9/15 月曜日(敬老の日)

いた、彼女だ。
今日は白いキャミソールの上に、黒のレースチュールチュニックを二枚重ねに着ていた。ウエストゴム部にバックリボンがついていて、ふんわり広がるペプラムが腰部から臀部を広範囲にカバーしているのが印象的だった。下半身はウエストデザインからほっそり見せがかなうデニムスキニーを履いており、あいかわらず裾が盛大に放射状に広がった逆エリマキトカゲのような形状をしている。どうやらこのジーンズがお気に入りらしい。夏ももう終わりだが、夏らしいファッションはまだまだ健在だ。今日はいちばん前に座っていた。教室においていちばん前に座れてしまうような人間に手紙を渡そうとしているのか、俺は。
◯ ◯ ◯ ◯ 女 ◯ ◯ ◯
◯ ホ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
ホ ◯ ◯ 俺 ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ホ ◯ ◯ ホ
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ホ
床に置かれたバックパックの横に、申し訳程度のナイロン生地の小さな手提げ袋が置かれてある。中に入っている細長い青色の水筒が顔をのぞかせていた。
時計を見ると13時30分。そろそろか、と思って、心頭滅却しながら待機していると、10分後、彼女がお弁当一式セットを持って立ち上がった。俺の横を通り過ぎていく。
もう十分だろうと思って時間差で振り返ると、飲食スペースに腰をかけ、お弁当を開きおえていた。テーブルには彼女の姿しかない。しめた──と思った。ここしかない。瞬間、ゾク、と俺の中に冷たいものが走った。本当に危険なことをするときにだけおとずれる感覚だ。
こういう極限の状態になると、ただ静けさのなかで自分を見届けているもう一人の自分の姿に出会うのはなぜだろう? きっと人を殺すときもこの感覚がおとずれるのだろう。コン、と心のいちばん奥底にピンポン玉が落ちて跳ね返った音が聞こえてきた。
心には何もなかった。シンとどこまでも澄みきっていき、何一つ音がしないことが不思議だった。こんないかがわしいことをしようとしているというのに。きっとこの静けさを保ったまま行為を貫徹できそうだと思った。これからの目的も忘れてしまいそうになり、次の瞬間にコンビニにおにぎりを買いに行ってしまいそうだった。
あらゆる制止してくる声を振り払って、ツンボのフリをしていると──、強情な生き物ができあがるわけだが、この強情の生き物はなんだろう? とずっと思っていた。およそ自習室にいていい存在なのだろうか? この、変な手紙を渡すという、それだけの意志を貫徹するだけの強情な生き物、それが自習室となんの関係があるのだろう? とずっと思っていた。
俺はほとんど機械的に立ちあがった。
(ちゃんと辿り着けるだろうか? 頭の中が真っ白だ)

これまでにない生の手応えを感じる。生きるとはこういうことか。生きることと死はとなり合わせだ。俺と彼女の席のように。長らく忘れていた、この感覚。青春の感覚。死をも肯定しなければ生もまたないというのか。だとしたら、俺は彼女を殺せばいいのか。あのニーチェですら、あの本の虫の、およそ危険とは無縁の一生をカビ臭い古びた小屋で本を読み耽って過ごしたと思われるあのニーチェですら、人がもっとも生の喜びを享受するには、"危険なことをするのがいちばんいい"と言っていた。なるほど、ニーチェも女子高生に手紙を渡していたらしい。冷たい床の上を歩く、清掃員のおばさんとすれ違う、見慣れた壁にかけられた糞みたいなポスター、閉館日に赤い丸がつけられたカレンダーが通り過ぎていく。最後はやはり力任せだ。ただ無理矢理反転しようとする自分の身体を抑えつける。最後は強引に引っ張っていって舵を切るような、意志の力だけが必要となる。
「あの」
彼女は振り向いた。ちょうど口を大きくあけて、おにぎりにパクツこうとしている瞬間だった。リスがどんぐりに噛みつこうとしているようだった。
「すいません」
と言って、俺はカバンから手紙を取り出した。
彼女はおにぎりを両手に持ったまま、そのまま大きく口を開けてこちらを見ていた。
