霊的修行

愛は波動か

さて皆さんこんにちは。元気にしていますか? 俺は元気ですよ!!!!!!!!!!!

俺はですね、まぁ以前からいろいろ、どんな精神状態で過ごせばいいかということを研究してきて。どうすれば自分において、あるいは他人において、どういう心的状態に持っていけばいいか、あるいは何をすればいいのか、ということを考えてきたけれども、結局のところ波動ではないかと思ったのである。今回はその話をします。

これは誰だって経験あるだろうが、良いことをしようとして、相手を喜ばせようとして、あるいは自分に誓った約束を守ろうとして、とにかく他人に親切にしよう、他人を愛そうとして、優しい言葉をかけたり、世話をしたり、まぁ思うところに従って働きかけたところで、功を奏したところもあれば、かえって悪くなってしまった結果はあるだろう。

やはりこれは難しい。はじめから何もしない方が良かったんじゃないか? でも放置は放置で、いけないことをしている気分にもなってくる。しかし他人は他人で自分は自分だというし? そうなってくると、なかなか一つの、これをこうしておけばいいという、たった一つの法則がなかなか見出せない。そんな法則なんてないのかもしれない。その都度、状況に際して知恵を燃やし、骨を折らなければならないものかもしれない。そもそも愛そうって言ったって、愛が何なのか、愛すとは何なのか? それすらよくわからなくなってきてしまう。

夏だし? ちょうど7月のいちばん暑い盛りで、「愛す」より「アイス」の方がいいじゃん、なんて😂

なぜそんなに愛すとか愛さないとか、そんなことを一生懸命考えてるのか。まぁ、まずはそこから語るとしようか。

人間というのは、何回も生まれ変わります。これを信じる人と信じない人がいるんだけど、私は信じてる人なんです。でね、何回も生まれ変わる目的は、魂が成長すること。魂が成長することっていうのは、神に近づくことです。神っていうのは愛だから、神に近づくっていうことは、愛に近づくことなんだよ。自分の言っていることに、愛があるだろうか。自分の言っていることが、人を傷つけてないだろうか。自分の顔に、今、愛があるだろうか。自分が出している波動に、愛があるだろうか。これね、なかなかできないんです。でも、少しずつ、少しずつやっていけばいい。そうやって考えながら進んでいくのが、愛の道なんです。もちろん、人それぞれ、いろんな道があります。神の道って、愛を持ってそれぞれの道を進んでいくことだよ。このことがわかると、人はうんと幸せになれます。

「俺の人生」斎藤一人 

これも斉藤一人さんが言っていたけれども、仕事において専門分野の勉強をたくさんしたからといって、良いアイディアが浮かぶかと言ったら、そうでもなく。われわれはもともと神からカードをそれぞれ配られていて、それを行使するために生まれてきているのだけれども、神の道から外れていると、その自分がもともと持っていたカードを十分に使い切ることができずに終わってしまう運命になってしまうのである。

では神の道とは何かというと、神は愛でできていて、自分が持って生まれたものというものは、他人を喜ばすために用意されたもので、それぞれがそれぞれのために、与えられた持ち物を与え合って豊かになるという地球の大原則における道である。だから、自分にないものや、自分にできないものを求めようとすると、苦しみが生まれてくるし、自分が生まれてきた時に与えられた、もともとできることをやるのであれば、苦しみなどなく、楽に何でもこなせてしまうし、ただ人生の最高の楽しみを味わって生きていくことができる。

しかし世界といっても地球といっても、我々の世界というのは実のところ小さい。確かにこれだけたくさん人がいると、遠くの人のことを考えて、遠くの人を大切にしたいと思うけれども、けっきょく人間の世界というのは、自分の半径数メートル以内のもので、一日に会う人間なんてしれている。毎日決まった顔に会い、10名か20名かわからないけれども、俺なんて今日も昨日も明日もせいぜいドトールの店員にしか会わず、恐ろしいほど小さな世界に住んでいるけれども、それでもやはりそれがその人の世界なのだ。それ以上どこを探し求めようとも、その世界が全てだ。

