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頭の中をたなびく冷風を目指そう

エピクロスは人間がコントロールできるのは、自分の意志だけだと言っていて、ソクラテスは最後牢屋に閉じ込められて殺されてしまったが、ソクラテスは心の牢獄から抜け出していたから自由だったとも述べている。

結果はどうにもできないし、他人も環境も、外側にあるものは何もコンロールできない。

身体だってコントロールできない、身体だって、足を三本に増やそうと思ったって増えないし、老化を止めようと思ったで止められないし、タンスの小指をぶつけて痛いときに痛みを消し去ることもできない。心だって、感情をコントロールできないし、怒りがあったとして、この怒りを好きなように変形できない、質や量といったものを、変えたりすることはできない。

だから、エピクロスは、人間の唯一の持ち物は、意志だけだと言っていて、この透明な気づいている感じ、この透明なカーソルらしきものを、どこに焦点を当てるか、という自由しかないと言っている。

意志だけはコントロールできる、この意志というものは、常に矢印のように、色んなところに向けることができて、エピクロスはこれだけしかコントロールできるものはないと言っている。他人の心を魔法のように変えられることができるだろうか。自分の心だって変えられないのだ。

だから、他人や環境に対して怒ったってどうしようもないし、コントロールできるものではないのだから、自分にできるものとできないものの違いを明確にしなければならない。

心が動くとそれだけ疲れるし、映画などを見て心を動かしたいときは動かせばいいけれども、基本的には心というものなくすようにして、不動心を目指すのがいい。

昔は、江戸時代なんかは、寺小屋で、儒教などの、こういった書物を子供の頃から読ませていたこともあり、明確なゴールをちゃんと伝えていたのだから、日本は神や仏を愛する国だったし、昔の人の方が人格も優れていたと言えそうである。

儒教や道教によって、それを知識で学習したら、剣と禅によってそれを体得していく。神の道具として使われることを学びの本質としていたのだ。

それが本当の学問であって、これは学校教育のせいだと俺は思っている。

不動心がよくて、自分に座右の銘を胸の中で言い聞かせたり奮い立たせたりしているのも疲れてしまうし、愛は波動だから、波動を出す、波動を出す、なんて、思っている必要はなくて、中心にピントを合わせて、それが溶け込んで澄み切った心境になれば、すべて後からついてくるものであり、その状態であとは行為だけが行われていけば、いいのである。

勝手に行為だけが行われていくのだから、そういった自分の中に、うるさく何かしらの言葉を唱える必要はない。むしろ、心をうるさくさせて波風を立たせてしまう。

これは俺だからできるというわけではなく、誰でも、身体、心、霊魂というものがあって、誰でも意志があって、持ち物は同じなのだから、使い方を覚えるだけである。ピアニストになろうと言ってもなれないし、サッカー選手になろうとしてもなれない。ピッチングで言えば、正しいボールの投げ方みたいな話をしているだけで、特別な才能どうこうではない。持ち物の使い方を話しているだけである。

人間にとって一番理想な心の状態を理論として打ち立てておくと、はやく修行が進む。しかし俺も先生ではない。まだ修行中でわからないことばかりである。

いつまでも心の暴政に苦しめられ、精神的な迷子で居続けてしまう。バガヴァッドギーターも、聖典の教えの通り生きなさい、と言っている。

ディズニーランドに行こうと期待をすると、さあ行こうと言って、バスに乗ろうとして、バスが予定時刻にやってこないと、イライラするものであり、外側に期待して、外側から喜びを得ようとすると、外側だけは自分でコントロールできるものではないから、外側の調子が悪いと自分の心の調子も狂ってしまうものである。外側に心を置いてしまうと、そこに心の重心が置かれるから、その外側の重心移動によって、同時に自分の心も移動する。これは忍耐とか我慢とかそういう話ではなく、心の置き場所によって、移動させられてしまうのである。

だから心が移動しないところに収める必要がある。というより、消してしまうのがいい。心が消えてしまわない限りは、一喜一憂を余儀なくされ、苦しむはめになってしまう。

だから修行の目的は、心を消してしまうことを最上とするのがいい。

心が消えると、神と連絡路が確立されて、神の意識が入ってくるようになる。神の正体は歓喜なので、喜びに満ち溢れるようになる。その喜びとは相対的な喜びではなく、絶対的な喜びである。

ネットによくあふれている、「クヨクヨしない」「気にしないこと」「人に期待しないように」とよく書かれていたりするけれども、それを文学的な意味合いで人々に与えているけど、それは相対的なものだから、心を動かすことを許してしまう。

