さいきん、道場の練習生の一人が亡くなった。
64歳だった。脳梗塞らしい。もともと空手をやっている人で、体格は大きく、180cm、100kgぐらいある人だ。この人と組んで練習すると、ウエイト差で簡単に吹っ飛ばされた。蹴ったとき、巨大な岩石にぶつかった感触が今も忘れられない。
いつもラーメンの食べ歩きをしていて、俺が焼津に住んでいた話をすると、焼津のラーメンはあそことあそこが美味しいねと、とにかくラーメンの話をする人だった。自営業で、一人でトラックの運送業をやっていることもあって、遠出のたびに全国のラーメン屋を渡り歩いて、それを楽しそうに話す人だった。Facebookにもラーメンの食べ歩きの記録しかない。二郎系ラーメンも完食するらしく、そのせいか、体毛が濃く、脂ギッシュで、体臭が凄かった。
道場生では、この人がいちばん優しかった。雰囲気や波動がいちばん安心させるものを持っていた。妙に暖かい話し方や笑い方をする人だった。不思議と俺がそう思っていることが相手にも伝わるようで、稽古相手として互いを選ぶのが常だった。つまり、いちばん仲良しということである。彼はもう5年くらいこの道場に通っているのに対して俺はまだ半年くらいだったから、時間はあまり関係ないかもしれないと思った。次は岐阜に行くから、岐阜に行ったら何を食べようとか、朝に何を食うか昼には何を食うか、それをいちばんに楽しみにしているようで、 生きるために食べるというよりは食べるために生きているような人だった。こういった人は、物質的なしがらみに束縛され、霊的境地も低いものだと思われるが、俺が見たところ、この人がいちばん道場生の中で優しかった。その体格のように心も大きくて、豪放磊落といったふうにガハハハと気持ちよく笑い、
俺の親父もこういうところがあって、ペヤングのソース焼きそばが大好きで、いつもカップ麺ばかりを食って肉や酒もタバコも大好きで、60手前で血圧が180超えていたり、糖尿病予備軍で病気のデパート状態でいろいろ薬を飲んでいたけれども、それでも人格は高潔だった。俺は親父に一度も怒られたこともなければ、一度も不快に思ったことはなく、反抗期の最中にあっても、ただただ偉大な男だと思ったものだった。子は親を選べないと言われているが、聖典によると、事実は子が親を選んで生まれてくるらしい。俺の最大の恩寵の一つだ。大食漢の優しい人は、少食家の優しい人とはまた違った優しさがある。大食、美食をしても、意志の力や普段の心がけで優しさを失わないでいられるのかもしれない。しかし、健康の方は厳しいようだ。
この人は、とても疲れやすく、いつも腰が痛いとか、肩が上がらないといったり、異常に発汗するところや、体臭が強烈なこと、最近は少しジャンプしただけでゼエゼエと息を切らす有様で、その様子が病気じみたものを感じさせるものだったから、案の定の出来事だった。
まぁ、大食漢といえば、本当のところは、俺もだいぶ大食漢の方である。最近では、周りの友人たちが痔になったり肥満やハゲだったり生活習慣病もちょこちょこ見られたりと、彼らを見ていると、俺だってそうなっていてもおかしくなかったように思う。俺だって昔は、ラーメンなどを食べると、一杯食べるとかえって腹が空くので、最初から何も食わない方がマシと考えるほどで、道の駅とかで売られているサイズのラーメンだったら、3杯は食べないと食べた気がしなかった。基本的に昔から、2、3人前は常食していた。
