8/26 火曜日

(あれ……いない)
渾身の手紙を持っていったら、彼女の姿はなかった。
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ホ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ 俺 ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ホ
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
13時30分。自習室はもぬけの殻になっていた。4、5人の姿しかなかった。ポツポツと社会人の姿があるだけである。いるのは、40、50過ぎの、おじさん、おばさん。学生の姿はまったくなかった。
なんと、図書館に足を踏み入れたのは一週間ぶりとなる。手紙を書いた翌日、すぐに渡しに行こうと思っていたが、マッサージの仕事の新規顧客が入ったり、車検予約があったり、実家に帰省したり、道場に行ったり、図書館の休館日が続いたりで、一週間も持ち越しになってしまった。手紙のインクが古びて読めなくなってしまってなければいいが……。
学生が人っこ一人見当たらないのはなぜだろう? 登校日か何かか? しかしすべての学校が同じ登校日なんてことはないだろう。おかしいと思って、俺は本館の方まで移動してみた。が、学生の姿はなかった。もしかしたら模試でも開催されているのだろうか? そういえば、俺の高校時代でも夏休みの下旬に模試なるものが開催されていたような気がする。もちろん焼いて食ってやったが。
俺はがらんどうになった自習室を見渡してみた。万年資格試験に落ち続けている社会人連中の憎しみに満ちた筆記音だけがする。およそ、彼らは、もうかれこれ毎日、ここ3年間くらい、毎朝、毎日、この自習室にやってきていて、毎回、かならず同じ席に座り、かならず同じテキストを紐解いて帰っていく。天地がひっくりかえっても明日違う席に座ることは絶対ないと言い切れる。なぜか全員PCX125に乗ってきていて、毎朝、駐輪場には6台のPCXが並んでいる。俺も次に買うバイクはPCX125と決めているから、出前館ヒキニートと万年資格受験者はPCXに乗ると相場がきまっているのだろう。
(彼女がいないとつまんないな)
俺は床に下ろしたカバンから、何も取り出さずに座っていた。
8/27 水曜日
今日もいなかった。水曜日のダウンタウンでも見ているのか?
8/28 木曜日
今日もいなかった。
8/29 金曜日
今日もいなかった。
8/30 土曜日
今日もいなかった。
おーい、明日で夏休み最終日だぞ。
これ、もうこねーんじゃねーか? 基本的に行きゃいつもいるもんだから行きゃ会えると思っていた。しかし、そんなグリコのキャラメルのミニおもちゃみたいなものでもない。しかし──俺は思った。もし彼女が学校の特別進学クラスとかだったら、人より登校日が早まることもあるかもしれない。進学校の特別進学クラスとなると、夏休みの終わりから二学期が始まるまでの一週間、特別受講カリキュラムなるものが開催されていることもあるかもしれない。ドラマのGTOでそんなことをやっていたのを見たことがある。俺は気になってスマホで◯◯高校のスケジュール表を調べてみた。するとそんなものはやってなく、しっかり夏休み中だった。
(じゃあなんでこねーんだ? 友達と最後の夏の思い出作りに軽井沢に旅行にいってんのか?)