テーブルの上には参考書の類が広げられてあり、その中の一冊のひらかれた問題集の上に赤色のチェックシートが置かれてあった。俺は「すいません」と言って、赤いチェックシートの上にポンと置いてしまった。置いてすぐに俺はなんでここに置いたんだと思った。代わりにこれを使えというわけじゃあるまいし。彼女も(え!? そこに置くの!?)というような狼狽した顔を一瞬見せ、一瞬だけチェックシートの方に目をやると、またすぐに俺の方へ向き直した。
彼女はおにぎりを持ったまま制止していた。
噛むこともできず、置くこともできず、といったところか。
※

タリーズ目の前に広がる森林公園は、あいかわらず色調豊かで精彩に富んでおり、疲れしらずの太陽の浄光が木々の隙間から間断なく洩れ出ている。ゴールドクレスト、カイズヤカブキなどの植林が目を楽しませ、小さな花壇には金木犀がいっぱいに植えられ、建物外壁にはクスノキが等間隔に並んである。テラス席では女性たちがタピオカミルクティーに太いストローを差して氷をカラカラと回しながら楽しくおしゃべりをし、その横で中年親父が足を組みながら新聞を読んでいたり、ポケモントレーナーのようなミニタイツを履いた女性がポケモンのような犬を連れていたり、グラサンをかけて、短パンを履いた、胸毛が剥き出しになっている外人が豪快にチェアにふんぞり返って座っており、毎度、リゾート施設に足を踏み入れた気分になる。
味噌汁、という言葉が浮かんだ。コーヒーを前にしながら。
「なんであんたのために味噌汁を作らなきゃいけないの?」
「私はちゃんと大学に受かって、年頃の女として青山通りを歩いて服とかタピオカを買っていたい」
そんな声が聞こえた気がした。
俺は主に性差というものを考えていた。たしかに、テラス席の外人や、新聞を読んでいる中年親父、若い男だってそう、男なんてものは女から見れば不潔と暴力の対象であり、厚い板が迫ってくるような、股間に突起物が生えているしで、まるで刺しにくるようである。なるほど、だからエイトフォーを持ち歩いてんのか。
あー、くせー。くせー。こりゃあくせーわ、くせー、くせー、なんで、こんなくせー生き物のために、味噌汁を作らなきゃならないんだか。俺は自分の腋窩部をクンクン嗅ぐようにして、いまさらながら、成人男性がもつ特有の男性ホルモン、男性的臭気、そのあらがえない性への苦悩を吸いとっていた。こりゃあ、エイトフォーが必要だわ。
ちょうど、おにぎりをパクつく瞬間だった。
大きく、パックリ口を開けて、噛むこともできず、置くこともできず。
話しかけられたため、ちゃんと俺の顔を見返さないわけにもいかず。パクつこうとして、大口を開いたまま、それが10秒ぐらい微動だにせず、萌えアニメみたいだった。
高校生ながら化粧は濃いめで、やや青黒いインクのようなものを目の周りを施していた。一瞬タヌキのように見えた。しかし反応はやや子供寄りで、ポカンと豆鉄砲をくらった鳩みたいな顔をしていた。これ以上ないという濃度で互いの目を見やった気がする。あんがい人間は、初対面の人間にふいに声をかけられたときにしか、いちばん深い形で目を合わせられないものではないか。
店内いちばん奥の窓際の席。俺はグデンとして、溶けて、腰がずり落ちそうな、だらしなく、飲んでいるコーヒーと俺とでどっちが液体かわからないようなひどい姿勢で座っていた。俺はその姿勢に気づいていながら、どうしても直す気力が湧いてこなかった。
(渡した?)
(あれ? 渡した?)
(渡した)
(確かに渡した)
一瞬、手紙を渡したのかわからなくなることがあった。これはなんだろう? どうしてわからなくなるんだろう? この感覚がたびたびやってくるので、対処に困った。
今日は日曜日、道場に行く曜日だ。すこしは身体を動かした方が気が紛れるかなと思った。現在時間は14時過ぎ。14時〜15時は木刀の打ち合いの稽古であり、いま行けば参加できるかもしれないと思った。ちなみに13時〜14時は居合いの時間で、15時〜16時は合気柔術の時間である。
何もしていないと、逐一スマホをチェックしてしまいたくなる。しかし、今ほどスマホを見たくない時間もない。道場に行けば、スマホを見ないですむと思った。
(道場に行こうか?)
