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心と方位磁石の関係

俺は他の人の心になったことがないからこれと完全に一致するかどうかわからないけれども、人間の心なんていうのは大体似たようなものだろう。

ピアニストになろうと思ってなれるのではないし、サッカー選手になろうと思ったってなれるものではないが、心を破壊するということは、誰にでもできるんじゃないかと思っている。

まず人間にはその中心感覚というものが必ずある。

磁石をイメージしてもらえると分かりやすいと思うが、これを常に北の位置を指すようにする。

人間をそのまま自然の状態であれば、ずっとこの方位磁石でいう北の位置を指しているような、ここを中心と考える。ここでは中心と言っているけど、人間の本然、魂、霊魂、神、宇宙霊、良心、真我、なんでもいいが、そういった大それたものと一致している感覚を覚える。

この心というものは、どこまでいっても何かと結びついていなければ存在できない。寄生虫のようなものであり、心は心それ自体で在命することができない。

皆さんの、心だと信じているものは、見るものと見られるもの、主体と客体が一つになったときの状態を指している。

この中心感覚である北に合わせておかないと、心はあてどもなくさまよい続け、

苦悩はなぜ起こるかと言うと、苦悩のチャンネルと一つになるからである。心の矢印が、この苦悩のチャンネルにくっついてしまうからである。

食べ物のことを頭の中に想起させると、あるいは浮かんでくると、それと一つになって、とりこまれてしまうと、食べてしまうことになる。そのチャンネルと、矢印が一つになってしまうと、磁力が発生して、取り込まれて、食べてしまう。

というよりも、この中心以外のものは、どれと一致させたとしても、悪い結果になる。

なぜなら、この中心だけが、神(真我)と一つになれる唯一のチャンネルであり、また実際に引き寄せているのは真我の方なのである

すべてのマイナス感情は、怒り、嫉み、妬み、マイナス感情にくっつくと、それによって発生する。

これらの感情は、自分の見る角度、心の持って行き方、心の矢印が一致したときに発生する。

だから、このマイナス感情と、矢印を別のところに位置させると、そのマイナス感情がなくなる。

苦悩やマイナス感情が、それ自体がこちらに向かってくるということはなく、外側はいつも動かない。自分の方で、心の矢印をそこに結びつけてしまうから発生する。だから、不安や悩みは、自分から迎えに行っている。

でも心をどこに向けてやれば良いかというとこの中心である。

自分のどこに中心があるかわからないなんて人はいるだろうか。まぁいるかもしれない。そんな感じをしていても、それをはっきりと、中心だと言えないかもしれない。神とか、宇宙霊とか、そういう言葉を使うと、疑わしくなってしまうかもしれないから、ここではあえて中心と言うが。

大体、何か悪いことをしたときに、胸が痛くなったり、胸の中心から、罪悪感を感じたりするのも、すべてこの中心意識から来るものであり、 それは各自、生まれた時に一人一人与えられて、導いてくれているものでもある。これを羅針盤にしなさい、言わば魂、霊魂として眠っている。まぁ、取り扱い説明書のようなものである。

特にこの中心の位置をはっきりとピント合わせたいと思ったら、体重心と、精神重心を合わせてしまうのがわかりやすいと思う。

ハララインというものでもいいし。

人間の物理的中心と、精神の中心は一致することが望ましく、昔から丹田鍛錬と言われているものは、それが体重の中心で精神の中心だから、そう言われているのであって、人間は心も体もここで重心を取るのがいちばん良いと考えられている。

骨盤をフラフラさせたりしながら、中心点をピッタリ意識してみるといい。

心のニュートラルの場所が移り変わるというか、心がここにピッタリくっついているのが楽だ、と思うのかもしれない。

普通に椅子でも床でも正座でもあぐらでもいいが、お尻を後ろに突き出して、骨盤をゆっくり起こしていて、自分でお腹に力をいれるわけではなく、自然に姿勢の結果によって、下腹部に力が入るようにする。

必ずしもこの姿勢を取る必要はなく、中心線なるものが、いわば、この絵のように、線が見えていればいいと思う。

いつも背筋をぴったりして中心にしておかなければならないというのも疲れてしまうだろうから、別に決めた時間だけやってればいいし、姿勢が悪かったとしても脳の中の中心というか、頭の中心というか、そこだけ捉えていれば問題ないかもしれない。

このラインを覚えておいて、なるべく日常でもこのラインを外れないようにして、歩くにしろ、皿を洗うにしろ、仕事するにしろ、心の中の指針が中心からずれないように、ずれていることに気づいたら戻してあげたりして、そうやっていれば、中心でいることがニュートラルになってくるというような、この矢印、磁力が強くなってくるのである。

人間の努力というものは、せいぜいこれくらいで、神がすべての行為を行うのであるから、人間はその連絡路を整えるという努力しかできない。チャンネルを合わせることしかできない。神の道具として機能するための受け皿としての準備を整えるための努力しかできない。

そうすると、どんどん中心は強く太く大きくなってきて、その先に繋がっている大霊との結びつきが強くなる。

すると、今度は、ここが強く結びついて固定されて、それこそ磁石のようにくっついて、他のチャンネルに移そうとしても、固定されて、動けなくなってしまうのである。

ではこれが正しいかというと、まだ最高ではなくて、これもまだ一つの癒着に過ぎないから、心が自由に動けなくなってしまう。

しばらくそのまま中心に置いておくと、心はフッと消えてしまうのである。

これを放心といって、沢庵は「放心を最上とす」と言っていたが、おそらく、これを指していると思う。まだ研究中だが。

そんなこと言っても、なかなか中心にずっと合わせられないよと言う人は多いだろうし、この日本にいる全員がそうである。ヒマラヤで修行している人だって全員そうである。

タバコがあったらタバコを吸わない努力をする。苦しいことがあったら、苦しいことを考えないようにする。音楽を聴く。友達に相談する。食べ物のことが気になったら、運動でもして気を紛らわす。それらは全て対処療法で、相対的なものである。

