女性研究 恋愛

最近、スタバの赤いセーター服の女性が気になる。

このスタバの内観というものは、まず、中央に大きな杉の一枚板のテーブルが置かれてあって、これは横幅3メートル縦幅80cmくらいの、赤褐色の濃色が重なり合う分厚い芯材が使われたものであり、そこらのカフェじゃお目にかかれない格式高い代物である。これが最大12人で座れる共同スペースとなっていて、勉強や作業をしにやってきたものはだいたいここに座る。せいぜい、目玉といったらこのテーブルくらいで、あとはコーヒー1つ2つ置いたら身動きが取れなくなりそうな小さなカフェテーブル、申し訳程度に備えられた子イス、スツール、モダンでハイカラな、2人用、4人用で使うものが点在しており、壁づたいに張り付けられたソファ、外はコンクリート一帯であり、ガラガラの駐車場と、わずかに気持ち程度の植林してある草木が数本見えるくらいで、それを見るために誂えられた簡易な後傾仕様のソファが窓に向かって放置されており、それが大きくないこの店内にとってすべてである。

平日の朝9時30分ということもあって、店内には客が4名しかおらず、小生は贅沢にもこの一枚板テーブルを独り占めできていた。他の客ときたら、散歩がてらやってきた老人、新聞紙片手に座っている老人、寝巻き姿のすっぴんの主婦の3名で、なにがスタバだ、聞いてた話とぜんぜんちげーじゃねーかよと店員に唾を吐いて帰ろうかと思っていた矢先、コツコツコツコツと早足の、春風のように颯爽とあらわれた赤いセーター服の女性が、この杉の大テーブルにやってきて、小生の真向かいに座ったのである。

(真向かいって)

🔴 ○○○○○
──────↑
テーブル  (80cmくらい)
──────↓
⚪️ ○○○○○

⚪️ =小生  🔴=赤いセーター服の女

確かに、これは行き過ぎた行為だったと思うかもしれない。この女性においても、これは失策だったというような、たった今自分がしでかした行為は気が違かったというような、後悔するような、そんな波動が彼女の肌をのぼって伝わってくるようで、真向かいに座っている小生にそれが共鳴するようでいて、二人でこの違和感について共感覚を抱いている感があった。

すぐに、小生の顔をチラッと見てくるに違いないと思った。誰でも、こういうときは、時間を見て目の前の座っている人間の顔を見ようとするだろう。しかし、体感として、ほとんど目と鼻の先に相手の顔があるくらいに感じられたので、この距離感のなかでお互いの目が合ってしまったら大変なことになってしまうと思った。案の定、4、5秒経ったら、チラッと見てきた。(やっぱりな)と思った。準備しておいてよかったと思った。これでアルマゲドンのような人類最大の危機は回避された。これで今日スタバは爆発せずにちゃんと営業することができる。

なぜ、彼女はこのようなことをしでかしたのか。

一つに、小生が白い服を着ていたからではないかと思った。

小生はここ数年来、白い服しか着ていない。これは長年において実験してみたところ、自分自身にもそうだが、周囲に与える影響として甚大なものがある。およそ毎日カフェに行くような人間にとって、毎日黒い服を着るのと、白い服を着るのでは、店員に与える印象として雲泥の差がある。パラディンと暗黒騎士くらいの違いがある。白い服を着てきたときでは、まるで聖職者が説教の台本を書きに来たかのような、今日もお勤めご苦労様です!というような、天使のラッパ音を吹かれて歓待されるようなところがある。

(あれ? 平日の朝10時だけど……、なんでここにいるんだろう……)

(まぁ、白い服着てるし大丈夫か……)

と見過ごしてもらえることが多い。これは、一般的に、心に魔の性質をもつもの、邪の性質をもつものは、白い服を着ることが難しいとされ、マッコウクジラのように真っ向に生きている人間にしか着れないところがあるらしい。

