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鬱病なんて存在しない

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(鬱病なんて存在しないんじゃないか?)

となんとなく思っても、それを口にしてしまったらひどい袋叩きにあってしまうから、誰も口には出さない。

「鬱病なんて存在しない」というタイトルで、昔の2chでスレを立てた時、炎上して4スレッド消費した。俺が大学3年生の時の話だ。鬱と真正面から戦っていた頃である。誰1人、俺側に立ってくれる人はなく、ひどい袋叩きにあった。だが、あれから10年経つが10年間全く意見が変わることなく、今も同じ論旨を持ち合わせている。
当時の俺は誰よりも憂鬱と戦ってきた自信があり、太宰治よりも死と格闘した自信もあった。だがそんな証拠は示せるはずもなく、大学生ということだけで嘲笑され、「俺の方が鬱といっぱい時間を過ごしてきたから鬱の何たるかを……鬱の奥深さを知っている……! 鬱だけじゃない、この世の感情思念体の全てをピアノの音階のように網羅してきた! 俺にはわかるんだ、鬱の浅瀬にいるあなた方が溺れているのは気のせいだ、ちゃんと足はつく!」と大声で喚き散らし、その声は虚空に消えた。

現代は西洋文明に浸かりっぱなしで科学的に証明されたものは肉体的なものであれ精神的なものであれ、我々は全て鵜呑みにしてしまう。俺がここで鬱病はないと示しても世の中は何も変わらない。それでもみんなが言わないキャッチーな文句だろうから、それなりにみんなの心に響くだろう。別にキャッチーな感覚を与えたいわけではない。炎上目的でもなく、アクセス数を増やしたいわけでもない。ただ幻想を打ち破りたいだけだ。

鬱の正体は「将来への不安」である。人間は不安を作り出す天才で、今現在の問題に対して苦しんでいる人は実はいなくて、例えばブラック企業に勤めていて苦しんでいる人も、決して目の前の過酷な生活に苦しんでいるわけではない。この会社を辞めて裸一貫になってやり直しても、同じような会社で同じような境遇にあい、同じような気持ちになるに違いないと踏んでいる。例え転職してホワイト企業で毎日5時に帰宅できても、結局言われた仕事をこなすだけで、自分の時間は数えるほどもない。働くということは一生自分の時間を奪われるということだ。自分の時間を奪われるということは死んでいるのと同じだ。じゃあ起業したりフリーランスを目指したとしても、やっていける自信もない。将来に対して、盤石と思える技術も自信もないのだ。だから今より多少楽になるのを求めて転職しても五十歩百歩なのだ。一見現状への不満に思えるが、将来への不満なのだ。自分の人生は永遠にこの輪廻にあるのだ。だから結局面倒になって、そのまま企業に居続ける。会社員だろうが大学生だろうが主婦だろうが、自分に自信を持てず、外側の何かに依存しなければ生きていけない将来を想って鬱になるのである。

 

みんなが「鬱病はあるよ!」と信じて病まない理由は、医者が病気として診断しているからに過ぎない。
解剖学のように目に見えて臓器の損傷が見て取れるならともかく、「ご飯は美味しく食べれてますか?」とか頭の悪い質問を禅問答のように繰り返す果てに何がわかるというのだろうか。来人があまりにも切なそうで深いため息をついて話すのを見て、空気を読んで判を押すしかないというのが医者の心理だろう。きっぱりあなたは鬱病ではないと目の前の人に言える勇気に欠けるのと、経済的に見て医者にとって病気の種類が増え、病人が増えることは好ましいので、口に葉っぱを加えて白いタンクトップを着たガキ大将以外の来客は全て鬱病にしている。