俺は見ての通り細い体型だけど、だいたい、こういう体型の人の方が大食いの傾向がある。フードファイターの人たちをYouTubeで見ると、男女問わず、ほとんどが細い人ばかりだろう。デブは滅多にいない。おそらく食べたものを吸収しにくい身体なんだと思う。俺も自分で食べたものをちゃんと吸収できていないと思うところがあった。昔から食べてもまったく太らなかった。小さい頃からほとんど噛まずに飲み込んできて、信じられないほど、本当に一瞬で、比喩とかでなくて、一瞬で昼飯のお弁当などを平らげてしまうので、周囲にびっくりされたことは数しれない。そうはいっても、少食にして、よく噛むようにしてからは、今では三食お腹いっぱいに食べたら、それなりに体重が増えるようになった。現在は177㎝で60kgを維持しているが(一日一食の一合の玄米納豆ご飯生活で)、最近は、三食お腹いっぱいに食べると、65kgぐらいは平気でいくようになった。まぁ、年齢もあるだろう。
俺のような人間からすると、もともと少食の人が羨ましい。
※
この人のことを考えると、食べたもので、その人物や、想念が決まるということは、疑いの目を向けざるを得ない。
向けざるを得ないが、想念は、確かに、自分自身の中から自発的に生まれてくるようでいて、食べ物に大きく関係していることは疑いないことである。
我々がくだらないことを思うとき、怒り、憎しみ、怠惰、マイナス的なもの、憂鬱、妬み、嫉み、悲観、こういったものは食事からきている。たった今、生玄米生活をしているこの胸中から考えるに、やはり、今、こうした食生活をしている間は、なかなかこれらの考えが浮かんでこない。エックスとかで罵詈雑言を放っている輩は、その大きな原因の一つに食べ物からきている。彼らがサートヴィックな食事をしていたら、そうはならないだろう。なろうとしてもなれないと思う。もちろん彼らと同じものを食べているからといって、罵詈雑言コメントをしない人もいるけれども。
いつも、下卑た考えばかりが思い浮かぶ人間は、自分がそういうことを考えがちな人間で、それが自分、それが性格であり個性だと考えがちなものだけど、それは違う。肉やジャンクフードや、ラジャスやタマス的なものを食べていると、それに呼応するように、そういった想念が浮かぶ。エロいことなんて特にそうだ。いつもエッチなことを考えている人ですら、食べ物を清浄なものに変えると、うってかわってエロいことを考えなくなる。考えなくなるというより考えられなくなる。これは実体験から言えることだ。
だから、俺はとても言いたいことなのだけど、その人の、その人の周りを取り囲んでいるように、その人が考えていることや、浮かんでくる想念というものは、食べ物の微細のエキスによる反応だということだ。
われわれは皆、自分の源に戻らねばならない。すべての人間は自分の源を探し求めているし、いつかある日そこにやってくるにちがいない。われわれは内部からやってきた。われわれは外部に出ていったが、いまや内部に戻らなければならない。瞑想とは何か。それはわれわれの生来の真我である。われわれは想念と激情でわれわれ自身をすっかり覆ってしまった。それらを脱ぎ捨てるために、われわれは一つの想念、真我に対して集中しなければならない。
ラマナ・マハルシ
↑この覆っているものを自分自身だと考えがちだけど、食べ物からきていると考えられる。
その反面、断食をしていたり、玄米菜食、生玄米、野菜、果物、これらを食べているときは、想念も柔和で優しいものになる。肉食動物と草食動物の性格の違いからして明らかだろう。そして一日中エロいことばかり考えて、学校や職場やカフェで女性をいやらしい目で見て妄想することもなくなってくる。むしろ、そういったことを考えることが苦しくなり、オナニーするのも嫌になってしまうのである。それくらい、ここには雲泥の差がある。これを知っていたら誰も性犯罪者にならなくて済むだろう。彼らは同時に食べ物の被害者でもあるのだ。
だから、我々が考えている性格というのは、摂取している食べ物の性質からきている部分がとても大きい。その人が勤勉になるのも怠惰になるのもエロくなるのもエロくならなくなるのも頭が良くなるのも愚鈍になるのも、しっかり者になるのも注意力が低い人間になるのも、善人になるにも悪人になるのも、食べ物からきているところが極めて多い。意志の強さもここに関わっており、意志を貫徹して成し遂げたいことがあるなら、食べ物から変えていかなければならない。人は食べ物によって変わるのである。