伝道者の書にもこう書かれている。

7 さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでにあなたのわざを喜んでおられる。

8 いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。

ふつう、オタクといわれる連中は、黒を好むことが多く、上が黒なら下も黒で、カバンも黒で、有罪かどうかと問われるとそれも黒で、コナンの黒の組織のように周囲を怖らがせてしまうことも憚れないが、白い服を着ていると、それだけで人は、お天道様に顔を向けて歩けていて、その日光によって漂白されたと思ってもらえるところがある。斎藤一人さんも、霊性修行者は白い服を着なければならないといっており、エミリーディキンソンも、生涯のほとんどを家の中で白い服を着て過ごしたとされる。

彼女はカバンから様々な小道具を取り出した。まず、Surfaceのノートパソコン、この手の女性はだいたいMacBook Airか、油でギトギトの00年製のレッツノートか、二つに一つと相場が決まっているのだが、今回、Surfaceをタッチペン機能を駆使して使っていた。かつモバイルマウス、モバイルディスプレイ、スマホ2台と、まるで子供が学校から戻ってきて、おもちゃ箱をジョイントマットにひっくり返すように、机上に並べていった。

(自分の家か)

と思って、俺はそれ見ていた。

女性がたくさんの物を持ち寄り、その物を使って、物々しいことをしているのを見ているのは気持ちがいい。彼女が小生の前に座ったのは、小生が白い服を着ていたからではなく、このテーブルにて、たくさんの物を広げたかったということがわかった。が、それでも、小生の目の前に座った理由は解せなかった。この席はちょうど壁奥に位置するので、隅っこ暮らしのアリエッティのように隅が好きなのか。

髪は長い黒髪であるが、一本に縛っていて、真面目そうで、気丈夫そうに見える。年は26か7くらい。唇はキッと結ばれていて、魂が漏れ出るのを防ぐ役割をし、内部で生気が充満しているようだ。目は通常の女性よりだいぶ大きく、二重まぶたではあるが、切れ目で、目力があり、猜疑心がつよそうな、第一視はすべて疑ってかかりそうな、およそ攻撃的な色をしている。よく小さな女の子が難しい顔をしてブスッとしていることがあるが、あの癖が小さい頃から直ってないのだと思われる。一見、意志が強そうではあるが、いわゆる、精神の"張り"のようなものがそうさせているだけであって、心が柔らかい人と固い人がいるが、固いだけともいえそうだった。鼻は低くも高くもなく、顔はやや平べったくて大きめで、多少ゴツゴツしているが、全体として、凛とした異彩を放っており、いわゆるクールビューティというような、ヒールで男たちの屍の山を踏みつけていく女性のようには見える。今では、アニメの影響のためか、かえって、こういう女性の方が、優しさの押し売りのような女性と比べて優しいのだということが認知されるようになってきた。一見、冷たそうな、ぶっきらぼうな、それは感情表現が苦手だというだけであって、かえって人間的に信のおける優しさを持っているのはこちらの方だったと。それは、時代は、こういった女性を乗り越えてしまったように思われる。時代は、いったんその過程を通り過ぎると、人々がそれまで感じていた疑問や誤解はことごとく氷解され、暖かく迎え入れられるようになる。それは個というより全体として起こる。このような女性は"得"だとされる。今、いちばん市民権を得られているからだ。今では、こういったことに無頓着なスタバの店員でさえ、このような女性が来ると(ラッキー)と思うくらいで、またいいものを見れたというふうに、今日の仕事に一献を捧げる花として迎え入れる。

人は、人と話す段となると、まったく顔が変わってしまう人間と、そうでない人間とがいるが、彼女は人と話すとなると、まったく違う顔になりそうだった。今では、虫をも殺しそうな、人をも虫としそうな、絵画でいうなら、印象派画家によって黒い影のようなものを勝手に付け足されてしまいそうなところがあったが、ひとたび声をかけられれば、ヒョイッと心の臓が飛び上がり、変な甲高い声が出てしまい、いつまでもドキマギしているような、あの憑き物のような攻撃性が嘘のように融解している、今度は、うってかわって、普通人よりも、素直で、明るく、無垢な、人懐っこさを見せ、ほとんど防御力がゼロになってしまっている、人をして、いったいどちらが本物の彼女なのだろうと思わせる不思議がある、それが彼女をして最大の魅力になっているようだった。