病気と診断された瞬間の彼らの満面の笑みといったらない。これまであんなにビクビク震えて話していたのに、「本当ですか!?」と一瞬宝くじに当たったような顔をする。

そもそもこの世に病気というものがあるかどうかも怪しい。肝が硬化したから肝硬変なのであり、肝硬変だから肝臓が悪いわけではない。病気というのは、症状を分かりやすく整理する為に便宜上後付けで名付けをされただけに過ぎない。そして〇〇症と、もったいぶって仰々しい物言いで宣告されると、自分の身体にものすごいことが起きていると思って、(〇〇症……〇〇症……)と念仏のように繰り返し、ただの解剖学的器質の変化をメダルの受賞のように厳粛で格式高いものだと思ってしまう。

下手に鬱病と診断されてしまうと厄介で、「私はやっぱり病気だったんだ」
「これで胸を張って自分は立派な欠陥品だと言える」
と自信をつけてしまう。周りも納得してしまう。国も金を払わないといけなくなる。彼等の顔にこう書かれている。
「この先、何ひとつ物事が上手くいかなくても、みんな私を温かい目で見守ってくれる。その権利を得た」
先程の件と合わせて、医者にとっても患者にとってもお互いが得するようにできているのがこの病気の質の悪いところである。

 

人間の心は沈んだり浮いたり、元気が出たり出なかったり、楽しかったり辛かったり、双極を行き来している。特に日本では謙虚が美徳とされ、あまり調子に乗って生きていると矢面に立たされてしまうから、何かと辛い顔をして生きているほうが都合がいい。
ただ生きているだけで辛いことはいくらでも押し寄せてくる。良いことに比べて悪いことの方が10倍多いだろう。あまり楽しい気分に照準を合わせていると後が怖いので、基本的にはやや暗めのトーンに自分を置いた方がいい。だから現代では多少鬱気がある方が正常と言えるのだ。「私は今、幸せでいっぱいです!」という顔をして過ごすのは周りが許さないし、それ以上に自分の目が気になってしまうだろう。幸せが逃げていくのではない、自分から逃げてしまうのだ。

そうして日中鬱状態として過ごし、軽い鬱と結びついてはたまに訪れるMAXパワーの鬱とも迎合してしまい、また軽かったり、あるいはそこそこの鬱だったり、色々な強さの鬱とひたすら共存して何年も過ごす。
基本的に人間の精神や考えていることは現実世界に具現化され、残念なことばかり考えていると、その通りのことが起こるようになる。いつも鬱状態をニュートラルとしていると、ハゲるし臭くなるし背も小さくなる。すべて悪いことしか起こらなくなってしまう。

そうして二極ある柱の鬱側に心を接近させて固定化された状態、すなわち鬱が板についてくると、自分でも鬱に対して立派な自信が生まれる。医者の前で演技をすることなく立派に病人っぽい受け答えができてしまうようになる。自分の口から飛び出る言葉も目も内容も抑揚も申し分ない。

鬱病と診断された後は、大海を得た魚のように息を吹き返して、さらなる深海へと進むことになる。肉体の病気と違うのは、病気だから治していこうではなく、病気だから仕方がないという方へ進むことになる。自分の心は他人と違う構造でできていて、曲がったり、凹んだり、変形してしまっていると思っている。「病気」だから、そういうものだと思っている。

 

つまり、俺が思う鬱病と呼ばれているものの正体は、「不安な心持ちに長期間にわたって執着して固定化されている状態」である。それを格式高そうに病気として名称付けているのである。つまり、鬱病の正体は不安への執着であり、不安の正体は将来に対する不安である。

憂鬱というものは案外気持ちがいいものだ。右上の辺りにいつも浮かんでいて、それに意識を合わせるとすぐに鬱と一体化できる。深く意識が沈んでいって、集中状態になり、ゲームやスポーツに熱中しているような充実感がある。特に日本人は真面目だから、この解きがいのあるパズルに挑戦してしまいたくなるのだ。自分の心にしろ、他人の心にしろ、心と遊ぶものは楽しいもので、それが例え自傷行為でも、限界いっぱいまで心をいじめてやるのは楽しいのである。楽しいからみんな不安に執着するのだ。YouTubeをずっと見続けてしまうのと何も変わらない。YouTubeのチャンネルのように、いくつも用意された心の窓から、その時の気分に合った最適な不安を選び、堪能している。