(俺も連れてけよ……)
8/31 日曜日

夏休み最終日。そんな日を図書館の自習室で過ごそうとする者はホームレスしかいないだろうと思って来てみたらこれまでにない賑わいをみせていた。学生が7割、社会人が3割ほど、席はほとんど埋まっていた。だが彼女の姿はなかった。
俺は後方の唯一の空いている席を選んだ。となりには大学生くらいの女の子が座っていた。あらかじめ自分が座ろうとしている席のとなりに人が座っているときは、気づくか気づかれない程度の小さな会釈をして俺は着席するのだが、俺がその会釈をすると、彼女はパタッとペンの動きを止め、書き物に向かっている真剣さそのものの顔で俺へと向き直り、俺とは比べ物にならないほどの大きな会釈をよこしてきた。
(こっちでいいじゃん)
これの何が不満があるというだろう? ぜんぜん可愛い子だ。唯一不思議なのが、踊る大捜査線で織田裕二が着ていたような緑のマウンテンパーカーを着ていることだ。やはり自習室に来るような子は、カフェに来るような子とは違う。めったなことでは散財しないという倹約精神がこの頃から根づいている。この実用性だけにフォーカスされたパーカーを見て、高校生、大学生においては、たとえこのようなパーカーを着ていてもけっしてマイナスになることはないから、全員がこちらに流れても構わないと思った。
(この夏休み中に渡せなかったとなると痛いな──)
自習室でたくさんの筆記音が流れる中、ひとりたたずみながら俺は思った。俺はなぜだか無性に手紙を渡したくなっていた。戦争といっしょで、一度おっぱじめてしまったら、行き着くところまで行かないと終われないらしい。もう5枚でも10枚でも渡したかった。気持ちなどはどうでもいいのかもしれない。渡しさえすれば──
このままもう二度と会えないのだろうか? 神はもう終わらせた気でいるのだろうか? 俺が”覚悟”さえ持てばよくて、手紙を渡そうが渡さなかろうが、勇気の面では至るところへいったわけだから、もう用済みってことだろうか?
そりゃないぜ、神様。だとしたら、俺は今後運命の人に出会ってプロポーズすることになっても、その決行前日の覚悟がきまった日に、相手はとつぜん行方不明になるってことだ。
なんで俺は実家なんかに帰っていたんだろう? 実家に帰ったところで彼女なんていない。いるのは変な猫一匹だけだ。実家には猫一匹だけが住んでいるのだ。クソ……もう、◯◯高校に乗り込んじまうか? いや、今日は日曜日だ、行っても誰もいない……! つーか夏休みだ……!
俺はただ視線を遊ばせていた。どこをどうやって眺めているかもよくわからなかった。いくつもの頭が並んでいる。大根畑に大根が並んでいる感じだ。中央列の前寄りの席、4列先なのでよく見えないが、髪をひとつに縛ったポニーテール状になっていて、耳の形がはっきり見える後ろ姿があった。いつものヘルメットを被ったような厚めの長い黒髪で覆われている頭と比較すると別人だ。服装は白Tシャツにお姉さんが履きそうなタイト目のペンシルスカート、裾に向かって徐々に細くなっていくシルエットで、自転車が漕ぎにくそうだった。あれで自転車でやってきたということはないだろう。いつもどうやってやってきているのかは定かではないが、おそらく親に送迎してもらっているのだと思う。遠くて、また座っているので確認しずらいが、黒タイツのようなものを履いているように見えた。もしかしたら陰かもしれなかった。髪がいつもより短い気がする。あんなに短くはなかったはず。この一週間のあいだに切ったのか? 体型や、細さは、あんな感じだ。こうなったら、いつものようにペンケースで判断しようと思ったが、これがどうも、彼女が使ってるペンケースは現在、この自習室内で絶賛大流行中のようで、まったく同じハリネズミのペンケースを使っている女の子が、この自習室に、なんと、4人くらいいるのだ!(まったくオリジナリティのない奴らだ)。たしかに、机の上にはハリネズミのペンケースが置かれていた、が、いつもと色が違う気がする。いつもよりくすんでいるような、それでいて、ジッパー部に緑色の大きな長いストラップがついている。
(あれ? あんな緑のヒモなんてついてたっけ?)