物事の喜びの基準を、外側の対価に置いていると、苦しむことになる。もし不動心でいられて、空っぽの心に神の意識だけが入ってくれば、それだけで常に喜びを感じられるようになるし、誰だって心が空っぽで、想念に邪魔されていないときは気持ちいいものだろう。神の本質は喜びなのである。

別にそんなに強く中心を、一生懸命、手綱を握るように力を入れることはなく、ただピントを合わせたら、その後は、そのまま放っておくのがいい。いちばん静かな心境を目指すこと。人を苦しめているのは心だと知ること。心をなくすこと。

晴れてよし、曇りてよし、富士の山

別にハララインでも、丹田でも、どこでもいいが、とにかく中心にそれを置いて、動かさないこと。すると消えていくから、無数に浮かび上がる想念と一つになってしまうから、苦しむことになる。心の指針が動き回るから苦しくなる。中心は、優しく、明るく、何をするにしても最上のことしかしないから、安心してすべてを放棄して丸投げしてしまっていい。

上司に怒られても、心を動かさずに、申し訳なさそうに謝る態度だけを役者のように演技だけして、心を動かしてはならない。心の中で毒づいたり、自分を責めたりしてはダメで、怒られている間も、中心にあり続けるのがいい。

基本的には、どんな場合においても、中心に置いておくのがいいのだ。

まぁ、少しづつ、中心でいられる時間を増やしていけばいい。

やっぱり心は消さなければならないのだから、中心、中心、と一生懸命力をいれてしまうと、消えるのも難しくなってしまうので、力を抜いて、安心して、ふわっとしている、とてもリラックスした気持ちで中心であるのがいい。

大事なことは、あれこれどんどん増やしていくのではなく、どんどん捨てていくこと。捨てて、捨てて、心の領域を広くする。

怒られると気持ちが沈むけれども、そういうときは回復するまで待って、また元気になったら中心に合わせること。すると中心に意識せずとも固定されるようになり、中心すらも消え去る。その状態で仕事をすれば、心が動かないから仕事のストレスもなくなるし、欲が無くなるから、お金も使わなくなるし、貯金だけが増えていく。周りから好かれ、仕事のミスもなくなり、家に帰ってきても、心が動かないので、疲れるということがないので、腹も減らず、眠くもならず、気も散らず、自分のすべきことに集中できる。

仕事でミスしたことについて、まったく心を向ける必要はない。怒られた時に同時に解決方法が頭に入ってくるので、ただ、心を中心に戻していればいい。

身体だって、放っておくと、ゴロゴロして、悪い姿勢をとるようになり、心も同じで、好き勝手にさせておくと、勝手な姿勢をとるようになり、暴政を許してしまうことになる。怒ったり泣いたりしなくても、自分が望まない想念と一つになっていることは、心に負担がかかってしまう。意志をもってしないと身体も心もコントロールできない。

これはストイックではなく、苦行ではなく、いちばん楽な道なのである。心を動かさないというのが、いちばん楽である。もちろん楽しいときや、嬉しい時は、思いっきり笑ってしまって構わない。俺だってちゃんと笑えている。

それを内側の中心に感じ取れないはずがなくて、それがある以上は、不動心の状態になれるということである。誰だって、一日の間でなったりしているだろう。矢印をいろんなところにフラフラするのを許さなければ、誰だってこの状態に達するのである。

心を破壊しようと思って、一つ一つの想念に向けてレーザービームを与え続ける必要はなく、ただ中心にピント合わせるだけでいいのである。そこに合わせていると、必ずふっと消えるようになり、どちらにせよ中心に固定していれば、他の想念とくっつかない。

36歳の1人暮らしニートで、別に世の中において何も成功はしておらず、何者でない存在ではあるが、この理論は、いま世界に溢れてる、どんな理論よりも最上であり、自然である、今、ネットに落ちている記事の中ですべての記事の頂点に立つ記事である。この記事の他に、ネットで探し物をする必要はない。

人間は終始ずっと気持ちのいい状態だけが続いていればいいのであり、決して苦悩する必要はない。それは心の法則を知って、心をなくしてしまえば可能である。これは抽象的な概念ではなく、心理的科学であるが、そこらの心理学とは違う。心理学は、心を相対的に解決しようとするから、ダメである。