特に、心と言われるものは、激しく飛び回る傾向があり、これを収めて、心を静かにして生きていくことが霊性修行において、そして人生において大事な要素になってくるが、これは食べ物が大きく関わってくる。
身体と生命は食物を基盤とし、食物によって支えられています。ですから、私たちがどこまで目的地に達成できるかは、食物によって決まります。人間のすべての行動は、摂取された食物により引き出されたエネルギーによって決まります。食物の性質が人の想念、感情、行動の性質を決定します。霊性修行の成功はその人の摂る食事の量と質に左右されます。
サイババ
幸福で平安な人生を送りたいと望む者は、自らの感覚をコントロールしていかなければなりません。感覚器官の中で最も重要なのは舌です。舌を征服できれば、それは事実上すべての感覚を支配したのと同じことになります。時としてあなたがたは、舌を満足させるためにあらゆる種類の食べ物を口にしますが、そのことによって、欲望や怒り、貪欲さ、執着、傲慢、利己主義などの悪い資質が自らの内に育つことを知らずにいます。貪欲な舌を抑え、心を落ち着かせる浄らかな食物のみを摂取しなさい。娯楽も浄性のものにしなさい。そうすれば心身の病気にかかることはありません。病は怠慢と欲望におもくままの行いからくる避けられない結果であり、健康は厳しくたくましく生きることへの当然の結果なのです。
サイババ
食物は、敏捷か怠惰か、心配性か落ち着いているか、聡明か愚鈍かを決める重要な要因です。想念は食物と環境から生まれます。サトウィックな(浄性な)食物のみを食べ、善なるもののみを望むなら、善い想念しか湧きません。想い、欲望、願望は、その人の摂取する食物の種類に関係します。私たちが口にする食物は、将来私たちが自らのために獲得するであろうものを、様々な方面から決定しているのです。どのようなものが心に芽生えるかは、摂取する食物によって決まってくるのです。
サイババ
霊性の向上を熱望する者は、浄性の食物が極めて必要となります。エゴも執着心も不適切な食物を消費する結果です。悪い種類の食物や、不正な手段で手に入れた食物は、いくつかの面で人間を無知という奈落の底に落とし、純粋な想いが浮かぶのを押さえつけます。食物は人間の生命力、肉体、心、人格の主原因です。心は我々が摂取した食物を反映しています。
サイババ
私たちが食べる食物を含め、あらゆる細胞には潜在的な知性があり、私たちの心と脳細胞に影響を与えます。
生の果物や野菜・ナッツなどは、調和的で活性化する効果を心にもたらし、生命力を体の隅々まで滞ることなく流れさせます。
パラマハンサ・ヨガナンダ
死んでいく動物の痛みや恐れ、怒りの波動を有する肉や変質された食物は心の落ち着きを乱し苛立たせるものであり
体のあらゆる部分を癒すように生命力を向かわせるという生まれ持った力を奪います。
動物の磁力はあなたの霊的な磁力に干渉するため、肉を食べ過ぎるとあなたの磁力が失われます。
肉はあまりにも物質的な次元に集中させすぎるので、あなたは霊的な仲間のかわりに物質的な仲間を引き寄せる傾向に陥ります。肉はまた、異常な性生活を引き起こします。
パラマハンサ・ヨガナンダ
ヒューマン・マシーンは車や蒸気機関車によく似ている。
機械のエンジンの性能は主として供給される燃料によるが、
同じようにヒューマン・マシーンの状態も大部分はその人が食べる食物によって決まる。
パラマハンサ・ヨガナンダ
【食物の三つの心理的な性質】
サトイックな食物:道徳的、霊的な性質
例:果物、野菜、全粒穀物、豆類、蜂蜜、新鮮な乳製品、ココナッツミルク、ピーナッツやアーモンドのペースト、ナッツ
こうした食物は落ち着きや高潔さを生み出す