おかしい、あんな、緑のヒモなんてついてなかったはず、あんな目立つストラップがついていたら、ぜったいに忘れようはずがない。いや、意外に見落としていただけかもしれない、そういうことはよくあるからな。もしかしたら、この一週間のあいだに新しく付けたのかもしれない。まったく物を増やす女だ。一週間のあいだに、髪を切ったり、ヒモをつけたり、そんなことをされたら……。
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ? ◯ ◯ ホ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
織 俺 ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ホ
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ホ
しかし、彼女が、あの嘘のように髪が長いことが代名詞のあの彼女が、髪を切ったりするだろうか? その線はどうしても考えられそうになかった。以前より15cmは短くなっている気がする。しかし、それもポニーテールにしているからそう感じられるだけで、元の長さは変わっていないのかもしれない。この一週間のあいだに失恋した? 受験生なのに何やってんだよ……。いつものようにバベルタワーのような天界エネルギーを受信しているかのような屹立もみられず、敗者のようにグタァ……というほどでもないけれども、だいぶ崩れているような、ほとんど周囲の生徒と変わらない姿勢だった。肌は前と同じくらいの黒さだ。もともと色白というほどでもない。夏だからしかたなく日焼けしてしまいましたが何か? という肌色をしている。この自習室に集まっている女の子は全員肌が黒かった。全員、同じ髪をして、同じ肌をして、同じペンケースを使って、そのせいで見分けがつかない。今度はリュックに注目してみた。リュックのサイドポケットにはエイトフォーが差し込まれていた。エイトフォーが差し込まれていたら100%彼女だろう。長かった旅路もこれでやっと無事終了だ。物は多いし、サンダルは厚底だし……、しかし、厚底はみんな厚底なのだ。厚底なんて今も流行っているのかしらないが、なぜかこの自習室内においては、ほとんどの女の子たちがみんな厚底を履いていた。みんなそんなチビなのを気にしているのか? 彼女の場合、サンダルの留め具の部分がリボンの形になっているから、それが確認できれば決まりなのだが……、ここからでは留め具までは見えない。リュックにはたくさんのぬいぐるみが付いているが、いつもより1、2匹少ない気がする。ぬいぐるみのキャラクターがいつもと違う気がする。あんな青い生き物は吊る下げてなかった気がする。
(ぬいぐるみが違う気がする)
(でも、エイトフォーが差してあるリュックなんて彼女しかいないだろう)
(いや、わからない。エイトフォーが流行っているのかもしれない。いや、いまさら流行るか? あんなもの)
服も毎回かならず違うものを着てくるから、これまた判断が難しかった。せめて俺が過去にいちど見たことがあるファッションをしてきてくれていれば、この限りではなかったのに。まったくこの夏休み、いちどもファッションがかぶらないことはすごいことだ。万引きしてなきゃいいけど。
!
彼女が弁当箱を持って立ち上がった!
13時45分。やはり遅い昼食だ。この時間に昼食に行くのは彼女しかいないか!?
彼女が立ち上がって振り返ったとき、
(目が白)
女の目の色は白かった。
瞳には何の色も宿していなかった。白い、三白眼の、黒目が小さくて、ほとんど白目の、ほとんど真っ白な目だった。
(ほとんど真っ白)
猫のように黒目が大きくなったり小さくなったりするのか、彼女は。ほとんど黒目がない、こんな目は初めて見た。ほとんど殺人鬼とおなじ目をしていた。ダウナー気質の、暗く、冷徹な、虫をも殺しそうな、血の通っていなさそうな、やっぱり、この子には特別な何かがあるんじゃないかと思った。最初、初めて彼女の目を見たときにも同じような印象を覚えた気がする。ひどく、ダウナー気質の、何か、暗い、ヤバイものがありそうな、魔的な、魔女のようなものを秘めていたような気がする。が、笑ったときはすごい大天使になるわけだ。今回もそれを期待していいのだろうか?