別に対処療法でもいいのだが。

嬉しいとか、楽しいとかも、ほとんどの場合は、報酬によって、何かいいことがあったり、プレゼントをもらったり、成功をしたり、彼女ができたり、できないことができたり、すべて相対的なものだけど、これらは元々が自分の持ち物ではないから、失ったり、保持するために、一喜一憂し続けることになる。

ネットでは、こういうときはああしましょう、こうしましょうと言っていて、この世界における相対的な解決方法などは全てたかが知れているものだし、付け焼き刃にしか過ぎない。ただ神だけが全てを解決してくれる。絶対的な解決方法である。

やはり、これだけストレス社会で、みんな苦しめられているし。物質的には豊かになっているけれども、心は慌ただしく、疲れているだろうし。この、心の動きを停止してしまえば、

心はいつだって生きづらさを感じているだろうし、これからの時代みんな精神的にのびのびと晴れやかに自分の人生を満足して生きていかなければならないからである。

実のところ、人がYouTubeだったり車だったり新しいiPadなり、欲望にあちこち目が映るのは、この中心にじっといられないからである。ここでじっとしているのが退屈だから、ギブアップというように、水中から顔をあげてしまうのである。

苦労や辛いことを経験して、これを克服したり。心に痛みをガンガン与えて筋トレのように強くなっていこうとする人もあるけれども、 それはあまり意味がない。ただ心が疲れるだけである。けっきょくそれは、自分で苦悩に目を向けて、自分で終始抱きしめているだけである。

だから、まっすぐに中心の感覚を鍛えていくこと、矢印を中心に戻す力を鍛えていくこと、中心の先には神がいて、それは快活で、それは、楽しくて喜びの道である。

心が動いたり、矢印が動いてばかりしてしまうのは、間違っているやり方である。

なんにせよ、心は絶対にどこかに結びつけておかなければ、行き当てもなく彷徨ってしまう、寂しがり屋でどうしようもない存在だから、どこかに固定しておかなければならないのだったら、中心に置いておくのがいちばんいい。

そうやって中心の矢印を神に合わせていると、心がふっと消えて、空っぽになり、神の意識が流れ込んでくる。

中心軸に合わせて、心がふっと消えると、不動心となって、それだけで、一日中、想念とくっつくことがなくて、清々しくしていられる。そして、そのつながりが強固となると、今度は想念とくっつきたくてもくっつけなくなってしまう、ということである。

相対的に積極的にしようとするけれども、

思わないと思うのは、思うのと一緒で

心を中心に合わせるというものは絶対的な積極であって、相対的なものではない。

しかし、苦しいのは一番最初で、中心に合わせれば合わせるほど中心は強く太くなっていき、磁力が強くなるので、その分だけ楽になっていく。

正しい姿勢でシュートを打つ方が体が楽なように、心はむしろ中心に合わせているほうがずっと疲れない。

何か困ったことがあれば、ここに頼れば良いのである。 他のどこに矢印を合わせてもうまくいかないだろう。

さきほど言った通り、心は何かと結びついていなければ存在できない。

なるべくなら、バスに乗っている時、電車に乗っている時、道を歩いている時、部屋で静かにひとりでいる時、人と会話している時、中心に合わせるようにしておく。 別にやりたくないときはいいが。

人の目を気にするより、自分の目を気にするより、中心を気にした方がいい。最初は窮屈かもしれないけれども、この指針となっている針が、やがて消し去ってしまう。

心が動かなくなると、心にあちこち振り回されて、困ることは無くなるし、気が散らなくなり、一つのことをずっとやっていられることができるようになる。空腹感が感じたら、肉体にエサをくれてやるか、という気分になり、頭の中の経験によって染み付いた美味しいものをありありと思い浮かべて、これを食べたいなぁと、ハァハァ言って取り込まれることはない。いろんな食べ物を思い浮かべられるけど、それと一つになろうと思っても、一つになれない。いや、取り込まれるほどの磁力を受けない、といったところか。さすがに不味い食べ物は食べたくないから、生玄米じゃなくて炊いた玄米を一合に納豆かけて食べている現状であり、そういう意味じゃ前と食生活は変わってないけど、あれを食べたい、これを食べたい、あれを終わらせたいといって、気になって頭から離れられないということはない。

これは俺のオリジナルの理論のように思えるが、そうではない。「神だけを見よ」とか「臍下丹田に気を納めろ」とか、どこでも言われていることだし、俺が単純に言い方だけを変えているに過ぎない。

神でも、中心でも、臍下丹田でも、なんでもいいが、心は一つのものしか繋がれず、一つのところに結びつけておく必要があり、そこに置いて、ふっと消えてしまうのを待つしかない。

FF10でいうエボン=ジュみたいなものである。

ブッダは煩悩のことを悪魔だと言っているし、沢庵は「放心が最上」と言っているが、それは心の固定すら最後には邪魔になるからだと言っている。しかし、それまでは、修行の初期の段階では、腹の下に紐をくくったように、下腹部に心を仕舞い込んで離さないようにするべきだと、不動智神妙録に書かれている。

俺の場合は、変な幻覚らしきものを見た後に、こういう現象が起こってしまったわけだけれども、再現性? はあるんじゃないかと思っている。なるだけ再現性があるように砕いて書いてみたが、思うところがある人はやってみてほしい、としか言えない。

俺はまだ神の正体を掴んだわけではないが、想念とくっつかない不動心らしきものは得た。この心的状況によって、先の研究に向かえそうなので、とりあえず今はこれだけ書いておいた。

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