そうなってくると、やはり、その人たちだけを大切にすれば良いということになる。よって愛とは、ただ自分の目の前の人を愛するということに尽きる。 隣人を愛せよと言うわけだ。

この世の中っていうのはね、まずは自分の周囲、簡単に言えば周り近所の人に喜ばれることしかない。斎藤一人

俺はいつも自分のことばかり考えているし、この人生を何に時間を使って、何を完全にしていくか、それしかこれまで考えてこなかった。今もその真っ只中に立たされているわけではあるが。しかし宇宙の道理が、神の法則が、つまり真理が、人間が幸せになる唯一の方法は人を喜ばすこと、それもただ目の前の人を喜ばすことしかない、ということなのであれば、それに従うしかないのである。

さてこうなってくると、なかなか難しく、どうすれば人を喜ばせられるのか、どうすれば人を愛せるのか、という問題になってくるけれども。

例えば作家の作品が、その人格によるところが大きいといわれ、むしろ人格がすべてであるとすらゲーテは言っているけれども、やはり人が書いた本なんてものは、その人が褒められた人間じゃなければ、手に取りたくないだろうし、そもそも文章なんてものは、これほど読むのに面倒臭いものはないのだ。よっぽど、この人が書いたという保証がない限りは読みたくないものだろう。となってくると、第一の文章というのは、第一の人格者でなければならないという仮定が成り立つわけだが。

特に文学者なんてものは、人一倍、人の心を研究していて、最高の作品を作るという事は、最高の心を研究し尽くしたということであり、最高の自分を完成させたということであり、さて、そういう人というのは、一体どんなコミニケーションを取っているのだろう? どんなふうにして人に関わっているのだろう? 愛がすべてだとしたら、どんなふうに愛を履行しているのか? 気になって、ずっと昔から調べていた。そばにいた人、弟子の目線から、彼らの生態を見てみよう。

ゲーテ

私たちは静かな懐かしい気持ちでいつまでも坐っていた。私の膝は彼の膝に触れていた。私は彼の姿に見とれて話すのも忘れていた。彼をいつまで眺めていても飽きなかった。顔は非常に元気で、日に灼けて、たくさんの皺がある。その一つ一つの皺に特色がある、しかも至るところに、誠実さと確実さとが、そして穏やかさと偉大さとが表れていた。彼はゆっくりと心地よさそうに話した。話していると、年とった王様のようであった。彼をみると、自足して、賞賛と非難とに無関心でいるのが分かった。彼の側にいて実に気持ちがよかった。多くの辛労と長い憧憬との後についにその楽しい希望を達した人のように、私は落ち着きを感じていた。

エッカーマン「ゲーテとの会話」

バルザック

それは、太った小柄な人であった。衣服の仕立てが悪いので、より一層に不格好に見えた。手は素晴らしく綺麗である。彼はひどい帽子を被っていたが、それを脱ぐと、すぐにそんなことはどうでもよくなった。私は、あの人の顔に、ただ見とれていた。実際に会ってみなければ、あの額と眼差しは、理解し難いものがある。大きな額で、ランプの光が照るように輝いていた。褐色の眼には金砂が光り、口ほどにものを言う眼であった。鼻は大きく角ばって、口は大きい。歯並びが悪かったが、いつも笑っていて、濃い口髭をたくわえ、長い髪を後ろに掻き上げていた。その頃、彼がうちに来た時、むしろ窶れていて、空腹のようであった。何と言うか、身振りや話し方にせよ、その佇まいは善良で純粋で率直で。知れば知るほど好きにならずにいられなかった。それから、彼が最も風変りであったのは、絶え間なく上機嫌な所である。それは余りに過剰なので、皆にも伝染してしまった。 