彼女が立ち上がって振り返ったとき、目が合った。2回、目が合った。1回目で目が合ったとき、俺がそのまま逸らさないでいたからだ。
(魔女じゃねーか)
(すごい、高校生であんな冷たい目ができるなんて)
俺はべつにMということもないが、ああいう目はああいう目でいい気がする。高校生という条件に限られるが……。虫をも捻りつぶしそうな、あの血の通ってない感じがいい、もちろん笑ったときに天使になるという条件付きだが。
本当に同一人物だろうか? となりに越してきたときとはまったく別人の空気だ。やっぱり本当に別人だからかもしれない。
これは、行くべきだろうか? 確かに、今日、俺はそのためにやってきた気がする。行こうと思えば行けなくもない……気がするが、こんな気持ちで行くべきだろうか? 手紙ってそんなふうに渡すんだったっけか? もし、今日、たった今、初めて彼女を目撃したとして、俺は彼女に手紙を渡さなかった気がする。でも、今日は渡すためにやってきた。だから渡す? そういうもんだっけか? 手紙を渡すってのは。過去のために渡すというのか? 現在を殺して。
相手だって誰かも分かってないのに渡されたんじゃそんな失礼な話もないだろう。渡しゃあいいってもんじゃないし。いや、渡しゃあいいんだけど。間違って渡してしまったとして、じっさい、そんなに不利益を被るわけでもない。ただ、恥ずかしさがあるだけで。次、本物に出会ったとき、そのときにも渡せば、一応は本人のもとへ届くことになる。問題はそのリスクを犯してまで渡す価値があるかということだ。
親や友達は、これ、いったいどうやって見分けているんだろう? せめて、こっくんこっくん寝る姿が見られれば間違いはないのだけど。今日は、ズテェって敗者のように机に頭を突っ伏して寝ていて、珍しい。こんな寝方は一度もなかった。やっぱり彼女じゃないのかもしれない。それとも、やっぱり、今日は体調が悪いんだろうか?
そうだ! と思った。
歯の矯正をしているかどうかで確かめればいいんだ! 現在、彼女は飲食スペースで昼食中なので、そこに話しかけにいって、矯正装置が見えたら渡す。しかし、それだと話しかけなければならなくなってくる。できるなら、手紙をポンッと渡して、サッとずらかりたい。会話とか、2、3アクション挟むとなると、難易度がぜんぜん変わってくる。
およそもう誰かわからなくなっているが、実態も想像もこえた、ただの概念体。物体でも心でもないかもしれない。俺は誰かもわからない相手に手紙を渡そうとしているのか? それでも……、俺は彼女に渡したい。彼女が好きなような気がする。本当に誰なのかもあったもんじゃないな、ただの概念体。ほんとうに人間というものは、相手が誰なのかもわからずに好きになることができるというのか?
もう、わかんねーけど渡しちまうか?
本当に、一か八かだな。
いや、やっぱり、あんなに子供っぽくなかった気がする。やっぱり何か違う気がする。一週間ぶりすぎて、彼女の顔が本当によくわからない。これは俺のせいか? 俺が頭の中で彼女の顔を勝手流に描き過ぎて、それがだんだん実態からズレていって、現実の彼女をみても見分けがつかなくなったとか? そんなことってあるか? だとしたら、もう答え合わせもできねーじゃん!
神様、誰かわからなくさせるって反則だわ。
まさか、そんな事態は想定しなかったわ。
問題は、次に渡すとして、次に来たときに彼女の顔がわかるかってことだ。今日はっきりしなかったものが、次にはっきりするとはわからない。この一週間こなかったこともあるし、この夏休みが過ぎたらもう二度と彼女に会えない可能性だってある。俺ももうこんなことをずっと考えて、次に渡せる機会はいつとなるかわからないそのときまでこの気持ちを抱えて過ごすなんてゴメンである。俺はどうしたらいい? どうしたい? まだ彼女が好き? まだってなんだ?
今日は無理だな。いったん家に帰って考えよう。
いや、考えたってどうするんだ? 考えたって彼女の顔が変わるのか?
次に会ったとき、俺のことを好きそうな顔をしていれば、渡す?
あーあ、やっぱり、ぜんっぜん、だめ、ぜんぜんダメだわ、
こりゃダメだわ。
ぜんぜんわからん。
こりゃあダメだな。
ダメだぁ……!
今日は、無理だ……。
今日は、無理……、無理……。
勇気はあったんだ。覚悟もあった。俺は今日、本当に、手紙を渡す気でいた。それだけは絶対なんだ。
なのに、なぜ? なぜ、こんなことに?
神様……。