だが、ここからが重要なのだが、この世界に不安なんてものはないのだ。繰り返す。この世界に不安はない。そもそも心というものすらこの世界には存在していない。
好きとか嫌いとか愛してるとか愛してないとか仕事が辛いとか辛くないとか、いつも激しく動き回っているのが心だけれど、その動き回っているのは何だろうか? 本当にあなただろうか? 心とは、長年の習慣に渡ってこびりついた根付いた汚れであり、風呂場の汚れ、部屋のホコリやカスのようなものである。あなた自身は風呂であり部屋なのだ。決して汚れ側ではない。鏡なのである。何一つ曇りのない鏡なのである。それがあなたの正体であり、本当のあなたなのである。

最近では自分探しと言うと、笑われるどころか、最も人を不快にさせてしまう言葉であるけど、自分探しは素晴らしいものだ。自分は決して外にはない。日本中をロードバイクで駆け回っても見つかるものではない。ちゃんと心の内側にある。あなたが自分自身だと思っている心も不安も存在しない。それは決してあなたではない。
心も不安も外側にある何かであり、内側にはない。心も、不安も、意識が外側に向いたときにだけ結びついてしまうものだ。外側にあるものはすべてあなたのものではない。

あなたがコーヒーカップだったら、その容器に入れるコーヒーが不安なのである。決して不安は自分の内にはない。あなた自身が不安でないと落ち着かなくて寂しいから、自分から外側へ意識を向けて不安を誘いにいくのである。
スマホやパソコンが自分ではなく外的物質だと分かっているが、鬱や鬱と一体になっている自分を外的物質だと思わないのが哲学的無知たるゆえんである。スマホと結び付いて意識が遠く離れたところに連れて行かれた時は、本来のあなたではない。不安と結びついて、また別の遠くどこかに連れていかれたあなたも、それは本来のあなたではない。

自分の正体を不安の塊だと思っているから苦しむのだ。そして苦しんでいる自分もまた自分自身だと思っているから手放せないのだ。自分なんてものはなく、心というものはなく、ただ外側の何かに結びついて発生したエネルギーなのである。そしてそれは真実ではない。不安が自分自身だと思っているから、不安が大好きだから、鬱病と称させる何かになってしまうのだ。

それは病気でもなければ、わざわざ親切に名刺を作ってやる必要もない。汚れは汚れ以上の何者でもないのだ。ただ捨てるだけでいい。脆弱な人間が、悪い方に息を吹き返すだけで、世の中を衰退させるだけである。

この世には何もないんだから、何もないのだ。不安はよそからきた何か。そういう風に認識して、心に去来してくるすべてのものに全く取り合わない。それが正しい生き方なのである。お菓子やアーモンドと一緒で、癖になってやめられない外的物質が不安の正体なのである。

いつもバカみたいにポカンと口を開けて、テレビ漬けになったり、くだらないゴシップ記事を追いかけたり、感覚のままに口に物を入れたり、不安もそれらと同じでくだらない惰性の生活習慣なのである。

それを病気というのはどうだろうか。あなた自身は病気ではないのだ。不安は外にあり、あなたの所有物ではないからだ。あなた自身は生まれてからこれまで何一つ怪我も汚れもしたことはないのだ。不安、それ自体を取り出して成分を調べてみると、確かにそれは病気と診断してもいいだろう。だがあなた自身は病気ではない。

既に鬱病はセロトニンの服薬で治ると言われてきているが、そんなものに頼るよりも、心や不安の正体を概念的に理解する方が、遥かに魂の成長を促し、すべての外的要因に立ち向かえる強さを手に入れられるだろう。

外側に存在する不安とくっついて一つになっている時のあなたですら、それはたまたま汚れた服を着ている時と変わらない。本来の肌は何一つ汚れていないように、決してあなた自身は汚れることも傷つくことも病気になることはない。

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