食べ物に関する研究・美容・健康

食事に対する欲求の対応法

このブログには、食生活で悩んでくる人がやってくるけれども、食事についての欲求がなくなった今として言えることは、いくら食生活を頑張ろうとして、やれ生玄米だ、やれローフードだ、非加熱食だと言ったところで、それを美味しく食べられて、全く不都合を感じないのであれば、それで問題はないけれども。

ああやっぱりステーキ食べたいと、心の中であれが食べたい、これが食べたいと思ったり、YouTubeでぷろたんの暴食動画を見たりして、そんなことをしていたら、やっぱり結局お腹が空いてしまう。

特定の食べ物を食べたくなる欲求は、頭の中でこれが食べたいという、脳に染み付いた経験、記憶から呼び覚まされるもので、その記憶や経験や味わいを、想起している限りは、なくなるものではなくて。いつもこれと戦うはめになってしまう。

では、好きなものを好きなだけ食べていいかといったらそうでもなく、やはりそれは、健康を害するし血液や腸内に毒素を発生させ、血液を酸性にさせるものだから、なるべくなら食べない方がいい。心も食べたものの影響を受ける。

1日2食か1食にして、朝食だけを抜きにして、あとはそれなりに昔ながらの日本の和食だったり、玄米や野菜や果物など、それらのものを適当に食べて、腹8分目くらいして、よく噛んで食べればいい。

少食にしようとして頑張ろうとしたところで、その結果、心が動いてしまうようだったら、そっちの方が悪い結果になってしまう。

ラマナマハルシは、サートヴィッグ(純粋)な食べものが、一番修行の手助けになるだろうと言っている通り、心を静かに保つ上では、食事というものは大きく影響する。

食事や、小食というのも、これを一つ気になりだすと、ずっと考えてしまうことであり、今度はもっと減らしてみよう、ゴマにしてみよう、味噌にしてみよう、と、完璧にしてしまいたくなってしまうところもあり、しかしその結果はどうかというと、心を忙しくさせるばかりで、べつに霊的な進化など見られない。

それどころか食べ物のことが気がかりになって、空腹感で無理がたたって力が出なかったりして、

食事制限によって、買い物に行く必要なくなったり、スーパーに2週間行く必要もなくなったりして、洗い物をやる必要もなくなったり、食事の準備にかかる時間も少なくなり、食後も満腹になって頭が重くなることもなく、眠たくならないので睡眠時間が減らされるので、可処分時間が増えるわけだが。

しかし、その時間を有効に使えればいいのだけど、その増えた時間を食事を心配する時間に使ってしまうこともあり得る。また、あるいはYouTubeをダラダラと見てしまったり、結局のところ、その得た時間を無駄に使ってしまう。

大事なことは、本当に心の根っこから、心を破壊して、物事に対する執着を無くすということであり、結局皆さんが生玄米を食べたり、極端な食事制限などして頑張ってるのは、その境地を目指しているからだと思われるが。まぁ、単純に少食の方が気分が良くなったり、時間も増えたり、都合がいいからやっている人もいるだろうが。

自分自身の心の中心感覚を養成していき、その力が強くなっていくにつれて、他の欲求は減っていく。食事だの何だの言ったところで、心を忙しくしてしまえば、腹は減ってしまう。

結局のところ、外側から得られるものなどたかがしれていて、食事にしろ、買い物などして、一瞬は嬉しくなるけれども、満たされたり、所持するとどうでもよくなるものだし、今度はそれを保持していることに気を揉むものであり、例えばYouTubeチャンネル登録者が何だの言ったところで、今度はそれを減らさないように発言に気をつけたりと、数値の増減に一喜一憂したり、

だから、これらの喜びというものは、相対的なものなのである。

世の中では、ニュースにしろTVにしろネットにしろ、やれたくさん知識を集めるといいとされていて、一日文献を10冊読めだの、あれこれ言って、またTwitterでは、ネガティブなニュースで不安を煽り、不安の種しか撒き散らさない。

残念なことに、リアルで会う友人でさえ、みんな話すことと言えば、不安のことしか口にしない。耳に聞いたり、口を開くのはほとんど不安ばかりである。

そして、そのために悩みを解決するために、ネットの中から解決策を探し出そうとして、それも結局ケースバイケースで、一つの症例に対して一つの処方が返ってくるものであり、相対的な解決しかもたらさない。

この相対的なものというものは、枝葉末節の小さな部分の対応に過ぎず、根本的に解決することはない。いっときの間に合せ。痛み止めのような、咳が出るから咳を抑える薬を飲むようなもので、ネットには、すべてこういった情報しか置かれていない。病気そのものを治してしまった方がいいのである。食事の問題もこの病気の中の一つに過ぎない。

例えば剣道の試合とかにおいて、相手が右の上段から剣を振り下ろしてきたら、こちらはそこに集中して、すべての意識を右の上段にやって対応するようなものであり、こういう時の理想の受け方は、心をなくして、何も考えないでいたら、身体がひとりでに右の上段の剣撃に対して受けをとるものであり、

