綺麗な女を見ると、じーっと見続けてしまう。俺の悪い癖だ。いや、綺麗じゃなくても、女の顔なら、じーーーっと見続けられてしまう。女と一緒にいる時でもやってしまいそうになる。昔からの悪い癖で、直さなければ、直さなければ、と思ったまま37歳になってしまった。川端康成も女の顔をじーーーっと見つめる癖があったという。あの、まんまるとでかい目で、睨みつけるように女の子を見るらしく、そのせいで泣いてしまう女性もあったという。でも、誰だって透明人間になったら、異性の顔を凝視するだろう。胸でもないケツでもない、顔だ。女の顔は不思議だ。男と比べると、誰もが、一枚か二枚ベールを被っている。化粧のせいもあるかもしれないが、心にも化粧をしている。神性といえば神性だ。どこにでも転がっているといえばどこにでも転がっている。少し見れば、ああ、俺とは縁のない顔だなとすぐわかってしまう。だから乃木坂なんて見ても、菊池姫奈とかいう顔を見ても、タイプの顔があったとしても、自分とは結ばれないことは否が応でもわかってしまうから、見ていても悲しくなるだけだから、あまり見たくないんだけれども。タリーズに、美しい顔があった。あれ? いたっけ、こんな顔。いつからだ? 最近よく見るような気がする。ゴシゴシ。25、6歳か。大学生ではなさそう。化粧は濃い。汗なのか、顔がずっとテカテカしている。目が大きくてハーフっぽい。体が異様に細い。そのくせピチピチのスキニーのジーパンを履いてるから、床に落ちたマドラーが歩いているのかわからなくなってしまう。しかし、自分のことから言えることだが、体が異様に細い人間ってのは何かある。何かが間違っている。何か決定的なところを間違えているから体が細くなるのだ。これまで見なかったということは、新人だろう。新人のくせに、誰よりも落ち着いている。この落ち着きはどこからくるんだろう? まるでお母さんだ。俺は、この落ち着きに吸い込まれそうになるが、残念、こんな、チェーン店の飲食店の仕事で、自分の呼吸を保ったまま仕事できるやつなんかに、俺と相性がいい女なんてものはいない。
過去などあったんだろうか? と思う。真っ白な新品の本が歩いているようだ。その本に、一字でも、活字が刻まれたことがあったのだろうか? たまに、過去など何もなかったというような顔をしている女がいるが、この人も、接客をして、コーヒーを作っているときも、すべてなかったことにしている。一つひとつ動いて、何も残さない。彼氏と喧嘩して髪を引っ張りあって怒声をあげたことも、ウンスジがついたパンツをそのまま洗濯カゴの中に放り込んだことも、ぜんぶ、なかったことにしている。まるで日の出の太陽のように、真新しい光で輝いている。みんなもその光がいいんだって。彼女も自分が輝いていることに満足していて、幸せそうだ。彼女が何もないような顔をしているから、他の人も何もないような顔をして相対して。それが楽しいんだって。それがタリーズで、それがペアーズで、それが社会で。湘南美容外科クリニックの受付の連中の女のように、やたらと化粧が派手で、過去を塗り固めるようにファンデーションを塗る女がいるが、その顔も、ずっと眺められてしまう。
※
いつものようにノートパソコンの蓋を閉めたまま、ぼーっと窓の外の景色を見ていたら、その子がテーブルを拭いていた。俺の机のすぐ横の、コップ後の水滴を一生懸命拭いてた。拭き方一つに性格が現れる。やはり異様に細いのだけど、骨格は大きくて、少し大きめの手で、除菌スプレーをかけて、落ち着いて、静かなのに、気が抜けていなかった。何も残さない。こんなにも心をしっかり留めて、心を残さない拭き方があるものかと、じっと見ていた。俺はこんなふうにテーブルを拭いたことがない。ほんっとうに細い体だな。なんだこの足は、て、マスクは紐つけてやがる。Amazonか楽天で買ったものだろう。高そうなマスク、三重折になっていて、パンティみたいなマスクだった。そしたら、彼女は拭いてる手を止めて、俺の方を見た。そのまま俺の方を見たまま止まった。しばらく何が起きたのかわからなかった。RADWIMPS風にいうなら、俺の心が俺を追い越したとしかいえなかった。
(やべぇ、やっちまった)
(見過ぎた)
(ストーカー)
(さすがに見過ぎた)
(ちょうど彼女が後ろを向いているからといって、見過ぎ過ぎた)
(川端康成)
(完全に観察モードに入っていて、俺は何も言葉が)
(とうとうお縄になる時が来たか)
彼女はクスッと笑って、「何読んでるんですか?」と聞いてきた。
俺は何も答えられなかった。「ナニヨンデルンデスカ?」今、ナニヨンデルンデスカって言ったのか? 「オレハナニヲヨンデルンダ?」本当に自分がナニを読んでるのかわからなかった。俺は今、話しかけられたのか? いったい? なぜ? 今まで一度でもこんなことがあったか? しかし、不思議なことがあるものである。この通り、俺の頭は全く使い物にならなかったのだが、俺は彼女の質問に1秒もかからず、ましてや緊張したり怖気付いたりすることなく、彼女の落ち着きよりさらに落ち着き払って、しっかり受けごたえしていたのである。俺はその時の自分を、後ろに立ってずっと眺めていた。もう一人の自分が、ぜんぶ会話を代わってくれたのである。
「え……、えっと……。………………。わがままは最高の美徳」
「すごい顔ですね」と言って彼女は笑った。
「確かに、すごい顔ですね」と言って俺も笑った。
「どうやったらそんな顔になるんでしょうね?」
「多分、わがままに生きてたら、こんな顔になるんでしょう(笑)」
誰もが、頭の中がパニクって使い物にならなくなった時、それでも、自分でも驚くくらいに冷静に対応している瞬間なんてのは、誰にでもあるとは思うんだけど。それをもっと科学は追求するべきだと思う。それはおそらく、ほかの全ての研究の手を止めて専念するに値するほど価値ある研究だと思うのだが。
俺じゃないよ。君が話しているのは、俺じゃない。俺のような何かだ。
楽しいか? 俺じゃない何かと話して。そいつはいったい何を話してるんだ?
