夫婦は半年で離婚しましたが)すべては神のお告げどおり、どれだけこうして人間が知性を並び立ててみたところで、一笑に伏すものなのかもしれません。

また、人間というものは日進月歩進化するものです。あるいは退化、移り変わっていくものです。先ほどいったとおり、この結婚生活から進んで、二人がさらなる真の結婚生活とされる霊性の結婚生活に入るようであれば、今日の彼らにあっては明日にあって今日の彼らではない。今日の風は今日の風が吹き、明日の風は明日の風が吹くといったありさまで、その時間の流れにあっては、私でさえ、神々でさえ、神父でさえ、とても予想がつかないところではあります。結婚生活においては、今日の風が明日吹き、明日の風が今日に吹くということもありえるでしょうから。

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