これと同じで、世の中の全ての問題事に対して、心を使ってはならない。心を使わないでどうやって問題を処理するかといったって、幕末において、あれほど大きな問題を山積みにされていた勝海舟は、「無心でなければならないよ。無心でなければ対応できるはずがない」と言っていた。

しかし、それこそが自然の状態であって、誰だって、心に何もない状態で、物事をやりくりしたり、仕事したり、人と話していることができた時間など、いくらでもあるだろうし、もし一日中、ほとんど無心状態でいられたら、腹など空かないし、食事のことなんて気にならなくなる。

俺のように、排泄と調理をいっぺんにやろうとして、時間の節約と称して、台所のシンクにおしっこをしながら計器カップを手に取って、玄米を1合分すくっている姿は、非常に人間として浅ましい姿で、そのせいで、この境地になるまで時間がかかったのだと思われる。

また、心をどこににもやらずにじっとしていると、それだけでその中心点が上の中心部とつながっているもので、スーッと中心を置いていて、何をするにしても、中心が自動で処理してくれるので、楽だし、頼もしいし、喜びもある。この喜びは、相対的な喜びではなく、絶対的な喜びなのである。神の正体は歓喜だと言われており、この喜びの中に満たされていれば、外側のものは何も欲しがらずにいられるのである。

俺は最近ほとんどすべての行為をやめてしまって、YouTubeもぱったり見なくなり、すぐに、この状態に行くのはきっと難しいだろうから、物質的な喜びを満足させながら、霊的な喜びを満足させていき、食欲にしろ、何にしろ、改善させていけばいいと思う。

食事について、あれこれ気を揉んだり、抵抗だったり、乗り越えただの乗り越えないだの、そこに意識をぶつけていると、それはつかみ合いの喧嘩になっている状態であり、食事について思い出している状態と変わりないもので、それはもう食事をしているのと変わらないのである。

心的負担をなくして、心を動かさないようにして、食事を残りこえなければならない。

つまり、食事の方を先にするのではなくて、不動心を先にするのである。

食事についての問題は食事では乗り越えられない、相対的に解決というものはできない。

結局、ごぼうをにんじんに変えたとしても、サプリメントを他の製薬会社に変えたとしても、効果は期待できない。結局、心が動いて、疲れれば、その分の恩恵など消滅してしまうからである。

心が動かない努力をしなければならないのに、食事について心配して心が動いてしまうのであれば、本末転倒なのである。

相対的解決といえば、

やれ、朝早く起きるにはどうしたらいいかなどといって、ネットで調べなくてもいい。結局そんなことを調べている間に、変な目覚まし時計が可愛いといって、買ってしまう。朝なんてものは、心が動かさないでいられれば、ぐっすり眠れるし、パッと好きなように起きられるし、心が動かなければ、ついでに、他のどんな問題も解決できてしまう。

さいきん早起きができているという友達は、早起きの彼女に毎朝電話をかけてもらっているから克服できたといって喜んでいるが、それはそれで、羨ましいし、とてもいいことではあるのだけど、結局電話を切った後は二度寝しているが。

彼女と別れたら、どうしようもなくなってしまうし、やっぱり相対的な解決なのである。例があまりよくなかったかもしれないが、ほとんどが、相対的な解決しか、みんな、できないのである。

相対的なものは分かりやすく、実行しやすく、でも、ぜんぶ罠である。先延ばししているに過ぎない。

しかし、 ここで俺が言っている不動心は、「何とかなるさ」とか「あんまり心配するな」とか、そういった意味合いの、文学的な意味合いで言っているわけではなくて、科学的に、それらのものと結びつかないように脳にしろ心にしろ壊してしまうと言う話である。

これは一見恐ろしいこと言っているように思えるけれども、誰の心にとっても優しいことなのである。

いちばん手っ取り早い、いちばんの近道というものは、2時間でも3時間でも、とりあえず座ってみて、中心だけにしておいてみたらどうだろう。その時、想念はどこからか浮かんできて、気をそらしてくるけれども、絶対にそれにやられない、と、頑固に中心を維持していて、この、1分だけは、2分だけは、あるいはそれを10分ぐらいできれば、上出来で。想念と一つにならないようにする、そうすると、想念との抵抗の仕方というものが分かるようになってきて、その状態を会得し、思いだしさえすれば、日常のいつでも、こうやって、修行することができる。

俺はいっそ、2時間ぐらい、集中して取り組んでみて、壊せるものは壊してしまった方がいいのだが。心ほど邪魔なものはないし、すべては心が問題を生んでいるのだから。俺の場合は、本当に、2時間か3時間ぐらいで壊れてしまったので、本当は、このくらいの時間で壊せてしまうんじゃないかと思う。