何より目についたのは、赤いセーター服だった。目に飛び込んでくる赤は鮮烈で、朝から野武士たちに斬りつけられて真っ赤になっているような、そんな赤だった。

朝いちばんにこの赤を見られることは幸甚で、向こう一週間、眠らなくてもよさそうになるばかりか、一瞬にして自己の最高の状態へ引き上げられ、いわゆる、女性が赤い服を着る理由はここにある(それがセーターだとなおいい)これは人々が思っている以上に深刻な役割をもち、とかく世を活気づけることにおいてこの上ない働きをする。およそ、女性というのは、それだけで赤という色を連想させるし、女子トイレも赤だし、口紅も赤いし、乳首も赤いし、ランドセルは赤いし、人生の最期に火葬場で焼かれる炎も赤いし、女性は赤ければ赤いほどいいとされる。とかく、世の男たちは、この女性の赤によって、認識と洞察を得、わずかばかりとも直感が働くことが可能となる。それは、世の女性たちが口紅を塗らないで歩いていたらどうなるか想像したらわかることだろう。そのため、女性は、赤い口紅を塗るのだ! 

平日の、朝9時30分に、こんな赤い服を着て、スタバにふらふらやってきて、コーヒーを飲みながらSurfaceをいじっている。およそ会社のために身を粉にして働く性質とは思えない。

一般女性より、前進への意志は固そうではあるが、それがカタギからくるものとも思えない。何かうまい話や、社会において出し抜けそうな小道を見けたら、そこに全精力をあげることを厭わない、というより、そのための才気や熱量がピッタリ合う、そのために生息している女性に思われた。

それは、現代消費者の代表というような物の買い方をしており、変なキッチンペーパーだとかなんだとか、いいものを買ってそうで、シャンプーとかリンスとかも湯シャンとかいうのにはいよいよ移れなそうな、いわゆる物という物に囲まれ、それらの物については、ただ鼻水を噛んで、惜しげもなく、ただ物を物として扱っている。無論、虫などは平気で殺し、何においても新品好きで、あらゆる整理整頓された、きれいにパッケージングされた商品の潔癖が好きで、ほとんどその商品のもつ潔癖さのために買い物をしている。清潔に対する意識も強く、殺菌能力の高い液体のハンドソープやらシャンプーやらリンスばかりを買って、肌という肌の粘膜、細菌をすべて落としてしまった、現代文明が生んだひ弱、その人自身がいかにも疑わしそうなパッケージの商品を売りつけていそうなせいか、自身もまたそういったもののカモになりやすいのか、水さえも、ペットボトルに入った水しか口にせず、生物的な強さをなくしていってしまった、現代が生んだ悲しき生命体。今はまだ若いこともあって固形を維持できているが、そうやって得たものといえば、ほとんど自身から生活感を取り除くことができたということだけだ。

少なくとも、学生時代は、ちゃんと運動部に所属していて、それが人格形成をする上でも支えになっている、が、すでに、その頃から、真面目に働くことのバカバカしさ、真面目に働く方が損をするのではないかという猜疑の目は社会に向けられており、矢は絞られるだけ、絞られていたように思う。この頃から、育まれていた、法に触れなければ何をしたっていいんだという思想は、ホリエモンに似た、人が通常、後生大事にしている、あの、切っても切り捨てられないあの大事な部分を切り捨てることに成功した人種、ふつう、人が切っても切り捨てられないあの部分を切り捨てることに成功した、稀有の人種のように思われる。