『バルザック逸話集』 (序文と編集 ジュール・ベルトー)の翻訳(1)前文と訳 佐 藤 雅 男

アンマ

観察すると、例えばAmmaは、一見して普通のおばちゃんに見えます(^^) 

その年もAmma来日の日がやってきたので会いに行きました。会いに行くと行っても、長蛇の列に並んで、ほんの一瞬、10秒くらい? 抱きしめてもらう、それだけなのですが。その時に、悩みを打ち明ける方もいらっしゃいますが、私は特に何も言いませんでした。何も言わなくてもAmmaは、訪れて来るその人の心の内側を誰よりも、その人自身よりもわかってくれて、一番良いと思われる「祝福」を与えてくれると聞いてきたし、そうであった気がします。

Ammaのダルシャンを受けてこれは不思議な事なのですが、心の中にある「先輩同僚への苛立ちと怒り」が、根こそぎ消えてしまいました。心中に巣食うその苛立ちの「根」が「根こそぎ」引き抜かれたような、怒りの種がすくい払われた、その様な感じです。その後は何故か、「苛立ちと怒り」を持たずに先輩同僚に接する事が出来るようになりました。相手は、変わらず理不尽に辛く当たってきていましたが。

そしてまた、その年もAmmaのダルシャンに行きました。通常、1日1回の抱擁が決まりなのですが、その時は再度呼び寄せてくださり、皆にお話しながらではあるけれど、長時間ずっと抱きしめて下さいました。

そして、その日を境に私は、世界は戦々恐々とした恐ろしいものであるという恐怖感とか世界中でたったひとりぼっちであるという、えも言われぬ辛い孤独感などが、心から消えてしまいました。

読者さんからの寄稿

山岡鉄舟

とにかくこうして完成せられた後の師匠は、一段と立派なものになって、実に言語に絶した妙趣が備わったものだ。生来のたいぶつが、磨いて磨き抜かれたのだから、ほかの人の、形式的の印可とはまるでものが違う。師匠が稽古場に出てくると、口も効かずにただ座っているだけだが、それでもみんなすばらしく元気になってしまって、宮本武蔵でも荒木又右衛門でも糞食らえという勢いだ。給仕でおれなぞが師匠の傍に居ても、ぼっと頭が空虚になってしまってただ颯爽たる英気に溢れるばかりであった。客が来て師匠と話をしていると、何時まで経っても帰らないものが多い。甚だしいものになると夜中の二時、三時頃までいた。帰らないのは師匠と話をしていると、苦も何もすっかり忘れてしまって、いい気持ちになってしまうのだから、いつか帰るのをも忘れてしまうのである。 

「おれの師匠」小倉鉄樹

斎藤一人

自分の波動を上げていると、家族やまわりの人も上がってくるからね。まわりの人がどんなに不機嫌でも、自分だけは機嫌よく楽しくふるまうことなの。斎藤一人って人間は、常に上機嫌で波動を上げている(笑)。

斎藤一人,舛岡はなゑ. 「斎藤一人 我慢しない生き方」

この人たちに通じて言えることは、波動だ。波動でコミュニケーションをしている。そして波動こそが最高のものだとわかってやっているのである。まぁ最高の文学者にしろ大悟した人にしろ、おおよそ似通っている。人間精神を最大にした人、悟った人、およそ完全な人というのは、上のようにコミニケーションを取るのである。

まず、やはりというか、この地球や宇宙には、神の波動しかないのである。バイブレーション。生成化育のエネルギー。いつだって前進と進化と発展のために、波動が流れ続けている。これはまさしく神の意志である。それがこの宇宙全体を占めている。神は波動で、波動からすべてが生まれ、波動が本源や根源のようなものであり、この世界のすべての物質も精神も、その波動から生まれたものでしかない。というより波動そのものだ。波動が形を変形させて目に見える形を変えていると言っていいかもしれない。そして人間もこの波動の一部なのである。というか、波動なのである。