想念と結びつかないように、中心をグッと、意地していると、それは非常に気持ち悪い状態が続き、最初は我慢を必要とされるけれども、元に戻った時、元に戻れなくなってしまっている、ということが起きるのだ。

いつも想念とくっついてばかりいるから、そっちがニュートラルになってしまっているけど、2時間か3時間ぐらいやっていると、今度は、想念とくっつかない方がニュートラルになってしまうのだ。

そうすると、食事の心配をしようと思っても、できなくなる。また、これによって心の問題を解決できて、食事の問題も、他の問題も、ほとんどすべて解決できてしまえるのだから。

考えないようにしよう、とか、無心、とか、神とか、空、とか、そういうふうに考える必要はなく、たった一つのところに固定しておけばいい。初めは、どうしてもこの固定が必要になってくる。しかし、この固定すらすっと消えていってしまう。そうして、元に戻ろうとしたら、戻れなくなっている。

そうすると、今度は想念と一つになろうとしても、なかなか一つになれなくなってくる。こうなってくると、食事という想念と結び付く方が、とても難しくなってくるのである。そうなってくると、食事だけに限らず、俺は夜になるとグローブを持って行き、公園の壁に向かってピッチング練習をするという趣味があったけど、それすらも、もうやめてしまった。やろうと思えばできるけれど、それを楽しもうという想念と結びつかないのである。

YouTubeを見てこれが楽しいという想念と結びつかない。今の俺の楽しみというものは、ただ部屋の中でじっと座って、姿勢を正すにしても正さないにしても、心を静かにして、一番静かな状態にして、下腹部から眉間に向かって昇ってくる内なる光を味わっている時間が一番楽しいので、ピッチングの趣味が、どうでもよくなってしまった。

皆さんも、例えばゴルフなり釣りなり、絵を描くなり、趣味なり好きなことはあるかもしれないけど、食事と一緒にそういった欲求もなくなっていってしまうかもしれないが、分からない。まぁ、俺はこの内なる光を趣味にしてしまうのが、いちばん経済的だし楽しいと思うが。きっと、この内なる光をゴルフとかに活かすこともできるだろう。

しかし、こうして、ドトールで、他の人間が話している様子を見ると、彼らは、たった一つの想念に支配されている。その一つの想念に支配された状態から、言葉を発している。そして、あまり心移りしない。支配されてしまった場所が、中心ではなく、枝葉末節の、ひとつの小さいな、あるいは動物的な、一滴の想念に支配されたまま言葉を発しているので、単一的に見える。

しかし、中心と結合して、中心に支配されて話す場合は、全体を透徹に見ることができる。みなさんも部屋で静かにしている時、 例えば学校の授業中だったり、会社の会議の時に、一人だけ静かにしていて、全体が見えていて、静かになってただ意識的に気づいているだけのような心的状態に陥ることがあると思うが、中心に支配されるという事は、その状態に支配されるというようなもので、いつもそこから会話したり言葉を発していると言う感じになる。ここからどうしても、みなさんいつも外れてしまうと思うけれども、ずっとこの中にいるようにできるのである。

一つの想念にとり込まれてしまっている人はもう、この記事を読んでも何を言ってるのかわからないだろうが、しかしこの記事を読んで思うことがあるという人は、誰でもできるだろうと考えている。大事なことは、その中心感覚を広げていくことであり、一定時間くっつけて固定させて、磁石のようにピッタリとくっつけて、あとは離れられないようにする、ということなのだから。

つまり、真我と、自分の心の矢印と、中心感覚と、それらの持ち物さえあればよく。あとはそれらをくっつけてやればいいのだから、俺だって、2時間でできたのだし。別にピアニストになれとか、野球選手になれとか言っているわけでもなく、そんなことは俺にだって無理だし。

別に一気に、くっついて離れなくなる境地を目指さなくても、この固定する感覚が身についてくれば、その分だけ、想念とくっつくことにならない自分でいることができるようになるだろう。

もう既にあるものだから、誰でもできることなのである。誰もがこういった仕組みや、この状態というものがあることを知らず、誰も教えてくれないものだから、始めから目指そうとしないだけで、境地に放って置かれているわけではなくて、境地の方が放って置かれてしまっているのである。

俺だって知らなかったのだ。中心にずっと置いておいて、そのままにしておくと、くっついて、他の想念とくっつかなくなるなんて、知ったのは3日前なのである。

これは学校教育に問題があり、学校の教科書はバガヴァッド・ギーターだけでいいぐらいなのだが、これについては皆さんの問題というよりも、教える側が知らないことに起因している。

ゴールがあることを知って、目的地があり、目的地のための通路さえ確立してしまえば、すぐにでもできるはずである。俺は2時間でてきたけれども、36年とプラス2時間とも言えなくもないから、まだこれについてはなんとも言えない。

これだけ情報が溢れる中で、いちばん大事な情報が見られないということは、とても残念である。大事なことは神だけであり、神と合一する他、大事なことなど何もない。情報といったって、情報の真実はこれしかないのである。

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