言い忘れていたが、なぜ、小生は朝の9時半にスタバにいるのかというと、朝の9時半どころか、開店の7時からずっとここに座っていた。

小生の机の上に置かれてあるものといえば、B4サイズの原稿用紙と万年筆であり、いったい、この時代に、何が原稿用紙で、何が万年筆なのかわからないが、太古の時代の化石跡に生い茂る植物みたいに、スタバに生えたカビのように景観を損ねているかわからないが、見た目は30代半ばかそこそこに見られるかどうかはしらないが、まだ一応、若者という部類に入りそうな見た目の男が、朝の平日の7時だか8時に、テーブルに万年筆と原稿用紙を広げて、文字を書いていたら、それはどう見ても小説家にしか見えないだろう。

(小説家?)

というふうに、彼女は俯いて作業をしてはいたが、たしかに、目の前の目障りなペンの動きと、耳障りな筆記音を感じ取っているようで、先に白い服を着ていることが彼女を安心させることに成功したと話したが、この、原稿用紙と万年筆というスタイルも一役買ったと思う。やっていることがジジイなら筋力もジジイに違いない、襲ってこられても、すぐに返り討ちにできるだろうという。

(朝井リョウ?)

というような、マルチの女性からすると、とくに珍しく映るらしい。もし、小説家だとして、本当に売れているのか? この時代、この現代に、誰が何を書いて、何を読むというのか? もし読むとしたら、それはよほど費用対効果が優れていなければならないはずで、こんなまだ30代かそこらの人間に、それが書けるんだろうか? 読んでいる人は、この人から、何を教わりたいと思って読んでいるのか? というような、顔は伏せられていてわからなかったが、およそ波動として、そんなことを考えているらしいことが伝わってきた。

小生が、もう少し、学者肌の、深淵な、小難しい、「人生とは……」というような顔をして座っているような男だったら、もう少し、マシな印象を抱かせられたかもしれなかったが(そうしたら、彼女が目の前の席に座ってきたかどうかはわからないが)。しかし、岡本太郎や坂口安吾がいうように、深刻な顔をした芸術家に本物がいたためしはない。島崎藤村は、いつでもカフェに行っては、今すぐにでも死んでしまいそうな顔をしてコーヒーを飲んでいたらしいが、それによって、周囲の同情と尊敬を集めていたらしいが、現在の文学的名声は知っての通りである。

「あーーーーーーーーーーー! わかります! わかります! はいはい!」

「あーーハイ! ハイ! ハイハイ!」

ハイハイ探偵団のように、急に、彼女が、ハイハイとでかい声を出したので、驚いてしまった。このとき、あまりにもびっくりして、小生はガタッ! と大きい音を立てて椅子を動かしてしまった。頭が十数センチくらい動いた。その様子に気づかない彼女ではなかったが、そのままでかい声でSurfaceに向かって話し続けた。彼女の後方の、遠く離れた、新聞を読んで座っていたおっさんも、ギョッとした目で彼女の方を見た。

「わかるーーーーーー!」

「あーーハイ! ハイ! ハイハイ!」

だいたいこういう喋り方するだろうなという喋り方をそのままやっていた。

「これから出社するんだけどさー、それはそのときに説明するんだけど、その前にこれ見てほしいの」

何が出社だと思った。どうせ出社といったって、変なマンションの一室の、有限会社の、ワールドコミュニティコネクトなんちゃらという、マリオのステージのような名前をした名前の看板をぶら下げた、黒魔法の研究をしているような、似たような女どもが集まって、お菓子やピザをつまみながら、悪い姿勢でキーを叩いて、昼はだいたい出前館かウーバーイーツで調達して、ずっとくっちゃべってる、あの手の奴らっぽいなというものを感じた。