ラジャシックな食物:活動的で世俗的な性質
例:玉ねぎ、にんにく、卵、西洋わさび、かぼちゃ、じゃがいも、ピクルス、スパイス類、魚、鶏、羊
ラジャシックな食物は活動的で世俗的、強さ、心の感情的な性質を生み出す
タマシックな食物:心を暗く憂鬱にさせる、あるいは鈍くする性質
例:ロクフォール・チーズ、冷蔵食品、アルコール、牛肉、子牛肉、豚肉
臭いがきつかったり腐敗している、または人工的に作られたものはタマシックであり、
こうした食物は優越感や嫉妬、貪欲、執念深さを生み出す
「(以前説明したヒンズーの四住期に関連して、)彼(ラマナ・マハルシ)は彼の帰依者たちが瞑想的な生活の為に世間的な責任や義務を放棄することを、一貫して拒んできた。そして物理的な環境に関わらず、誰にとっても平等に真理を実現することは可能であると主張してきたのだった。……彼が唯一認めた物理的変化は食習慣についてだった。彼は食事のタイプが人の想念の量と質に影響を与えるという、ヒンズー教徒の間に広く行き渡った食養生についての理論を受け入れていた。そして適度な菜食主義の食事をすることが、霊的な習練にとって最も有益な助けとなるとして勧めてきた。シュリー・ラマナが認めたヒンズー教の食養生の理論は、それらを食べることで引き起こされる精神状態に従って食べ物を分類している。
1.サットヴァ(純質):乳製品、フルーツ、野菜、穀物がサトヴィックな食べ物とされる。これらの食品から成る食事は、霊的修行者が静かな心を保つ助けとなる。
2.ラジャス(激質):ラジャシックな食べ物は、肉、魚、唐辛子、たまねぎ、ニンニクのような香辛料の効いた食事を含む。これらの食べ物を食べることは活動的な心をもたらす。
3.タマス(暗質):腐りかけた或いは新鮮では無い食べ物、アルコールなどのような発酵過程を経る食製品はタマシックな食事とされる。これらの食べ物を食べると、解決力を持つ明晰な思考を妨げ、無関心で鈍感な心の状態をもたらす。」
因みに筆者は、ニンニクは野菜だから、てっきり問題無いと思って食べていたのであるが、ラマナ・マハルシによれば、霊的な修行者には好ましい素材ではないということになる。そう云えば、確かヴィヴェーカナンダも、ニンニクはその性質から、修行者には適さないということを彼の著作の中で触れていた。
質問者 あなたは肉やアルコールをやめることを勧められるのですか。
マハルシ そうです。そうすることが最初は有用な助けになるのです。それらのものを止めることが難しいのは、本当に必要であるからではなく、それらのものを摂ることが習慣になっているからです。心が真我の実現の内に堅固なものになるまでは、心にとどめるべき映像や観念をもたねばなりません。さもないと、瞑想は急速に眠りと(さまよえる)想念に道を譲ってしまうでしょう。すべての食物には微細なエキスがあります。心に影響を与えるのはこれです。そこで真我を見出そうとして瞑想を実習している人にとっては、それに従うことが望ましい食事規則が作られています。サトヴィックな食物は瞑想を助長しますが、肉のようなラジャシックな食物やタマシックな食物はそれを妨げます。
仏法は精神を治めることを基本とするゆえに、食を慎むのである。
なぜなら万事心が乱れることは、みな飲食を基本として起るからである。
飲食を慎むときは心静かになり不動心を得る。
不動心を得れば、その道を得ることはたやすい。水野南北
すべての規則制限の中でも、適度な量の清らかな(サートヴィック)な食事を摂るという方法が最上のものである。これを守ることによって、心の清らかさは増し、真我の探求の助けとなるだろう。
ラマナ・マハルシ
「フンザ食で無病だったネズミとイギリス食で狂ったネズミの実験」
フンザが世界に知れ渡るようになったのは、1920年代にインド栄養学研究所の所長であった英国人ロバート・マッカリソンがフンザ人の食事について興味深い実験を試みたことが契機である。