だからなんといっても、言葉や声や行為や行動を愛の道具として使いたくなるし、まぁ使わないとならないのだけど、それは間違いではないが、例えば夫婦喧嘩にしろ家族の遺産相続の問題にしろ、まぁいろいろ大変だし、言葉なり行動なり言わなきゃいけないこともあるが、ただ、こういう時こそ波動がいちばん大事ではないかと思う。

自分の心の内部の奥の、最高の状態をキャッチして、そこにフォーカスして、そこにチューニングして、一点の、いちばん良い波動を放っているその一点に行き着いて、そこに維持して、そこに立脚した状態まま、突っ立っていれば、そこからなんでもできてしまう。愛だろうが真理だろうがお手のものだ。また、言葉や行為で何とかするよりも、この波動、これ自体が、言葉や行為を生み出してくれるものでもある。

そこからなんでも最高の言葉なり行動なりが生まれてくる。またこれは、笑いだったりギャグだったりユーモアだったり、アイディアだったり、芸術作品なり、インスピレーションなり、それらの生みの親にもなっている。 アインシュタインにしろニュートンにしろ、彼らが他の物理学者と違うのは、ほとんどいつも神や愛の研究ばかりしていたところにある。ニュートンは科学よりも3倍の神学の著書を残しているし、エマーソンは、「物理学の公理は、倫理学の法則を翻訳している」と言っている。ラマヌジャンも、「神についての思索を表現しない方程式は僕にとっては無価値である」と言っているし、(どうして次から次へと誰も思いもつかなった方程式を生み出せるのかと問われて)、「寝ている間にナーマギリ女神が教えてくれた」とも言っている。モーツァルトも「愛、愛、愛。それこそが天才の神髄である」と言っている。Amazonオーディオブックでも、いまだに嫌われる勇気がトップを独走しているし、

だから芸の成熟のために、習ったり覚えたり試したり慣れたりすることは大事なのだが、どうしたって神や愛の勉強が必要になってくる。なぜならそれが真理であり、これを越えたところに答えなどないからである。中心から外れたところで何をやっても効果薄弱なのである。

波動というものは恐ろしくもあり、こちらがそういった波動を出していると、向こうは暗い部屋に灯りがついたように、どうしようもなく同じ波動になってしまう。不機嫌な波動は不機嫌な波動が移り。やはり人間とは波動な生き物。そうしていると、とてもいい笑顔が勝手に出てきて、やっぱり笑っている時が一番いい波動な気がする。人間関係は、波動だけで干渉しあっていると言ってもいいかもしれない。だから人間は、自分の心の中を探って、一番いい波動をキャッチして、それを垂れ流しているのが一番なように感じる。芸術の奥義でもあり人間関係の奥義でもあり幸せの奥義でもある。

正直なところ、これは恐ろしいものだが、ポンと現れた感じがいいだけの人に、全てを持ってかれてしまうことだってありえる。10年20年30年の付き合いだろうが、親友だろうが夫婦だろうが、愛し合っていたはずの彼女だろうが、ポッと出の感じのいいだけの男に浮気されてしまうことはいつだってありえる。亡くなったおばあちゃんも、その時の好感度で、自分をずっと世話してくれた娘よりも、ポンと現れた、いい空気を出しているポッと出の人間に、遺産を全部あげると言い出していたし。デイサービスのおばあちゃん達も、こういうところがある。

20年の付き合いの親友だろうと、面倒臭い空気を出していると、(ああこいつめんどくせぇ)と思われて簡単に電話を切られてしまう。こちらの気持ちの世話なんてしてくれない。たぶん自殺して見せてやらないと、反省させるのは無理かもしれない。

ただ感じがいい、感じがよくない、それで簡単に切れてしまう縁だったりするし、「感じがいい」それがすべてだったりする。 俺は今まで感じが悪かったことだけが良くなかったなと思うことで。人を不安にさせ、悪い境遇を生んだ。だから不機嫌だけが良くない。不機嫌な時は寝なければならない。外に出てはならない。