自分でも、デカい声を出しているという自覚はあまりないのだろう。アメリカ人女性みたいだった。一見、こうした、きっちりして見える女性の方が、案外、男でもやらないような、ずさんな、野坊主のような真似をしでかすところがある。いわゆる、駐車違反など、あの、かっぱ寿司などに見られる、あの変な駐車場に変な停めかたをして警備員に怒られたり、たまに、異様にマナーやルールを守ることにずさんなところがある。それは社会の網の目を潜り抜けようとする不断の性格からきているか、世の中には、こういった女性のこういった性質を見抜き、こういった女性をターゲットにしているハイエナのような老人がいる。一般女性の中でも、マルチ女性がいちばん変なゴミの出し方をする確率が高いことを知っているので、昼も朝も夜もゴミステーションの周りをうろついて、ゴミステーションに置かれてあるゴミを見つめるカラスのように、こうした女性がゴミ袋を持ってくると(しめた……!)というふうに、カラスのようにくちばしを尖らせて襲いかかる老人がいる。いわばマルチ女性にとって天敵と言っていい。マルチは社会の穴を狙い、老人はマルチを狙い、カラスはゴミを狙い、もっぱら朝からゴミステーションでは、このような、妙な三角錐のような形を繰り広げている。

目の前でそんなにデカい声で話されたら、書き物に集中できないのでは? と賢明な読者の方々においては思われるかもしれないが、それはもう、彼女がここに来てからというもの、小生の目の前に座ったその当初から、とっくに書き物なんか放り出してしまって、彼女の全存在に炭治郎のように全集中していたからとくに問題はなかった。

だからもう全く構わずに、どんどん大声で叫ぶがいいと思っていた。デカければデカいほどよかった。なんなら、この変態が、犬畜生が! さっきからエロいことばっか書いてんじゃねーぞ! このフランス書院やろうが! と、原稿用紙をビリビリに裂かれて頭にパラパラに撒かれ、机に頭を叩きつけられて、後頭部を万年筆で刺されたかったというか、そうしてくれてぜんぜん問題ないくらいだった。

すると、彼女は、アハハハ!! と、淑女にはあるまじき、ほとんどバカ笑いに近い声を出して笑った。笑うと、少し体が後方に倒れるのか、彼女の足が伸びてきて、小生の足の裏にゴツン!と当たった。普通、ぶつけた方が謝罪なり、反応を見せるものだが、先と同じようにまったく反応を見せなかったので、ぶつけられた方が反応を見せることもないと思って黙っておいた。

笑うたびに、足がガン!と当たった。そういうことが、4、5度もあった。彼女としても、それを直そうとはする気配はみられたけれども、それでも、笑うとどうしても蹴ってしまうようで、この時間内に修正することはかなわないらしかった。おかげで、俺は、4、5度も美人に足を蹴られるという至福を味わうことができた。

女性でも、人生においてとうとう爆笑というものをしたことがないまま終える種がいるが、その種ではないことに安心した。爆笑は、ヨガ科学においては、生命エネルギーの漏電とみなされ、一部では禁じられる動きがあるが、この時世、女性の爆笑している姿を見られることは幸甚なことである。

気になる点で言えば、今、横から変な無頼漢に斬りつけられてこられたら反応できないだろうことだ。あまりにも、大声で話したり、大声で笑ったり、目の前のことに専心しすぎてしまう。なぜ、マルチがマルチなのか、これで、わかった気がした。いわゆる、マルチという人種は、例えば、ねずみ講のようにカモを目の前にして会話する状況においても、目の前のことを話すことに専心しすぎてしまい、およそ店内における客観的な立ち位置が見えておらず、でかい声で無神経に話しては、会話が周囲に筒抜けになっており、話を聞いている相手方も、ただでさえ、僕たちは怪しいんだから、そんな大声で話さないでくださいよ……と合図を送っている場合が多いが、そのまま話し続けてしまうことが多い。