それは健康な白ネズミを約1000匹ずつ三つのグループに分け、それぞれにフンザ食、インド食、イギリス食を与えて人間の寿命の50歳に相当する27ヶ月間飼育し、その後病理解剖して比較検討するというものであった。
この実験で用いられた飼料は、
1、フンザ食ではチャパティ、もやし、生にんじん、生キャベツ生牛乳(殺菌牛乳ではない)
2、インド食では米、豆類、野菜、肉など、インド人が日常食べている調味料を使って料理したもの。
3、イギリス食では白パン、バター、ミルク、砂糖入り紅茶、野菜の煮付け、缶詰の肉、ハム、ソーセージ、ジャム、ゼリーの類であった。
その結果、フンザ食のグループでは全てのネズミが例外なく健康であったのに対し、インド食のグループでは多くの例で眼疾、潰瘍、腫瘍、不良歯、脊柱後湾、脱毛、貧血、皮膚病、心臓病、腎臓病、胃腸障害などが認められた。
さらにイギリス食のグループとなると、大半が同じような異常の他、神経系まで侵されて凶暴化し、お互いに噛み殺し合う地獄絵図ともいうべき光景が見られたという。
食は運命という古人の言葉があるが、上のことはおそらく人間の場合にも当てはまる。いわばその縮図とも言えよう。以後この手の実験は数多く行われていて、どれも同じような結果が報告されている。
※
このことから、もともと人間というのはマイナス的なものを発想する生き物ではなく、それは食べ物のせいであって、しかるに、人間のもともとを辿れば、楽天的で、性善説なるものがうかがい知れる。タマスの性質をもつものを摂りすぎると、精神的に気分が落ち込んだり、やる気の低下を引き起こすと言われているが、鬱っ気のある人はここからきていると思う。食べ物を変えれば鬱も治ってしまうと思われる。これは個人的な体験から言えることである。
というところで締めくくりたいところだけど、食べたものと想念が必ずしも結びつくとは、言い切るのは難しいところがある。
亡くなったこの方のように、大食漢だけど立派な人もいる。そして、どちらかというと、個人的な印象で言えば、大食漢の人の方が高潔で能力が高い人が多いような気がする。また、優れた文学作品や漫画やお笑いなんかを見ていても、ほぼ例外なく優れた人はみんな大食漢である。小説界でいちばんの天才と言われているバルザックの大食いは有名だし、ドストエフスキーもいつも何かをポリポリ口にしていたと家族は証言しているし、夏目漱石も胃癌で糖尿病になって臨終の際まで甘いものを食べていて、奥さんが食べ物を隠しても見つけ出して食べてしまったというし、太宰治もたいへんな大食漢だというし、漫画界の一番の天才の手塚治虫も超がつくほど大食漢だし、水木しげるや、ゲーテもそうだし、お笑いで言えば、天下をとったまっちゃんや有吉も大食漢だし、その他にも、たいてい面白いと思う人や作品の作り手は大食漢であることが多い。ワンピースも最初は面白かったけど、だんだんとつまらなくなっていたのは、その食事の変化にあるのではないかと思う。作者は連載初期はこってりした中華料理をよく食べて青椒肉絲が大好物だったそうだが、今はチョコレートを時たまかじるだけというが、それが作品に表れている気がする。
とくに、面白い発想などというものは、邪で、魔族的なものに由来するもので、ラジャスティック的な激情や、馬鹿馬鹿しいほどジャンクじみたものも必要になってくところがあり、座王なんかを見ていると、みんな酷い見た目をしている。いかにもジャンクフードをガツガツ食べている見た目だ。しかし、そういう人の方が面白い。彼らが少量のサートヴィックな食事を摂るようになったらつまらなくなってしまうのではないかと思う。つまらなくならなくても芸の質は変わると思う。まわりの知人友人も、下卑たものを食べている方が高潔で優しくて面白い場合が多い。