俺はずいぶん長く考え続けていたが、やはりすべての力を使い果たしたから、今は指一本動かせそうになかった。今、道場に行ったら、簡単な受け身もとれずに殺されるんじゃないかと思った。
俺はこのとき、わざと受け身を取るのを失敗して殺されようかと思った。
相手の打ちかかってくる面に対し、瞬間におでこを差しだせば、死ねる気がする。本当にそれをやろうかと思った。
しかし、それをやると他人に迷惑がかかる。今も人に迷惑をかけてきたばかりだ。まーったく! 人に迷惑しかかけねーな! 俺は!
また善良な市民に、また一つ迷惑をかけてしまった。俺の存在自体が社会にとって邪魔なのだ。ジムに行っても、道場に行っても、タリーズに行っても、図書館に行っても、マンションに一人住んでいても、人々に迷惑しかかけていない。みんなにいつも来るなって言われる。みんなにいつも死ねって言われる。おそらくは夭折していった、天才、偉人なんて連中も、みんなこんな気持ちを少なからず抱えていて、もう地球にいることが耐えられなくなって、その意志の力で地球を後にしたのだろう。今なら、俺も強く念じれば、その意志の力だけで地球とおさらばできそうな気がする。
(試してみるか)
(いざ、いかん──)
っち、なかなか難しいな、
どうやってやりゃいいんだ? これ
もっと、こうして、脳の神経パルス波を右方向に、20くらい落とせばいけそうな気がするんだが、クッ……
クソ、なかなか地球の重力が重てーな……
俺がタリーズで意志の力だけで死のうとしていると、
何が武道だと思った。武道だかブドウ🍇だかしらねーけども、こんなもんやったところで女子高生と付き合えるわけでもない。こんなもんやって心身錬磨したところで、女子高生からLINEの通知一つ届くわけでもない。それは俺でなくとも先生だってそうだろう。あんだけ偉そうに、毎週、毎週、ご高説を垂れて、強いかどうかしらねーけども、先生だって女子高生に手紙を渡したところで付き合えるもんでもない。先生ももう60になる。武道のぶの字もしらない制服の下にパーカーを着こんだ男子高校生に女子高生をかっさわれてしまうのだ。武道の達人が。
しかし、恋愛って奇跡だ。よくもまぁこんな難しいものをやりおえているもんだ、と思った。どこで知り合ったかわからない男女が、ああでもないこうでもないと話し──、そこから始まり──、タリーズのアベックたちを俺はぼーっと見ていた。タリーズの客たちときたら、全員、少しも、胸にポカンと穴が空いていない様子で、これは女子高生に手紙を渡さないことからくる余裕からきているだろうと思った。
しかし、恋の難しさとはなんたるかと思った。こんな難しいものを人々がやり抜いている事実に今更ながら驚愕した。街に出ればたくさんの男女が手を繋いで歩いている。このタリーズにおいても、たくさんのツガイが並んでいる。よくもまぁ、みんな、こんなに付き合えているもんだ。店内においてとくべつ目を見張るほどの美貌があるわけでもなかったが、そのことがさらに俺においうちをかけた。確かに世の中は、恋人にしろ夫婦にしろ、対になっている男女に優しい。それはやはりもともと男女が別個に分たれた存在ではないことの証左だろう。生物的にも社会的にもツガイであることで一つの完成品として迎えられる。俺はつい最近、何かを間違えて、先の電話の親友と二人で公園を歩いてしまったことがあるが、そのとき、「テロリスト!」「テロリストがいます!」と変なババアに通報されそうになったこともなきにしろあらずである。
やはり、光の正体は期待だったんだろうか? 裏切られてしまえばその瞬間に消えてしまう光。相手が自分のことを何とも思っていないことがわかると瞬く間に消えてしまった。鏡の法則かなにかわからないけれど、彼女が俺のとなりに引っ越してきてくれたこと(今ではそれも通用しなくなってしまった論理だが)がすべてだった気がする。
俺は瞬間的にバンッと机を叩いた。自分が自分を追い越したはじめての体験だった。無論、はじめてということはないが。机を叩いたあと、ハハ、と、どこからか乾いた笑みが込み上げてきて、自分を追い越す体験が二度続いた。
「さて」
と俺は言った。それも口に出た。
失禁患者のそれのように、先の現象といい、自分の中から発作的に生まれるとつぜんの言動を外に出るのを抑えられなくなっていた。
さて
さて?