ユーモアもそうで、うんうん唸っていても、なかなか面白いことも思いつかないけれども、自分のいちばん心地の良い波動状態に持っていって、心の奥の、泉が出そうな部分をコンコン叩いていると、あるいはその波動にたたずんでいると、面白いものに出会ったりするもので。 やっぱり先に波動がくる。最初にいちばんいい波動の状態にしておいて、たいてい物事は全部うまくいく。やっぱり笑いに勝るものはないもので、マザーテレサもよくユーモアばかり言っていたというし、遠藤周作もそう。

より実践的な話をさせてもらうと、なかなか例えば、いくら神だの愛だの言って、良いことをしようとして、100万円や200万円をあげても恨まれてしまうものだし、何百何千通のラブレターを送ったところで、気持ち悪がられてしまうものだし、どちらも重たく思われてしまうものだ。なかなか愛そうったって、重くならず、軽くならず、愛なら、それが真理だったら重くたっていいはずだが、なかなか分量やテクニックの調整を余儀なくされるものである。

そんなにいちいち調整せねばらないのか? なんのために? 何をそんなに引っ込んだりすくめたり、パワーを出し惜しみせねばならないのか? 神は愛を出し惜しみなどしていないのに?

しかし、波動だけは出しすぎて困るという事はない。自分にとっても相手にとっても、やり過ぎて迷惑になったり重たくなるということはない。むしろ最高のプレゼントになる。これ以上の最高のプレゼントなどないのだ……! 人間自体が光に群がる虫みたいな性質を持っており、人間が波動の生き物なのである。というより、波動なのである。エネルギーが多い方へ、ポジティブな光の波動を持っている方へ吸い寄せられてしまう性質があるのだ。

すべての表現、芸術作品、仕事、家事、笑顔、ちょっとした何から何まで、この波動を表現したものにすぎない。歴史という荒波の洗礼の前に残った名作というものは、この波動の多寡によって決められる。芸術家は神の通り道としてただ機能し、作品は、神の息吹が吹き込まれた量が多ければ多いほど、名作ということになる。

何かしようと思って、アドバイスをしたり、世話を焼いたり、その人の問題に干渉すると、かえって下手を打つことが多い。良かれと思ってやった事でも、かえって嫌われてしまうことが多く、皆さんだってこれについては気を揉んでいることだろう。そういう時、神はどうしているかというと、太陽はどうしているかというと、賢者や聖人はどうしているかというと、波動を送っている。

シンクロニシティだけでなく、波動には〝相手の波動を変える〟働きもあります。あなたの楽しい波動は、周りの人を楽しくさせる力を持っているし、その反対に、あなたが暗い波動を出せば、そのせいで周りのムードも悪くなる。じゃあ、明るい波動の人と、暗い波動の人が一緒にいる時はどちらの波動に影響されるんですかって、より強い波動に影響されるんだよね。明るい人の方が強い波動を出していれば、暗い人を明るくさせることができるし、暗い人の波動が強い時は、明るい人が暗くなっちゃうの。人は自分以外の誰かを変えることはできないけど、唯一、波動の力を借りればそれが可能なんだ。あなたが超強力な明るい波動を出せば、どんなにムカつく嫌なやつでも、なぜかあなたにだけは嫌なことをしなくなる。何を言っても悲観的な考え方しかできない人が、なぜか笑顔になる。だからもしあなたの周りにネガティブな波動を出す人がいる時は、そばにいるあなたがとにかく明るい波動を出せばいいんです。そのために、あなたはひたすら楽しく遊んで、好きなことをしなきゃいけないよ。だってそうじゃなきゃ、超強力な明るい波動は出せないでしょ?あなたが楽しく遊ぶのは、周りの人を救うためでもあるんだ。