ああ、ぜんぶこいつに任せてしまいたい。気になってる女の子とくらい、自分の口で会話したいものだけど、どーせ、あーだのこーだのろくに喋れもしないし。何読んでるんですか?って聞かれても、ついさっきまで熱心に読んでたくせに、ほんとうに何を読んでいたか分からなくなっちゃうんだから、そんな奴はもう一生出番がなくていい。地球から追い出してしまえ、退場だ退場。あとは、もう、代わってくれないかなぁ。
俺は俺が話しているというわけでもないのに、不思議な充実感で満たされていた。もういいや、もう俺の出番はなくたっていい。あー楽しい、何も不安や迷いもないや。俺が行為しているわけじゃないのに、なぜこんなにも俺の心がスーっとするんだろう。もう一人の自分は行為しているだけだ、スーっとしたり、喜んだり、苦悩していない、それはわかる、ただ行為しているだけだ。本当に、これでいいやと思える。もう自分の考えとか感情とかに付き合うのは飽き飽きした。もう俺は終わったっていい。岡本敏子さんが言ってたっけ。「 そう。もう1人の自分が、この辺にいて、あれやれ、これやれって指示しているでしょう。目の前に今やらなきゃならないいろんなことがいっぱいくるじゃない。それを一生懸命とにかくこなしているだけだから、何も怖くないの。これが終わったらどうしようということもないしね。こうやらなければならないという目標を立てるからみんな怖いのよ。私なんて何も考えてないから平気。」俺もさ、早くそうなりたいんだけど、あと何が足りない? あと何をすれば代わってもらえる? 出たり入ったりじゃなくて、完全に交代してもらいたいんだけど。恋ですら、お前にくれてやるって言ってるのに。これで覚悟が足りないってことはないだろうに。これが正しい恋愛のあり方だとすら思っているから、タチが悪いかもしれないが。
宇宙のようなものが走った。俺はしばらく放心していた。簡単なものだ。簡単だ、俺はなんでこんな簡単なんだ? 俺はこの簡単さに苛立ちを覚える。でも、いいだろう、この宇宙を信じてみたって。みんなだって本当は信じているくせに、はっきりとした確証があるまでは、口に出して言えないだけだ。だから、俺みたいに、すぐに好きになってしまう男を笑うんだろう。
しかしね、こうやって一回話すと、どうだろう。距離が縮まった、やったと思うかもしれない。けど、ちょっときついんだな。二回目から、次に会う時、アイスコーヒーのショート、店内でって言ってたセリフを繰り返すことが通じなくなる。どうしても今日の出来事が加味されることになる。もうそのままというわけにはいかなくなる。この前はどうもって軽い挨拶から始まって。あるいは、ふふッと笑ったり、何かしら、今回の出来事に対する責任を果たさなければならなくなってきて、それを今から思うだけでしんどくなってきてしまう。前進ってのは、前進自体が生き物で、せいぜい役者は自分の出番が回ってきたら、書かれてある台本の言葉を話すのが関の山で、素直に、前進が求めてくるものに対して、自分を開かなければならない。それを怠ると、プイッてすぐに愛想を尽かされてしまう。それは彼女に愛想を尽かされるのではなくて、前進に裏切られるのだ。もっとも裏切っているのは俺なんだけど。俺にはその勇気が欠けている。その塩梅がわからなくて、面倒くさくなって、辛抱しきれなくなって、すぐに好きだって言ってしまいたくなる。恋愛下手な男の一途だ。要するに、下手に話しちまったもんだから、次に会った時、どうやって会話したらいいもんか、今から気を揉んでいる。でも、まぁ、あまり心配していない。彼女のことも、この先の未来のことも、心配していない。タリーズに行って、レジの前に向かって、机の前に座ったら、もう一人の自分が書く方の文章を書いていきたい。