そもそも人は、いつも水と空気だけを食べている人間の芸や作品なんて見たくないかもしれない。ひどく無味乾燥な気がしてきて、ミネラルウォーターみたいな作品よりも脂っこいコッテリした芸のようなものの方が強烈でおいしい味に感じると思う。それは彼らがその域で食生活をしていることもあり、同じようなものを食べて同じように発想する人間の方が親和性を感じることも手伝っているように思う。まぁ、もっとも、文化的な面で貢献する場合はこの限りではなく、ラマヌジャンなどの大数学者は、「神を表現しない方程式は私にとって無価値だ」といって、ヒンドゥー教の掟を厳しく守り菜食を貫いたそうだが、数学はそれでいいかもしれないが、エンタメや芸術はどうだろう。あまり綺麗で透きとおりすぎたものというのはね。
俺自身も、食べたものによって書くものが変わってきてしまうところがある。変わらずにはいられないのだ。今、こうして生玄米を食べていると、バカなことや下品なことを書くのが難しくなってしまう。できればいつも、めちゃくちゃ面白いものを作って爆笑させてやりたいと思っているけれども、サートヴィックな食事をしていると難しくなる。とても静かになってしまって、そういう気分になれなくなる。反対に、肉やジャンクフードを食べると、情緒的で、激しく、感性的で、野心的で、ラジャスティックになり、そしてそういった作品の方が他者から見ても人気が高く、自分でも後から見返して面白いことが多い。静かな食事や、何も食べていなかったりすると(断食中など)、たいてい、つまらないものになる。
「夜は朝食を思い、朝は昼飯を思い、昼は夜飯を思う。命は食にありと、この諺の適切なる、余の上に若(し)くなし。自然はよく人間を作れり。余は今、食事のことのみを考えて生きている。」と夏目漱石も言っている通り、バルザックも晩年は糖尿病になって失明したりと、芸術家はこういうタイプが多い。生来のサットヴァと後天的なラジャスの性質がぶつかり合うことによって傑作が生まれるのか、宗教家には極めて少なく、純粋なサットヴァな食事を守るタイプが多いが。
運動方面において考えてみる。
井上尚弥なども、練習後は毎晩焼肉屋に行って、焼肉を十人分ぐらいぺろっと平らげるようで、凄まじい大食漢として有名だが、名だたる運動選手は大食漢が多い。プロ野球界においても食が細い人間は成功しないというジンクスがあるようだ。しかし、個人的体験や色々な文献から得た情報から考えるに、少食にした方が頭も冴えるし体も軽くなるし、疲れも抜けてスタミナも続くようになる。俺などはほとんどマラソンはしないけど、マラソンを趣味にしている友人と走りに出かけると、彼と遜色ないくらい走れてしまうところがある。これは菜食からきていることは自分でわかる。肉ばかり食べていた頃と比べて、この差は甚だ大きい。↓このような文献もある。
明治期までの日本人が、今と比べればとてつもない体力を持っていたということは、当時日本を訪れた外国人の残した多くの文献に記されている。今回はその中の幾つかを紹介してみたい。
まずは、ドイツ帝国の医師・ベルツの手による「ベルツの日記」から。
エルヴィン・フォン・ベルツ(1849~1913)はドイツ生まれ。ライプツィヒ大学で内科を修めた後、27の歳に明治政府によって招聘され、以後29年間日本に滞在する。幕末から明治にかけて日本が「殖産興業」を目的に先進技術や学問・制度を輸入するために雇用した、いわゆる「お雇い外国人」の一人だった。東京医学校(後の東京大学医学部)において医学や栄養学を教授し、滞在中日本人女性(花子)を妻に娶っている。
そのベルツが、ある日東京から110km離れた日光に旅行をした。当時のこととて道中馬を6回乗り替え、14時間かけやっと辿り着いたという。しかし二度目に行った際は人力車を使ったのだが、なんと前回よりたった30分余分にかかった(14時間半)だけで着いてしまった。しかもその間は一人の車夫が交替なしに車を引き続けたのだった。