「俺の人生」斎藤一人

こうやって書いてる時も、ドトールの店員を見ていても、そうだね、いちばん波動が出ている子がいちばん幸せそうだ。けっきょく仕事だろうが、創作だろうが、家事だろうが、人間関係だろうが、自分と神との関係でしかない。すべては自分と神との問題なのだ。いつも思うことだが、神と太陽は似ている。いつも波動だけを送ることを生業としている。人間が神の似姿で作られているというのなら、やはり人間は神の小さな分身みたいな存在である。彼らは一方的に波動を送っている。こちらはいつもそれに見向きもせず、またいつもの問題に向かっていくけど、彼らはいつまでもどこまでも波動を送り続けている。そして我々はこの波動の中にしか生きられないのである。神の波動が一瞬でも途切れたら我々は一瞬にして死に絶えてしまうように、我々だって我々の波動がなかったら、死んでしまうのだ。波動が、神を神とならしめる唯一であるように、太陽が太陽でならしめる唯一であるように、人間もまた神の子であるのなら、親の背中を見て大きくならなければならない。

波動だけが自分と周囲を唯一幸せにする方法で、つまり結局のところ、人間のすべての問題は、波動がうまく出ていないことが原因で、その結果、他人を苦しめ、自分を苦しめることになり、俺は他人から愛をもらえないと、すぐにすねてしまい、いじけてしまい、やはり他人は自分に愛を与えてくれて当然だと思っている考えがあるからだろう。俺はエロゲーをやり過ぎたためか、世界がエロゲーのように見えてしまい、女の子が全員エロゲーのヒロインに思えてしまうところがある。そして、エロゲーの通りストーリーが進まないと、拗ねてしまう。大学時代の夏休みは、比喩ではなく、二ヶ月間、エロゲーしかしていなかった。比喩ではないから、恐ろしいことだ。

しかしこればかりは、他人はジョウロのような存在ではなく、自分の都合の良いオーダーメイド的な存在ではなく、むしろ花なのだ。誰もが世界に一つだけの花として咲き続けているだけであって、我々はジョウロとなって、その花に水をくべるという、相手はただ自分の方がジョウロになって水をくべる対象でしかなく、この世界はそんなふうにして成り立っており、コミュニケーションというものは、ただそうして花を愛でる一方向性による部分が大きく、ようは、片想いなのだ。やはりこの世界は、決してすべてにおいて、都合よく自分を愛してくれる人間なんて現れないけど、神は1億20,00万人分以上の、それ以上の愛を持っていつもそばにいてくれるのだから、不服などありようはずがない。ここまで自分の幸せのために骨折ってくれる存在なんてどこにもいやしないんだから。

それに、さっきも言ったように、人間なんてものは、けっきょく10や20人ぐらいしか関わらないし、その世界だけがすべてなのだから、そのわずかの人たちの為だけに、水をくべればいいだけで、つまりここでいう水とは波動のことで。あとは特別何をするわけでもなく、気を揉むこともなく、心配することもなく、他人の問題を背負ったりすることはなく、お節介を焼いたり、一緒に同情して感傷的な気持ちになったりする必要もなく、ただ最高の波動を出していればいいのだ。それが神の子としての正しい態度なのだ。

嫌な人に出会ったって、特別何かをしなきゃいけないということもない。無理して仲良くなる必要もない。ただ自分の中の光の玉が汚れないように、一生懸命、その輝きを保っていたらいい。どんな場合にせよ、この光の玉の輝きを保っていれば、それでいいのである。それが人間の唯一の仕事なのである。そして、なんと、嬉しいことに、この波動というのは、使えば使うほどグングン湧いてくるから、メリットしかないのだ。そんなに波動を出していたら疲れちゃうよ、と思うかもしれないが、そんな心配はいらない。この波動は、減るどころか、出せば出すほど元気がもりもり湧いてくる代物なのだから、 どんどんエネルギーが循環してきて、パワーがぐんぐん上がってくる。人間の仕事なんてものは、せいぜいこれくらいで、トルストイ先生も「人間の仕事はキラキラしているだけでいい」と言っている。