店員が、彼女の方へ近づいてきた。

さすがに注意するのかと思った。

「すいません、本日、おすすめとして、チョコレート・アンティグアの試飲サービスを行っております。よろしかったらどうぞ」

「あっ、はい、ありがとうございます」

「酸味・苦味とも比較的穏やかで、チョコレート菓子との相性も抜群でございます」

「あっ、はい、ありがとうございます」

1オクターブか、2オクターブぐらい声が高くなって反応していた。やはりテレビチャットで同じマルチの女性と話す時の声とはぜんぜん変わっている。とても無垢で、純粋な、この世の悪を知らないお嬢さんのような声を出していた。

「砂糖やミルクはご一緒にいかがですか?」

「あっ、ブラックでいいです」

「ありがとうございます。」「あっ、はい、ありがとうございます。」と、普通の人より、2、3回くらいは多く、「ありがとうございます」と言っていた。およそ外部の人間に接する態度はまるで違う、純粋そのもの。むしろ、一般女性のそれに比べ、はるかに優しい触感を感じられた。この、咄嗟に出る人間の反応。咄嗟に出る優しさ……。

皆さんも、能動的な優しさと、受動的な優しさとでは、どちらの方が正しいのか、考えたことはあるのではないだろうか? 例えば、私たちにとって、優しさとは、ふだん自分が心がけているものを発露しようとするときよりも、こうしたとっさに出る優しさの方が強度を持ち、また残心というものを残さないことについて考える人も少なくないことだろう。

剣鬼、伊藤一刀斎の言葉で、「人は眠っている間でも足のかゆいのに頭を掻くバカはありません。人間には自然にそういう働きをする機能が備わっているのです。その機能を完全に働かせることが剣の妙気というものだと思います。先生が私を撃とうとされるとき、先生の心は虚になっています。それに反し、私は今申したような自然の機能で危害を防ぎますから事実です。実をもって虚に対すれば勝つのは当然でしょう」というのがある。この言葉に出くわしてからというもの、小生は意識的な優しさを捨て、すべて受動的、反応的にただ起こるがままに任せておこなう、心というものに全く荷物や負荷を負わせずに、ただ優しさを発する機械のようになったわけであるが。人がたいてい人間関係において失敗してしまうのは、この能動的優しさを発揮してしまうことにある。もし溺れている子供がいたら、そのまま助けてやればいい。そこに思考作用も情念もいらない。そしてその機能は、もともと人間に備わっているというのである。もし身体が助けなくていいと判断したのなら、それは助けなくていいのである。

忍法……! メルカリ、チョコレートクッキー爆売りの術……!

さて、小生はといえば、もうかれこれ朝7時にこのスタバにやって来てから、もう4時間か5時間ぐらいずっと座り続けている。しかも、卑怯なことに、コーヒーを頼むどころか、カウンターのレジ前に置いてある220円のチョコレートクッキー1枚だけを買って居座るという、下品でクソで店員からしたら貧乏くじを引かされたかのような、喧嘩を売るような買い方をしており、正直、店員にしても、まあ自分はべつにオーナーじゃないし、とくに自分の給料に反映しないからいいっちゃいいんだけれども、よくもまあ、そんな下品な恥の上塗りのような買い物の仕方ができるもんだなというふうに見上げたように見下げてくる。

しかし、なんてことない。このチョコレートクッキーが20枚ぐらいたまったら、それをメルカリで売るのである(爆)世の中にはおバカさん(笑)がいるせいか、こんなチョコレートクッキーなどというものを普通の駄菓子屋さんで買えば、これの半値か4分の1ぐらいの価格で買えるというのに、なぜかわからないが、これをメルカリで20枚詰め合わせパックで4000円で売ると、買い手があらわれるのである(笑)

およそマルチ女性にとっても、カフェにおいて、このような買い物と売り方があることを思いつかなかったろう。およそ消費が消費を生んだ悪女。およそ社会の抜け道を知り尽くしその罠という罠を張り巡らし、その赤い糸で全ての虫けらどもをがんじがらめにする女性にあっても、白い服を着た、清廉潔白の、朝の9時に原稿用紙に万年筆で書いている真面目そのものの男に、その得意のマルチ活動においても負けてしまうのである(笑)

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