普通に考えれば、人間より馬の方が体力があるし格段に速いはずなのだが、これではまるで逆である。この体力はいったいどこから来るのだろう。ベルツは驚いて車夫にその食事を確認したところ、「玄米のおにぎりと梅干し、味噌大根の千切りと沢庵」という答えだった。聞けば平素の食事も、米・麦・粟・ジャガイモなどの典型的な低タンパク・低脂肪食。もちろん肉など食べない。彼からみれば相当の粗食だった。
そこでベルツは、この車夫にドイツの進んだ栄養学を適用すればきっとより一層の力が出るだろう、ついでながらその成果を比較検証してみたいと、次のような実験を試みた。「ベルツの実験」である。22歳と25歳の車夫を2人雇い、1人に従来どおりのおにぎりの食事、他の1人に肉の食事を摂らせて、毎日80kgの荷物を積み、40kmの道のりを走らせた。
然るところ肉料理を与えた車夫は疲労が次第に募って走れなくなり、3日で「どうか普段の食事に戻してほしい」と懇願してきた。そこで仕方なく元の食事に戻したところ、また走れるようになった。一方、おにぎりの方はそのまま3週間も走り続けることができた。当時の人力車夫は、一日に50km走るのは普通だったという。ベルツの思惑は見事に外れたのだった。彼はドイツの栄養学が日本人にはまったくあてはまらず、日本人には日本食がよいという事を確信せざるをえなかった。また彼は日本人女性についても「女性においては、こんなに母乳が出る民族は見たことがない」とももらしている。それらの結果、帰国後はかえってドイツ国民に菜食を訴えたほどだったという。
西欧人から見れば粗食と見える日本の伝統食が、実は身体壮健な日本人を育てる源泉だったという証左は枚挙にいとまがない。例えばフランシスコ・ザビエルは1549年(天文18年)に、「彼らは時々魚を食膳に供し米や麦も食べるが少量である。ただし野菜や山菜は豊富だ。それでいてこの国の人達は不思議なほど達者であり、まれに高齢に達するものも多数いる」と書き残している。
また、ダーウィンの「進化論」の紹介や、大森貝塚の発見者として有名なエドワード・S・モース(1837~1925)も1877年(明治10年)から都合3度来日しており、次は彼の記録「日本その日その日」からの引用である。「ホテルに所属する日本風の小舟が我々の乗船に横づけにされ、これに乗客の数名が乗り移った。この舟というのは、細長い、不細工な代物で、褌だけを身につけた三人の日本人ー小さな、背の低い人たちだが、おそろしく強く、重いトランクその他の荷物を赤裸の背中にのせて、やすやすと小舟におろしたーが、その側面から櫓をあやつるのであった。」
「七台の人力車を一列につらねて景気よく出立した。車夫の半数は裸体で、半数はペラペラした上衣を背中にひっかけただけである。確かに寒い日であったが、彼等は湯気を出して走った。ときどき雨がやむと幌をおろさせる。車夫たちは長休みもしないで、三十哩(今でいうおよそ50km)を殆ど継続的に走った。」
肉常食者と、そうでない人の実験結果から、「腕を支える力」については、肉常食者15人のうち、15分以上腕を伸ばしたままでこれに耐えられる人は僅かに2人しかおらず、肉を食べない人の場合は、32人中、23人がこれに耐えられたとある。
更に時間を30分に延長し、これに耐えられた肉常食者は一人もいなかった。一方、肉食をしない人のうち、15人がこれに成功したばかりでなく、そのうちの9人は一時間を経過し、そのうちの一人は3時間を突破していたのである。
また、スクワット(上半身を伸ばした状態で、膝の屈伸をする運動で、大腿部の強化を目的とする)については、肉常食者では300回以上できた者は非常に少なく、実験終了後、ろくに歩く事が出来ない者が続出した。