バルザックが、「この世界における男女の結婚とは、飢えと乾きが結婚するようなものだ」と面白いことを言っていたが、精神的な渇望感からきた行動というのは、どうも他人を怒らせてしまうもので、精神的な満腹感からきた行動は、同じ人間や同じ言葉だったとしても、あまり人も嫌な気がしないものである。やはり世界は、波動と波動が行き来するだけ。我々は波動を完全なものにするために生まれてきた。いつもこの波動を胸いっぱいに膨らませていることが幸せということなんだ。それが神の道を生きる、自分の道を生きるということで、波動を満たしていると、外界の事象も全部満ちてきて、波動が勝手に全部なんとかしてくれるのだ。

色々と軋轢を生んでしまうコミュニケーションの中で、これだけは唯一やりすぎて困ることもないし、やればやるほどパワーも湧いてくる。お金もかからない。波動を出せば出すほどみんなから好かれるし、みんなだって君の波動を求めているんだ。君の波動と、笑顔をね! (^_^)

また、この状態でいると、良いアイディアが浮かんだり、どれだけ根を詰めて考えに考えたものも、この波動からポッと出てきたアイデアには負けてしまう。アイデアなんてものは、すべて神の寵愛で、普段の心がけや、毎日をいい波動で過ごしていたら、それに応じて降りてくるものだから、やっぱり、その人の日常の過ごし方がものを言うのだ。斎藤一人さんも、愛の研究をしているだけで、日々、波動をみなぎらせているだけで、商品研究は今まで一度もしたことがないという。ドライブをしているときに、急に神が商品のアイデアをもたらしてくれるという。ラマヌジャンと一緒だ。

一方向では寂しい。自分だけ波動を放っているなんて、神様や太陽みたいになってしまって、人里から遠く離れた雲の上の天上人みたいになって、霊体みたいになってしまうより、私は、もっと、人々と手を取り合って歩んでいきたい……。もっと私は、他人と一緒に泥沼にまみれて、泣いたり笑ったり感動したり映画を見て泣いて、痛みを分かち合ったり、カンガルーみたいにグローブをはめてバシバシ殴り合って生きる方が、本当のコミニケーションだ、と思うかもしれないが。 やっぱり俺の見たところでは、いろんな角度から探ってみた結果、やはり他人というのは、今現在のその人に応じて用意されたステージみたいなもので、魂を成長させるための段階のようなものとしか思えないところがある。言っちゃ悪いが幻みたいなものだ。人間に限らず、全て、物事、リアルだろうとネットだろうと、すべてはすべてが予期されていて、やはり決まった事しか起こらない。すべて人生において起こる事は決まっていて、出会う人だって決まっている。いつだってその人が何とか乗り越えられるギリギリのレベルの試練が与えられてくるだけだ。そしてそれが乗り越えられたりすれば、新しい物事や人に出会ったりする。それを乗り越えられないうちは、仕事をやめようが離婚しようが、どこでも同じ人間に出会って同じ問題に立ち会わざるを得なくなる。そういう意味じゃ、さっきは他人はオーダーメイドじゃないと言ったけれども、オーダーメイドなのかもしれない。 自分が変わらない限り、他人は変わらないのだから、だとしたらやっぱりそういうことだ。

人生を送っていると、困ったり苦しんだりしてしまう事はいくらでもあるけれども、人生というものは全部決まっているし、決まった事しか起こらない。むしろ良い事しか起こらない。その人の魂を成長させるためのことが常に上から送られてきて、それは全部乗り越えられるものしか送られて来ないし、神だって別に苦しんでもらいたいとは思っていない。ただ必要な経験を与えているだけで、その必要な経験をするという神との約束の間に我々は生まれてきているのである。全ては、自分が望んでいる経験にすぎない。