さてって
さても何もないんだがな。
今はただ、彼女に対し図書館に勉強しにくるのが来にくくなっちゃったかなと、それだけが申し訳ない気持ちでいっぱいである。だが、よく考えてみてほしい。ふつう手紙を渡しておいて、失敗して、その足で自習室に踏み入れられるヤツが世界のどこにいると思う? こんな屁のような手紙を渡して一目散にタリーズに逃げ込んじまうヤツだぜ? どうやって図書館に顔を出すことができると思う? それを伝えにいきたいが、そうしたら彼女はますます図書館に足を運べなくなってしまう。
「ごめんね」と俺はまたふいに口走った。
これもまあまあの音量をともなってふいに出てきた言葉だったので、驚いた。となりの席のアベックがギョッと俺の方を見た。目を合わせたら余計に怖がられるかと思って、俺はあえて一点を凝視していた。
これは何に対してのごめんねなんだろう? さっきから、ごめんね、ごめんね、という言葉が、何度も胸の中で連呼されるのだ。図書館で勉強しにくくなっちゃったことに対するごめんね? どうもそれは違う気がする。俺は姿勢をやや前屈みにして、一口だけコーヒーを飲んだ。何がごめんねなんだろう? おそらくだが、どうやら、ごめんねと謝れば、神が同情して彼女の心をふたたび俺に向かわせてくれるかもしれないという期待からきているかもしれなかった。
タリーズのいい年した店員のおばさんたちは、素晴らしい挨拶と、素晴らしい接客、素晴らしい人間としての要素、それらを獲得するほど成長したのに関わらず、彼女たちですら恋愛するのは難しいだろう。もう50歳くらいになるからだ。人間は歳をとるにつれて成熟していく生き物なのに(あるいはしていかなければならない)、どうしてそれを恋愛という舞台で活かせられないのだろう? どうして神は恋愛をこのように設定したのだろう? なぜ俺はタリーズのおばさんじゃダメなんだろう? どうして女子高生じゃなければダメなんだろう? ゲーテはいう。「20代の恋は幻想、30代の恋は浮気、人は40代に達して、 はじめて真のプラトニックな恋愛を知る」俺は40にして、はじめてプラトニックな恋愛ができると思った。20代、30代より、今の方がいい恋愛ができると思ったのに。俺はたまらなくうずくまってしまい、身体の中に寒気を覚え、不思議と身体を前に乗り出して丸まってしまっていた。となりのアベックがいよいよ心配そうに見てきて、彼らに悪いと思って外に出た。とにかく、歩いて、歩いて、歩いて、歩き回った。俺は森林公園の中をひたすら歩いた。メリーゴーランドのように、景色が幾度となく通り過ぎていった。
(渡さなきゃよかったかなぁ?)
やっぱり俺は、ストーカーという生き物ですら、相手が自分のことを何とも思っていないことが判明した以上は、相手をそんなに好きにもなれないと思うのだ。あの夏目漱石ですら、「自分のことを何とも思っていない女とデートをするのは一秒たりとも御免である」と言っている。やはり物書きや、自己愛が強い人間はそういうものなのだろうか? だとしたら、俺が好きだったのは自分?
欲望の不在は欲望の対象を手にしたと同じことを意味する。しかし彼女の存在があるとそれもなかったことにできない。彼女が忘れてくれさえすれば、彼女の記憶がなければ、彼女がいなければ。おそらく、ストーカーといわれる人種も、このために動いているのではなかろうかと思った。この邪魔な感覚。今も彼女がどこかで息をしていて、このことを覚えていると思うと恥ずかしくなってくる。だから、ふと気を抜くと、つい彼女の存在を消しにいってしまいそうになるところがある。この感情を抱えるもののなかにはじっさいに彼女を殺しに出かけにいってしまうものもいるだろう。