なぜなら人間は、生まれた時は、今の俺のような状態だったからである。俺は生まれた頃に戻っただけである。皆さんも、時間の経過とともに、塵芥のゴミを心にくっつけてきたから、心が麻痺しているだけで、元の状態に戻ればいいのである。

一日の間で、無心でいる時間だって、多いのだから、できないということはないはずである。

犬や猫は想念と一つにならない。だからといって、人間より上等というわけではない。心に支配されている人間よりは上等だけど、心を支配できる人間よりは、犬や猫は下である。人間は彼らより霊的にも知的にも高位だから。

苦悩も欲も超えたところに高次の力があって、この力だけが全てを解決してくれる。この高次の力に対して矢印を向けることが欲求ならば、それは正しい欲求である。常に矢印が中心から外れたら、そこに戻してあげる。

ちゃんと感情はあるし、楽しみもある。晴れ晴れとしていて、透き通っていて、心はいつも元気で、霊魂の底から甘露が、大海から流れてくる小川のような気持ちよさが続いている。想念がないという状態は、こういう気持ちよさがあるのである。そして疲れない。心的疲労がない。

ワクワクしたい、ドキドキしたい、それだって悪いことではなく、魂の喜ぶことはどんどんしてあげたらいいのだけど、しかし、そうしているうちに、物質的や身体的な快楽におぼれていく自分も許してしまい、食べたり寝たりYouTubeを見たり、中心から離れて、心の支配下にされてしまう。

心が破壊された後では、こういったものの奴隷にはならない。

どちらにせよ、修行が進んでくると、自分の中心の喜び以外に、外側に喜びを求めなくなるから、大丈夫。

ヨガナンダ先生は、夜になったら瞑想しなさいと言っているし、中村天風先生も、寝る前がいちばん暗示が聞く時間だ、と言っている。

天風先生は、鏡を見ながら、自分は宇宙霊と一つなのだと、事故が一番ヶ月続けてみて、それが障害にはずっとやり通していた

だから、心が落ち着いている時、夜から、始めるといい。

やり方としては、

中心線を維持していて、左右から想念が浮かんでくるが、これに抵抗する。

どこまでも、中心を維持し続ける。そうすると、跳ね除け方というか、抵抗の仕方というか、想念と一つにならない方法がわかってくる。1分だろうが、2分だろうが、それだけできれば、まずは上出来で、そこから少しづつ拡大していけばいい。

その結果、昼の日常生活や仕事においても、心が煩わせられることは少なくなり、また、この理論をしっていること、本当に想念がなくなってしまった人間がいるという事実を知っていることが大きい。ゴールを頭に入れておくと、早い。

いつか必ず心が壊れる日がくる。

心の中に相対的な解決と、相対的な喜びを持たないこと。相対的な解決と相対的な喜びは一つで収まらないから、たくさん持たなければいけなくなる、そして、たくさん探して、たくさん時間を使って、たくさん心を消費する。

絶対的な解決と絶対的な喜びを持つと、それだと一つしか持たなくていいから、心が固定する。心を一つしか持っていないと心は消える。心は一つのことしか結びつかず、一つの所に結びついていると消える。

全ては決まっているのだから、心を持とうが持たなかろうが、結果は変わらない。ただ人生は神の列車に乗って進んでいくだけだから、自分の荷物を下ろして座っているだけでいい。

心を持とうが持たなくても、好きな人に出会えば付き合って結婚することは免れない。それはどんなに抵抗しようと、魂が勝手に口を開かせるから、抵抗しても無意味なのである。すべてはこのように心を持たなくても、抑えきれない行動に動かされていく。

だから、人間のすることは心をなくすこと。全てはひとりでに行動していくから、ただ眺めていること。それでも思考作用は働いて、会社に行くし、準備、反省、プロジェクトの執行も、ちゃんとやれる。転職だってその時が来たから魂が決められた通りに希求するのだ。自分でたくさん考えて辞めたようには思えるが。

悟りたいと思ってはならない。神と一つになりたいという想念すら消えさらなければならない。全ての心を放棄すれば、それが悟りなのだ。善も愛も捨てなければならない。なぜなら、それは人間がやっているわけではなく、神がやっているからだ。初めからわれわれは誰も愛したことはない。われわれはただ道具として使われただけである。だから道具になるために心を捨てること。

このことを知っていたから、昔の人は子供の頃から学問として心を捨てることを学ばされた。

神の道具として使われることに、魂は最上の喜びを覚えるから、物質や肉体次元を超えた歓喜がある。

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