一方、肉を食べない者は、1800回もやり、この実験が終っても疲れを見せないどころか、その中には、2400回を越える者が数人居り、その中に一人は5000回まで達した者がいたと言う。
更に追言としてあげれば、この実験の被験者として選ばれた「肉食をしない人達」は、特別な運動の訓練も、スポーツも何一つ体験した事のない一般の人達であった。
一方、肉常食者は全員が運動やスポーツ体育の専門家であり、こうした専門家でありながら、何もやっていない人に、専門家が負けたのである。
こういう記述もあることから、ベジタリアンにしてしまった方が、井上尚弥ですらもっと強くなるんじゃないかと個人的には思ってしまうけれども。心だって菜食にした方が静かになって直感も冴えて、見切りも良くなり、練習中にいいアイデアが湧くと思うし、選手寿命も長くなると思うのだけどね。まぁ、あれだけのパフォーマンスを見せられたら、ただ彼の強さに敬服するほかないが。あの強さは肉食からきていると言われたら、それはそれで納得してしまうところもある。イチローなんかもジャンクフードばっかり食べていたようだ。
少なくとも、大食漢や肉食家や美食家やラーメンを巡ってばかりの人にも人格者はいる。芸達者や運動ですごいパフォーマンスを出す人もいる。ヨガナンダ先生はこう言っている。
忘れないでください。
あなたの中に入るものだけでなく、あなたの中から出るものが
あなたが何者であるかを決めるのです。
肉を食べる人のなかには清らかで自制心のある人もいれば、
野菜と果物しか食べない人のなかには不正直で抑制されていない人生を送る人もいるかもしれません。
何よりも正しく食べ正しく考え、瞑想して、昼も夜も神の喜びのなかに生きてください。パラマハンサ・ヨガナンダ
体の大切さを強調しすぎたり、食事に関して潔癖になりすぎないように。
マインド・パワーはそれよりももっと重要だからです。カロリーやビタミンにしか興味のない、食物に関して凝り固まった人々がいて
彼らは人生のほかのもっと興味深い側面にどうしてそんなに気づかずにいられるのかと思うまでレタスとナッツ、レタスとナッツのことしか話しません。
バランスの良い食事を選んでそれを守り、体のことは忘れなさい。
人生のもっと重要な学びと課題のために自分の時間を注ぎ込みなさい。パラマハンサ・ヨガナンダ
十分なWILL POWER(意志力、自制心)を持っていないなら、WON'T POWER(しない力)を発達させるように努力しなさい。
ディナーの席についているときにミスター・グリード(食い意地さん)がもっと食べるように誘ってあなたの自制心に麻酔をかけ
消化不良の落とし穴にあなたを放り込むとき、自分を観察しなさい。
正しい質と量の食事をした後、自分にこう言うのです。
「私はもうこれ以上食べません」
そして席を立って逃げるのです。
誰かが「ジョン、戻ってきてもっと食べなさい。おいしいアップルパイも忘れないでね」と呼びかけたら
ただ言い返してください。
「食べるもんか!(I won't !)」パラマハンサ・ヨガナンダ
我々が思っているほどに我々は我々ではなく、ただ摂取した食物の反応があらわれているに過ぎない、という論旨は曲げるつもりはない。確かに、サットヴァの食事をしていると、闘争心や競争心がなくなってしまい、毒もエロもなくなってしまい、ほとんど何もなくなってしまう。しかし、その静けさの中でしか、見えてこない部分もある。今はそれを追い求めたいので、実験を続けていく。この静けさは食事でしか得られないと思っている。
道場といい、ボクシングジムのおじさんたちといい、せっかく運動をしているのに、ひどいものを食べて、ひどい身体をしていることが多い。やれ腰が痛い、肩が上がらないとか、やたらと汗をかくし、やはり彼らを見ていると、運動より食事のほうが大切だという気がしてくる。人格として、芸術として、アスリートとして、有益かどうかはわからないが、少なくとも健康を害することは確かなようである。