まぁこのように、神が自分の成長のために与えてくれている事しか起こらないのだから、不幸というものは決してないし、苦悩も悲しいということも決してない。もしあるとしたら、こんな素晴らしい最高のものしか送られてこないのに、それを、自分の頭の中で辛いものとして作り上げてしまっていることが不幸に過ぎないのだ。人生はいつだって最善の事しか起こらないのだ。芸術は苦しみから生まれるし、それは確かに真実ではあるのだけど、苦しみから学ぶことが多いが、やっぱりそれでも、神はその人に苦しんで欲しくはないんだ。我々が苦しい人を見ると、どうか苦しまないでほしいと思うように。

悲しくなる考え方は全て間違っている考え方である アラン

そしてこのゴールは何なのかと言ったら、やっぱり世界を幸せにするため、自分を幸せにするため、この宇宙の前進のため進歩のため、みんなが自分の持っているものを分かち合って、より良いものにしていこうという、愛と調和。真・善・美のためである。そのために我々は、神に配られたカードをそれぞれが切って、カードを使い切ることが今世におけるゴールで、黙って静かにしていればその通りに動かされていく。

がんばっている奥さんにはいつも気の毒だが、掃除したり洗濯したり家事したり、浮気して帰ってきても黙っていてあげたり、でもね、そんなことよりも波動の方がずっと大事なんだよ。「私はこんなにやっているのに!」という気持ちもわかるが、やはり波動に歪んだものが混じっていると、それで全部パーになってしまう。他人の心にも歪んだ波動が入ってしまう。波動が全てだと言うつもりはないがやはり波動が全てかもしれない。だってこの世界は波動が全てなんだから。ガンジーだって愛の念波で世界を変えようとしていた。ドトールでコーヒーを作ったりすることもおまけみたいなもので、家の家事をするということもおまけみたいなもので、面白い作品を作ることだっておまけみたいなもので。すべては波動を包む包装紙みたいなもので、結婚だって一緒にいつまでも遊んでいたいからするものだろう。楽しい波動があって、家事やら子供の大学とかやらは、その包装紙として形式的についてくるものに過ぎない。

他人の問題に干渉してしまうと、恨まれてしまうことが多いのは、その経験はその人にとって必要だからやってきているのであって、その人の前世から通じている魂の成長の段階なるものがあって、それは、その人が一歩ずつ踏み越えることでしか登ってはいけない。絶対に他人が引っ張り上げるなんてことはできず、一段一段、その人の歩みでしか登ってはいけない。毎瞬、毎瞬、神から必要な経験が与え続けられているのだ。あなただって、飛び越えることなく、一歩一歩歩いてきたのだ。他人は決して自分のことをわかってくれないし、わかっているようでその人の中の解釈が広がっているだけで、そしてこちらだってやっぱり他人のことはわからない。やっぱりどこまでいっても、自分は自分で他人は他人で、それぞれが固有の時間で、それぞれの魂の完成を目指して進んでいくソウルメイトに過ぎないのである。永遠にこれらが完全に一つになるという事はない、少なくとも、この地上にいる間は。そしてこれをどうにかしようとしたり、きれいに溶け合って一つになろうと思うから、他人のテスト用紙に答えを書くような、おせっかい甚だしい行為となり恨まれることになるのである。その人が怒っているのではなく、神が怒っているのである。神がその人の必要な経験を守ろうとしているのである。しかし、大丈夫。波動だけはいくら出しても出しすぎることはない。お節介になることもない。

だから、無理に与えようとしなくたって、自分の魂を満足させることだけを考えていればいいのである。波動を自家発電していればそれでよく、太陽はただ自発的に輝いている。そして人々に何よりの光をもたらしている。我々はただ自発的に輝いていればいいのだ。そしてそれが何よりも人の助けになるのだ。心配したり同情したって、闇の世界にいる人の闇に引きずり込まれているだけに過ぎず、やはり光を照らすしかないのだ。自分が光となって、われわれは今日も愛のある眼差しの波動を持って、何の曇りもない最高の笑顔をもって生きようではないか。愛とは波動。波動とは光。われわれは光になるために今日も一歩一歩続いていくのである。

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